南山城村北大河原に寒供養とも呼ばれるカンセンギョを今でもしているとわかったのは、平成29年の1月20日に関係者のMさんと直接お会いできたことによる。
Mさんを紹介してくださったのは南大河原に住む南大河原稲荷講のDさん。
かつて15軒もあった南大河原稲荷講。
徐々に脱会された講中。
残った講中も高齢化となりやむなく中断せざるを得ない状況にあった。
当時のあり方を話してくださったDさん。
近くの山とか河原である。
キツネがおると思われる3カ所に出かける。
着いたらトーヤ家が作った御供を供える。
御供は3品。
一つはモッソと呼ぶ三角型のアズキゴハンのオニギリ(※オアゲゴハンとも)。
もう一つは焼いた開きのサイラ(サンマ)で、細かく切って供えた。
もう一つはキツネさんが喜ぶアゲサンである。
アゲサンは細かく切って、半紙を広げた場に御供を供える。
1カ所に5セットの御供を供えるというからカンセンギョに向かう際の運ぶ道具が要る。
それはコウジブタ。
量も多かったと思える御供を盛って施行するというから高齢者にとっては負担になったわけである。
施行を終えたら、ヤド(宿)と呼ぶトーヤ家に集まって、アゲサンを入れて炊いたショウユゴハン(醤油で味付けしたアジゴハン)とオツユ(汁椀)で会食していたと・・。
南山城村教育委員会編さん室(※平成14年~17年)ならびに学芸員として京都府の城陽歴史民俗資料館(平成10年~15年)に勤めていた前野雅彦氏と思われる方がブログ「やぶにらみ民俗学」で伝えていた。
平成15年3月16日に開催された「近畿民俗学会例会」に前野雅彦氏が発表された報告に「南大河原の寒施行」があるらしい。
論文あるいは報告書を拝見していないが、報告タイトルが「南大河原の寒施行」である。
南大河原稲荷講の様相を教えてもらい、また、紹介してくださった北大河原のMさんにお会いした。
取材の主旨を伝えて、翌年、つまり平成30年1月に行われる北大河原のカンセンギョにようやく巡り合えることになったが、行事の日程は固定日でなく、寿稲荷会が相談の上で決める都合のいい日である。
年末くらいになれば確定しているから、そのころであれば、ということであった。
都合が決まるころは年末の12月。
それも後半であれば確定しているだろうと判断して電話を架けた12月20日。
一年前に伺ったことを覚えておられたMさん。
二つ返事で伝えてくれた実施日は1月15日。
当日の午後はカンセンギョに供える御供つくり。
寿稲荷会の婦人たち数人が本郷コミュニテイーセンターに集まって御供や寿稲荷会が会食に食べるイロゴハンをつくるという。
御供ができあがらないとカンセンギョには行けない。
手ぶらではカンセンギョに行けない。
カンセンギョをするのは男の人たち。
時間を見計らって集まるようだ。
会員16人からなる寿稲荷会は稲荷社に参拝してから御供を供えに山に行くが、穢れがある人は参拝できない。
この年は穢れの人が多く、山の奥までは行かずに稲荷社付近に留めるという。
カンセンギョを終えたら本郷コミュニテイーセンターでイキガミさんの会食に移る。
イキガミさんとは稲荷会の人たち、会食はいわば会の人たちの慰労会のようなもの。
カンセンギョの供養にお酒を飲んで御供下げをいただくから、是非起こしくださいと電話口で承諾してくださった。
午後の1時半。承諾を得たMさんの紹介で寄せてもらったと伝えた4人の婦人たち。
Mさんが“おなごし”と呼んでいた婦人たちである。
早速、御供つくりを拝見する。
御供つくりの食材は「寿稲荷 寒供養祭準備物」に沿って用意される。
