マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

矢田町寺坂・深谷垣内の大とんど

2013年05月21日 07時45分01秒 | 大和郡山市へ
節分後の日曜日に行われている大和郡山市矢田町寺坂・深谷垣内のとんど。

今年は一番遅い日になったと話す。

先週にとんどの土台を作って、本日の午後一番に組みたてた。

昔は村の子供たちが竹材やシバなどを集めに回った。

各戸を巡って一束ずつワラをもらってきた。

大人はそれを手伝いする程度だったそうだ。

寺坂深谷垣内のとんどは矢田小学校の創立記念日であった。

今でもその日は2月6日。

小学校は休みになると云う。

竹を伐採してきて数本を束ねて山から引きずって下ろしたとんどの竹組み。

市内で行われているとんどの中でもひと際大きいとんどである。

直径5m、高さも5mぐらいある巨大な大とんどだ。

定刻時間になるころには大勢の村人がやってきた。

風の向きを考えて火を点ける場所を決めると云っていた2年前。

今年は南南東の方角の恵方から火を点けると云う。

火を点けるのは長老である。

火を点けた種火のワラを持ってとんど周りに火を移していく。

あっという間に燃え上がる。



下火になればモチ焼きの時間。

モチはめいめいの家から持ち寄った自家製のモチ。

コゴメを入れたドヤモチが多い。

塩をたっぷり入れたドヤモチはタレをつけるまでもなく美味しくいただける。

それぞれの家の味がするドヤモチはエビを入れたものやヨゴミモチもある。

ヨゴミはヨモギが訛った言葉。

平坦に住む人はほとんどがそう云う。

黒豆入いりもあればカキモチもある家のモチ。



朝昼晩、350日間ぐらい食べていると話す火点け役のK夫妻。

春ともなればヨモギダンゴを作る。

ヨモギダンゴはクサダンゴとも呼ぶそうだ。

モチゴメが半分に粳米も半分。

粳米は陰干ししてから粉挽きする。

熱湯で練ってモチゴメを入れる。

ダンゴの中には粒餡を入れる。

外側にはコシ餡も塗す。

春が楽しみなヨモギダンゴは話を伺うだけで食べたくなったのはいうまでもない。

6月ともなれば紫陽花で名高い矢田山金剛山寺。

出店を開店していると云うK家。

昔はとんどで焼けた竹を家に持ち帰ってオクドさん(竈)の火に移したそうだ。

寺坂のとんどをされている時間帯のことだ。

矢田山金剛山寺南側の方角からポン、ポンと竹が爆ぜる音が聞こえてきた。

方角的には寺村辺りだが時間はまだ早い。

寺村のとんどは話に聞いているもののとんど場はどこか存知していない。

足早に向かったその方角の田んぼにあったとんどの焼け跡。

田主の話によれば雑木を燃やしていただけだと云う。

寺村のとんどはもっと奥の方であった。

駐車場に車を停めて歩きだした。

そこに居た先ほどの田主。

単車が滑って転げたときに怪我をしたようだ。

自宅はすぐ近くだと云うがままならない状況を見かねて単車を押して運んだ。

寺村のとんどはその付近のようだ。

藁束を持つ住民が集まっていた下の駐車場。

そことは別の山の際にも集まっていた。

(H25. 2.10 EOS40D撮影)

