goo blog サービス終了のお知らせ 

マネジャーの休日余暇(ブログ版)

奈良の伝統行事や民俗、風習を採訪し紹介してます。
すべての写真、文は著作権がありますので無断転載はお断りします。

今夜の食事はハッスル3で買い求めたアウトレット揃え

2018年01月21日 09時41分32秒 | あれこれテイクアウト
晩飯を一人で喰うことはたんまにある。

年に一度か、それとも・・・。

そんなときには決めていたお気に入りの惣菜を狙う。

スーパーに出かけることは週に2、3度ある。

多い時には4度になることもある。

行き先々のスーパーに立ち寄ることも多い。

必ずといっていいほど目を通すのは惣菜売り場。

買ってすぐに食べることができるデキアイの商品。

冷凍もんではなくお店の人たちが作っている調理もんである。

惣菜にはフライもんや天ぷらもんもある。

晩食は飯を喰わないから弁当類は買わない。

飯は飯でも酢飯は美味い。

酒の肴に寿司の味は魅力的だ。

ただ、どうしても腹に堪える。

晩食に飯を喰わなくなったのは何時のころか。

もう何十年も前になる。

結婚したてのころは喰っていたような気がする。

それがいつしか言いわけを作った。

晩食にビールや酒はつきもの。

それがなけりゃ一日の〆にはならない。

ビジネスマン時代はツレらと飲み会。

仕事を終えてちょっと行こか、である。

そんな夜であっても帰宅すれば酔いは醒めている。

飲みなおしに500mlの缶ビールを一本。

元気ハツラツだった時代は630mlの瓶ビールが数本並んでいた。

いっときは休肝日を設けていたが、いつの間にか消え失せた。

今もそうである。

医師からは休肝日の指示はない。

γ-gtbの値も気にかかるが美味しいもんは美味しい。

カラカラに乾いた喉を潤す缶ビールは発泡酒になったものの美味いもんは美味い。

やめられない、とまらない、である。

さて、今夜の食事は一人。

我が食べたいものだけを通院帰りに買ってきた。

購入店は天理市田町にあるハッスル3。

最近になってよく出かけるスーパーだ。

商品棚を見て、これだと思って手にした商品は4品。

一つはビンチョウマグロの柵造り。

自宅で包丁切りしていただく。

二品目に買った商品はフライもん。

税抜き150円の豚ロース串カツだ。

三品目に買った商品はロースに続いてまたもや豚。

フライではなく味付け料理の豚トロ。

味付けはネギ塩を書いてあったから発泡酒にぴったんこ、である。

これだけあって税抜き価格が201円。

内容量はこれぐらいで十分。

これで済むかと思いきや、ついつい手がでてしまったなすの煮びたし。

炊いた茄子の色が鮮やか。

美味いのに決まっとるんやないかと思う。

盛ったパックにたっぷり漬かっている。

味は濃いめに違いない。量もまあまあで税抜き198円。

合計すれば724円。

一人夜宴にささやかながら食にする。

さて、お味はどうか・・・。

一番目に口にするのはいわずと知れたお造りだ。

和歌山県産のビンチョウマグロはトロトロ。

白いケン筋はあるが口の中で溶けてしまう。

包丁でぶつ切りしたがぐちゃぐちゃになってしまった。

二番手は豚トロだ。

味は表記された通りのネギ塩味。

味は美味いがトロ過ぎた。

脂でギトギト。

何枚も食べられるもんではない。

途中で厭いてきた。

発泡酒で口をさっぱりさせてまた一枚、一枚。

噛み応えのある豚トロは歯が唸る。

堅いのではなくすっと切れるという感じだ。

三番手は豚串カツ。

味があるのでそのまま食べても良いのだが、マヨネーズ或はウスターソースが〆てくれると思って冷蔵庫を開ける。

マヨネーズは底をついていた。

それならウスターソース。

味がしっかり馴染んで美味さを引き出す。

豚はロース。

串にタマネギもあるから甘さで包んでくれる。

脂っこくもない豚串カツがむちゃ美味いのである。

四番目は口直しに和風の味を楽しむ。

出汁で煮たなすび。

味はとんとんぐらいか。

旨みがないように思える煮びたし。

出汁そのものにないように思えた。

ひと通りの味具合を味わったら、あとはこれの繰り返し。

それにしても小食になったものだ。

無理やり胃袋に詰め込んで大丈夫なのか。

翌朝、起きたら胃袋はすっからかんになっていた。

(H29. 3. 7 SB932SH撮影)

