マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

柏木町のアズキガユ御供

2013年05月11日 09時22分22秒 | 大和郡山市へ
役員のO氏はとんどに来る前はビワの葉にアズキガユを供えてきたと云う。

供える場は家の門屋前。

両脇に置いたビワの葉にアズキガユを乗せる。

こうして供えたと云うアズキガユには千切ったモチもある。

ご主人の話しによれば奥さんがされたそうだ。

この年の穢れを祓う意味があるアズキガユの御供。

柏木町の「町内では何軒かがしてはった」と話す。

村の三役の話しによれば他にも数軒でやっているかも知れないと云う。

アズキガユはビワの葉に乗せる。

かつてはとんどの火を貰って帰ってアズキガユを炊いた。

ビワの葉は薬になるからと云って皿にして盛った。



十日ほど前に出かけた五條市の上之町金光寺の檀家総代家もビワの葉にアズキガユを供えると話していた。

数年前に聞いた高取町佐田ではツバキの葉を皿にしていると話していたがいずれも実態を見たことがなかった。

家の風習であるだけにその存在を拝見したことに感動したのであった。

(H25. 2. 1 EOS40D撮影)

柏木町のとんど

2013年05月10日 08時30分16秒 | 大和郡山市へ
穏やかな朝を迎えた大和郡山市の柏木町。

霜が降りた田んぼに野の鳥たちが騒ぎだす。

天空を舞いあがるヒバリがピーチク、ピーチクと羽ばたきながら降りようともしない。

ずんぐりむっくり栄養満点のツグミは地面をキョロキョロ。

いずれも獲物を求める姿に春近し。

素盞嗚神社東側の田んぼの空き地に設えたとんどは大きい。

高さが5mで直径も5mぐらいであろうか。

朝日が昇りだして田んぼの降り霜も光っている。

夜明け前の西の空にはまだ月が残っている。

しばらくすれば朝日が昇りだす。

田んぼに設えたとんど辺りに朝霞がたちこめる。



気持ちの良い朝を迎えた。

竹を組んだ中心部の土台は神社境内にあった樹木を伐採した木材だ。

護摩壇のように組んだと話す。

例年は竹、笹、藁束であったが今年は特別だと云う。

倒れないように割った竹で周囲を縛ったとんどは前月の27日に設えた村の三役。

以前はもっと大きいとんどであったと云う。

かつてのとんど場は神社下の四ツ辻であった。

「今から思えばえらい処でしていたものだ」と思い出される。

柏木町のとんどは昔も今も2月1日。

二ノ正月のとんどは朝7時に火点けをしていた。

子供が学校に行く前にいち早く点けていたが、今では1時間遅れの8時になった。

かつては子供が各家を巡ってとんどのシバを分けて貰っていた。

シバは藁束や竹だったそうだ。



とんど組みをするのも火を点けるのも村役。

柏木町のとんどは自治会運営で行われている。

他所のような人だかりもなく淡々とされた火点け。

今年の恵方の南南東から点けていく。

風もない穏やかなこの日も天空めがけて火が一直線のように昇っていく。



朝の冷気がとんど周りを白く染める。

昔は学校に出かける子供が「早よせー」と云うて大人を急かしたそうだが一人も現れない。

子供の頃には竹に挿してモチを焼いていたと話す役員たち。

竹の先に書き初めの習字の書をつけて燃やしていたそうだ。



服忌の家は宮さんに参ることはできない。

とんどにおいても来ることはできないと話す。

昨年のとんどは宮さんにあった太鼓台を燃やした。

昭和10年に村の婦人たち4人が寄進した太鼓台は担ぐことは一度もなかった。

マツリには境内に置いたが子供らは太鼓を打たなかった。

当時も今も変わらず10数軒の旧村集落。

村の人数は増えなかった。

新町住居は増えたものの、今後も担ぐことはないだろうと無用の太鼓台は宮司にお祓いをして貰って燃やしたと話す。

(H25. 2. 1 EOS40D撮影)

小南町二ノ正月の大とんど

2013年05月09日 06時51分14秒 | 大和郡山市へ
午後4時には火を点けたという小南町の大とんど。

場所はと言えば小南神社の境内である。

昼過ぎまでにとんどを設えた旧宮座名残の六人衆。

とんどといえども村の行事で小南神社の座衆が勤める。

とんどの炎が高く揚がったというこの日は風もない無風の状況。

いくらなんでも境内の樹木に火が移ってはならないと水道の水を掛けたくらいの良き日だが、それ以上に高い木々である。

宮さんのオヒカリから移した火は二ノ正月の大とんどを燃やす。

毎月当番する六人衆は1日、15日ごとに清掃をする。

16日から31日と1日から15日に当たる当番の六人衆である。

この日は31日。

当該の日にあたった六人衆の一人がとんどの火を点ける役目になるが火を点ける方角は特にないと云う。

服忌であれば宮さんは参ることもできない。

一年間も参詣することはできないと云う。

とんどの火が落ち着けばモチを焼く。

とんどの周りを囲むように設えためいめいの家のモチ焼き器。

数えてみれば16カ所もある。

まるでストーンサークルのような輪になった。

焼いたモチを食べれば健康になるという。

無病息災のモチである。

かつては習字の書も燃やしたそうだ。

「子供の頃は竹の先にモチをつけて焼いていた」と話す。

随分と様相は変化したが家で祀っていたお札も焼納する人もいた。

(H25. 1.31 EOS40D撮影)