大和神社八千弋大神命の御田植祭

2013年05月20日 07時49分12秒 | 天理市へ
かつては旧の正月十日に行われていた大和神社の御田植祭。

八千(代)弋大神命に奉納する御田植祭であると案内される御祭神の御歳大神(みとしのおおかみ)の例祭だそうだ。

奈良大和の各地で行われている予祝行事の一つに挙げられる御田植祭は、にわか仕立ての朝和小・天理南中の子供たちが演技する田植えの所作だ。

神社拝殿前に置かれた御田植祭の諸道具がある。

拝殿には田植えの所作で使われる松苗が奉納されている。

御田植祭の所作が行われる場は前庭。

田んぼに見立てた神田である。

四方に笹竹を立てて区画割りした田んぼがある。

御田植祭を拝見するのは9年ぶり。

当時は区画割りがなかったと思う。

田んぼの畦とされる場にはサカキの木が植えられている。

年々の変化が見られる斎場のようだ。

斎場を囲むように拝見する観光客も年々増えていると聞く。

平日であれば付近の小学校生徒も来ているようだが、この日は日曜日。

子供の姿は少ない。

ドン、ドンと打つ太鼓を合図に始まった田植えの所作。

農夫姿の田主が登場して鍬入れや畦切りの所作をする。

足元は草鞋である。

所作を始める前には御祭神に向かって2礼、2拍手、1礼をする。

麦藁帽子を被った農夫は白衣ではなく紺色だ。

平鍬を担いで四方それぞれに鍬入れ。

田打ちとも呼ばれる鍬初めの儀式であろうか。

一礼をして戻った。

再び太鼓の合図。

今度も登場する農夫は鋤を持つ。

田んぼ周囲を巡って畦を切る。

鋤いた鋤は泥を落とす。

丹念な作法を繰り返して最後に一礼する。

次に登場したのは白衣姿の馬子(まご)だ。

牛役とも演技は子供たちに替った。

荒田の田起こしをする馬子は牛をひき連れて田を起こす農具はカラスキである。

始めに田んぼ周りを周回する。



そうして始まった牛曳きのカラスキ。

荒れた田んぼを起こしていく。

「牛にとっても馬子にとっても力の要る仕事だ」と紹介される。

ちなみに履いているのは草鞋ではなく運動靴だ。

2年前は草鞋であったようだ。

続いて登場したのは平鍬を担いだ白衣姿の農夫。

子供が演じる農夫は鍬で畦を作る。

田んぼの泥土を揚げてはこねる畦コネの所作。

水が漏れない丈夫な畦を作るのである。

畦を作っては鍬で均す。

美しい畦はこうした作業で作られる。

再び登場した子供の農夫。

先ほどと同じく平鍬を担いで、田んぼの畦周りに豆を植える穴を開けていく。

ひと回りして戻った子供の農夫に「畦塗りはこうするんや」と宮総代の指示でやり直す場面も見られたが、見物客から多大な拍手を受けたことに安堵する。

次に登場するのも子供の農夫。

二人揃って出てくる。



先ほど開けた穴に豆を植えていく。

後方の馬子はそこに灰を落とす。

息もぴったり合った二人の所作に微笑ましさを感じる。

豆は田の黒豆だと紹介される。

現実の田んぼでは畦豆を見ることが少なくなっている現在。

畦豆の在り方も含めた所作は摸擬的ではあるが、子供にとっても大人にとっても学習の場だと思った。

再び登場する馬子と牛。



農具はマンガに替って田んぼを均す。

水を張って代掻きをするように見えたがそうではなかった。

かつては牛が耕していた。

平坦では昭和30年半ば辺りから昭和40年代初め頃に順次導入されていった耕運機。

機械化が促進されて牛は田んぼから消えた。
懐かしい風景は今では見られないが農耕儀礼の中で所作される。

最後に登場したのは5人の早乙女たち。

唐櫃に載せていた苗を撒いていた田んぼの苗束。



太鼓の音に合わせて括っていた縄をほどいて一つずつ早苗を植えていく。

苗は稲苗に見立てた摸擬の松苗である。

(H25. 2.10 EOS40D撮影)

兵庫町の将軍祭

2013年05月19日 08時03分17秒 | 天理市へ
10年ほど前に学徒さんに教えてもらった天理市兵庫町の将軍祭。

兵庫町は新泉町に鎮座する大和神社の北方数百メートルにある旧村。

春祭りで名高いちゃんちゃん祭が行われる大和神社の郷中にあたる旧村である。

ちゃんちゃん祭における重要な役目を担う龍の口舞を所作するのが兵庫町だ。

兵庫町の氏神社から大和神社に向かう道。

南池を越える辺りは小字宮ノ口。

氏神さんが鎮座する地は小字牛頭を兵庫住民はコミヤサン(小宮さん)と呼んでいる。

素戔嗚尊こと須佐之男命を祀る素盞嗚神社のことであるが、かつては牛頭天王社であったと思われる。

弘化五年(1848)戌申二月吉日に建之された燈籠には「須佐之男命」が刻まれている。

願主に嘉兵衛の名があった。

境内に建つ大神宮には「天下泰平御地頭御武運長久」の刻印がある。

文政十一年(1828)子十月吉日に建之した大神宮は兵庫の地頭が寄進したようである。

兵庫町は東垣内、新建(しんたち)、西垣内、西新町、北新町の5垣内。

もともとは東垣内、新建、西垣内の旧村60戸であったが、JR桜井線長柄駅の西方に新町ができてから100戸の集落になった。

節分後の日曜日の朝。

公民館に集まった兵庫の旧村60軒の氏子のほとんどは農家組合に属している。

行事に使われる造りものを分担して作っていく。





「須佐之男命」の版木を摺ってお札を作る組、幣串を作る組、ススンボの竹で矢を作る組、ウメの木で弓を作る組、竹を編んで鬼の的を作る組、それぞれが同時並行で作っていく。



