「おおいわ結いの里」に出会った民俗用具。
うちにはもっとたくさんのモノがあると云ってくれた管理人のNさん。
ここ、と案内してくれたお家は古民家。
数年前、大阪から移住されたN夫妻が、現在の所有者である。
元々の住民が遺した民俗もあれば、Nさん夫妻が大阪から持ち込んだ民俗もあるらしい。
案内の道すがらに見た格子窓の家。
生活されているのかどうかわからないが、廊下にそっと置いている懐かしい道具が格子越しに見えた。
若い子たちは、見たこともないと思われる火鉢。
私が大阪に生まれ、暮らしていたバラック小屋のような木造市営住宅。
戦時中に見舞われた米国軍による大阪・大空襲にみな焼けた罹災者が移住した居住地に生まれた。
小学生の何年生だったか、記憶は遠い昔。
その家で祖母は和装つくろいをしていた。
どうしたのか、それは知らないが、水に濡れた綿を火鉢周りに置いて乾かしていた。
やがて乾きになった綿が、ふっと燃えて上昇した映像だけは脳裏に焼き付いている火鉢の思い出。
沸かしたお茶もそこでチンチンの音が鳴っていた。
そんな、かつての暮らしの情景がふっと蘇った火鉢。
ストーブは、とても重たい鉄製のガスストーブ。
大阪ガスの製品だった。
近年に見た鉄製(※鋳鉄)のガスストーブは、県立民俗博物館に展示物品として並べていた。
同じ型式ではないが、ネットにあったむちゃ重たい
鉄製のガスストーブ。
その鉄製ガスストーブが、えらいことになった。
ストーブに暖をとっていたそのとき。
いきなり接続していたガスの管が外れた。
ガス管の先。なんと焔が・・。
まるでバーナーのような勢いで火を噴いている。
その勢いで、管の先が、蛇のようにくねくね曲がる。
まるで生き物のように・・・
こりゃえらいことになった。
中学生だった私はオロオロするばかり。
と、そこに2歳下の実弟次男がとった行動は実に沈着冷静だった。
止まるまでの火吹きのガスホースはくねくね動き回る。
足で踏んで止めようとしたが、そりゃ無理。
火吹きのホースを両手でもった次男は、90度以上に折り曲げてガスの噴出を停めた。
火吹きの状態は落ち着き、ガスは止まり、火も出なくなった。
元栓を締めに走った私であるが、腰が抜けるほど緊張感が走っていた。
その私をさておき、次男は緊急対処に自信をもった。
およそ55年以上も前の体験。
原因は鉄製ガスストーブに接続するガスホースの管止め器具がうまくはまってなく緩んでいたことによるもの。
その後に開発された
コンセント型ガスソケット・ガス栓カチットの登場により安全性が飛躍的に高まった。
カチット製品が登場するまでの期間は、二度とそのようなことが起こらないよう、安全に安全を点検するクセがついた。
ここで長話になっても仕方ない。
足をあげてN家の古民家に向かう。
辻にあった常夜燈2基ある。
正面から見た左側に建つ常夜燈。
「古座中」に目が動いた常夜燈は「八幡宮」。
もしかとすれば、であるが、大岩に宮座があったのではないだろうか。
黒田一充論文「関西大学博物館着紀要」・『
奈良県庁文書の宮座調査資料』がある。
『昭和十一年祭祀並宮座調』と、『昭和四年大和国神宮神社宮座調査』史料から調べられた当時の調査データからは、大岩の宮座は収録されていない。
尤も、大淀町に記載があったのは、大淀町増口・水分神社だけしか記録されていない。
増口の宮座は「大字上市宮座に12人。増口宮座は最年長者が当番神主」に就くというだけだ。
座名も記載されていないので、詳しくはわからないが・・・、大淀町の他大字については全く記載がない。
たぶんに県庁から求められたアンケート調査に回答されなかったのであろう。
気になる大岩の「古座中」。
古座があれば、新座があってもおかしくない。
大岩は、かつて西の大岩に東の大岩の2地区であった。
たしか2地区それぞれにお寺さんがある。
東に大蔵寺、西は西照寺があるから、神社も同じように、東に大岩神社、西が八幡神社であろう。
実は、撮った常夜燈の右側にも石塔がある。
比較的、新しく建之された感のある石塔正面に刻印もなかったので記録に留めなかった。
そういえば撮った左側の「古座中」もどことなく不思議さを見せる。