矢田町垣内西のとんど

2013年05月08日 06時51分20秒 | 大和郡山市へ
旧正月のとんど、或いは二ノ正月のとんどと云って1月31日から2月初めにかけて行われる地域がある。

1月15日のとんどは小正月のとんど。

前日の14日の夕刻から翌日の15日の朝にかけて行われる地域は数多い。

2月を二回目の正月としてとらえた二ノ正月。

前日の1月31日の夕刻から翌日の2月1日の朝にかけて行われるとんど日である。

大和郡山市城町の東城(ひがしんじょ)の主水山(もんどやま)はかつて1月31日であったが、現在は正月の新年会後の日曜日になった。

城町の西城(にしんじょ)も同じようである。

小林町ではかつて2月1日のニノ正月であったが第二日曜に移った。

今日においても1月31日にとんどをしているのは4か所。

小南町、丹後庄町、額田部町に矢田町である。

31日に行っている矢田町の地区。

横山地区は9日にしていたが現在は中断している。

垣内地区で行われるとんどは2か所。

垣内地区の垣内と西の垣内西である。

ほぼ同一時間帯で行われる。

垣内西は度々にわたってアライグマが出没するそうだ。

カチ、カチの音をだすからすぐに判るらしい。

圃場付近に集まってきた9軒の村の人たちは始めに竹組みをする。

近場で刈り取ってきた竹である。

中心部を組んで回りに葉付きの笹竹や藁束を埋めていく。

内部には大量のマメガラを入れたと話す。

「マメガラはよく燃えるから入れた」と云う。

正月を飾った家々の〆飾りも据える。

とんどの火点けの時間は決まっていない。

とんどを組み終えて村人が揃ってからだ。

火を点ける方角はアキの方向。

この年は南南東である。

アキの方角は一般的に恵方と呼ばれているが稀にアキの方角という地域がある。

アキの方角は歳徳神が在しているとされる方角。

村に福徳を呼び込むというありがたい方角である。

かつては日が暮れてから火点けをしていたが現在は午後の3時前後。



火のついた藁束を持ってとんどに火点けをするのは村の長老のAさん。今でも現役の農業を営む。

ぐるりととんど周りに火を移していく。

またたくまに火は広がって炎が昇っていく。



この日は無風状態。

天に向かってまっすぐに燃え上がる炎になった。

ポーン、ポーンと爆ぜる竹の音が周囲にこだまする。

燃え盛るとんどの火は熱い。

避けるように後方へと後ずさり。

5分も過ぎれば火の勢いも落ちてくる。

とんどの火が落ち着けば書き初めの書を竹に挿して火に翳す。

落ちたと云っても熱気は変わらずである。



字が上手になるという風習に孫が書いたという書を翳せばあっという間に天へ昇っていく。

下火になってきたとんど。



頃あいを見計らって持ち出した餅焼きの網。

以前は先を尖がらした竹に挿してモチを焼いていた。

焼けたとんどの火は家に持ち帰って竃の火に移した。

その火で夜に炊くのはアズキガユ。

翌朝はその火で雑煮を作った。

これを二ノ正月の雑煮と呼んでいた。

海老入りのドヤモチやコモチを焼く。

ドヤモチと呼ばれるモチはコゴメとモチ米が半々で搗いた。

とんどで焼いたモチを食べれば歯が痛くならないと云う。

この日もお世話になったN氏。

かつて奥吉野の民俗探訪で保仙先生とともに旅した人だ。

今年の惣谷狂言や篠原踊りも先生らと出かけたと云う。

著書にも掲載した両行事を存じているご仁。

惣谷狂言で飾られるモチバナの木はヤナギでなくてホウノキ(朴の木)が正しかったと話してくださる。

本来はホウノキであるが植生が少なくなって代用にヤナギの木を使っていたようだ。

牛に纏わる話題もしてくださる。

牛の縄は藁で編んだ。

牛の道具の縄は鞍からきているという。

紺色の縄というのは綿か麻である。

それはオイナワと呼ぶ縄で「ちゃいちゃい」と引っ張れば後退したそうだ。

ハナギ(鼻木)はハナガイ(鼻繋)とも呼ばれるタヅナ(手綱)だそうだ。
(H25. 1.31 EOS40D撮影)