モチワラでチンマキ(チマキとも)を作る組もある。

「これが一番難しいんじゃ」と云いながら作っていく。

矢は切り込みを入れた矢羽根を挿し込んで40本も作る。

二股に編むチンマキは昨年秋に収穫したモチゴメである。

これを20本作る。

「須佐之男命」のお札はネコヤナギ(この年はカワヤナギ)の木に括りつける。

これも20本。

兵庫町の農家は20軒。



その数だというそれぞれの作りものは5月のゴールデンウイークの頃に作る苗代に花を添えて立てるという。

その場には大和神社で行われる御田植祭で所作される松苗とともに立てるそうだ。

1時間ほどで揃えた将軍祭の作りもの。



出来あがったそれらは素盞嗚神社の拝殿に供える。

村の神主役が勤めるお祓いの神事である。

拝殿に登るのは神主役と区長の二人。



氏子たちは境内で神事を見守る。



そうして神事を終えれば一同は宮ノ口辺りのゲートボール場横の田んぼに鬼の的を設える。

薦を敷いて四方に幣串を立てる。

両脇には笹を立てて中央に鬼の的を吊るす。

矢を射るのは区長の役目である。



天、地、東、西、南、北に1本ずつ矢を射る。



最後に鬼の的を目がけて矢を射る。



この年の的はなかなかぶち抜くことができない。

的に貼った紙は模造紙の厚紙。

矢が通ることなく弾かれてしまう。

何度も何度も矢を射る区長。



数回もチャレンジしてぶち抜いた鬼の的。

的に穴が開いて拍手喝さい。

村から悪霊を追い出すことができたのである。

兵庫町の年初行事である将軍祭は親しみを込めて将軍さんとも呼ばれている。

「荘厳」の呼び名もあるようだが正式名称は初魂祭(しょこんさい)である。

天理市荒蒔町の勝手神社で行われる将軍さんと呼ぶ行事がある。

当地ではトコロ、ミカン、串柿、キンカン、落花生、栗、輪切りダイコンなどを御供する行事である。

かつては松葉に牛玉宝印も供えたという行事はオコナイとも呼んでいた荘厳さんであったようだ。

兵庫町も荒蒔町も寺行事の荘厳さんが訛って将軍さんの呼び名になったのではないだろうか。

公民館を挟んで南に素盞嗚神社、北側に神護寺がある。

大和神社の神宮寺の一つに挙げられるお寺だったそうだ。

現在は融通念仏宗であるが、かつては真言宗であった。

神護寺の行事は伝わっていないが、神護寺と素盞嗚神社における神仏混合の行事であったかも知れない。

鬼打ちを終えた一同は素盞嗚神社へ戻って直会。

お神酒やスルメとクシガキ御供を下げていただく。

直会が終われば神社で祈祷したチンマキ、2本の矢、お札を括りつけたカワヤナギを持ち帰る。

一連の行事を終えれば公民館で寄りあう村の初集会に移る。

集会に配膳されるパック詰めの料理。



それ以外に大釜で炊いた粕汁もよばれる。

粕汁は頭屋の振る舞い料理である。

会食の接待もする頭屋はホンドーヤ(本頭屋)と受けトーヤ(受け頭屋)のそれぞれ二組。

夫婦揃って接待をする。

鬼打ちをされたK区長は受けトーヤでもあった。

ホンドーヤの任期は一年間で、この日が最後のお勤めである。

翌日に受けトーヤへ引き継ぐ(史料によれば前日迄に)という。

トーヤ(頭屋)はオヤトーヤ(親頭屋)とコトーヤ(子頭屋)の2軒。

兄頭屋、弟頭屋とも呼ぶ親頭屋と子頭屋である。

玄関前に分霊を祀るお仮屋を建てるちゃんちゃん祭の頭屋でもある。

頭屋家の子供が頭人児になる。

近年は生まれる子供も少なくなった。

頭屋家においてもあてがう子供はいない。

その場合は親戚筋等から借りてでも行っていると話す粕汁作りに徹するK受けトーヤ。

ダイコン、ニンジン、コンニャク、シャケ、アゲに合わせ味噌で仕立てる粕汁は酒粕をどっさり入れたそうだ。



昔はシャケ(鮭)でなくサバだったと話す粕汁は外で食べても美味しい。

トーヤの心遣いでおかわり2杯もよばれてしまうほどの美味さである。

翌日は神護寺でセチ(節会)が行われる。

そのときも粕汁を振る舞うという。

トーヤの回りは同一垣内の戸数の関係で40年に一度。

現在は新町に入居した人も村入りする。

西垣内に属する回りになるという。

3月23日に行われるちゃんちゃん祭の宮入りには煎った大豆を親頭屋・子頭屋とも二合持参して大和神社に奉納する。

それにはなぜか醤油をかけて塗しておく。

そこにトリコ(餅の取り粉)も塗すが理由は判らないと話す。

(H25. 2.10 EOS40D撮影)