稲荷社の供物は、鏡餅、洗米、酒、塩、スルメ、サイラ(サンマの開き)、油揚げ、昆布、大根、白菜、椎茸、蜜柑にお菓子。
山行きの供物は、24個の赤飯/丸(モッソ)、2個の赤飯/焦げ大(モッソ)、20匹の鰯に10枚の油揚げ。
ちなみに赤飯は、一升一合の米と小豆二合で炊きあげる。
会食にいただくイロゴハンは、米一升、鶏肉、牛蒡、人参、油揚げ。他に山行きの箱なども用意する。
料理の場は本郷コミュニテイーセンターの調理場。
婦人会の皆さんが手作りするこんにゃく作りを取材した平成28年12月のときと同じ場だけに、馴染みある調理台が懐かしい。
袋から取り出した山行きの材料。
包丁でザク切りする油揚げと鰯。
それを用意していたオカモチに盛る。
ラップを底に敷いて盛る鰯はぶつ切り。
頭、胴体、尾部分に分けたに三つ切り3等分にする。
オカモチは二つ。
一つはコジュウタ(※コウジブタ)から作った改良型のオカモチ。
婦人の一人が云った。
家にあるオカモチは百年前から代々が使ってきた、という古いオカモチ。
あまりにも古いし、新しいものもあると聞いて、「それは持って来なんだ」という。
炊飯器で炊いていた小豆飯ができあがった。
ほくほくに炊けた小豆飯は熱々。
これを手で握る。
形は三角。
その形から「ケンサキ」の名がある小豆飯(あずきめし)。
もう一つの形は真ん丸型に握る小豆飯。
さらに握った大きな小豆飯握りはオコゲで作る。
三角型はキツネさん。丸いのはタヌキに食べてもらうもの。
なるほどの名前のこれらは山行きに供える供物である。
供物が揃ったところで作り始めたイロゴハン炊き。
前述したようにお米、鶏肉、油揚げ、人参、牛蒡を切り揃えて炊飯器で炊く。
牛蒡が決め手になるという具材の味付けは醤油と本だしで炊く。
山行き終えて戻ってくる本郷コミュニテイーセンターの座敷でよばれる“イキガミ”さんたちの直会食に運ばれる。
二つのオカモチに盛った供物は4品。
真上から見たらケンサキらしい特徴のある三角錐形のアズキメシが12個。
丸目のオニギリも12個。
やや大きめに握ったオコゲの小豆飯オニギリは2個。
準備・調理の際にいろいろ教えてくださった婦人たち。
毎年の1月8日。
“小寒の日”は「御供さんの油揚げだけもって山行きしますねん」。
「男も女も云うてられへん、薄暗くなるころを見計らって山に行かしてもらった」と、渋久(しぶく)に住んでいるOさん。
小寒の日にしていたという山行きに供物だけをもっていった。
油揚げも供えた小寒の日。
昔は山から神さんが降りてきて、神主さんがどこへ行ってくれ、と云われて付いていった。
渋久(しぶく)の女性がオヤマに持っていくのは油揚げ。
お頭付きの鰯。
適当な葉を見つけて皿代わりにそこへ供物を盛る。
家に居たばあちゃんは、山に行くといって毎年供えていた。
愛宕山の方角の渋久の山とか寺谷(てらんたに)にも持っていったという。
渋久のO家と同様に小寒の日に供物を供えていると聞いた地域は、奈良県内の2カ所。
1カ所は奈良市興ケ原町に住む前宮司のTさん。
尤も、お供えをするのは奥さんであるが、大寒のころ、と思い込んで電話を架けたら、「もうとっくに終わっています」、ということだから小寒の日であろう。
もう1カ所は旧五ケ谷村の奈良市中畑町に住むIさん。
寒の入りに家の油揚げをお稲荷さんにおましている、と話していた。
稲荷さんの総本社は京都の伏見稲荷さん。
神主をしていたおじいさんが奥さんのお舅さんになるという寿稲荷会会長の奥さん。
“オダイサン“のお告げがあった処にお供えする。
