この日もまた訪れて取材させてもらった奈良市米谷町・白山比咩神社の年中行事。
本日は「二ノツイタチ」の名もある新年祭である。
平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に行事を掲載している。
一部省略、補正した文で書いておく。
「座はムラの中の男子が加入する。以前は座・平の区別があった。トウヤは年齢順にオオトウヤとコトウヤの2軒が選ばれる」。
また、「氏子中に最年長者から年齢順に下った11人を十一人衆、或いはミヤモト、またはトシヨリ衆などと呼んでいた。今は、座と云えば、この十一人衆をさすように考えられているが、明治時代初期までは氏子は座と平に分かれていた。明治八年(1875)の『宮本社人定式之事』の末尾に、“右者去明治八年以前座平区別有之則明治八年ヨリ一般ノ御改正候 付てハ一同總相也候テ同八年以前者記録帳ヲ取消也・・後略」と記されている」とあった。
十一人衆についてはさらに、「神社行事については必ず招かれて接待を受ける。つまり、氏子の長老衆として尊敬を受ける。十一人衆は年長の順に上から一老、二老・・と呼んでいる。誰かが亡くなれば、年齢順に下の者が繰り上がって、十一番目に氏子が加わる。その加わるとき、他の十一人衆は、加入者の家で接待をうけることになっている。十一人衆のうち、若い人から一年交替でミヤモリ(村神主)を勤める。神社の境内や参道を掃除する。・・・後略」と書いてあった。
新年祭については、「3月1日。宮司が参詣。十一人衆、氏子総代、自治会役員、上ノ坊住職が参列する。この日は二ノツイタチとも云い、田楽飯の時に作った松苗を祈祷してもらう。昔は上ノ坊住職が祈祷したという。参拝に来た者は苗代の数だけもらって帰る。また、林宏氏の調査によれば、以前は春日大社へ参ってもらってきたとも・・。村神主は里芋と大根の煮込みを八寸の重箱に詰めて準備する」とあった。
十一人衆だけで行われる座行事よりも、この日に参拝する人は多い。氏子の女性たちも参拝にくる村行事であるが、いつもの通りのめいめいが参拝する姿である。
この日が初めてのお勤めになる村神主。
先月の2月8日に神主渡しを受けた新任の村神主は十老でもある。
また、この日も寿福寺上ノ坊住職が参拝される。
年中行事は数々あるが、年に十回もあるという。
参拝にいつもされているのは神さんに向かって般若心経を唱えることである。
拝殿の登り口にチンチロ付きの松苗の束がある。
参った際に1束を確保された十一人衆もおられる。
前述したように松苗はこの日に祈祷されるもの。
一足早くに確保されたのはなぜ・・・。
松苗を持ち帰る方に苗代作りをされているのか、どうか尋ねてみたい。
そう思ったときにもう一人の男性が手にしていた。
3人の氏子総代の一人であるOさんである。
O家では4月29日から5月のGW中にしているらしい。
もし良ければ取材を、とお願いしたら承諾してくださった。
ありがたいお言葉に伺ったのはその日でもなかった4月21日だった。
先日に配られた2月1日の小正月と2月4日のオコナイに祈祷されたごーさん札は漆の木に挟んで立てると話してくれた。
そうこうしているうちに新年祭の神事が始まった。
斎主の神職に村神主、座中の十一人衆、氏子総代に自治会役員は拝殿に登る。
一般の氏子たちはいつものように参籠所に座って神事を見守っていた。
斎主神職は神饌御供を調えて一拝。
そして神前に着座する。
その様子を覗う村神主。
次年度に村神主の勤めが待っている十一老のUさんも顔を出して見ていた。
神事は修祓から始まって献饌に移る。
境内で立っている氏子たちにもお祓いをしてくださる。
こうして祝詞を奏上される。
神事の進行は氏子総代。
左拝殿に着座しているのは村神主に十一人衆と寿福寺上ノ坊住職。