明星平打ち麺と濃厚とろ塩らーめん

2013年05月18日 06時51分11秒 | あれこれインスタント
毎週火曜日はイオン大和郡山店。

玉子が安いから出かける。

以前は朝の9時だけだったが最近は14時、17時にも売られる。

そのときに目についた安売りらーめんは95円。

2種類あったので買っておいた。

たんまの休日に食べるらーめんを持ちだした。

取材先ではコンビニ店もない地域がある。

その際にはうってつけの持ち出しらーめん。

水筒に熱いお湯を入れて出かけた。

2種類のらーめんはそれぞれ2個買っておいた。

両方とも味は確かだ。

外で食べればさらに美味くなる・・であろう。

濃厚な出汁にとろとろの塩味。



これが美味いんだだな。

ネギもキャベツも大きい。

これが嬉しいらーめんの麺は平ら。

平打ち麺はもっちもち。

出汁が絡んですするらーめんにお腹がいっぱいになった。

(H25. 2. 9 SB932SH撮影)

新庄町鉾立カキユイのとんど

2013年05月17日 08時26分13秒 | 大和郡山市へ
今でもここはモンサキ(門先)と呼ぶ地であると話すK家の親父さん。

楼門のような建物があったそうだ。

そこは村へ入る門であった。

そのモンサキのすぐそばに鉾立神社が鎮座する。

東側や神社内の会所の西側はかつて濠があった。

東側に池のような濠があったが埋められた。



西側はいまでもその面影を残す景観がある。

神社の北側は小高い段丘が東西に延びる竹林。

昔はもっと細い農道であった。

そこを東に数十メートル歩けば藤原業平が覗いたとされる井戸がある大和郡山市の新庄町。

鉾立は本村から東の外れにある8軒の集落である。

その集落の東側にある街道は東西、或いは南北に通る古代の街道の中ツ道を在原(ありわら)の業平(なりひら)道と呼ばれていた。



業平が夢の中で妻が形見の衣装を着て井戸に姿を写してありし日の業平を偲んだ筋書きの謡曲「井筒」、「高安の女」。

女面を被り男装で登場する妻は井戸の水に映った姿を見て「女とも見えず男なりけり業平の面影」と懐かしんだとされる伝承の井戸は中ツ道街道にある。

現在の新庄町の鉾立は新庄本村の枝村になっているが、元禄時代までは逆に鉾立が本村で新庄が枝村であった。

主客転倒した時代は判らないが本村と枝村が逆転した特異な事例であるそうだ。

鉾立に鎮座する神社は鉾立神社。



本殿屋根に「鉾」の文様がある。

鳥居から砂の道を敷いていた大晦日

その痕跡がまだ残っているとんどの日は村の行事のカキユイ。

垣根を仕替えるからそう呼ぶカキユイの日である。

かつて集落では門屋や玄関に掛けていた注連縄は簾型であった。

K長老の話によれば「ゾウガイ」と呼んでいた。

いつしか止めたゾウガイはうん十年も前のこと。

当時は神社や鳥居にも掛けていたと云う。

カキユイの日には境内でとんどを燃やす。

かつては2月2日にしていたと云うとんどは村外れの南側がとんど場であった。

今では神社境内で行っている。

50mほど離れた地が旧社地。



往古の印しに「鉾立大明神」の石塔を建てている。

とんどの前には作業がある。

社務所の屋根瓦が大風に吹かれて落下した。



屋根に登って修復作業をしてから神社の裏に生えている朽ちた竹を伐採してはとんどで燃やす。



正月を飾った神社の注連縄を外してとんどで燃やす。

半日仕事をするのは当屋をはじめとして鉾立八軒の人たち。



伐採する、運ぶ、燃やすの繰り返しの3時間である。

とんどの火点けはアキの方角(今年は南南東)。



当屋が火を点けた。

伐採とんどの間に持ってきた御供を鉾立三社に供える当屋の母親。



「みんながいてるから猫もやってこない時間帯を考えてしています」と云う。

午前中いっぱいかけてカキユイのとんどを終えた8軒の人たち。

当屋が決めた時間に再び寄り会う。

その場はサンヨ(算用)。

神社行事の費用を立て替えていた当屋の精算である。

収支金額が一致しなければならない。

算用を終えてほっとするらしい。

勤めを果たした人たちは当屋家での会食に移る。

現在の会食は市内にある樽常の仕出し料理。

かつては当屋が料理をまかないした。

すき焼きなども食べていた算用の会食は派手になったことから改正したそうだ。

かつてのカキユイは神社周りの垣根作り。

伐採した竹で組んだ。

倒れないように編んだ荒藁を垣根に巻いて掛けていた。

垣根周りをぐるりと掛けていたと云うのは竹林の端周りだそうだ。

伐採する竹はイネザオにもしたと云う。

