天理市柳本町新町の太神宮祭を終えて、すぐさま駆け付けた柳本町・鳥居町。
新町から上街道を南に400m。
車を停められる場に駐車させてもらって、早速の取材に代表の自治会会長に急な取材申し出に挨拶ならびに自己紹介。
取材目的の場は、大神宮石塔。
平成30年7月16日に訪れたときと同じく四方竹を設営していた大神宮。
この日は、すでに神饌御供に餅御供もある。
ゆっくり落ち着いて拝見する時間も、お聞きしたい行事のことも、行事を終えてからだ。
大神宮石塔は風化厳しく、建之した時代さえはっきりしない。
石塔の材はもろい。
風化の様相から岩石を同定しようと思ったが・・断念。
彫られた文字、一部が判読できた。
北にあった「町中・・」。
南は「天和皇太宮」であろうか。
天和年間とすれば、1681年~1684年。
天明時代であれば、1781年~17年。
おかげ参りの年代と重なりにくい。
天保時代であれば、1830年~1844年。
「文政のおかげ参り」が流行った年代とほぼ合致するが、結論は出ない。
さて、祭主の伊射奈岐神社笠松健宮司を迎えてはじまった大神宮祭。
神事の進行は、先ほど斎行された新町の太神宮祭に同じく、神式に則り、祓詞に修祓。
蝋燭を灯した祭壇に供えたお神酒の口開け、献饌。
そして、昨年から続くコロナ惨禍の退散を願い、祝詞を奏上する。
宮司から玉串を受けとった2人の自治会長。
鳥居町、片原町それぞれの地区代表として奉奠された。
当祭典に、主体になる自治会は鳥居町自治会。
もう一つが片原町自治会。
鳥居町は東地区が16戸。
西に12戸。
また、片原町は40戸からなる。
話の様相から伺えば、古くから大神宮石塔を崇めていたのが鳥居町で、後にここより南側に、新しく(※とはいっても時代はずいぶん前のように思える)できた新町の片原町が、後に組み入れたのでは、と思った。
柳本を南北に貫く上街道。
眞面堂(まめんどう)のすぐ北は新地。
その向こうに市場垣内がある。
街道沿いに町家が増え、南に、南に町家を形成していったのであろう。
そしてここは、垣内データベースによれば「鳥居垣内」である。
なぜに鳥居かといえば、東に鎮座する伊射奈岐神社に向かう道。
つまり、ここ鳥居垣内からは神社に向かう参道に他ならない。
今では面影は見られないが、ここに大きな一の鳥居が建っていた、と考えられる垣内名など、あらためて町の歴史、変遷を聞き取りしてみたい事項である。
神事終えたら供えた白餅を町内各家に配られる。
コロナ禍のない、本来であれば、参列者はここで直会をされるのだが・・。
神饌御供のスルメやコンブは人数分を切り分け。
お神酒をいただく直会場に、やってきた町内人らが列をなして餅を受け取るのだが、この時代ではパック詰めの白餅配り。
鳥居町も片原町も、この場に参列された役の人たちが餅を配る数は、班の戸数などに振り分けるよう地区に戻っていった。
(R3. 7.16 SB805SH/EOS7D撮影)
新町から上街道を南に400m。
車を停められる場に駐車させてもらって、早速の取材に代表の自治会会長に急な取材申し出に挨拶ならびに自己紹介。
取材目的の場は、大神宮石塔。
平成30年7月16日に訪れたときと同じく四方竹を設営していた大神宮。
この日は、すでに神饌御供に餅御供もある。
ゆっくり落ち着いて拝見する時間も、お聞きしたい行事のことも、行事を終えてからだ。
大神宮石塔は風化厳しく、建之した時代さえはっきりしない。
石塔の材はもろい。
風化の様相から岩石を同定しようと思ったが・・断念。
彫られた文字、一部が判読できた。
北にあった「町中・・」。
南は「天和皇太宮」であろうか。
天和年間とすれば、1681年~1684年。
天明時代であれば、1781年~17年。
おかげ参りの年代と重なりにくい。
天保時代であれば、1830年~1844年。
「文政のおかげ参り」が流行った年代とほぼ合致するが、結論は出ない。
さて、祭主の伊射奈岐神社笠松健宮司を迎えてはじまった大神宮祭。
神事の進行は、先ほど斎行された新町の太神宮祭に同じく、神式に則り、祓詞に修祓。
蝋燭を灯した祭壇に供えたお神酒の口開け、献饌。
そして、昨年から続くコロナ惨禍の退散を願い、祝詞を奏上する。
宮司から玉串を受けとった2人の自治会長。
鳥居町、片原町それぞれの地区代表として奉奠された。
当祭典に、主体になる自治会は鳥居町自治会。
もう一つが片原町自治会。
鳥居町は東地区が16戸。
西に12戸。
また、片原町は40戸からなる。
話の様相から伺えば、古くから大神宮石塔を崇めていたのが鳥居町で、後にここより南側に、新しく(※とはいっても時代はずいぶん前のように思える)できた新町の片原町が、後に組み入れたのでは、と思った。
柳本を南北に貫く上街道。
眞面堂(まめんどう)のすぐ北は新地。
その向こうに市場垣内がある。
街道沿いに町家が増え、南に、南に町家を形成していったのであろう。
そしてここは、垣内データベースによれば「鳥居垣内」である。
なぜに鳥居かといえば、東に鎮座する伊射奈岐神社に向かう道。
つまり、ここ鳥居垣内からは神社に向かう参道に他ならない。
今では面影は見られないが、ここに大きな一の鳥居が建っていた、と考えられる垣内名など、あらためて町の歴史、変遷を聞き取りしてみたい事項である。
神事終えたら供えた白餅を町内各家に配られる。
コロナ禍のない、本来であれば、参列者はここで直会をされるのだが・・。
神饌御供のスルメやコンブは人数分を切り分け。
お神酒をいただく直会場に、やってきた町内人らが列をなして餅を受け取るのだが、この時代ではパック詰めの白餅配り。
鳥居町も片原町も、この場に参列された役の人たちが餅を配る数は、班の戸数などに振り分けるよう地区に戻っていった。
(R3. 7.16 SB805SH/EOS7D撮影)