右拝殿は氏子総代に自治会役員らである。
神職と僧侶の履物が二つ。
履物で神仏混淆の行事であることがわかる。
本社殿には予め載せていた神饌御供。
その左側には祈祷する松苗もある。
本社殿に進み出て玉串を奉奠するのは村神主と氏子総代である。
これより始まるのは唐屋決めの儀式である。
十一人衆最長老の一老からは立ち入りはここまで。
拝殿には入ってはならぬと伝えられていた。
厳格な儀式は格式のある厳かなもの。
失礼にならないように細心の注意をはらって撮らせていただく。
唐屋決めの儀式に祭具がある。
村神主が広げる扇に椀である。
椀には中央に穴を開けた半紙を被せている。
椀の口、周囲に半紙が外れないように締めている。
椀の中に入っているのは氏子の名前である。
両拝殿に着座されている人たちが、これより始まるフリアゲ神事の行為が見えるような位置に座る。
神職と村神主が見合うように座る。
間に座ったのは氏子総代。
フリアゲ神事の検分役を務める。
まずは神職、村神主とも神前に向かって頭を下げて拝礼をする。
神さんのご神託を伺う拝礼でもある。
そして、向かいあった二人は頭を下げて始まった。
神職が振る椀。
ひょいっという感じで振るが、中からは何も出てこない。
幾度も振るうちにひょいと飛び出すフリアゲ神事。
県内事例に何カ所かで拝見してきた椀で振るフリアゲ神事である。
穴の大きさはどれぐらいにするか。
中に入れている丸めた紙片の大きさによって出方に何回も振る。
大きな穴を開けてしまえば、逆に数個の紙片が飛び出すことになるから、どれぐらいという答えは実に難しい。
ある村ではこのフリアゲを椀でするから茶碗籤と呼んでいるところもある。
米谷町では唐屋を務める家に対象年齢の子どもがいる場合にこのフリアゲ神事をすると話していた。
ひょいと飛び出した籤は村神主が広げた扇で受け取る。
神さんのご神託が下った籤は丁重に受ける。
受けた籤を拡げて検証する氏子総代。
氏子総代帳にある氏子名とフリアゲした籤番号をもって検証する。
お立になられて、まずは十一人衆、僧侶が座する場に向かって読みあげる。
「オオトウヤは30番の・・・」。
氏子の名前を告げて大唐屋が決まったことを報告する。
右拝殿にいる村役員の人たちにも籤を拡げて報告する。
振り返って参籠所に待っていた氏子たちにも。
大きな声で伝えて承認された。
フリアゲ神事はコトウヤも同じ作法で決まる。
拝殿に居る人たちはその作法を見入るように見つめていた。
受けた扇に載った籤を拡げて検証する氏子総代。
先ほどと同じく、籤番号を検証する。
そして決まった「コトウヤは8番の・・・」。
こうして今年のマツリの大唐屋と小唐屋の両唐屋が決まったのである。
実は今回で唐屋決めの40数軒の氏子は一巡した。
つまりは椀の中には未だ当たっていなかった氏子だけだった。
二つの籤は大唐屋と小唐屋のいずれかに当確する。
椀に入れる籤は、唐屋を勤められる氏子である。
そのことを配慮した候補氏子の籤を入れてフリアゲをする場合はたくさん入っているから出てきやすい。
少なければ、少なくなるほどになかなか出にくくなる。
時間がかかるほどにひょいと飛び出した籤に、ホォーっと歓声があがった。
すべての氏子が椀から消えた次年度はどうされるのか。
その方法は年初の初集会で決めると話していた。
こうしてマツリの唐屋がきまれば、氏子全員が揃って参籠所で直会をされる。
直会の食事は前述したように村神主が準備したイモダイコである。
イモダイコは里芋に大根、ニンジン、ゴボウ天を煮込んだ料理。
数人の席ごとに皿盛り一枚。
サタニンが配膳し終わったら、祈年祭に奉ったお神酒を一人ずつ注いでいく。
向こう側の席は神職、僧侶、村神主、十一人衆。
手前は氏子総代、自治会役員、氏子たち。