カキユイを漢字で書けば「垣結い」。



今ではそのようなことはしなくなったと話すこの日のとんど。

以前は杭を打ってとんどを組んでいた。

カキユイと同様に倒れないように荒縄で縛った。

子供は習字の書を燃やしてから学校に出かけたそうだ。

長老の話によれば同市の発志院町に住むO家ではカキユイをしていたという。

ほっこりとした時間を過ごした鉾立には2月に伊勢講をしていると云う。

新庄本村は3軒で、鉾立は4軒の営み。

かつての伊勢講はもっと多く何軒もあったそうだ。

カキナマスの送り膳をよばれに着物を着て行った。

とんどが終わってから夕方まで講中の家にいたという。

(H25. 2. 9 EOS40D撮影)

帯解寺厄除節分星祭

2013年05月16日 06時47分32秒 | 奈良市へ
正月明けのころから開運厄除けを願う人たちが祈りを捧げて届ける帯解寺の星祭(ほしまつり)。

「人は生まれたその年に気を享けて誕生した。その年に当たる宇宙の星を供養して一年の無事息災を祈る」という星祭である。

安産や求子祈願として名高い奈良市今市町の帯解寺(華厳宗)に願掛けの申し込みをする人は数多い。

この日は2月3日。

多彩な節分行事が行われている県内各地の寺社仏閣では鬼追いの追儺会、護摩供養、福豆撒きなどさまざまだ。

願掛けした人の名を詠みあげるには相当な時間がかかる。

一人であげれば一夜もかかる。

この年は住職を含めて六人の僧侶が営む星祭。



本尊地蔵菩薩の前に掲げたのが星曼荼羅図である。

掛軸下にある三本の幡は本名、真言密教、弘法大師だそうだ。

星曼荼羅図は宿曜経に基づく文殊菩薩。

宇宙の影響を受けている人間たち。

節分の晩に供養をすれば御利益があると云う。

宇宙に存在する星は生まれたときにいずれかの星にあたる生涯星は羅喉(らごう)星。

その年にあたる当年星(とうねんぼし)は厄星である。

「仏さんがここに来てはる」と住職の話に頷く。



入堂着座、酒水奠供の四智梵語、表白、金剛界唱礼、不動ノ讃の前讃、理趣経、仏讃の後讃を経て星供の法要は申し込みをされた名をそれぞれの僧侶が詠みあげる。

僧侶一人で100人。

この年は600人もの厄除けを申し込みされた人たちがお堂に上がることは不可能なこと。

参拝は遠慮してもらっているがお札を受けたいと希望する人もいる。

星供札開眼作法の真言、回向を経て出堂されることおよそ3時間の厄除け法要であった。

ありがたくいただいた開運招福の福豆はとても美味かった。

(H25. 2. 3 EOS40D撮影)

脇本の二月朔座

2013年05月15日 06時50分39秒 | 桜井市へ
5年ぶりに訪れた桜井市脇本の二月朔座。

当時は座の儀式の途中で場を離れる私的な事情があった。

いつかは見届けたいと思っていた。

たまたま訪れた脇本の区長家。

家の前を通り過ぎる総代にであった。

この日は宮座の8人が頭屋家に招かれて会食をされることから歩いていた総代さん。

今年の頭屋家の座式は狭いことから遠慮しようと思っていた矢先に出合った区長。

三重県から座行事の食事の在り方を拝見したいと申し出があって待ち合わせをしていると話す。

帰ろうと思っていたが区長のひと声。

「一緒に行こう」である。

千載一遇、合い乗りの取材は急なお願い。

頭屋家はこれまでにも脇本の行事取材で存じていたS氏であった。

ありがたく承諾を受けての緊急取材である。

頭屋家主人の息子が勤める頭人(ト-ニン)が天秤棒で担ぐ餅桶は平成10年12月に当時の一老が寄進された祭り道具。

神職、一老とともに春日神社に向かう。



二段重ねの鏡餅を供えて神事が行われる。

次に訪れたのはイワクラさんと弁天さん。

かつて弁天さんは奥の谷間にあった。

歩行することが困難な地であったことから社をイワクラさんの地に移した。

イワクラさんはその名の通りの岩蔵(座)である。

ふと見上げれば崖面に掘られたイワクラさんが見える。

三社の巡拝を終えて戻ってきた頭屋家。

平成元年12月に新調された幕を張る。

寄進した一老や頭屋中の名がある。

鏡餅やコモチを火で炙って表面に焦げ目をつけるのは手伝いさんの役目。

頭屋家の親戚筋にあたる人だ。

手伝いの男性は都祁吐山のN氏。

昨年に亡くなられた社守の跡目を継いだと云う社守さんだった。

4月に行われる恵比須神社の春祭りである御田子行事において「伊勢の山の御田打つ男 しがらみのかさきて 植えようじょ 植えようじょ」と高らかに謡うオンダの台詞を口上しなければならないと話す。

