例年に大安の良き日を選んで日を決めた山添村箕輪のK家の田植え日。
昨日は冷たい風が吹いていたが、この日は穏やかな日だった。
かつては植え初めにカヤ差しもしていたし、フキダワラもしていた。
平成28年までしていた植え初め。
ここらはオツキと呼ぶウツギ(空木)の枝木を12本ずつ。
左右に挿していたが、足が思うように動かなくなったことから、翌年に断念した。
白の丸大豆をご飯に混ぜて炊いたものをフキ(蕗)の葉に広げて、そのフキ(蕗)の筋を用いて括って作るフキダワラ。
そのフキダワラを食べていた、というからおそらくケンズイ(間食)のときに食べるご馳走であったろう。
田植えを終えたときのさなぶりはしていないが、田植え休みと称して身体を休め、馳走を食べていた。
植え初めの話題を提供してくださった夫妻。
明日は、家族揃って田植えをすると云った。
お言葉に甘えて作業を撮らせていただくことにしたK家の田植え作業に伺った。
親父さんは80歳。奥さんは75歳。
息子夫婦に孫までが揃って、眼前に広がる田んぼで田植え作業。
穏やかな日の田植え作業を取材させていただく時間帯は、午後と伺い、やってきた。
レーキを手にして田植え機を操縦する孫さんに指示をするのは息子さん。
田植え機の動く方向に畝を行く息子さん。
息子さんと孫さんが田植えの中心的戦力。
山添村切幡でしていた田植え作業もまた同じく3世代家族だった。
80歳の親父さんは、二人が田植えをしやすいように田植え機が畝を跨ぐ器具運び。
その都度において動く。
息子さんも親父さんと同様に主役の孫の動きをみて周辺作業は、器具の移動もあれば、苗運びもある。
下の田んぼから始めた田植え機作業。
親父さんが先に移動して運んだ乗用田植機用アルミブリッジ・スロープ。
大型の滑り止めの専用ブリッジもある時代。
これがないと段差のある田に移動できない。できないことはないが、田植機の重さで畝が崩れるとか、雨後であればぬかるみとまではいかないが水含みの土地は柔らかいから車輪が滑ってしまう。
開発、販売された時期は存知しないが、かつては“あゆみ”板と農家の人たちが呼んでいた木製の長板。
「歩み板」をキーに検索すれば、乗用田植機用アルミブリッジ・スロープが数多く登場する。
1例、2例、3例・・。
サシナエもしつつ、力仕事のブリッジ移動の段取りをする親父さん。
75歳の婦人は、苗運びもするが、サシナエが主。
嫁入りしたころの昔は直播きだった。
今みたいにこんなに長くもない成長した育苗を束ねて藁で括って田植えさんの目の前に放っていた。
当時は、田植え機も耕運機もない時代。
牛が耕していた。
現在はJAから苗を購入する時代。
山間地の品種はヒトメボレが多い。
ずいぶんと変化してきたと回顧される婦人。
20年前までは、節句にヒシモチやチマキを作っていた。
餅を搗いて作る節句の和菓子は、我が家で製造していた。
製造はしてきたが、販売は別の会社がしていたらしい。
また、息子が誕生した5月の節句に、所有する山に出かけて植生する杉を伐採。
自宅まで運んだ杉は枝を伐り、皮を剥いで、一本の竿にする。
てっぺんだけに杉の葉を残して作った支柱に誕生祝いの鯉幟を揚げた。
孫さんが田植え機を操縦するくらいに育てた息子さんが生まれたときの民俗は、今や過去のことである。
息子さんのお嫁さんは田植えを終えた苗トレーの洗い。
その合間に話してくださる出里岩屋の話題。
箕輪にはなかったが、岩屋にはサシサバ習俗があった。
両親が揃っていたら、干物のトビウオを2尾。
片親であれば1尾のトビウオ。
塩辛いトビウオを供えて食べていた、という岩屋の習俗。
トビウオではないが、サシサバを今でも売っているお店がある。
