奈良市米谷町に稲荷講があると知ったのはチンジサン行事の座の場であった。
米谷町の行事取材をするようになった経緯を座中に説明することになったことによる。
旧五ケ谷村の取材初めは北椿尾町・稲荷講によって行われている寒施行だった。
寒施行は米谷町では見られないが、講中が祭っている小女郎と呼ばれる稲荷社に集まって3月に初午行事をしていると話してくれた。
座の場には2人の講中がおられたこともあって祭事の場所などを教えてもらった。
初午は2月にある「午」の日であるが、地域によっては3月の「午」に初午行事を行っているケースも多い。
奈良市米谷町の初午は三月初午。
この年は3月8日が「午」の日になるのだが、米谷町は集まりやすい日曜日にしている。
10年前までは学校が終わるころの時間にしていたが、子どもたちが揃いやすい日曜日に移したという。
米谷町は46戸の集落。
うち13軒が稲荷講である。
かつては15軒の稲荷講であったが、事情もあって抜けられた家もあったことから現在は13軒の営みになった。
さて、小女郎稲荷社はどこに鎮座しているのだろうか。
「あちらの方角のそこを右に下る道があるから・・」と云われてだいたいの場所は掴んでいたつもりだった。
その辺りを探してみても見つからない。
数人の話し声が聞こえてきた方角に向かって歩く。
そこは村の墓地だった。彼岸にはまだ遠いが家族連れが墓地から歩いてこられたから小女郎の地を聞く。
なんと、ぐるりと廻ったところのすぐ近く。
法要を済ませた上ノ坊寿福寺住職もそう伝えてくれた地に向かう。
平成29年3月吉日の墨書がある朱塗りの鳥居は2本。
つい先日に建てたという鳥居が美しい。
山へ上がっていきそうな参道に立てた「奉納 正一位小女郎大神」の幟旗が5本。
幟旗の示す道を登っていけば、そこが鎮座地であった。
平成8年3月吉日に立てた小女郎稲荷講中の名がある。
講中は13人。宮座十一人衆の名もあれば宮総代さんらの名もある。
講中が供える御供棚を調えていた。
落ち葉もゴミも何一つ落ちていない参道を登っていく講中。
風呂敷包に包んで持ってきた御供を並べる。

時間ともなれば多くの講中がやってきて御供棚はあふれるくらいにいっぱいになった。
包装紙に包んだ大きな箱は村の厄男並びに厄女が祝いに供える菓子御供である。
廻り当番の人は神饌御供を社殿下の祭壇に並べる。
社殿は二社ある。
右に建つ社殿は稲荷大神。
左側が小女郎社である。
御神酒に塩、洗い米。
板昆布にお稲荷さんが大好物とされる大きなアブラアゲ。
サツマイモ、ニンジン、ミカン、パンを盛った上に置いた紅白餅も供えた。
ローソクに火を灯して導師は前に。
そうして始まった講中全員が揃って唱える般若心経は三巻。

村の厄男、厄女の健康を願って唱える。
この年に集まった講中、参拝者は境内いっぱいに広がった。
例年よりも倍の人数になったのは初めてだと云っていた。
「厄の人も多いし、外孫も大勢来てくれたからや」と話していた。
心経が終われば廻り当番の人が下げた神饌御供を参拝者に食べてもらう。

お盆に乗せた御供は子どもも食べられるものがある。
口に一つを食べながらもう一本と手が伸びる。
米谷町の稲荷講の厄祝い初午行事は参拝だけで終わるわけではない。
これより始まるのは子どもたちが楽しみにしていた御供配り。
厄祓いに供えたお菓子などは境内下に場を移して配られる。
講中もこれが楽しみだという御供配り。

大きな箱を抱えて旧道に下りる。
新調した鳥居に跳びあがって背が伸びたことを自慢した。

それだけ跳べるようになったのも成長の証しであろう。
次から次へと御供箱を抱えて下りてきた講中。
設営する場所は道路そのもの。

その向こうは優良な農耕地造成を兼ねた土地改良事業の一環でもある奈良市環境部環境事業室土地改良清美事務所が計画・管理する一般廃棄物最終処分場整理事業の建設工事である。
それはともかくたいがいのところでのゴクマキ(御供撒き)は高所から餅やお菓子などを放り投げてするものだが、稲荷講の在り方はまったく異なる優しい配り方だ。
講中はぐるりを囲むように位置決め。
開封した御供箱を拡げてお菓子を取り出す。

順番は端から端へと繋ぐ御供貰いの行列待ち。
一番手前に並んだ子供たちは講中が入れやすいように袋口を拡げて順番待ち。
1個ずつ入れてもらって次の御供へ。
そこでも袋口を拡げて1個。