祝、心拍数80突破

2018年01月20日 10時08分41秒 | むびょうそくさい
毎週に通院するリハビリ運動を始めてもう何回目になるんだろうか。

数えてみれば通算したら58回にもおよぶ。

連続日数でいえばほぼ2カ月間も通ってきたのである。

通いはあるが目に見えて改善しているわけでもない。

運動をすればまったく問題のない脈拍数であるが、何もしない安静状態であれば38拍-42拍ぐらい。

それでも生きているんだから、もう良いじゃないか、と思ってしまうが、医師の診断に卒業通達・・・どころか見込みもない。

こんな身体になってしまったが毎週の通院はある意味、楽しみでもある。

この日も心電図機器を装着して運動に臨む。

そのときの心拍数は46-47拍。

準備体操をすれば53-56拍に上昇する。

いつもこんな具合で始まる。

整備体操の次はスクワット運動。

心拍数は63-65拍。この日も順調なスタートを切る。

自転車ペダル漕ぎの慣らし運転。

そのときの血圧は121-68。

脈拍は58-59拍。

いつもと変わらぬ状況である。

踏み始めて1分後のワークは55。

心拍数は62-63拍。

回転しだしてから2分後の脈拍は68-70拍。

いつもよりかは上昇高に伸びがある。

6分後の血圧は139-63。

脈拍は71-72拍。

この日、初めて付かれたⅠリハビリ療法士が心配そうに覗きこむ。

私の血圧はこんなもんですとペダルを漕ぎながら伝える。

毎週通院するリハビリ運動も通算で60回近くになっていると云えば、カルテをみられる。

その通りであることに頷くリハビリ療法士。

今後のリハビリがどこまでいくかはわからない。

運動のお付き合いは長くなりそうだけに、これまでの状況もお話しなければならない。

11分後の血圧は133-57。脈拍は73-74拍。

16分後の血圧は137-60。脈拍は73-74拍。

気持ちいいほどの汗、汗、汗。

発汗は滲む程度だが風をひくようなことでもない。

元々は汗が出ない体質。

50歳前のころだ。

運動もしていないのに汗が噴き出した時期があった。

ビジネスマン時代のことであるが、座っているだけで頭から汗が噴き出すように滴り落ちてきた。

タオルがなければテーブルは汗の水溜りができるほどの量だった。

数か月だったのか、もっと長期間だったのか覚えていない。

ふっと忘れたように汗は流れることもなくなった。

どうやら男の更年期障害の時期だった。

あのときの症状は気持ちいいほど流れていた。

その障害がなくなったら元の木阿弥。

なーんもでない。

60歳代のときに勤めていた患者さんを乗せて送り迎えする仕事に就いた。

春から夏が終わるまでの長期間。

運転中の冷や汗でなく、ほんまもんのカンカン照りに汗、汗、汗。

持っていたタオルで絶えず吹いていたころが懐かしい。

21分後の血圧は142-60。

脈拍は73-75拍。

その時点から急激に変化しだした心拍数。

なんと、なんとの78-82拍。

いよいよ80拍台に突入した。

汗は吹きだすところまではいかないが、滲みの汗、汗、汗、である。

その兆候を直ちに察知したGリハビリ療法士は歓んだ。

いつもこうして状況を診てくれている。

ラスト、26分後の血圧は141-63。脈拍は77-78拍で終えた。

安静状態の脈拍も知るK循環器医師も云った。

初の80拍を突破したことに拍手してくれる。

祝いのモノはないが、診てくれていることが一番うれしい。

来週の結果が楽しみになるが・・・。

(H29. 3. 7 SB932SH撮影)

ネット接続異常の初期化対応に気づくまで3時間

2018年01月19日 09時30分04秒 | つうしん
平成28年11月28日に発生した我が家の無線LAN異常。

対応処置したその後は何事も問題なく稼働していた。

たまには接続が怪しいという日もあるが、無線LANやモデムの電源オフ/オンで解決していた。

何の支障もなくである。

この日から3カ月後の平成29年3月6日である。

パソコンは繋がっているがタブレット端末のネット繋がりがおかしくなった。

何度も再接続にトライするが表示は圏外。

そのうち解消されると思っていたが、そうはならなかった。

パソコンの方もおかしくなってきた。

一旦は繋がるがしばらく経てば切断される。

こういう場合は無線LANやモデムの電源オフ/オンで解決できる、はず。

ところが4、5回のトライでも解消できない。

ふと思い出した平成28年11月28日の対応である。

バッファロー社製無線LANのWHR-G54Sの底面だ。

「INIT」はここにある。

あるにはあるが、老眼のために文字が見えない。

天眼鏡を目に当ててみればあった。

電源はオンのままでいいはずだ。

「INIT」の穴は小さいが、爪楊枝の頭が押すには丁度いい大きさだ。

プッシュし続けていたら赤ランプが点滅しだした。

赤ランプの形状は太陽のような光燦々。

十数秒で点滅は止まった。

これで初期化ができたはず。

パソコン側のネット接続状況を診ていればいつの間にか繋がった。

タブレット端末の方も繋がった。

対応は「INIT」を押す初期化で復活したが、思い出すまで3時間も。

何をしていたんだがと思うが、そろそろ買い替えを真剣に考えなきゃならんだろうな。

買い換えの決断はいつするか。

煩雑気味に発生するときに決める。

で、その翌日の7日の朝も同事象が発生した。

6日と同様のアクションは初期化。

前回もそうだったが二日連続だった異常現象。

無線LANのフリーズのようだが今回もそうなるのか、ならないのか・・。

それから3カ月後の6月20日。

なんとなくおかしいからリセットした。

翌日の21日は最たる状況に陥った。

リセット2度トライするも解消されないのである。

回線は接続されている認識であるが、ネットは開かない。

無線LANといえばランプがチカチカ点滅。

何者かが攻撃しているのか、ダウンロードしているのかさっぱり掴めない。

これまでもこういう事象は多々ある。

たぶんにダウンロード。

待つしかないのか。

朝から何もできない。

そうえいば発生日時を遡ってみれば始めは平成28年の11月28日。

その次は3月6日。

今回が6月21日である。

(H29. 3. 6 記)
(H29. 6.21 追記)

米谷町稲荷講の厄祝い初午

2018年01月18日 09時21分50秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
奈良市米谷町に稲荷講があると知ったのはチンジサン行事の座の場であった。