山添村北野にある大矢商店は存じているが、サシサバを売っているとは知らなかったそうだ。
岩屋にはお店屋さんはなく、行商が売りに来ていたらしく、その行商から買っていた、というトビウオである。
同じくトビウオ習俗のあった大字大西。
在住のFさんが、正月のイタダキの作法をしてくださったときに聞いた話題。
サシサバもあればトビウオもあった。
また、隣村の大字菅生にもあった、と云っていた。
ちなみにお嫁さんの友達が、嫁いだ先の三重県青山である。
ここにもサシサバをしていた、と聞いている話題提供に興味を惹かれる。
サシサバの文化領域は三重県にもあった事実に、また調べる地域が増える。
機会があれば調査に伺いたいものである。
さらに話してくれた嫁入りのときの風習。
嫁入りしたその年の初節句は、祝いにヒシモチとかチマキを実家に贈ったことも話してくれた。
民俗は、お嫁さんが話してくれたように婚姻関係による伝播が文化を繋げ、地域に根付くことも多々ある。
金沢市図書館に所蔵の日置謙編『加能郷土辞彙』がある。
金沢文化協会が昭和17年に発刊した語彙集。
その語彙のひとつである「サシサバ(刺鯖)」記事が341頁にある。
「・・・宝暦の調書には、羽咋郡西海刺鯖、風戸・風無・千浦・赤崎・前濱・村から御用に付き指上げるとある。刺鯖(サシサバ)の製法は、背割りにして内臓を去り、3、4時間水に浸して血液を去り、水滴を除き、鯖生目30貫目を■13貫目にて、約1週間漬け、清■の溶液で洗浄し、同大のものを2尾宛を重ね刺し、ハサに掛けて乾かすこと1週間にして、■柱の結晶するを期とし、魚簗の上に■筵の荒く厚きものを敷き、その面に鯖を格子状に積むこと高さ六尺に及び、周囲を筵及び菰で密閉し、十日許を経て脂肪の浮き出で橙黄色を呈した時全く功程を終る」とあった。
興味深い宝暦時代のサシサバの作り方である。
Kさんも合いの間に話してくださる箕輪の民俗。
かつて村は50軒もあったが、徐々に減り続けて現在は45軒になった。
村を出る人もあったが、今では家ごと消滅する時代になった、という。
箕輪に寺院はなく、神野寺の住職が来てくれる。
三柱神社の行事に秋祭りはあるが、これといったものがない。
ただ、5年後にはゾーク(造営事業)が待っている。
今度のゾークは拝殿を新築する計画があり、そのためにも預金をしている。
神社行事に大字室津の奥中弥弘宮司が出仕されることなど話してくれた。
午後3時過ぎにとった休憩。
当地ではケンズイ(間食)と呼ぶことはなかったが、私も呼ばれて美味しいカップアイスをいただいた。
生まれたひ孫は1歳2カ月。
父親になった孫さん。
学生時代に付き合っていた孫さんのお相手の出里は近隣でもなく、遠く離れた福島県。
K家の隣家のお嫁さんもまた遠く、西日本の岡山県。
今の時代は、地方から出てきて勉学する大学時代からのお付き合い。
さらには外国の人との婚姻。
田舎もずいぶんと変わり、話題も変化に富んでいるようだ。
和気あいあいの時間に、話題も広がり腰が重くなりそうだが、お礼を伝えて場を離れて帰路につく。
そのころともなれば西の方からやや黒い雲が流れてきた。
帰宅するころには雨も降りだした。
その夜は土砂降りの雨。
翌日も雨の日。
ときには昨夜以上の土砂降り模様。
その日が大安でなくてよかったが、暦の大安を第一義にするのか、それとも気象状態を選択するのか。
えー日にするという農家さんは、どちらを選んでいるのだろうか。
ところで育苗していたプレートである。
かつては木製だったとテレビ番組で紹介していた。
重さのあるプレートを軽く、そして頑丈なモノにしたのは、アイリスオーヤマ社であった。
メーカーは違えどもプラスチック製のプレートへの転換発想はその時代の悩みを一気に解決した画期的な考え方である。