焦げ目が出来あがれば頭屋家での神事が始まる。



神棚に設えた分霊には太い注連縄が掛けられている。

昨年の10月に頭屋受けをされて宮遷しした頭屋家の神さんである。

神棚には米寿祝いの名札もある。

この日は地区の長寿を祝う場でもある。

神事を終えて入室を許していただき座敷に上がらせてもらった。

座の席は決まっている。

中央に区長が座って、左右に神職と一老である。

頭屋衆の席は座受けした順に交互に座って下座に頭人(トーニン)が着く。

座の膳はパック詰め料理があるが、初めに配られるのは神饌御供した二段重ねの鏡餅である。

先ほど焦げ目をつけたばかりの鏡餅である。



次に配るのが雑煮である。

豆腐、サトイモ、ダイコンを入れた雑煮は白味噌仕立て。

焦げ目をつけたコモチも入れた雑煮である。



脇本の頭屋中における座料理はお正月。

二月も正月としている座中料理の雑煮のモチは一旦、椀から取り出す。

皿に盛ったキナコに塗すのである。



テレビ放映された「ケンミンショー」で馴染みのある雑煮モチの食べ方だ。

マメ挽き器で挽いたアオマメはキナコにした。

僅かに豆の香りが漂うキナコをつけてそのまま食べる人もあれば再び雑煮椀に浸けて食べる人もいる。

作法に決まりはないらしい。

座中がよばれる雑煮は鏡餅とともに神棚にも供えた。

神さんにも食べてもらうのである。

お神酒を座中に注ぎ回る頭屋さん。

息子の頭人は会食するが頭屋は接待役に徹する。

しばらくすれば大皿に盛ったゴボウを座中に配膳する頭屋。



ハリハリと呼ぶアオノリを振り掛けた太めのゴボウである。

配膳といっても食べる皿ではない。

二段重ねの鏡餅に載せるのだ。

これを一献の儀式だと云う。

パック詰め料理でお酒をいただく座の場は会話が弾む。

お酒をなんども注ぐ頭屋と手伝い。

40分も経過した時間帯になれば、酔い加減に合わせて二献の儀の厚めのコンニャクを配膳する。



これも鏡餅に載せるのである。

かつてのコンニャクは包丁で切れ目を入れてぐにゃっと撚りして巻いたと話す座中。

「それは女器や」と云う。

頭屋も手伝いも一切口にすることなく何度も何度もお酒を注ぎ回って歓談の場を奨める。

それから30分後に差し出された三献の儀はカズノコ。



鏡餅に三つの献立を盛ったのである。

「これで判ったやろう。ゴボウは男、コンニャクは女、カズノコはたくさんの子供ということだ」と口々に話す座中。

まさに座中の子孫繁栄を願った三献の献立であった。

昔はゴボウにクズ(葛)塗していたそうだが今はアオノリ。

食べやすくしたようだ。

座中の繁栄を願った料理のゴボウは婦人たちが食べていたと笑顔で話す。

以前の座では三献の料理だけで酒を飲んでいたそうだが現在はパック詰め料理が酒の肴である。

座の宴もたけなわ。

始まってから2時間後のことだ。

お銚子をたくさん運ぶ頭屋。

区長がもつ椀に並々と注ぐお酒。

そうして始まった謡いの高砂である。

謡いは総代だ。

一時廃れていた謡いを復活させたいと数年前から習ったと云う。

区長、神職、一老への順に回されて椀の酒を飲む。

その都度注ぎ足されるお銚子の酒は毎回溢れるほどの満杯の酒である。

座受けした順に座る座中へ注ぐ酒の回し飲みに際した謡いは鶴亀から猩猩(しょうじょう)に移っていった。



座中の一人は椀の酒を底まで飲みほして拍手喝さい。

高砂は目出度い謡い。

鶴亀は棟上げや増築の際に謡われる。

猩猩は酔いの謡い。

飲んでも、飲んでも、さらに飲むのだと総代が語る。

最後に頭人も飲んで千秋楽で終えた二月の朔座の座儀は、本来ならこの場で次の頭屋決めをする神籤があった。

数年前からは辞退する家が多くなったことから籤を引くどころか、頼みの頭屋となった。

当時はホラ貝を吹いて町内を巡り、クジ引きする合図に吹き回ったそうだ。



そのホラ貝は鉄輪の器とともに座中箱に残されている。

鉄輪の器(直径15cm・高さ8cm)は秋祭りに供えていた御供のハチマキメシ作りに用いる道具。



オコワを蒸した米飯をこれに詰め込んだ。

ムシメシとも呼んでいたハチマキメシの周囲には稲藁を三重に巻いていたというのは10年も前のことだ。