氏子総代および新任自治会長の挨拶をされてから乾杯した。
(H29. 3. 1 EOS40D撮影)
本日は「二ノツイタチ」の名もある新年祭である。
平成6年に発刊された『五ケ谷村史』に行事を掲載している。
一部省略、補正した文で書いておく。
「座はムラの中の男子が加入する。以前は座・平の区別があった。トウヤは年齢順にオオトウヤとコトウヤの2軒が選ばれる」。
また、「氏子中に最年長者から年齢順に下った11人を十一人衆、或いはミヤモト、またはトシヨリ衆などと呼んでいた。今は、座と云えば、この十一人衆をさすように考えられているが、明治時代初期までは氏子は座と平に分かれていた。明治八年(1875)の『宮本社人定式之事』の末尾に、“右者去明治八年以前座平区別有之則明治八年ヨリ一般ノ御改正候 付てハ一同總相也候テ同八年以前者記録帳ヲ取消也・・後略」と記されている」とあった。
十一人衆についてはさらに、「神社行事については必ず招かれて接待を受ける。つまり、氏子の長老衆として尊敬を受ける。十一人衆は年長の順に上から一老、二老・・と呼んでいる。誰かが亡くなれば、年齢順に下の者が繰り上がって、十一番目に氏子が加わる。その加わるとき、他の十一人衆は、加入者の家で接待をうけることになっている。十一人衆のうち、若い人から一年交替でミヤモリ(村神主)を勤める。神社の境内や参道を掃除する。・・・後略」と書いてあった。
新年祭については、「3月1日。宮司が参詣。十一人衆、氏子総代、自治会役員、上ノ坊住職が参列する。この日は二ノツイタチとも云い、田楽飯の時に作った松苗を祈祷してもらう。昔は上ノ坊住職が祈祷したという。参拝に来た者は苗代の数だけもらって帰る。また、林宏氏の調査によれば、以前は春日大社へ参ってもらってきたとも・・。村神主は里芋と大根の煮込みを八寸の重箱に詰めて準備する」とあった。
十一人衆だけで行われる座行事よりも、この日に参拝する人は多い。氏子の女性たちも参拝にくる村行事であるが、いつもの通りのめいめいが参拝する姿である。
この日が初めてのお勤めになる村神主。
先月の2月8日に神主渡しを受けた新任の村神主は十老でもある。
また、この日も寿福寺上ノ坊住職が参拝される。
年中行事は数々あるが、年に十回もあるという。
参拝にいつもされているのは神さんに向かって般若心経を唱えることである。
拝殿の登り口にチンチロ付きの松苗の束がある。
参った際に1束を確保された十一人衆もおられる。
前述したように松苗はこの日に祈祷されるもの。
一足早くに確保されたのはなぜ・・・。
松苗を持ち帰る方に苗代作りをされているのか、どうか尋ねてみたい。
そう思ったときにもう一人の男性が手にしていた。
3人の氏子総代の一人であるOさんである。
O家では4月29日から5月のGW中にしているらしい。
もし良ければ取材を、とお願いしたら承諾してくださった。
ありがたいお言葉に伺ったのはその日でもなかった4月21日だった。
先日に配られた2月1日の小正月と2月4日のオコナイに祈祷されたごーさん札は漆の木に挟んで立てると話してくれた。
そうこうしているうちに新年祭の神事が始まった。
斎主の神職に村神主、座中の十一人衆、氏子総代に自治会役員は拝殿に登る。
一般の氏子たちはいつものように参籠所に座って神事を見守っていた。
斎主神職は神饌御供を調えて一拝。
そして神前に着座する。
その様子を覗う村神主。
次年度に村神主の勤めが待っている十一老のUさんも顔を出して見ていた。
神事は修祓から始まって献饌に移る。
境内で立っている氏子たちにもお祓いをしてくださる。
こうして祝詞を奏上される。
神事の進行は氏子総代。
左拝殿に着座しているのは村神主に十一人衆と寿福寺上ノ坊住職。
右拝殿は氏子総代に自治会役員らである。
神職と僧侶の履物が二つ。