下市の寒行を尋ねて

2013年05月07日 08時34分42秒 | 下市町へ
旧大塔村から下って下市へと向かう。

収穫を終えた柿の山々をぬうように施設された道路。

遠くに見える金剛山山麓が美しい。

山間を下れば町中。

下市町を貫くメインロード。

信号待ちをしていたときに気がついた提灯は初市の文字がある。

本町通りに鎮座する蛭子(ひるこ)神社の初市は2月12日。

2週間も前から灯している提灯だが人影は見当たらない。

目的地はここではない。

ここら辺りだと思うのだが東側へ向かう道がどうも判らない。

曲がってみればなんとかなるだろうと思ってハンドルを右に切った。

細い道なりに東へ向かれば墓地があった。

広大な墓地を通過すればメインロードに出てきた。

ぐるりと一周してきたのである。

その間に出合う人は誰もいない。

仕方なく戻った墓地を通過した。

畑地を整備されている男性なら判るかもと思って尋ねてみたセンギョの件。

アズキメシとかアゲサンを存じていたらと思って伝えた答えは・・・。

先週のことだと話すKさん。

草むらの上にあったという。

新聞紙の上にあったアズキメシは俵型だったそうだ。

三角のアブラゲもあったと話す。

その後の状態。

毎日に見ているわけにはいかない。

気がつけばなくなっていたという。

Kさんが語ったその場所で見つけた5年も昔の正月前。

コンクリートの間に何かが挟まっていると思って取り上げたら祝儀袋が2枚。

何なのか判らないから開けてみればうん万円のお札。

それぞれに入っていたという。

落とされた人が見かければと思って連絡先の電話番号を書いた手紙を張っていた。

1か月間も待ったが変化はなかった。

このままにしておくわけにはいかないと考えて最寄りの警察署に届けたという。

Kさんが示した場所には祠もない草むらである。

もしかとすればここから北にある地区と想定されたセンギョの行い。

センギョはキツネや山の獣に施す習わし。

ぐるりと地区を周回して供える場の一つに違いない。

その場を知るのは施行をしていた人でなければ判らない場所である。

Kさんが発見したその場所の先向こうは下市病院。

もしかとすれば願掛けをしていたのではないだろうか。

通るたびに病いが治るようにと手を合わせていた。

願いが叶ってお礼に捧げた祝儀袋と考えた。

であれば該当の地区の人に行き当たるが願掛けが叶っても取りには来ない。

そんな推定をしてみたセンギョ(施行)の場。

すべての謎が解けたと喜ぶKさんは本通りの大峯町住民。

県立民俗博物館に頼まれて家にあった木製の看板や杓子を展示協力したことがあるという。

現在は新建材店を生業にしているがかつては神社手水鉢の杓子を仕入れて販売していた。

大塔の繰り抜き杓子も売っていた。

ときには輪島塗の杓子も販売していたという。

天川村の洞川が仕入れ地だった。

大峯町と所縁のある洞川の地には金峯山寺蔵王堂がある。

戦前のときに蔵王堂の柱を寄進した先代。

戦後に寺を尋ねたが柱の件は判らず仕舞い。

立ち話に盛りあがったその場を離れて丘向こうの地に向かった。

新興住宅地を抜けて旧道へ。

いつしか阿知賀の原野。尋ねた地はそこではない。

それほど遠くない距離の間にある桧皮蔵がそこにあった。

桧皮蔵と書いて「ひざわ」と呼ぶが、Kさんは「ひわだ」と呼んでいた桧皮蔵は材木商が多かったという。

桧皮は「ひわだ」。

それが「ひざわ」に訛ったのかも知れない。

桧皮の蔵であったのかも知れない地域だ。

木材に密接した下市の本通りには吉野杉材の箸作りで名高い。

平成17年には杉箸神社で行われた箸祭りを取材した地もここにある。

祠社の傍にあった伝言板で判った桧皮蔵地区であるが付近を歩く人はいない。

たまたま外出されようとした人に聞いた区長さん。

今年もしていたというセンギョは寒行(かんぎょう)と呼ぶ地区の行事。

18、9人の人たちが山の里道(りどう)やケモノ道を歩いて供える三角オニギリのセキハンとアブラゲ。

新聞紙を敷いてそこに置くという話はKさんが見たものと同じであった。

自治会組織が行っている寒行は大寒の日の夜に巡る場所は20カ所。

かつては提灯で照らして巡っていたが今は懐中電灯。

セキハンとアブラゲはコジュウタに入れて持ち歩く。

およそ1時間もかかるという。

「カンギョ カンギョ」と唱和して巡るが囃す人は多くない。

年寄りは「センギョ センギョ」と云っていたというから寒の施行である。

(H25. 1.27 SB932SH撮影)

旧大塔村阪本の狐の施行

2013年05月06日 07時46分32秒 | 五條市へ
かつては晩に巡っていた阪本の狐の施行。

子供会が主催する村の行事は灯りが要る。

提灯で足元を照らして歩いていく。

提灯は長年に亘って使ってきた。

風合いを偲ばせる色具合である。

当時に集まっていた子供の人数分がある。

それには「いちごう」の文字がある。

「いちごう」は十津川郷の北端を示す「一郷」だ。

阪本は現在の行政区域でいえば五條市大塔阪本町。

平成17年の市町村合併によって旧大塔村と旧西吉野村は五條市に編入された。

五條市内から旧西吉野村を経て新天辻トンネルを下れば旧大塔村の阪本に入る。

その途中の天辻下辺りから阪本、簾、中原、小代は一郷組と呼ばれている。

現在は旧大塔村より南は十津川村を指すが、平安・鎌倉年代では十津川上流の地域を遠津川郷と呼んでいた。

遠津川郷はのちに十津川十八郷。

さらに最上流になる十二村荘と舟ノ川荘が加わった。

現在の野迫川村領域を含む区域である。

十二村荘は今西(北今西)、平、弓手原、桧股(檜股)、北俣(北股)、立利(立里)、池津川、紫園、中津川、上、中、柞原、今井、平川、天ノ川辻、中原、猿谷、簾、阪本、小代、殿野、辻堂、堂平、飛養曽、清水、引土、宇井、閉君、唐笠である。