二月を旧の正月として捉えていた脇本の二月朔座(ついたちざ)はこうして終えて散会した。

三献された鏡餅はと言えば食べずに座中が持ち帰るのであった。

脇本が正月に飾る神社の大注連縄はかつて旧の正月七日であったそうだ。

「それでは年越し、初詣に参っても注連縄がない」と村人から意見がでて年末になったと云う。

ちなみに祭りの宮送りの際に唄う伊勢音頭は「送りの唄」である。

(H25. 2. 3 EOS40D撮影)

豊浦町のとんど

2013年05月14日 07時37分29秒 | 大和郡山市へ
大和郡山市豊浦町のとんどはかつて2月1日であったが今は第一日曜日に移った。

村の人たちが集まりやすい日に替えたとんどの日。

市内では二ノ正月にとんどをしている地域が多い。

1月31日夕刻から2月1日の朝にかけて行われるとんどの日である。

2月2日に行われる番条町井戸野町、美濃庄町や4日の白土町の事例もあるが、柏木町筒井町は1日だ。

豊浦町もかつてはそうであったのだ。

西、東地区の本当家と相当家が前週の日曜に組み立てたとんどを燃やす豊浦町のとんど。

陽が昇る直前の朝7時に村の人らが注連飾りを持ってきたとんどの場は畑道。

村人総出のような感がある豊浦町のとんどは子供も大勢やってくる。



とんどに火を点ける方角は恵方(今年は南南東)である。

藁に火を点けてとんど周りに点け回る。

その頃丁度、東に連なる山々から昇りだしたお日さん。

朝焼けが美しく田んぼを染める。

大とんどの傍らでは藁を燃やしている。



服忌の小とんどと思って、最後のマツリ当家を勤めたⅠさんに尋ねた結果はそうではなかった。

正月を飾る注連飾りは玄関、門屋、裏戸、蔵、耕運機など20カ所。

そのなかにはトイレもあると云う。

トイレに掛けた注連飾りは不浄のもの。

そういう意味がある不浄の注連縄はこうして大とんどで燃やすことなく脇の小とんどで燃やすのである。

地域によっては意味合いや考え方が異なることをしった豊浦町の小とんどであった。

とんどの火が衰えない最中に動き出した子供たち。

持ってきた書き初めの習字を笹竹の先に付けてとんどの上に翳す。



熱いから翳すのは大人だ。

火に煽られて直ちに上空へ飛んでいく書。



以前に拝見した矢田町や山添村では翳したとたんに書が燃えていったが豊浦町では焼けずに飛んでいく。

何枚も何枚も飛んでいくのはどうしてだろうか。

とんどの焼ける温度が違うのであろう。

それとも翳す位置が違うのであろうか。



大人から子供に移った書のとんど焼き。

いずれも焼けずに空中を飛んでいく書を求めて追いかけまわる子供たち。



実に楽しそうに行われた豊浦町のとんどであった。

豊浦町八幡神社の行事は正月の注連縄掛けになった。

市内では珍しい建物家型のお仮屋を造って分霊を遷しましをしていたが平成17年を最後にすべての行事を止められた。

「あのときの行事写真を見ていたら涙がでてくる」と当時の当家を勤めたYさんが話す。

その様相は平成23年に県立民俗博物館で催された「私がとらえた大和の民俗」で紹介させていただいたのである。

かつては氏神さんから砂の道を敷いていた。

神さんが通る道だと云う砂の道は家の玄関まで伸ばしていたと云う。

そんな話をしたYさんは下市の広橋では山の神があると云う。

(H25. 2. 3 EOS40D撮影)

三谷のカンジョ

2013年05月13日 07時44分06秒 | 桜井市へ
この日に通過していた桜井市の三谷。

朝10時ころであった。

北白木の二月当屋の取材があっただけに停まることはできないが十数人の村人が菅原神社辺りにおられた。

声を掛ける時間がなく素通り。

それから2時間後。

気がかりになった三谷は戻り道。

ひと影は見られない。

気になった神社下の田んぼに下りてみれば、すでにカンジョ縄が掛けられていた。

どうやらこの日の午前中に縄が掛けられたようだ。

昨年は2月11日にされたと聞いていたが一週間早めたのであろうか。

三谷のカンジョ掛けは神縄掛祭と呼ぶそうだ。

(H25. 2. 2 EOS40D撮影)