「古座中」の刻印があるその下の台座と石塔にのせている笠・宝珠との風合いが異なるのだ。
機会あれば、尋ねてみたい大岩の文化歴史のひとつである。
その辻から少し歩いたところが、移住した我が家だというNさん。
その角庭にあった井戸に目がいった。
生活感のある井戸は、現役であろう。
木の蓋に井戸水を汲みあげる電動ポンプがある。
かつては手押し式の井戸水汲み。
その当時以前は、釣瓶(つるべ)式の水汲み。
時代文化とともに使いやすさが暮らしを豊かにしてきた。
この日は、時間的な余裕もなく、N家に拝見したい民俗用具を先行するが、古き井戸を守ってきた当主とは、是非ともお聞きしたい「井戸替え」と「井戸神まつり」がある。
N家の門をくぐったそこにあった大量の物品。
なにからなにまでごった返し状態。
N夫妻がかつて集めたさまざまな民俗道具に埋もれそうな情景である。
興味そそられる数々の民俗用具をじっくり見ていたいが、今はその余裕はない。
ただ、その用具の中から、是非とも撮ってほしいと、視線を感じた木製の彫り物。
さりげなく置いていた彫り物は、長寿の印し。
表情豊かに、微笑みの高砂人形尉(じょう)・姥(うば)の板彫りである。
こっちに行くと玄関、と案内されたそこにドーン。
存在がすごいこいのぼりの支柱。
ながーい木(※長生き)の呼び名がある、かつて杉の葉を天頂にもっていたこいのぼりの支柱である。
くぐりかけた玄関の真上に見た記念のしゃもじ。
墨書名は、先代の住民であろう。
県内事例にある民家住民の祝い事は八十八歳の米寿の祝いのしゃもじ。
あるブロガーさんは、
桜井市金屋に見たしゃもじは、長寿祈願若しくは御礼とあった。
ある工務店さんが歩いた初瀬街道。
名張市の鹿高集落に見つけたしゃもじはテハンも・・・
尤も、テハンなら私も記録した
室生下笠間の事例を公開している。
玄関くぐってすぐ、いきなり見上げた天井。
木製の梯子を据え付けていた。
2階にあがる梯子は垂直立て。
非常用の梯子でなく、物の上げ下げに使う梯子だろう。
なんせ、まだ居住してから月数が経っていない。
一部始終がまだわかってない、という。
一間に一歩入ったそこにオクドさんとも呼び名がある火焚きの竈(かまど)。
竈よりも先に気づいた天井につくられた構造。
竈の煙を排出する煙突の先にあった。
古民家にあがるとき、常に見てしまう天井の構造。
そう、ここにも見つかったススダケを据えた構造。
竈や囲炉裏にくべる焚き物。
燃えた火にくすぶる煙が上昇した天井に煤がたまる。
もともとは女竹(めだけ)と呼ばれる竹に煤が付着しているから、煤竹(すすだけ)と呼ぶ。
その煤竹の隙間に木材の欠片。
たぶんに杉皮だと思うが・・
さて、竈である。
タイルを貼りつめた竈は、そんなに古くないが、なんとも不思議なカタチ。
半円に切りとったかのように思えたお釜が気になる。
半円球のような形の古釜は、茶釜のようなぶつぶつ凸凹はないが、鋳物製の飯炊き釜。
なんやら文様が見られるが、判別不要。
こんな形の羽釜(はがま)は、これまで見たこともない。
蓋を取ってみたら、なんだ、というかもしれない。
その蓋に置いた道具は拍子木。
今もきれいな音が出る拍子木に、思わず詞がでてきた「火のようじん~カチカチ マッチ一本 火事のもと~カチカチ ・・・」。
腰を下ろして見た竈の焚口。
これもまた鋳鉄製であるが、なんと「火の用心」と漢字の文字があった。
素晴らしい「火の用心」の文字に、毎日の火焚きに注意を払っていたことだろう。
火場にある竈に見た「火の用心」は、確認できたが、護符はない。
まあ、出入り口の玄関内部にもあるのでは、と思っていた逆さ文字で書かれた「十二月十二日」の護符。
泥棒除けの護符であるが、移住されたN夫妻は、泥棒除けの護符も「火の用心」も知らない、という。
大阪吹田出身の旦那さん。
千里ニュータウン開発や仕事柄、万博事業にも絡んでいたそうだが、護符は知らない分野。
生まれ育った地域に見られなかったようだ。
その玄関表にあった紐引きカウベル。
そして、生まれ故郷の淀川に泳いでいた地域に見たことがある竹製のモンドリ。
大きな仕組みだが、さて何の魚を採っていたのだろうか。
(R3. 2.17 EOS7D/SB805SH撮影)