十二村荘はさらに区分けされて旧大塔村の天ノ川辻、阪本、簾、中原、小代、猿谷が一郷組、さらに南下した唐笠、殿野、辻堂、堂平、飛養曽、閉君、引土、宇井、清水は野長瀬(のながせ)組となった。

東側に位置する中峯、中井傍示、惣谷、篠原は舟ノ川荘の括りであった。

荘村は今でも一郷、野長瀬郷、舟ノ郷と呼んでいると阪本住民のⅠ氏が話す。



運航する送迎バスの経路は今でも郷名で表示し、阪本の消防団建物には「一郷地区」で表記されている。

十津川村からみれば「一郷」は十津川上流の天ノ川へと遡る最奥の地であった。

「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ いちばのせんぎょ」と囃しながら公民館を出発した子供たちは中学2年生の男の子を先頭に歩きだした。

この年に集まった子供たちは6人。

かつては阪本の市場、索道(さくどう)、向井(むかい)阪本の3地区ごとの子供たちが行っていた。

当時は大勢の子供がそれぞれの地区で行っていたと云う阪本の狐の施行である。

その昔は宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)の合同地区もしていた。

「施行」はそのまま読めば「せぎょう」であるが囃し詞は訛って「せんぎょ」である。

「せんぎょ」はキツネなどの山の獣に施す習わし。

地区を周回して施す御供を置いて巡る。

獣が食べる食物が少なくなる季節。

大寒のころに行われる寒施行は県内各地であったようだ。

寒施行は「かんせぎょう」或いは「かんせんぎょ」と呼ばれることが多かった。

いつしか廃れていった地域は少なくない。

平成19年に実施されたときは夜間の施行であった。

ローソクを灯して集落を巡っていたが、その後は昼間になった。

かつてはそれぞれの地区の子供たち。

村の子供が少なくなってからは子供会主催で一同が揃っての村行事。

この年は中学2年生の男の子に小学4年生、2年生に幼稚園の子たち6人。

宇井の崩落で住まいを仮設住宅に移した子供は参加したが、五條市内に移住を余儀なくされて今年が最後。

中学2年生の男の子も役目を終えて同様に今年が最後。

僅か3人になってしまう阪本の施行は今年が最後になるかも知れないと子供会の会長は話す。

これまで何度も危機感が迫っていた阪本の行事は毎年のように中止になるかもといいながら続けてきた。

そうした状況下にある施行をご自身のブログで案内されたⅠ氏も同行する緊急取材である。



「せーんぎょ せんぎょ 狐のせんぎょ せーんぎょ せんぎょ お稲荷さんも置いてある せーんぎょ せんぎょ 市場のせんぎょ」の音頭をとるのは中学生だ。

路面は積もった雪も除雪されて走行可能だが両サイドは三日前に降った雪が残っている。

それより数日前に降った雪はドカ雪だった。

Ⅰ家の向いにあるガレージに突っ込んだ車はスリップ。

騒々しい雪の日々が残した積雪の日。



橋の袂とか、辻々にお供えをするアズキのオニギリと2枚のアブラゲ。

狐にせんぎょ(施行)をする御供である。

かつてはセキハンにアブラゲメシだった。

狐の施行は阪本で商売をしているお店にも捧げる市場の施行だ。



猿谷ダム湖に架かる朱色に塗られた大塔橋を渡って向う先は大塔コスモ地下観測所。

宇宙の謎である見えないニュートリノ素粒子や暗黒粒子を検出している実験施設はトンネル内だ。

不審者が侵入しないように鉄柵を設けている。

内側からは生暖かい風が吹きぬける。



和歌山新宮と五條市を結ぶ旧国鉄の五新線(ごしんせん)となるはずだったトンネルの傍らにも施行する。



来た道を戻って市場に向かう。

豆腐屋の辻政商店や旅館昭和館の家人にも捧げて歩く。



ありがたく受け取るご主人の顔は笑顔だ。

市場を通り抜ける国道は168号線。

絶え間なく車が通過する。

通り抜けるまで待つ。



危険を避けてのせんぎょは子供たちを誘導しながら巡行する。

天神社下のトンネルを抜けてぐるりと旋回。



索道(さくどう)に入った。

囃す台詞は「市場」から「索道」に替って「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 索道のせんぎょ」となる。