米谷町の行事取材をするようになった経緯を座中に説明することになったことによる。

旧五ケ谷村の取材初めは北椿尾町・稲荷講によって行われている寒施行だった。

寒施行は米谷町では見られないが、講中が祭っている小女郎と呼ばれる稲荷社に集まって3月に初午行事をしていると話してくれた。

座の場には2人の講中がおられたこともあって祭事の場所などを教えてもらった。

初午は2月にある「午」の日であるが、地域によっては3月の「午」に初午行事を行っているケースも多い。

奈良市米谷町の初午は三月初午。

この年は3月8日が「午」の日になるのだが、米谷町は集まりやすい日曜日にしている。

10年前までは学校が終わるころの時間にしていたが、子どもたちが揃いやすい日曜日に移したという。

米谷町は46戸の集落。

うち13軒が稲荷講である。

かつては15軒の稲荷講であったが、事情もあって抜けられた家もあったことから現在は13軒の営みになった。

さて、小女郎稲荷社はどこに鎮座しているのだろうか。

「あちらの方角のそこを右に下る道があるから・・」と云われてだいたいの場所は掴んでいたつもりだった。

その辺りを探してみても見つからない。

数人の話し声が聞こえてきた方角に向かって歩く。

そこは村の墓地だった。彼岸にはまだ遠いが家族連れが墓地から歩いてこられたから小女郎の地を聞く。

なんと、ぐるりと廻ったところのすぐ近く。

法要を済ませた上ノ坊寿福寺住職もそう伝えてくれた地に向かう。

平成29年3月吉日の墨書がある朱塗りの鳥居は2本。

つい先日に建てたという鳥居が美しい。

山へ上がっていきそうな参道に立てた「奉納 正一位小女郎大神」の幟旗が5本。

幟旗の示す道を登っていけば、そこが鎮座地であった。

平成8年3月吉日に立てた小女郎稲荷講中の名がある。

講中は13人。宮座十一人衆の名もあれば宮総代さんらの名もある。

講中が供える御供棚を調えていた。

落ち葉もゴミも何一つ落ちていない参道を登っていく講中。

風呂敷包に包んで持ってきた御供を並べる。



時間ともなれば多くの講中がやってきて御供棚はあふれるくらいにいっぱいになった。

包装紙に包んだ大きな箱は村の厄男並びに厄女が祝いに供える菓子御供である。

廻り当番の人は神饌御供を社殿下の祭壇に並べる。

社殿は二社ある。

右に建つ社殿は稲荷大神。

左側が小女郎社である。

御神酒に塩、洗い米。

板昆布にお稲荷さんが大好物とされる大きなアブラアゲ。

サツマイモ、ニンジン、ミカン、パンを盛った上に置いた紅白餅も供えた。

ローソクに火を灯して導師は前に。

そうして始まった講中全員が揃って唱える般若心経は三巻。



村の厄男、厄女の健康を願って唱える。

この年に集まった講中、参拝者は境内いっぱいに広がった。

例年よりも倍の人数になったのは初めてだと云っていた。

「厄の人も多いし、外孫も大勢来てくれたからや」と話していた。

心経が終われば廻り当番の人が下げた神饌御供を参拝者に食べてもらう。



お盆に乗せた御供は子どもも食べられるものがある。

口に一つを食べながらもう一本と手が伸びる。

米谷町の稲荷講の厄祝い初午行事は参拝だけで終わるわけではない。

これより始まるのは子どもたちが楽しみにしていた御供配り。

厄祓いに供えたお菓子などは境内下に場を移して配られる。

講中もこれが楽しみだという御供配り。



大きな箱を抱えて旧道に下りる。

新調した鳥居に跳びあがって背が伸びたことを自慢した。



それだけ跳べるようになったのも成長の証しであろう。

次から次へと御供箱を抱えて下りてきた講中。

設営する場所は道路そのもの。



その向こうは優良な農耕地造成を兼ねた土地改良事業の一環でもある奈良市環境部環境事業室土地改良清美事務所が計画・管理する一般廃棄物最終処分場整理事業の建設工事である。

それはともかくたいがいのところでのゴクマキ(御供撒き)は高所から餅やお菓子などを放り投げてするものだが、稲荷講の在り方はまったく異なる優しい配り方だ。

講中はぐるりを囲むように位置決め。

開封した御供箱を拡げてお菓子を取り出す。



順番は端から端へと繋ぐ御供貰いの行列待ち。

一番手前に並んだ子供たちは講中が入れやすいように袋口を拡げて順番待ち。

1個ずつ入れてもらって次の御供へ。

そこでも袋口を拡げて1個。



13人の講中に入れてもらうお菓子で徐々に袋は重たくなる。

〆に入れたもらったときには袋から毀れそうになっていた。



喜んでもらって帰る子どもたち。

心はスキップしているようだった。

(H29. 3. 5 EOS40D撮影)

興隆寺町・厄祝い賀祝のおでん盛り

2018年01月17日 09時54分02秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
シバシ」の日の午後に行われるのが「賀祝(がしゅ)厄祝い」である。