北白木高オカミ神社二月当屋

2013年05月12日 07時59分39秒 | 桜井市へ
桜井市山間の北白木に鎮座する高龗(オカミ)神社。

祭祀を勤めるのは座の六人衆。

長老は太夫とも呼ばれる一老だ。

この日の行事は二月当屋である。

かつては当屋の家で行われていた。

朝の4時半に家を出てでかけた大阪の鶴橋。

長谷寺まで歩いていって、そこからは近鉄電車だ。

鶴橋市場に行って買った生サバは魚の汁が零れないようにブリキ函に入れた。

二人の当屋が風呂敷に包んで背中にかたげて持ち帰ったと話す長老たち。

生サバは湯がいてザルで水切りした。

醤油で煮込んで味付けしたサバは当屋家のご馳走。

鰻や茶わん蒸しにすき焼き、焼き肉料理でもてなす家は区長だった。

ごっつおと呼ばれる料理にはアゲサンもあった。

朝、昼、晩の食事膳は施主である当屋の接待。

何十年も前のことだという当屋の座はいたれりつくせりで「白木のくいだおれや」と隣村の子供たちが云っていたそうだ。

今では当屋の営みではなく神社での行事となったがやってくるのは六人衆と施主の当屋である。

この日に手伝う当屋は昨年の11月10日に行われたオトサシ(私祭)で受け当屋に引き継がれたものだと思っていた。

実はそうではなかった。

北白木の当屋は3年間も勤めるのである。

オトサシで受け当屋に引き継いだのは北白木の神さんであったのだ。

「3年間も当屋を勤めるのは北白木だけだろう」と話すが県内事例ではミナライ、本トーヤ、アトトーヤと呼称を替えてそれぞれの年中行事を役目する処も数多くみられる。

北白木の当屋は翌年の1月下旬に行われる名付けでようやく終える。

その座で当屋がよばれるメシがある。

それを「オイダシメシ」と呼ぶそうだ。

二月当屋のお供えは2種類ある。



一つはセンベイモチと呼ばれる平べったい12枚のモチを重ねた御供。

もう一つの2種類のオシゴクは11月9日に行われた宵宮座のお供えと同じオシゴクである。

モチは前日に当屋が搗いたそうだ。

一升枡に新米のご飯を詰め込んで作る。

一つは枡の形そのもので真四角。

多く盛らずに平な形のオシゴクは笹の葉を敷いた膳に置く。

周りに盛った2枚の皿がある。

一つはゴンボ(ゴボウ)にトーフを添える。

もう一つはサンショの実である。

サンショの皿にはヤキジオ(焼き塩)も盛る。

太いカシの木の箸を添えて本殿に供える。

末社に供えるオシゴクの形は本社とは異なり三角形である。

同じようにご飯を詰める一升枡。

縁に寄せて蓋で押す。

三辺三方の三角型のオシゴクは特殊な形である。



手を合わせるわけでもなく社務所で時間稼ぎ。

十数分後には御供を下げて直会が始まる。



注文しておいたパック詰め料理を席に配る。

二月当屋の座にはアオマメのクルミモチもある。



ゴマメとも呼ぶアオマメは石臼ですり潰していた。

数個ずつ口に入れて挽いていた。

時間がかかったクルミ作り。

今ではミキサーで一気に作ってしまうと話す。

できあがったクルミはシロモチを包みこむようにしてできあがる。



それを肴にお神酒をいただく座中。

クルミの味は香りが良い。

甘さが欲しいから食べたい量だけの砂糖を塗していただく。

かつてはクルミモチでなくゴボウにクルミを掛けて供えていた。

ゴボウの長さは20cm程度。

そこにクルミを掛けるのであった。

チョウソーセージのゴボウとも呼ばれるクルミは「ヌタ」と呼んでいたが、話の内容からその形状は田原本町多観音堂で供えていた「ボダイボダイ」と呼ばれる牛蒡喰い行事の様相と同じようである。

今では供えることをしなくなった天理市藤井町の鬼打ちのお供えも同じであった。

クルミのゴボウは村の人たちが重箱に詰め込んで持ち帰った。

行列ができるほどの人だかり。

それだけにたくさんのクルミのゴボウを作ったと話す。

ちなみに前述した醤油で煮込んだサバは二月当屋座を終えれば1軒、1軒に配ったそうだ。

当時は30戸もあった北白木。

配るだけでも時間がかかったことを覚えていると長老は話す。



ニューメンの汁椀もよばれる直会の場。

しばらくの歓談を終えて供えたセンベイモチも配られる。



一人二枚ずつのセンベイモチは六人衆に持って帰ってもらう。

(H25. 2. 2 EOS40D撮影)