索道にもお店があるが不在であった。

その場合はポストに入れておくことになっていると話す。



かつて索道の鉄塔が建ってあった地を通り抜ける。

物資をロープウエイのように運ぶ索道で思い起こしたのが大和高原の索道だ。

奈良市京終から山越えの東金坊、矢田原・南田原(天満駅)の田原の里、天理市の山田を経て旧都祁村の針・小倉間であった。

総延長16.9kmは大正6年からの架設で平坦と高原を結んだ「奈良安全索道」。

木材および、主には高原で生産された凍り豆腐を運んでいた。

戦後は製氷会社によって大量に生産されることや道路の整備とともに自動車による陸送普及が進んで衰退した。

昭和27年にはすべてが廃止された。

旧大塔村阪本にあった索道は天辻峠、阪本、野迫川村を結んでいたと云う。

採掘された鉱物や生活物資を運んでいたようだ。

Ⅰさんが子供の頃に見ていた索道は稼働していたそうだ。

野迫川村は樽の生産地。

「樽材も運んでいたのでは」と話す。

当時の阪本の索道は映画館が2軒もあって賑わいをみせていたと回顧される。

五條市の市史および野迫川村の村史によれば明治45年に五條市二見の川端貨物駅から樫辻(かたつじ)を経由する和歌山県富貴(ふき)間に開通した「大和索道」であった。

その後の大正6年に延長されて富貴辻(天辻西側付近)、阪本間の16kmとなった。

二見からは燃料、食料、大豆、苦塩水、肥料、雑貨などに日用物資が。

逆に木材や凍り豆腐を五條市に運んでいた。

その後においては天辻トンネルの開通とともに陸路のトラック輸送が盛んになって索道の利用は衰退するものの、野迫川村の立里(たてり)鉱山(昭和13年に金屋淵鉱業が創業)から採掘された鉱石を運ぶ必要性が生じたことから昭和19年に野迫川村の紫園まで延長された。

鉱石はトラック輸送に切り替わり、新天辻トンネルも開通されて本格的な陸路輸送の影響も受けて鉱山は昭和37年に閉山され索道も消えた。

阪本の索道は物資の集積地として発展したことからその地を「索道」と名付けたようだ。

映画館があったというだけにかなり栄えた索道であった。

かつてあった索道の地も雪が積もっている。

索道のせんぎょを囃しながら急坂を登っていく。



行程は長い距離。

始めのころは子供たちが揃って提灯を持っていたがいつの間にか親の手に移った子もいる。

今では「いちごう子供会」の提灯であるが、かつては家の紋や名が記された提灯だった。

天神社の前のくさがみさんの祠にもせんぎょをした。

ここからはさらに急坂の向井阪本の地。

車も登れないほどの雪道はアイスバーン。

小さな子供たちだけに危険は避けたいとUターンする。

天神社辺りからは下の市場が見える。

市場の子供たちを発見すれば「ガッソ ガッソ」と云い合った。

索道と市場の子供どうしの言いあいだ。

「ガッソ」の言葉は対抗する言い回し。

「こっちの方が提灯の数が多いぞ」と自慢する言葉だったと話す会長。

地域ごとに子供がしていた時代のせんぎょのガッソは競い合いであったようだ。

集落を抜けて再び国道を行く。

緑色に染まった猿谷ダム湖を見下ろしながら雪が溶けた歩道を行く。

向い側の対岸は宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)地区だ。せんぎょの囃しも「「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 宇井野のせんぎょ」に替った。

古野瀬も索道があったと話す地はかつて阪本の中心地であった。

宇井野(ういの)・古野瀬(このせ)地区は高野大峯を結ぶ旧街道の参詣道。

天川広瀬から滝尾、塩野、塩谷、簾を抜けて、一旦は川沿いに下りる阪本、古野瀬、宇井野、小代下へ続く道は高野山へ向かう旧街道。



宿場としても栄えた阪本のせんぎょは最後に吊り橋の阪本橋。

宇井野へ向かう橋は一度に3人までしか渡れない。

かつては最後にダム湖に水没した村のお稲荷社に参って終えた。

阪本橋の袂にアズキメシとアブラゲを供えて市場へ戻っていった。

「せーんぎょ せんぎょ きつねのせんぎょ せーんぎょ せんぎょ おいなりさんもおいてある せーんぎょ せんぎょ 市場のせんぎょ」と元気よく囃しながら戻っていく。

作ったアズキメシは42個。

それぞれ2個ずつ供えたというからお店も含めて21カ所であった。

阪本の狐の施行の行程時間はおよそ1時間半。

およそ5000歩である。



最初に供えた橋の袂の御供は跡かたもなくなっていた。

山のキツネが食べたのであろうか。

公民館に戻れば施行をこなした子供たちにお菓子を配る。

年長者から一人ずつ受け取る子供の顔は一年ごとに逞しさをみせる。

お昼の時間はとうに過ぎた。

お腹も減っていただくパック詰めの弁当。



路の駅吉野路大塔の一角にある食事処の「金剛」の特製弁当である。



私もよばれることになったありがたい会食の席にはアゲサン入りのお味噌汁もある。



プリプリ感の海老フライは子供が好きな食べ物。

バラ肉もカラアゲも美味しい。

ご飯が進むご馳走である。

ほんの少し前まではカレーライスを食べていたが、イロゴハンのときもあった。

ダイコン、アブラゲ、ニンジンなどを醤油で味付けした炊き立てのイロゴハンを食べた。

寒の間に施行する家から食材を貰ってきた子供たち。

お金を貰うこともあったようだ。

ヤドとなる当家の家で親とともに料理をしていたと話す。

会食を済ませばカラオケなどの余興もしていたというだけに子供たちにとっては楽しい一日を過ごしたのであろう。

あくる日も公民館に集まって残り物のカレーライスを食べていた。

施行の次の日も楽しみだったから土曜日にしていたと話す子供の行事である。

(H25. 1.27 EOS40D撮影)