(H30. 5. 6 EOS7D撮影)
昨日は冷たい風が吹いていたが、この日は穏やかな日だった。
かつては植え初めにカヤ差しもしていたし、フキダワラもしていた。
平成28年までしていた植え初め。
ここらはオツキと呼ぶウツギ(空木)の枝木を12本ずつ。
左右に挿していたが、足が思うように動かなくなったことから、翌年に断念した。
白の丸大豆をご飯に混ぜて炊いたものをフキ(蕗)の葉に広げて、そのフキ(蕗)の筋を用いて括って作るフキダワラ。
そのフキダワラを食べていた、というからおそらくケンズイ(間食)のときに食べるご馳走であったろう。
田植えを終えたときのさなぶりはしていないが、田植え休みと称して身体を休め、馳走を食べていた。
植え初めの話題を提供してくださった夫妻。
明日は、家族揃って田植えをすると云った。
お言葉に甘えて作業を撮らせていただくことにしたK家の田植え作業に伺った。
親父さんは80歳。奥さんは75歳。
息子夫婦に孫までが揃って、眼前に広がる田んぼで田植え作業。
穏やかな日の田植え作業を取材させていただく時間帯は、午後と伺い、やってきた。
レーキを手にして田植え機を操縦する孫さんに指示をするのは息子さん。
田植え機の動く方向に畝を行く息子さん。
息子さんと孫さんが田植えの中心的戦力。
山添村切幡でしていた田植え作業もまた同じく3世代家族だった。
80歳の親父さんは、二人が田植えをしやすいように田植え機が畝を跨ぐ器具運び。
その都度において動く。
息子さんも親父さんと同様に主役の孫の動きをみて周辺作業は、器具の移動もあれば、苗運びもある。
下の田んぼから始めた田植え機作業。
親父さんが先に移動して運んだ乗用田植機用アルミブリッジ・スロープ。
大型の滑り止めの専用ブリッジもある時代。
これがないと段差のある田に移動できない。できないことはないが、田植機の重さで畝が崩れるとか、雨後であればぬかるみとまではいかないが水含みの土地は柔らかいから車輪が滑ってしまう。
開発、販売された時期は存知しないが、かつては“あゆみ”板と農家の人たちが呼んでいた木製の長板。
「歩み板」をキーに検索すれば、乗用田植機用アルミブリッジ・スロープが数多く登場する。
1例、2例、3例・・。
サシナエもしつつ、力仕事のブリッジ移動の段取りをする親父さん。
75歳の婦人は、苗運びもするが、サシナエが主。
嫁入りしたころの昔は直播きだった。
今みたいにこんなに長くもない成長した育苗を束ねて藁で括って田植えさんの目の前に放っていた。
当時は、田植え機も耕運機もない時代。
牛が耕していた。
現在はJAから苗を購入する時代。
山間地の品種はヒトメボレが多い。
ずいぶんと変化してきたと回顧される婦人。
20年前までは、節句にヒシモチやチマキを作っていた。
餅を搗いて作る節句の和菓子は、我が家で製造していた。
製造はしてきたが、販売は別の会社がしていたらしい。
また、息子が誕生した5月の節句に、所有する山に出かけて植生する杉を伐採。
自宅まで運んだ杉は枝を伐り、皮を剥いで、一本の竿にする。
てっぺんだけに杉の葉を残して作った支柱に誕生祝いの鯉幟を揚げた。
孫さんが田植え機を操縦するくらいに育てた息子さんが生まれたときの民俗は、今や過去のことである。
息子さんのお嫁さんは田植えを終えた苗トレーの洗い。
その合間に話してくださる出里岩屋の話題。
箕輪にはなかったが、岩屋にはサシサバ習俗があった。
両親が揃っていたら、干物のトビウオを2尾。
片親であれば1尾のトビウオ。
塩辛いトビウオを供えて食べていた、という岩屋の習俗。
トビウオではないが、サシサバを今でも売っているお店がある。
山添村北野にある大矢商店は存じているが、サシサバを売っているとは知らなかったそうだ。