「賀祝(がしゅ)厄祝い」とは、興隆寺町に住む厄年の人、男女の関係なく厄年の人を祝う(賀祝)村行事である。

かつてはこの行事も3月1日にしていたが、祈年祭と切り離し、3月第一日曜日に移した。

祝いの場は八阪神社よりすぐ近くに建つ公民館で行われる。

厄祝いの厄男、厄女は公民館の上座に着座する。

11時半ころより始めるおでん喰い。

おでん料理は公民館内の炊事場でなく、屋外に設えた大釜で炊く。

調理する人は村の人。

おでんの材料費は村持ち。

おにぎりも作って厄男、厄女を祝う賀祝(がしゅ)に儀式はなく、自治会長の挨拶で始まったそうだ。

村の祝い事は拝見もしたいが、それはご法度。

時間を避けて訪ねることにしていた。

先に訪れたのは「シバシ」の場である。

伐り出し、割り木作業はたいへんな力仕事。

八坂神社境内の焚き場にあった雑木。

その付近はチェーンソーの切り屑が散乱している状況でよくわかる。

割り木は拝殿下の蔵に収納していた。

この量で賄う一年間の焚き木である。

しばし、境内で時間調整をしてから坂道を登って公民館に向かう。

近くまで行くとおでんの香りが漂ってきた。

美味しい香りに引き寄せられて着いたところが公民館。

只今、賀祝(がしゅ)厄祝いの真っ最中。

厄男に厄女は上座着座。

大広間に集まった村の人たちで盛り上がっていた。

一方、屋外に設えた大鍋で煮ているのは男性二人。

先日、行われた祈年祭には参列してなかった人だけに訪れた経緯を伝える。

しばらくすれば祈年祭の際にお世話になった自治会長も大鍋にやってきた。

賀祝に祝いの詞を述べた自治会長は一息ついて連絡ごとに忙しい。

ぐつぐつ煮立った大鍋。

おでんの色が食べ具合を示していた。



どれぐらいの時間で煮たのかわからないが、色合いは相当煮込んだように思える。

ゴボテン(牛蒡の天ぷらを私は昔からそう呼んでいる)にヒラテン、チクワ。

三角切りもあれば、角切りのコンニャクに揚げさんや茹で卵もある。

おでん汁をたっぷり浸みこんだダイコンもある。

定番のおでん具材に蛸にすじ肉もある。

すじ肉は上等もん。

白っぽいカラカラ乾きの冷凍ではない上等もんの牛すじ肉。

我が家のおでん料理もこれと同じようにすじ肉を煮る。

脂がトロトロに溶けたスジ肉が美味いのである。

よくみれば、具材は我が家とまったく同じというのが嬉しい。

お代わりをよそいに屋外へ出てきた男の人たちは思い思いの具材を掬って皿に盛る。

掬う道具は木地師が作ったと思われる柄杓のようだ。



これらを撮っていたころにやってきたⅠさんもお代わり。

主たる会場には上がれないが、応接間で食べてと云われて案内された部屋へお通し。

いっぱいあるから塩で味付けした大きな三角おにぎりも運んでくれた。



お昼ご飯はまだだっただけに盛ってくれたおでんは完食。

美味しいおでんは我が家と同じ味。

からしをたっぷり付けて食べるのが一番。

この場を借りて厚く御礼申し上げる。

村によって違いはあるが、賀祝はトシイワイ(年祝い)とか、賀寿、算賀の名で呼ぶ地域もある。

私が聞いている地域でのトシイワイは厄年の人だけでなく、還暦、米寿の祝いが多く見られる。

祝いの場は3時間。

終わりの〆の挨拶も自治会長と聞く。

しばらく滞在させてもらった公民館は10月第二日曜日に行われるマツリの会場にも利用される。

かつてはトーヤ家で宴をしていたが、費用負担などを避けるため公民館施設の備品を使えるようにしたそうだ。

村の行事にトーヤ制度がある村は場を公民館に移す地域が増えつつある。

それはそれでいいのだが、神社へのお渡りも公民館から出発する。

神社からそれほど離れていないから、あっという間に到着するのも難点であるが、遠く離れたお家から急坂な道を往来するのもたいへんである。

少しでも負担を軽減する。

そういうことである。

村のマツリは午後12時半に餅搗きをする。

千本杵で搗く餅搗きである。

黄な粉塗したキナコモチに醤油と味噌で包んだモチもあるそうだ。

搗きあがる時間帯は午後1時ころ。

搗きたてのキナコモチや醤油味噌モチを村の人たちがよばれる。

しかも、だ。松茸飯も炊くし、豚汁も。

これらもよばれて八阪神社へ向かうお渡りは午後2時に出発する。

短い距離になったが、トーヤのお渡りである。

また、その日は神事を終えてもまだマツリの続きのようなシシ肉焼きパーテイをしているという。

神社ごとの祭典を片づけた後宴のシシ肉喰い。

食べきれんくらいに村人をもてなす村行事。

余ったシシ肉は持ち帰ってもらう。

自治会長や祈年祭の際にお世話になった人たちから、「是非とも、来てや」、と云われたが、お腹はパンクしないだろうか、といらん心配をしてしまった。

興隆寺町の小正月のトンド焼きは成人の日。

午前7時の火点け。書初めの習字焼きをして天に飛ばす天筆(てんぴつ)の習俗もしている。

トンドの火で焼く餅は三ツ割の竹に挿して焼いている、というから、これらも拝見したくなった。

(H29. 3. 5 EOS40D撮影)

興隆寺町・シバシの日

2018年01月16日 10時03分20秒 | 奈良市(旧五ケ谷村)へ
この年は3月5日が「シバシ」の日である。

かつては3月1日にしていた。

山行きにシバ(柴)を伐ってくる。

朝8時ころに出発する。

村の山林に入ってシバ(柴)を刈る。

伐った材木は割り木にする。

神社行事の直会の場のトンド火に使う割り木は焚き木だ。

一年に一度は纏めて割り木作りをする日が「シバシ」の日と呼んでいる奈良市興隆寺町の人たち。

「シバシ」の名を聞いたのは、ここ奈良市興隆寺町以外に京都府加茂町の銭司(ぜず)であった。

世話人の名で呼ばれる神社行事の奉仕者が山へ出かけて椎の木などの雑木を伐り出してくる。

その材は割り木にして束ねておく。



保管する場所は春日神社境内の拝殿辺りだ。

割り木の使い方は聞いていないが、行事の際に焚きものに利用しているのだろう。

京都府南山城村の南大河原も同じように割り木は拝殿下に収納している。

ここでも何らかの焚き木に利用している。

南大河原では名称を聞いていないが、銭司と同様に雑木を伐り出すことを「シバシ」と呼んでいるように思える。

そういうことだが、なぜに「シバシ」の名であるのか。

『亀山市史民俗編』に「シバシ」のことが書いてある。

「シバ(柴)」は小枝類。

おじいさんは山へ行ってシバ刈りにいった・・と始まるお伽噺は誰しも知っているが、現代の生活文化には見ることもない。

ところが、山村などの村の神社の焚き木集めにあったのだ。

亀山市史を読めばわかるが、「シバシ」を充てる漢字は「柴仕」。

つまりは柴材を集める仕事ということである。

それから1年後。

同町ではなく橿原市一町に住むMさんが伝えてくださった地域で交わしていた言葉は“「柴」をしにいく“であった。

なんという心地いい響きであろうか。

また、大淀町大岩に住むKさんも今いまらか50年前の中学生のころの体験談を寄せてくれた。

お寺さんが竃の火に使うシバ。

寒い1月ころに門徒総出に集めたシバを割り木にしていたそうだ。

「柴仕」ワードで手繰ってみれば、『写真で見る郷土食』中に鯖街道で名高い朽木村の郷土食がずらりと紹介されていいた。

その一つに山へ出かけて材を伐り出す「柴仕」の映像が見つかった。


(H29. 3. 5 SB932SH撮影)

榛原笠間桜実神社の御田植祭の祈年祭

2018年01月15日 07時15分07秒 | 宇陀市(旧榛原町)へ
桜実神社の御田植祭に特殊な形をした苗を奉ると教えてくださったのは宇陀市榛原の笠間に住む男性。