13人の講中に入れてもらうお菓子で徐々に袋は重たくなる。
〆に入れたもらったときには袋から毀れそうになっていた。

喜んでもらって帰る子どもたち。
心はスキップしているようだった。
(H29. 3. 5 EOS40D撮影)
米谷町の行事取材をするようになった経緯を座中に説明することになったことによる。
旧五ケ谷村の取材初めは北椿尾町・稲荷講によって行われている寒施行だった。
寒施行は米谷町では見られないが、講中が祭っている小女郎と呼ばれる稲荷社に集まって3月に初午行事をしていると話してくれた。
座の場には2人の講中がおられたこともあって祭事の場所などを教えてもらった。
初午は2月にある「午」の日であるが、地域によっては3月の「午」に初午行事を行っているケースも多い。
奈良市米谷町の初午は三月初午。
この年は3月8日が「午」の日になるのだが、米谷町は集まりやすい日曜日にしている。
10年前までは学校が終わるころの時間にしていたが、子どもたちが揃いやすい日曜日に移したという。
米谷町は46戸の集落。
うち13軒が稲荷講である。
かつては15軒の稲荷講であったが、事情もあって抜けられた家もあったことから現在は13軒の営みになった。
さて、小女郎稲荷社はどこに鎮座しているのだろうか。
「あちらの方角のそこを右に下る道があるから・・」と云われてだいたいの場所は掴んでいたつもりだった。
その辺りを探してみても見つからない。
数人の話し声が聞こえてきた方角に向かって歩く。
そこは村の墓地だった。彼岸にはまだ遠いが家族連れが墓地から歩いてこられたから小女郎の地を聞く。
なんと、ぐるりと廻ったところのすぐ近く。
法要を済ませた上ノ坊寿福寺住職もそう伝えてくれた地に向かう。
平成29年3月吉日の墨書がある朱塗りの鳥居は2本。
つい先日に建てたという鳥居が美しい。
山へ上がっていきそうな参道に立てた「奉納 正一位小女郎大神」の幟旗が5本。
幟旗の示す道を登っていけば、そこが鎮座地であった。
平成8年3月吉日に立てた小女郎稲荷講中の名がある。
講中は13人。宮座十一人衆の名もあれば宮総代さんらの名もある。
講中が供える御供棚を調えていた。
落ち葉もゴミも何一つ落ちていない参道を登っていく講中。
風呂敷包に包んで持ってきた御供を並べる。

時間ともなれば多くの講中がやってきて御供棚はあふれるくらいにいっぱいになった。
包装紙に包んだ大きな箱は村の厄男並びに厄女が祝いに供える菓子御供である。
廻り当番の人は神饌御供を社殿下の祭壇に並べる。
社殿は二社ある。
右に建つ社殿は稲荷大神。
左側が小女郎社である。
御神酒に塩、洗い米。
板昆布にお稲荷さんが大好物とされる大きなアブラアゲ。
サツマイモ、ニンジン、ミカン、パンを盛った上に置いた紅白餅も供えた。
ローソクに火を灯して導師は前に。
そうして始まった講中全員が揃って唱える般若心経は三巻。

村の厄男、厄女の健康を願って唱える。
この年に集まった講中、参拝者は境内いっぱいに広がった。
例年よりも倍の人数になったのは初めてだと云っていた。
「厄の人も多いし、外孫も大勢来てくれたからや」と話していた。
心経が終われば廻り当番の人が下げた神饌御供を参拝者に食べてもらう。

お盆に乗せた御供は子どもも食べられるものがある。
口に一つを食べながらもう一本と手が伸びる。
米谷町の稲荷講の厄祝い初午行事は参拝だけで終わるわけではない。
これより始まるのは子どもたちが楽しみにしていた御供配り。
厄祓いに供えたお菓子などは境内下に場を移して配られる。
講中もこれが楽しみだという御供配り。

大きな箱を抱えて旧道に下りる。
新調した鳥居に跳びあがって背が伸びたことを自慢した。

それだけ跳べるようになったのも成長の証しであろう。
次から次へと御供箱を抱えて下りてきた講中。
設営する場所は道路そのもの。

その向こうは優良な農耕地造成を兼ねた土地改良事業の一環でもある奈良市環境部環境事業室土地改良清美事務所が計画・管理する一般廃棄物最終処分場整理事業の建設工事である。
それはともかくたいがいのところでのゴクマキ(御供撒き)は高所から餅やお菓子などを放り投げてするものだが、稲荷講の在り方はまったく異なる優しい配り方だ。
講中はぐるりを囲むように位置決め。
開封した御供箱を拡げてお菓子を取り出す。

順番は端から端へと繋ぐ御供貰いの行列待ち。
一番手前に並んだ子供たちは講中が入れやすいように袋口を拡げて順番待ち。
1個ずつ入れてもらって次の御供へ。
そこでも袋口を拡げて1個。

13人の講中に入れてもらうお菓子で徐々に袋は重たくなる。
〆に入れたもらったときには袋から毀れそうになっていた。

喜んでもらって帰る子どもたち。
心はスキップしているようだった。
(H29. 3. 5 EOS40D撮影)