岩屋にはお店屋さんはなく、行商が売りに来ていたらしく、その行商から買っていた、というトビウオである。
同じくトビウオ習俗のあった大字大西。
在住のFさんが、正月のイタダキの作法をしてくださったときに聞いた話題。
サシサバもあればトビウオもあった。
また、隣村の大字菅生にもあった、と云っていた。
ちなみにお嫁さんの友達が、嫁いだ先の三重県青山である。
ここにもサシサバをしていた、と聞いている話題提供に興味を惹かれる。
サシサバの文化領域は三重県にもあった事実に、また調べる地域が増える。
機会があれば調査に伺いたいものである。
さらに話してくれた嫁入りのときの風習。
嫁入りしたその年の初節句は、祝いにヒシモチとかチマキを実家に贈ったことも話してくれた。
民俗は、お嫁さんが話してくれたように婚姻関係による伝播が文化を繋げ、地域に根付くことも多々ある。
金沢市図書館に所蔵の日置謙編『加能郷土辞彙』がある。
金沢文化協会が昭和17年に発刊した語彙集。
その語彙のひとつである「サシサバ(刺鯖)」記事が341頁にある。
「・・・宝暦の調書には、羽咋郡西海刺鯖、風戸・風無・千浦・赤崎・前濱・村から御用に付き指上げるとある。刺鯖(サシサバ)の製法は、背割りにして内臓を去り、3、4時間水に浸して血液を去り、水滴を除き、鯖生目30貫目を■13貫目にて、約1週間漬け、清■の溶液で洗浄し、同大のものを2尾宛を重ね刺し、ハサに掛けて乾かすこと1週間にして、■柱の結晶するを期とし、魚簗の上に■筵の荒く厚きものを敷き、その面に鯖を格子状に積むこと高さ六尺に及び、周囲を筵及び菰で密閉し、十日許を経て脂肪の浮き出で橙黄色を呈した時全く功程を終る」とあった。
興味深い宝暦時代のサシサバの作り方である。
Kさんも合いの間に話してくださる箕輪の民俗。
かつて村は50軒もあったが、徐々に減り続けて現在は45軒になった。
村を出る人もあったが、今では家ごと消滅する時代になった、という。
箕輪に寺院はなく、神野寺の住職が来てくれる。
三柱神社の行事に秋祭りはあるが、これといったものがない。
ただ、5年後にはゾーク(造営事業)が待っている。
今度のゾークは拝殿を新築する計画があり、そのためにも預金をしている。
神社行事に大字室津の奥中弥弘宮司が出仕されることなど話してくれた。
午後3時過ぎにとった休憩。
当地ではケンズイ(間食)と呼ぶことはなかったが、私も呼ばれて美味しいカップアイスをいただいた。
生まれたひ孫は1歳2カ月。
父親になった孫さん。
学生時代に付き合っていた孫さんのお相手の出里は近隣でもなく、遠く離れた福島県。
K家の隣家のお嫁さんもまた遠く、西日本の岡山県。
今の時代は、地方から出てきて勉学する大学時代からのお付き合い。
さらには外国の人との婚姻。
田舎もずいぶんと変わり、話題も変化に富んでいるようだ。
和気あいあいの時間に、話題も広がり腰が重くなりそうだが、お礼を伝えて場を離れて帰路につく。
そのころともなれば西の方からやや黒い雲が流れてきた。
帰宅するころには雨も降りだした。
その夜は土砂降りの雨。
翌日も雨の日。
ときには昨夜以上の土砂降り模様。
その日が大安でなくてよかったが、暦の大安を第一義にするのか、それとも気象状態を選択するのか。
えー日にするという農家さんは、どちらを選んでいるのだろうか。
ところで育苗していたプレートである。
かつては木製だったとテレビ番組で紹介していた。
重さのあるプレートを軽く、そして頑丈なモノにしたのは、アイリスオーヤマ社であった。
メーカーは違えどもプラスチック製のプレートへの転換発想はその時代の悩みを一気に解決した画期的な考え方である。
(H30. 5. 6 EOS7D撮影)