出会いは宇陀市大宇陀の平尾であった。

平成27年6月14日
のその日の行事は平尾の田休みの植付奉告祭だった。

行事が始まる前にお会いした男性は村から頼まれた神社に住み着くハチ退治のためのお仕事だった。

立ち話ならぬ座り話しに盛り上がった男性は、住まいする笠間の桜実神社の行事を教えてくださった。

なかでも驚いたのは奉る苗の形状であった。

材料は杉の実である。

何十個というか大量に集める杉の実。

実だけでなく枝付きの状態のものを丸めて酒屋の印しの杉の実の御田苗のような形にする、ということだった。

その杉の実の御田苗のような形のものを春の祈年祭に奉るという話しに飛びついた。

平尾の植付奉告祭行事は夜の時間帯。

始まるまで数時間の余裕もある。

笠間の鎮座地も再確認しておこうと思って車を走らせる。

大宇陀の平尾から榛原の笠間の距離はそれほどでもない。

片道10分程度なので走ってみた。到着した神社境内に大杉がある。

杉の実を付けた枝はいくらでもあった。

たぶんにこれらを採取して奉納する杉の実の御田苗を作るのであろう。

ハチ退治をしていた男性は奉った杉の実の御田苗は苗代ではなくハウスに立てると話していた。

神社行事は春の祈年祭。

杉の実の御田苗を供えることから御田植祭であるとも話していた。

田植えの所作はないが、杉の実の御田苗は、これまで取材した県内事例にはまったく見られない不思議な形である。

見たことはないが、話してくれた様相でそう思うのだった。

できれば早いうちに訪れて、その形状を確かめたい。

そう思って翌年の平成28年3月19日

17日辺りの日曜日と聞いていたからその日に訪れたが影も形もなかった。

行事はすでに終わっていたことを知って愕然とした。

氏子の話しから推測するに固定日から日曜日に移ったが、年によっては第一週目か二週目にしているようだった。

いずれになるのかは出仕される神職の都合もあって変動するらしい。

立ち寄ったその日。

杉の実の御田苗をハウスに立てると話していた男性のハウスを訪ねた。

男性はほうれん草栽培農家だった。

この年はおばあさんを亡くしたから神社へ出かけることはできなかった。

本来なら杉の実の御田苗を作って神社に奉るのであるが、服忌の場合は穢れになるから参ることさえできない、と云っていた。

で、奉る杉の実の御田苗は果たしてどのような形状であったのか。

出荷作業が忙しい毎日。

作業の手を止めて話してくださった作り方は・・。

杉の実の御田苗を外れないように括る材も要る。

その材はフジツル(藤弦)。

柔らかい皮を剥いで細い紐状にする。

杉の実の枝伐り作業もあればフジツル採りも。

これらの材があってこそ奉納もできるし、豊作願いにハウスにも立てることができるが、服忌であればなにもない。

他にも数軒の人が苗代にしているようなことも話していたので翌月の4月15日にも訪れた。

数か所に亘って見つかった苗代。

そこにはなにもなかったが、訪ねたほうれん草農家の婦人が云うには・・。

昔は農家が多かったからこそ杉の実の御田苗を奉る家も多かった。

枝成りを束ねた杉の実の御田苗は神社玉垣にずらりと並んでいたという。

うちもしていたが、今はもう・・という杉の実の御田苗は苗代作りの際に立てていたという。

稲藁を束ねたものを苗代田に横たわす。

その藁束の中央に立てていたそうだ。

行事も苗代立ても見つからなかった笠間の豊作願いの在り方。

宇陀市榛原笠間に鎮座する桜実神社に初めて訪れたのは平成18年3月16日だった。

今から11年も前のことである。

その年から11年目になってようやく笠間の御田植祭を拝見できる。

杉の実の御田苗の話しを教えてもらってから数えること2年目である。

ここに至るまでの経緯はもう一つ。

村の代表者でもある氏子総代や宮総代にやっとのことでお会いできた行事は平成28年の10月2日に行われたツイタチ座である。

マツリの形態にも興味をもっていた。

「座」の行事の一つでも拝見できればと思って訪れた。

お会いした宮総代が云うには御田植祭には私も苗を奉っているというのだ。

なんと、なんとであった。

探し求めていた奉納者は二人も揃ったのだ。

桜実神社に着いたときにはすでに奉ってあった。

これは杉の実で作った御田苗。

初めて拝見した形に感動ひとしお。

拝殿階段上の欄干に吊っていた。

想像していた形はまん丸い杉の実の御田苗のように思っていたが、個体によっては若干の違いがあることがわかった。

右に吊った一対の杉の実の御田苗は平成27年6月14日に出会って話してくれたSさん。

束ねた実成の杉を括っている材がフジツル(藤弦)であるから奉納者がわかる。

杉の実が多ければ多いほど豊作になるという御田祭に奉る苗である。

実成の枝は傾きがある。

束ねたすべての実成枝を逆向きにする。

そうすればふっくらと盛り上がるようになる。

実際に生えている状態を見ればわかるが、外側に向いているのである。

その向きを逆にすれば内側になって反りかえるようになる。

実物をもって説明はできたとしても文字では表現が難しい。

形を調えて吊るす部分の枝をフジツルで括る。

写真を見てもらえばわかるが実成の枝は割合太い。

15本にも満たない本数であるが、雄花である杉の実は相当な数だ。

今にも弾けそうな状態のある実。

手でぽんぽんと払ったら杉花粉がぶぁーと飛び出した。

触るだけでも危険な状態である。

私はスギ花粉症ではないが、カメラレンズに被ってしまうかもと思って、さっと身を翻した。

Sさんがいうには実成状態は最高だという。

スギ花粉を浴びるぐらいに実成が良いというわけである。

つまりは稔りの形が豊作の願いを叶えてくれる、というわけだ。

さて、左側に奉ったのはどなたであろう。

青々とした生木の杉枝である。

反り返りは戻さず生えていたままの状態の傾き。

つまりはすべてが外側向き。

しかも束ねた道具はpp紐。

二つ並んでいるから、その違いがよくわかる。

杉の実の御田苗を奉る人はもう一人おられた。

反対側の欄干にも一対の杉の実の御田苗を奉っていた。

束ねていた道具はSさんと同じくフジツルである。

「F」に名前を書いていたから持ち主がわかった。

先に聞いていた氏子総代長兼宮総代のKさんである。



Kさんはスギ花粉症。

とてもじゃないが、実成の杉の実の御田苗を奉ることはできない。

そういうことからこれもまた青々とした杉枝である。

ただ、じっくり拝見していると杉枝は反り返っているように見える。

先ほどの杉の実の御田苗もそうであるように思えてきた。

さて、神事である。

主斎は桜井市等彌神社の佐藤靖夫宮司。

初めてお会いしたのであるが、前にもお会いしたことがあると思った。

それもそのはずで叔父さんとそっくりな顔立ち。

息子さんの神職も存じていただけに話しが弾む。

佐藤靖夫宮司は63年間に亘って神職を勤めてきた。

ここ笠間も長きに亘って務めてきた。

御田祭に奉る杉の実の御田苗は昔からもあった形。

若いころから見ていた御田苗の多さ。

欄干どころから神社玉垣のすべてが埋め尽くされるほどに多かった。

今ではこのように少なくなってしまったという。



手水をした氏子、一人一人は拝殿向こうに建つ本社殿に向かって頭を下げる。

この日の参列者は8組それぞれの組長に3垣内のトーヤ、自治会長、農家組合員である。

拝礼を済ましてから境内に並ぶ氏子総代に宮総代。

そして氏子たちは低頭。



佐藤宮司が祓ってくださる。

宮司は奉った御田苗も祓う。

そして献饌である。



社務所に準備していた神饌御供を一つずつ手渡す。

丁寧に頭を下げて受け取って運ぶ。

献饌をする人数は偶数人でなく、奇数人で受け取らなければならないという。

そして拝殿に登って所定の位置に座った氏子たち。

本社殿は一段と高い位置に鎮座する。

平成25年10月のゾーク(造営事業)によって塗り替えた朱塗りの本社殿が美しい。

寄進奉納された幕もその年に新調されたから美しい。

宮司一拝、御扉開扉に「オォォォーーー」。



春日神社本社殿の右に建つ素盞男神社も左側に建つ水分神社も同じように開扉に「オォォォーーー」の警蹕。

ちなみに拝殿の左右にある小社もある笠間の神さん。

右から稲荷神社、八幡神社。

拝殿左の愛宕五社に鹿島天社であるが、これら小社には開扉という行為は見られない。



恭しく祝詞を奏上されて玉串奉奠。



氏子たちも順に一人ずつ本社殿の前に座って奉奠する。

閉扉、そして撤饌。



献饌と同じように頭を下げて御供を下げる。

宮司一拝によって神事を終えた。

神事を終えた氏子たちはツイタチ座と同様に公民館での直会に移った。

神事に奉った杉の実の御田苗は供えた人が持ち帰る。

4月10日辺りにハウスに立てると云っていたKさんとSさん。

その時期が来れば取材させていただくことになったのが嬉しい。

ちなみにこの日は村の宇陀市消防団の式典日。

なんの式典であるのか、尋ねる時間もなかったが、宇陀市消防署長らしき制服姿の人もみられた。

消防団の前に掲げる幟旗の文字は「火災予防運動実施中」とある。



団員の点呼をとる団員に敬礼をする署長、団長。

きびきびした動きに村から火を出さないという意識が伝わってくる。

このあと消防車に乗り込んだ団員たち。

なんらかの出陣式であったようだ。

(H29. 3. 5 EOS40D撮影)