履物で神仏混淆の行事であることがわかる。
本社殿には予め載せていた神饌御供。
その左側には祈祷する松苗もある。
本社殿に進み出て玉串を奉奠するのは村神主と氏子総代である。
これより始まるのは唐屋決めの儀式である。
十一人衆最長老の一老からは立ち入りはここまで。
拝殿には入ってはならぬと伝えられていた。
厳格な儀式は格式のある厳かなもの。
失礼にならないように細心の注意をはらって撮らせていただく。
唐屋決めの儀式に祭具がある。
村神主が広げる扇に椀である。
椀には中央に穴を開けた半紙を被せている。
椀の口、周囲に半紙が外れないように締めている。
椀の中に入っているのは氏子の名前である。
両拝殿に着座されている人たちが、これより始まるフリアゲ神事の行為が見えるような位置に座る。
神職と村神主が見合うように座る。
間に座ったのは氏子総代。
フリアゲ神事の検分役を務める。
まずは神職、村神主とも神前に向かって頭を下げて拝礼をする。
神さんのご神託を伺う拝礼でもある。
そして、向かいあった二人は頭を下げて始まった。
神職が振る椀。
ひょいっという感じで振るが、中からは何も出てこない。
幾度も振るうちにひょいと飛び出すフリアゲ神事。
県内事例に何カ所かで拝見してきた椀で振るフリアゲ神事である。
穴の大きさはどれぐらいにするか。
中に入れている丸めた紙片の大きさによって出方に何回も振る。
大きな穴を開けてしまえば、逆に数個の紙片が飛び出すことになるから、どれぐらいという答えは実に難しい。
ある村ではこのフリアゲを椀でするから茶碗籤と呼んでいるところもある。
米谷町では唐屋を務める家に対象年齢の子どもがいる場合にこのフリアゲ神事をすると話していた。
ひょいと飛び出した籤は村神主が広げた扇で受け取る。
神さんのご神託が下った籤は丁重に受ける。
受けた籤を拡げて検証する氏子総代。
氏子総代帳にある氏子名とフリアゲした籤番号をもって検証する。
お立になられて、まずは十一人衆、僧侶が座する場に向かって読みあげる。
「オオトウヤは30番の・・・」。
氏子の名前を告げて大唐屋が決まったことを報告する。
右拝殿にいる村役員の人たちにも籤を拡げて報告する。
振り返って参籠所に待っていた氏子たちにも。
大きな声で伝えて承認された。
フリアゲ神事はコトウヤも同じ作法で決まる。
拝殿に居る人たちはその作法を見入るように見つめていた。
受けた扇に載った籤を拡げて検証する氏子総代。
先ほどと同じく、籤番号を検証する。
そして決まった「コトウヤは8番の・・・」。
こうして今年のマツリの大唐屋と小唐屋の両唐屋が決まったのである。
実は今回で唐屋決めの40数軒の氏子は一巡した。
つまりは椀の中には未だ当たっていなかった氏子だけだった。
二つの籤は大唐屋と小唐屋のいずれかに当確する。
椀に入れる籤は、唐屋を勤められる氏子である。
そのことを配慮した候補氏子の籤を入れてフリアゲをする場合はたくさん入っているから出てきやすい。
少なければ、少なくなるほどになかなか出にくくなる。
時間がかかるほどにひょいと飛び出した籤に、ホォーっと歓声があがった。
すべての氏子が椀から消えた次年度はどうされるのか。
その方法は年初の初集会で決めると話していた。
こうしてマツリの唐屋がきまれば、氏子全員が揃って参籠所で直会をされる。
直会の食事は前述したように村神主が準備したイモダイコである。
イモダイコは里芋に大根、ニンジン、ゴボウ天を煮込んだ料理。
数人の席ごとに皿盛り一枚。
サタニンが配膳し終わったら、祈年祭に奉ったお神酒を一人ずつ注いでいく。
向こう側の席は神職、僧侶、村神主、十一人衆。
手前は氏子総代、自治会役員、氏子たち。
氏子総代および新任自治会長の挨拶をされてから乾杯した。
(H29. 3. 1 EOS40D撮影)