下山田広出垣内地蔵寺初十九夜さん

2013年05月05日 05時52分18秒 | 天理市へ
夕方にやってきた十九夜講の当番の婦人。

下山田の地蔵寺にある炊事場でイロゴハンを炊いている。

1升を二つの大釜で炊くイロゴハンのお米は1戸について1合2勺(せき)。

25軒の講中からいただいたお米である。

具材は多い。

カマボコ、コンニャク、タケノコ、ヒラテン、アゲにシメジ、ニンジン、グリーンピースにまだある。

良い出汁がでるモモのカシワにシーチキンとくる。



醤油で味付けするが隠し味にだしの素も入れると話す当番の女性。

ドウゲ(当家)と呼ばれる年当番のTさん。

イロゴハンは普段の日でも食べている料理食。

月に数回も炊いていると云う。

寒の入りには必ず食べるという女性もいる。

子供も喜んで食べると話すイロゴハンは季節の節目に炊くようだ。

この年は1月14日に初祈祷をしていた地蔵寺。

今夜に行われる正月の初十九夜さんとも広出垣内の行事であるが、初祈祷は広出・東村・清水垣内の3垣内が集まる下山田の男性で十九夜さんは広出垣内女性の集まりである。

初祈祷は村の新年会と初日待ちの寄り合いも兼ねている。

牛玉札を墨書して朱印を押した。

それをウルシ棒に挟んで中山田の蔵輪寺住職が祈祷した。

お経の途中で発せられるダンジョー。

それを合図に太鼓を叩いて堂外でウルシ棒の縁叩き。

村の安穏を願うオコナイの行事は「乱騒」とも呼ぶようだ。

村の人が何時でも貰っていけるように堂外に初祈祷されたごーさん札のウルシ棒を置いている。

その堂外から上がる女性たち。

境内にある如意輪観音石仏に手を合わせて上がる十九夜さんの晩だ。

元来は十九日に行われていた十九夜さんは集まりやすいその日に近い日曜日に移った。

突然の大雪になった14日の初祈祷は歩くことも困難な日だった。

路面は解けたといっても気温が下がる夜。

残雪がバリバリと音をたてる車道。

滑らないようにこの日も雪掻きせざるを得ない里道を歩いてやってきた。

扉を開けて年初の挨拶。

「明けましておめでとうございます」が触れ合う初十九夜さん。

かつては年に数回あったが今は正月の月だけになった。

安置してある地蔵仏に灯明火を灯す。

地蔵仏の御供は炊きたてのイロゴハンだ。

二つの大鍋を囲んで輪も二つ。

蓋をとれば美味しい香りが漂ってくる。

およそ20人もの女性たちが輪になって座る。

連れてきた子供も一緒になっていただくイロゴハン。

子供は小学6年生ぐらいまでついてくるという。

Tさんが作ってきた福神漬けもいただく前に10月8日の八日講において引き継いだドウゲの挨拶。

「これからの一年よろしくお願いします」と口上を述べた。



美味しくいただく家の味。

香の物も美味しいがそれ以上に感じた絶品味の福神漬けがたまらなく美味い。

甘酒もよばれる和やかな時間を過ごす場は婦人たち。

一同が揃う晩は年に一度の語らいの場である。



この夜に差し出された福神漬けのレシピを教えてもらう女性たち。

家族の食事に活かせたいと熱心にメモをとる。

それほど美味かった福神漬けは持って帰って食べたかーさんも唸ったが、レシピに書き残す余裕がなかった。

再訪するときには是非ともお願いをしなければと思った。

おかわりを何杯もしてしまうほどのイロゴハンの味わい時間はおよそ2時間。

十九夜和讃の本が配られて始まった。



女性たちはガラス戸の方に向けて座った。

その方向にあるのが如意輪観音石仏だ。

座敷いっぱいに広がって和讃を唱える。

下山田では広出の他、東村や清水垣内でも行われているが正月の初十九夜は前日だったようだ。

下山田の十九夜は正月の他、5月と9月にも行われていると聞く。

<昭和54年の広出の十九夜和讃本>
「きみよう ちよらい 十九夜の
ゆらいを くわしく たづぬれバ
によいりんぼさつの ごせいがん
あめのふる夜も ふらぬよも
いかなるしんの くらき夜も
いとはづ たがはず けだいなし
十九夜おとうへ まへるべし
なむあみだぶつ なむあみだ
寅の 二月十九日
十九夜ねんぶつ はじまりて
十九夜ねんぶつ もうすなら
ずいぶん あらため しょうじん也
おうじやう 志ゆふしの ふだをうけ
なむあみだぶつ なむあみだ
死して 志ようどへ ゆく人は
みやうほうれんげの 花さげて
ふきくるかぜも おだやかに
志ゆほうはるかに しずまりて
てんより によいりん くわんぜおん
たまのてんがい さしあげて
八まんよじうの ちのいけも
かるきのいけと 見てとうる
六ぐわんおんの そのうちに
によいりんぼさつの おしびしん
あまねく しゆじゆうをすくわんと
六とうの志じゆうに おたちあり
かなしき 女人の あはれさを
けさまですみしも はやにごる
ばんしのしたの いけのみず
すすいでこぼす たつときは
天もぢしんも すいじんも
ゆるさせたまへや くわんぜおん
十九夜おどうへ まいるなら
ながくさんずの くをのがれ
ごくらくじようどへ いちらいす
まんだかいけの ななしゆご
いつかは こころ うつりけり
きようこの十九夜も 志きとくに
にはのめいども ありがたや
志しんの親たち ありありと
すくはせたまへや くわんぜおん
そくしん志ようぶつ なむあみだ
なむあみだぶつ なむあみだ」