奈良県下全域から初午御供のハタアメが消えた

2018年01月14日 09時41分52秒 | 民俗あれこれ(ハタアメ編)
午前中は大宇陀野依の取材があった。

昼食を済ませて平坦部に下りる。

数年前から求めている県内事例にある「ハタアメ」の調査である。

時間的な余裕もないので2カ所に絞った。

1カ所目は大和高田市岡崎の岡崎稲荷神社。

もう1カ所は広陵町中の小北(こぎた)稲荷神社である。

コースの都合上もあるが、まずは岡崎稲荷神社。

先月の2月3日も訪れた岡崎であるが、神社の所在地さえまだ掴めていなかった。

岡崎に春日神社があると分かったが、稲荷神社の所在地である。

鎮座地は3日に話してくださった元川上村白屋住民のGさんに聞いたが、時間もなくて拝見していない。

この日の目的は所在地を確かめることにある。

春日神社より北へ数百メートル。

どんつきは森。

その角地に地蔵さんを祀る小堂があった。

綺麗にしてはるから地蔵盆もしているように思えた。

道行く人の話しによれば稲荷神社はここを東に。

小道を通り抜けたところだと案内されてようやく見つかった。

神社宮司のお住まいも教えてもらって集落を探索する。

ここ集落も2月3日に探っていたが、結局は分からなかった。

宮司苗字がわかったから一軒、一軒探してみれば見つかった。

ここであったんだ。

呼び鈴を押したら宮司の奥さんが孫とともに屋内から出てこられた。

実は初午の「ハタアメ」を拝見したく・・・と伺えば、えっ、である。

これまで「ハタアメ」を製造していた事業者が造らなくなったというのだ。

詳しいことはわからないが、「ハタアメ」を製造事業者と取引して県内各地に営業販売していた担当者がいうには、高齢化などの関係で事業を辞めたらしい。

仕方なく、ネットなどを駆使して探した製造会社は広島県にあった。

あったことはあったのだが、形態がまったく違うらしくて注文はしなかったと奥さんが話してくれた。

例年、販売の人に注文していた「ハタアメ」は500本。

付近に住む子どもたちが歓んでくれた「ハタアメ」。

今年はまったくない。

入手どころか製造しなくなればどないしようもないが、「ハタアメ」はなくとも初午行事はしていくでしょう、と話していたのが印象的だった。

ちなみに岡崎稲荷神社の初午行事は3月の初午である。

当月にある「午」の日はその年によって2回或いは3回のときもあるが、岡崎稲荷神社は2回目の「午」の日にしているそうだ。

製造しなくなれば、これまで初午に「ハタアメ」があった県内事例のすべてがなくなってしまう。

ただ、岡崎のようになんとかして入手しようと努力もされた。

念のためにと思って次の目的地を目指す。

大和高田市岡崎からはそれほど離れてはいないが、初めて訪れる地域だけにカーナビゲーションに広陵町中をセットして車を走らせる。

神社であれば鎮守の森によって所在地を掴むことができる。

セットした主要地近くに森が見える。

近くまで寄らなくとも雰囲気でわかったが、そこより南に少し走った地域に幟旗が立っていた。

初午の幟旗だろうと思って走らせばまさにその通り。

鳥居を潜って西進したら森が見える。

車を止めて見た小北(こぎた)稲荷神社の由緒板。

社伝によれば天孫降臨供奉三十二柱神に稲荷五柱と小北大明神を合わせた三十八社。

また、小北大明神は鼠小姫命。

保食神に仕えた神とされるとあるからお稲荷さんとの関係が深いようだ。

保食神は食物の神さん。

お稲荷さんともども五穀豊穣、子孫繁栄のご利益があると信仰されてきた。

それはともかく当地にやってきた第一の目的は初午に供えられる「ハタアメ」である。

そのことを教えてくださったのは奈良県内の行事に出仕されている三郷町在住の坂本巫女。

神事ごとの祓え御湯の所作など数々の行事場でお世話になっている巫女さんである。

平成28年の小北稲荷神社の初午行事は3月1日だった。

その日に奉られた「ハタアメ」写真を送ってくださった。

その映像から青色、緑色、赤色、黄色に★のマークがある波紋柄。

5本それぞれに違いがある五色の「ハタアメ」であった。

前々年の平成27年3月7日に取材した桜井市三輪・成願稲荷神社の三月初午に奉られた「ハタアメ」と同じようだったから同業者が製造したものであろうと判断していた。

その年の小北の初午は平日開催。

時間帯の関係もあるのか子どもの姿は少人数のようだった。

氏子の話しによれば「ハタアメ」は飴屋さんに別注しているようやに・・・。

そうであれば、飴は飴屋で、竹串は串造り事業者。

分業していることも考えられる。

そこに営業販売をする業者の存在も・・・。

葛城市新庄の和菓子屋「菓匠庵おのえ」は店内で販売をしている情報もあるから、分業、製造業者の絡みもあるかと思えた。

昨年の平成28年3月18日に訪れた葛城市山田・三神社の初午祭。