お告げが伝える供物の場は毎年替わるようだ。
(H30. 1.15 EOS40D撮影)
Mさんを紹介してくださったのは南大河原に住む南大河原稲荷講のDさん。
かつて15軒もあった南大河原稲荷講。
徐々に脱会された講中。
残った講中も高齢化となりやむなく中断せざるを得ない状況にあった。
当時のあり方を話してくださったDさん。
近くの山とか河原である。
キツネがおると思われる3カ所に出かける。
着いたらトーヤ家が作った御供を供える。
御供は3品。
一つはモッソと呼ぶ三角型のアズキゴハンのオニギリ(※オアゲゴハンとも)。
もう一つは焼いた開きのサイラ(サンマ)で、細かく切って供えた。
もう一つはキツネさんが喜ぶアゲサンである。
アゲサンは細かく切って、半紙を広げた場に御供を供える。
1カ所に5セットの御供を供えるというからカンセンギョに向かう際の運ぶ道具が要る。
それはコウジブタ。
量も多かったと思える御供を盛って施行するというから高齢者にとっては負担になったわけである。
施行を終えたら、ヤド(宿)と呼ぶトーヤ家に集まって、アゲサンを入れて炊いたショウユゴハン(醤油で味付けしたアジゴハン)とオツユ(汁椀)で会食していたと・・。
南山城村教育委員会編さん室(※平成14年~17年)ならびに学芸員として京都府の城陽歴史民俗資料館(平成10年~15年)に勤めていた前野雅彦氏と思われる方がブログ「やぶにらみ民俗学」で伝えていた。
平成15年3月16日に開催された「近畿民俗学会例会」に前野雅彦氏が発表された報告に「南大河原の寒施行」があるらしい。
論文あるいは報告書を拝見していないが、報告タイトルが「南大河原の寒施行」である。
南大河原稲荷講の様相を教えてもらい、また、紹介してくださった北大河原のMさんにお会いした。
取材の主旨を伝えて、翌年、つまり平成30年1月に行われる北大河原のカンセンギョにようやく巡り合えることになったが、行事の日程は固定日でなく、寿稲荷会が相談の上で決める都合のいい日である。
年末くらいになれば確定しているから、そのころであれば、ということであった。
都合が決まるころは年末の12月。
それも後半であれば確定しているだろうと判断して電話を架けた12月20日。
一年前に伺ったことを覚えておられたMさん。
二つ返事で伝えてくれた実施日は1月15日。
当日の午後はカンセンギョに供える御供つくり。
寿稲荷会の婦人たち数人が本郷コミュニテイーセンターに集まって御供や寿稲荷会が会食に食べるイロゴハンをつくるという。
御供ができあがらないとカンセンギョには行けない。
手ぶらではカンセンギョに行けない。
カンセンギョをするのは男の人たち。
時間を見計らって集まるようだ。
会員16人からなる寿稲荷会は稲荷社に参拝してから御供を供えに山に行くが、穢れがある人は参拝できない。
この年は穢れの人が多く、山の奥までは行かずに稲荷社付近に留めるという。
カンセンギョを終えたら本郷コミュニテイーセンターでイキガミさんの会食に移る。
イキガミさんとは稲荷会の人たち、会食はいわば会の人たちの慰労会のようなもの。
カンセンギョの供養にお酒を飲んで御供下げをいただくから、是非起こしくださいと電話口で承諾してくださった。
午後の1時半。承諾を得たMさんの紹介で寄せてもらったと伝えた4人の婦人たち。
Mさんが“おなごし”と呼んでいた婦人たちである。
早速、御供つくりを拝見する。
御供つくりの食材は「寿稲荷 寒供養祭準備物」に沿って用意される。
稲荷社の供物は、鏡餅、洗米、酒、塩、スルメ、サイラ(サンマの開き)、油揚げ、昆布、大根、白菜、椎茸、蜜柑にお菓子。