(H25. 1.20 EOS40D撮影)

大起水産の寿司

2013年05月04日 07時58分05秒 | あれこれテイクアウト
昨年末に買出しに出かけた大起水産

レジを済ませたら抽選箱。

三角くじを引けば末等の4等。

500円のサービス券だった。

ポイントが溜まればときおりある抽選。

十年以上も前のことだ。たしか2等だったと思う商品はしょうゆ漬けのイクラ。

これにはまった美味しいイクラ。

それまでは渓流釣りのアマゴのエサだと思っていたイクラ。

食べようともしない臭いで受け付けなかった。

そんなことを思い出した大起水産の抽選は500ポイントが溜まったらできるのだ。

よくよく考えれば4等は当たりではあるが商品サービス券の交換と同じだと気がついた。

前回は何時だったのだろうか。

それほどポイントが溜まったようにも思えない。

うん十万円も購入していないはずだが、当たりには違いない。

サービス券が期限切れになってしまってはもったいないと思って出かけた大起水産。

いつもの寿司販売コーナーを目指す。

一つはお寿司盛り合わせ。

価格は500円。

とても美味しいのである。

1パックではつまらないのでこの日に選んだ海鮮ミックス巻き。



価格は380円である。

自宅で食べた大起水産のお寿司はどれもこれも美味い。

海鮮ミックス巻きのほうが美味しくてボリュームがあるというかーさん。

これを2本にしたほうがよかったと云う。

(H25. 1.20 SB932SH撮影)