なにかとお世話になっている大字笛吹に鎮座する葛木坐火雷神社宮司の持田さんが出仕されると聞いて取材したことがある。

山田の初午に奉られる「ハタアメ」も同じ本数に同じ形状、同色。

ここでも尋ねたが製造業者はわからなかった。

いずれも入手先はわかったが、上流工程の営業販売に製造事業者までは調べ切れていない。

そこへもってわかった大和高田市岡崎の「ハタアメ」状況。もしかとすればと思って恐る恐る尋ねた小北の「ハタアメ」。

応対してくださった権禰宜夫妻の話しによれば、今年は入手できなかった、ということだ。

例年、取引している卸しの販売店から伝えられた「ハタアメ」。

製造事業者がいうには後継者不足。

会社を整理したかどうかわからないが、事業を辞めたということだった。

権禰宜夫妻も岡崎と同じようにネットを駆使して調べてみたが、どうにもこうにも見つからなかった。

広島に製造会社があるとわかって調べたが、奈良のほとんどの地域でみられた「ハタアメ」とはまったく違うものであったことから、敢え無く断念した

近年は「ハタアメ」需要も少なくなったことも事業を辞めた理由の一つ。

昨年の小北は500本も用意した。

5色で1セットの1組だから100セットの組数を奉っていたが、今年は“ゼロ”本になった。

前述した葛城市山田にも「ハタアメ」を奉ることができなくなったと持田宮司が知らせてくれた。

私がこれまで取材したところすべてではないが、祭事に供える原材料がなくなり代替品に切り替えたとか、また、開発という行為があって生息していた植物が生えなくなったとか。

代替品はあるが、県外、あるいは海外製品に・・・。

それも入手不可能になってやめたとか・・・さまざまな要因で消えている現代のお供え事情。

難しい現実問題は、実はもっと昔、江戸時代からも発生していた事実もある。

祭り、行事を受け継ぐ。

そのときの時代変化、文化の変容など、さまざまな事情も、そのときおりの変化に合わせて仕方なく継いできた地域も多々ある。

それが現実なのであるが、今回の「ハタアメ」事業の影響は甚だ大きい。

それというのも正確に調べたものではないが、「ハタアメ」の存在を特定した地域は次の通り。

桜井市の多武峰、倉橋、浅古、河西、外山、三輪、箸中、大福、耳成。橿原市は膳夫町、常盤町、醍醐町、葛本町、新口町、北八木町、八木町、南八木町、小房町、四分町、大久保町、久米町、見瀬町、小綱町、曲川町。

高取町は丹生谷。

大和高田市は土庫、岡崎に陵西校区。

広陵町は中、南郷。葛城市は山田、新庄、當麻。

香芝市の旭ケ丘、穴虫。

田原本町では唯一、矢部がある。

奈良県内中央部を横断するような、ほぼ平坦盆地部の県東部から西部に亘る地域。

幅広いこの横断地帯を勝手ながら「ハタアメベルトライン」の名で呼ぶことにしたが、もう見ることはない。

地域の子どもたちはもう味わうこともない。

80歳の高齢者から「ハタアメ」の件を聞くことはない。

多感な少年期、「ハタアメ」貰いに走り回っていた経験者は若い人だけでなく、上は壮年期にあたる人たち。

「ハタアメ」は記憶の中だけに残された。

私は撮っていないが、「ハタアメ」貰いに自転車で走り回る少年たちの姿を追って撮った写真家Uさんの写真。

事業の再開でもない限り、未来永劫まで残る貴重な記録・民俗史料になってしまった。

今年の3月8日は桜井市三輪・成願稲荷神社の三月初午。奈良テレビが報じていた「ハタアメ」映像。

えっ、と思ったのが大きさはともかく色柄が違うように見えた。

成願稲荷神社に奉られる「ハタアメ」は三輪の大神神社神官なら存じているはずだ。

直接の問合せもあるが、山田の実情も存じており、しかも神官の繋がりに顔が広い持田宮司に当件についてお聞きした。

その結果は奈良県下の初午行事に見られた「ハタアメ」はすべての地域から消えたということだ。

製造していた事業者は高齢、若しくは亡くなられたかで、後継者もいなくて事業が停止したということである。

どうやら長年にわたってお一人が製造していたようである。

持田宮司が出仕されていた葛城市山口に鎮座する末髙稲荷神社の初午祭も「ハタアメ」はない。

そういう状況下に大神神社から問い合わせがあったという。

8日に供えた「ハタアメ」は飴、竹串、旗のそれぞれをまったく別の事業者に依頼して特別に製造してもらったものだった。

製造・販売の多寡は別として、業者が違えばまったくの別ものである。

テレビで映し出された「ハタアメ」が異様だったことに気づく人はたぶんにいないだろう。

その異様さに気づいた人はおられたとしてもよほどの専門家であろう。



これまでとまったく同じ「ハタアメ」を製造してくださる人、手段が来年の初午までに見つかればいいのだが・・・と思いつつ初午に焚かれる大護摩の準備に余念がない。

(H29. 3. 3 EOS40D撮影)
(H29. 3. 3 SB932SH撮影)