山行きの供物は、24個の赤飯/丸(モッソ)、2個の赤飯/焦げ大(モッソ)、20匹の鰯に10枚の油揚げ。
ちなみに赤飯は、一升一合の米と小豆二合で炊きあげる。
会食にいただくイロゴハンは、米一升、鶏肉、牛蒡、人参、油揚げ。他に山行きの箱なども用意する。
料理の場は本郷コミュニテイーセンターの調理場。
婦人会の皆さんが手作りするこんにゃく作りを取材した平成28年12月のときと同じ場だけに、馴染みある調理台が懐かしい。
袋から取り出した山行きの材料。
包丁でザク切りする油揚げと鰯。
それを用意していたオカモチに盛る。
ラップを底に敷いて盛る鰯はぶつ切り。
頭、胴体、尾部分に分けたに三つ切り3等分にする。
オカモチは二つ。
一つはコジュウタ(※コウジブタ)から作った改良型のオカモチ。
婦人の一人が云った。
家にあるオカモチは百年前から代々が使ってきた、という古いオカモチ。
あまりにも古いし、新しいものもあると聞いて、「それは持って来なんだ」という。
炊飯器で炊いていた小豆飯ができあがった。
ほくほくに炊けた小豆飯は熱々。
これを手で握る。
形は三角。
その形から「ケンサキ」の名がある小豆飯(あずきめし)。
もう一つの形は真ん丸型に握る小豆飯。
さらに握った大きな小豆飯握りはオコゲで作る。
三角型はキツネさん。丸いのはタヌキに食べてもらうもの。
なるほどの名前のこれらは山行きに供える供物である。
供物が揃ったところで作り始めたイロゴハン炊き。
前述したようにお米、鶏肉、油揚げ、人参、牛蒡を切り揃えて炊飯器で炊く。
牛蒡が決め手になるという具材の味付けは醤油と本だしで炊く。
山行き終えて戻ってくる本郷コミュニテイーセンターの座敷でよばれる“イキガミ”さんたちの直会食に運ばれる。
二つのオカモチに盛った供物は4品。
真上から見たらケンサキらしい特徴のある三角錐形のアズキメシが12個。
丸目のオニギリも12個。
やや大きめに握ったオコゲの小豆飯オニギリは2個。
準備・調理の際にいろいろ教えてくださった婦人たち。
毎年の1月8日。
“小寒の日”は「御供さんの油揚げだけもって山行きしますねん」。
「男も女も云うてられへん、薄暗くなるころを見計らって山に行かしてもらった」と、渋久(しぶく)に住んでいるOさん。
小寒の日にしていたという山行きに供物だけをもっていった。
油揚げも供えた小寒の日。
昔は山から神さんが降りてきて、神主さんがどこへ行ってくれ、と云われて付いていった。
渋久(しぶく)の女性がオヤマに持っていくのは油揚げ。
お頭付きの鰯。
適当な葉を見つけて皿代わりにそこへ供物を盛る。
家に居たばあちゃんは、山に行くといって毎年供えていた。
愛宕山の方角の渋久の山とか寺谷(てらんたに)にも持っていったという。
渋久のO家と同様に小寒の日に供物を供えていると聞いた地域は、奈良県内の2カ所。
1カ所は奈良市興ケ原町に住む前宮司のTさん。
尤も、お供えをするのは奥さんであるが、大寒のころ、と思い込んで電話を架けたら、「もうとっくに終わっています」、ということだから小寒の日であろう。
もう1カ所は旧五ケ谷村の奈良市中畑町に住むIさん。
寒の入りに家の油揚げをお稲荷さんにおましている、と話していた。
稲荷さんの総本社は京都の伏見稲荷さん。
神主をしていたおじいさんが奥さんのお舅さんになるという寿稲荷会会長の奥さん。
“オダイサン“のお告げがあった処にお供えする。
お告げが伝える供物の場は毎年替わるようだ。
(H30. 1.15 EOS40D撮影)