五條の民俗調査採訪

2013年05月03日 08時26分30秒 | 楽しみにしておこうっと
この日は大寒。

寒さが一番厳しい日だとされる。

その日に行われているのが寒施行。

大和郡山市の田中町で続けられてきた行事であるが平成24年が最後になった。

祀っていたお稲荷さんは今後もどうするのか。

甲斐神社へ移設するのか、それとも伏見のお稲荷さんに戻すのかである。

住民が出した結果は伏見であった。

そうして最後になった前年。Y婦人に聞いた話では、大寒の日の夕刻に区長家でキザミのアブラゲや三角ににぎったアズキメシを作っていた。

それを持って出かけた先は田中町の稲荷社。

それから田中町の田中池。

かつて甲斐神社が鎮座していた池地である。

南塚池を経て次に行ったのは隣村の池之内町の南池。

傍らには牛ノ宮塚がある。

5月の節句に牛の宮塚へ参る行事が行われている地である。

北へ戻って、隣村の小南町の南池となる寒施行のコース。

いずれも池の水門辺りだったそうだ。

それぞれの箇所に作った御供を供える。

すべてを巡った男性たちは区長家でお茶の接待受ける。

キツネさんや鳥獣に施行する田中町の行事であったカンセンギョ(寒施行)。

盆地部で行われていた貴重な行事は継続することができなくなった。

その件を聞いた大寒の日。

五條市内でもあると聞いてやってきたが、場所はまったく判らない。

講中9軒が行っているようだが、どの町内に存在するのか手がかりがない。

「センギョジャ、オイナリサンノセンギョジャ」と囃してアズキのオニギリや竹皮に包んだ2枚のアブラゲメシを講中の家、祠、辻などに御供して巡る稲荷センギョである。

もう一つの調査をしておきたかったのは正月初めに行われる寺行事。

オコナイと呼ばれる初祈祷である。

もしかと思い中之町の大善寺を尋ねてみたが結果はセンギョもオコナイ、八日講も存知しないという。

もしかとすればと教えてくださった草谷寺(そうこくじ)。

安寿さんがおられると聞いた道筋を探してみたが土地勘がなく彷徨う五條市の山間部。

ここであろうかと思って見上げた小高い丘。

あったお寺は金光寺(きんこうじ)。

どうやら無住寺のようである。

その下にある細い道をバイクで登っていく婦人の姿。

住む人に聞けば何かが掴めるかもしれないと尋ねたご主人。

そんな話は聞いたことがないが11日には行事があったという。

大澤寺(だいたくじ)から住職を迎えて行う正月行事は600巻の大般若経の転読法要。

斎壇には朱印を押した半紙に「牛玉」の文字。

それはごーさんのお札。

まさしくオコナイである。

ウルシの棒に挟むそうだ。

その場にはカヤと呼ぶ穂付きのススキを置くという。

3人の寺総代、区長、評議員に檀家総代ら役員が参るという。

尋ねた男性は寺総代の一人であったのだ。

M氏の話は続きがある。

金光寺がある地は上之町。

2年前までは大きなとんどを燃やしていた。

1月14日のことである。竹を組み込んだ三角錐のとんどの先は笹。

端っこに綱を掛けて地面へ一直線。

倒れないようにしているという。

西方に鎮座する八坂神社のオヒカリを授かって火を点けていたというとんどである。

とんどと云えば道案内をしてくださった大善寺下の広場に焼け跡があった。

それは14日の17時に点火したそうだ。

もしかとればだが、頂点には日ノ丸御幣があったのかどうか。聞きそびれた。

上之町のとんどに続きがある。

焼けたとんどの火は家に持ち帰る。

神棚や仏さんの灯明にする。

オクドさんがあったころはその火点けにした。

翌朝の朝食はアズキ粥。

食べる箸はオコナイで供えられたカヤ(ススキ)なのである。

堅い茎の部分で食べるのだが穂は付いたまま。

アズキ粥はビワの葉に乗せて供える。

それが儀式なのである。

我が家ではしなくなったが近所ではいている家もあるだろうと話す。

オコナイ、とんど、アズキ粥へと連動する民俗の風習である。

ご主人に道案内していただいた草谷寺はもっと山の上の方だという。

国道の方が行きやすいというから戻った道。

すぐ近くにあった神社は岡八幡宮。

岡町の鎮守社である。

掲げてあった看板によれば金剛山千早(ちはや)峠を下った天誅組が集結した神社とある。

神社の行事は聞く人もなく判らないが八幡講が存在しているようだ。

そうして到着した草谷寺は安寿さんが不在。

仕方なく村の人に尋ねてもセンギョ、オコナイは判らない。

国道を下って釜窪町を探してみた。

犬を連れて散歩する婦人。

二人目に出合った人はわざわざ知人に電話をしてくださった。

結果はこれもノーグッドであったが、よもやま話のなかで口にでた天誅組。

亡くなられたご主人は「維新の魁・天誅組」保存伝承・顕彰推進協議会の一員だったと話すF婦人は下之町。

サラリーマン家庭であったがアズキ粥は食べていたという。

ちなみに釜窪は釜ノ窪と呼ぶそうだ。

ご主人はNPO法人の「うちのの館」も勤めていたという。

藤岡家住宅は割合に近い。

2年ほど前からはときおり伺う施設。

昨年は「ひなあらし」の取材にも伺った。

そんな話で盛り上がる散歩道。

夕刻時間が迫ってきた。

上之町でもそうであったが、出合いというものは出かけてみないと判らないものだと思った一日であるが、もう一か所。

東山間に向かう途中でのことだ。

ときおり通過する大和郡山市八条町から天理市南六条を東進すれば中ツ道に到達する。

その直前にある集落は喜殿町。

地蔵尊の祠が真新しい。

ここには八阪神社が鎮座する。

何年か前にも立ち寄ったが歩いている住民に遭遇しなかった。

地蔵尊の前に地区の掲示板がある。

たしか正月初めの集会が書かれてあった。

初集会の寄り合いである。

この日も目についた掲示板。

神社の年中行事が記されている。

それを眺めていたときに出合った男性は素明講中。

同神社で祭祀する講は素明講以外に八阪講、天皇講(テンノウ講)がある。

それぞれに祭祀する行事が分かれている。

一つは素明講の祈年祭。

二つ目に八阪講の例祭。

三つ目が当家で営まれる素明講の新嘗祭である。

八阪神社はかつて牛頭天王社と呼ばれていた。

そういうことから天王講が天皇講となったのであろう。

そういうことから例祭は八阪講と天皇講の祭祀であると思われた。

掲示板は忘れないように村の人に伝える伝言。

私も見ていますと伝えれば喜んでおられた。

夕暮れで立ち話を続けるわけにはいかない。

行事の際には取材したいと申しでれば了承をいただいた喜殿町の行事。

できうる限り都合をつけたいものだ。

ちなみに14日に行われる予定だったとんどは雨天のためこの日の朝であった。

(H25. 1.20 SB932SH撮影)

ザ・ビッグ・エクストラ天理店の焼きそば+天重

2013年05月02日 06時52分58秒 | あれこれテイクアウト
前日も訪れたザ・ビッグ・エクストラ天理店

取材の帰りに度々寄っては買い物をする。

イオングループのお店だが商品はどれも安価で求めやすい。

イオン同様に弁当類も豊富である。

この日の取材を終えて立ち寄ったザ・ビッグ・エクストラ天理店。

ずらりと弁当が並んでいる。

どれにするか迷ってしまう。

目に入ったのは297円の焼きそば+天重セット。

美味そうに見えたので買った。

袋は要りませんとレジに伝えれば2円引き。

店内にある電子レンジで温めて食べた。

エビ天が3尾並んでいる。

小エビであるがプリプリ感もある。

天つゆはご飯に染み込んでいて美味しい。

添えものは紅ショウガ。

これは焼きそばにである。

これがなければコクが出ない焼きそば。

天重に香物も欲しかったが安価な弁当は生活志向のコストセーブ。

表面だけと思っていたモヤシ。

ソバの中からどっさり出てきた。

シャキシャキ感が嬉しい焼きそばの底にあった2枚の豚肉。

なかってもいいような焼きそばだが豚の味がないとつまらない。

ニンジンが目に入ったが一つだった焼きそば。

あっという間にたいらげた。

(H25. 1.19 SB932SH撮影)