大宇陀道の駅の山菜きつねうどん

2018年01月13日 09時10分12秒 | 食事が主な周辺をお散歩
大宇陀道の駅を訪れる目的がある。

さきほど庚申講の所有物を拝見してきたお家である。

この日に行われた野依白山神社の上巳の節句行事。

大きなヒシモチを供える役目をもつのは小頭家。

これは決まりである。

ちなみに野依の節句は3月3日が桃の節句。

当地ではこれを上巳の節句と呼んでいる。

もう一つの節句は5月5日。

その日はチマキを供える。

その役目は大頭家が務める。

昔は家でチマキを作っているが、入手する原材料が困難になってきたため和菓子屋さんに注文することも可能になったそうだ。

この日に供えられたヒシモチはヨモギの葉が要る。

本来なら近場で採ってきたヨモギの葉を使うのであるが、この季節はまだ早い。

3月末から4月になればわんさか生えてくるが、今はない。

昔はどうしているかといえば、役目に当たるのが決まるのは前々年。

フリアゲで決まった役目である。

その年に生えてくる近場のヨモギを摘み取っておく。

それを冷凍して保存する。

冷凍庫なんぞなかった時代は土蔵で保存していたようだ。

そんな話をしてくれた小頭家は予めそうすることなく大宇陀道の駅で売っていた宇陀産の乾燥ヨモギを使用したという。

それはどんなものか見たくて立ち寄った大宇陀道の駅である。

ある、ある。

もう一つあったのはカンセンギョ取材でお世話になった和菓子屋「恋を乃屋」。

和菓子が世話してくれたわけでなく、店主のNさんだが・・・。

店主が手作りするヒシモチも食べてみたいが、さきほどお世話になった小頭家で貰ったばかり。

モチばっかり貰ってきて・・・という声が聞こえてきそうなのでやめた。

そんなあれこれがあった大宇陀道の駅の物販コーナー内喫茶軽食の場もある。

併設にれすとらん甘羅もあるが、価格帯が我が家の暮らしと合わないのでやめてうどんにした。



一杯が税込500円のうどんは山菜付き。

出汁は昆布であろうか、すっきりした味わいにコシがまあまあある麺がつるつると上がる。

手打ちでもなさそうな麺の具合はもしかとすれば冷凍もん。

生麺では絶対にちがうと思う麺が美味しい。

出汁も美味いしきつね揚げも。

なんせ丼椀からはみ出しそうなアブラアゲが美味いんだ。

大宇陀の豆腐屋さんが作ったのかどうか聞かずじまいのきつねうどんは僅か数分で完食した。

(H29. 3. 3 SB932SH撮影)

大宇陀道の駅・阿騎野新鮮菜直売所のヤーコン

2018年01月12日 08時57分03秒 | あれこれテイクアウト
今年というかたぶんに昨年末のころから我が家の人気者が一つ増えた。

かーさんが友達からもっらきたヤーコンを言われたまま料理した。

サラダだったのか天ぷらだったのか今となっては記憶が曖昧だが、口の中に美味しさが残照のように頭の中にある。

それから始まったヤーコン探し。

一般的なスーパーで見ることのないヤーコンを探し求めている。

たしか2月末に店終いした「おいしい市 豊国」に売っていたはずだ。

適当な大きさのヤーコンは高くもなく安くもない値段で売られていた。

薄切りしたヤーコンは油で炒めても美味しい。

シャキシャキ感というか、あの歯触りがたまらない。

天ぷらにすれば箸がどんどん進む。

飽きない味覚に惚れこんでからというものはあっちこっちの売り場を覗くくせがついてしまった。

直近で見つけたのは京都府南部の南山城村北大河原本郷農林産物直売所で、ある。

12月23日のコンニャク作り取材に訪れたときはなかった。

店員さんに聞いてみれば今年は不作で成りが悪いらしい。

数個出てはすぐに売れるから滅多に見ることはないと話していた。

それから1カ月後の1月20日。

所用で立ち寄った南山城村北大河原本郷農林産物直売所。

この日はあった。一袋に2本入って200円。

わりあい太めの長めのヤーコンは早速我が家の食卓に上がった。

産地は違っていても味は美味いに決まっている。

ヤーコンを売っているお店はスーパーでなく産直市場であることがわかってきた。

産直市場といえば道の駅。

ご近所さんが栽培した野菜などを販売している処である。

我が家の近くにあると云えば大和小泉町の「よってって」か斑鳩町の「めぐみの郷」くらいのものだが、未だ見つかっていない。

たぶんご近所には根菜類を栽培している農家さんがいないのだろう。

度々利用する西名阪国道の休み場である針テラスの「産直ごーごー」も売っていたそうだ。

売っていたには違いない。

期待するがもう時期を通り越したらしい。

西名阪国道といえばもう一つある。

山添インターを出てすぐの処にある「花香房」である。

ここはとにかく閉店時間が早い。

午後4時半ではいつも間に合わない、というか気がついた時間帯はいつも閉まっているのだ。

明日香村や大淀町の道の駅にもあると思うが・・・。

先に見つかったのはこの日の取材の合間に訪れた大宇陀道の駅内にある阿騎野新鮮菜直売所である。

なにかと立ち寄っては我が家の野菜類を調達している産直売り場である。

一品、一品の棚を見回る。

あった。

そこにあったヤーコンに飛びついた。

いや、手が伸びた。

一袋2本入りで150円。

100円売りの袋詰めもある。

我が家の食卓に出ればすぐに消えてしまうので2袋買った。

保存も効くのでもっと買えばよいが「こんなにたくさん買ってきてどうすんの」の声が聞こえてきそうなのでそこそこでやめた。

翌日に登場したヤーコン料理。

細切りしたヤーコンはシャキシャキ。

シーチキンを混ぜ合わせてゴマドレッシング。

マヨネーズも入れて和える。

下味に塩、胡椒もしたという料理は何といえばいいのだろうか。

名前なんぞどうでもいい。

味いものは美味いのであるが、写真はない。

後日、青椒肉絲にも出てきた。

タケノコ代わりの野菜がヤーコン。

シャキシャキ感がたまらない。

むしろ中国産のタケノコよりヤーコンの方が絶対的に旨いが、ヤーコン時期が外れたらどうしようもない。

再び立ち寄った15日。



この日も阿騎野新鮮野菜直売所でヤーコンを売っていた。

それも2本でたったの100円。

割合大きい、それも肥満ではなくスマートなヤーコンが2本。

いつでも使える保存食は買い置きした。

(H29. 3. 3 SB932SH撮影)
(H29. 3.15 SB932SH撮影)