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小説 囚われた男(10)

2006-11-18 11:25:14 | 小説
 生実に視線を貼り付けている久美子を見やった。久美子は首を振りながら
「ううん、いいんです。聞いてみたかっただけ」
しばらく、エンジン音とボートが波を切り裂く音が静寂を破っていた。
「お子さまは、いらっしゃるのですか?」突然久美子の声がする。一瞬の間があって
「いや、実は妻も子供もいません」久美子はなぜかほっとしたような気がした。気詰まりな空気が漂いだしたので
「二人とも交通事故で亡くしました」生実の表情は心ここにあらずという途方にくれた生気のない顔が、薄明かりの照明に映えていた。久美子は何か不穏なものを感じて
「ごめんなさい。おせっかいなことを……」
「いえいえ、いいんです。もう十年も前のことです。実は、妻も久美子さんと同じレズビアンだったのです。ただ、バイセクシュアル、両性愛者といわれていました。
 告白されたのは、子供が生れてからです。最初はショックでしたが、彼女の恋人に会ったり性同一性障害や同性愛者を支援する団体に行ってみたりしているうちにいろんな事が分かってきて、妻の恋人と私の三人で映画や食事を楽しむこともよくありました。知的な会話が上手な相手でした。楽しい思い出です。それに優しい人でした。
 妻と子供が亡くなってしばらくショック状態のとき泊まってくれて、ベッドも私のベッドで抱きかかえるようにしてくれました。
 おまけに、欲求があればいつでも応じてあげる。本来女性にしか許さないことだけど、奥さまとは一心同体の絆なの。だからあなたなら許せるわとまで言っていました。さすがにそれは出来ませんでしたが」生実の頬を一条の涙が流れ消えていった。

 久美子は生実をうしろから抱きしめた。エンジンを減速して、生実は振りむいて抱き返し、唇にキスをした。二人の舌は生き物のようにくねりながら絡まった。
 男とのキスも、とろけるような味わいに驚いて、一層体を生実に押しつけた。ひょっとして、私もバイセクシュアルかもと考えながら。

 キャビンからの階段に足音がして、増美とテルマが現れた。生実と久美子は唇を離していたが、まだ抱き合った格好で立っていた。
 増美は唇を尖らせて不機嫌な顔を向けてきた。テルマは可愛い笑顔で見つめてきた。とうとう増美は私のものよと言いたそうだ。
「テルマ、下に行こうか」と増美が促したが、生実は「いや、ここに居てくれ。私は下に用事があるので、舵輪を持っててほしい。
 それからテルマと増美さんは周囲の船に注意してほしい。何かあったら大声で呼んでくれ。いいね」なんだか命令口調になっちまったなーと思い、久美子と増美との間に緊張感が漂っていたので、いまはまずいのかなとも思うが、分解した拳銃を海に捨てねばならない。クローゼットに急ぐ。

 三人はしばらく黙って立っていたが、「とんだ濡れ場を見ちゃったわね」と増美がからかうように言う。嫉妬でぎらついているようでもない。意外にしらーっとしている。
「私どうかしてたのよ。よく分からないけど、初めて男性に欲望を感じたわ。だからいま戸惑ってるの」
 テルマは目をぐりぐりと回して久美子を見やる。増美は笑顔になっていた。久美子はこの二人はもう出来ていると強く感じた。
「増美、だからといってあなたと縁を切るつもりはないわ。仲のいいお友達でいてくれたらと思うけど」テルマは右手を増美の腰に回していた。
           
              上空からの海ほたる 上方が千葉県
 生実が階段を駆け上がり操舵を交代して海ほたるを左舷に見ながらUターン、夢の島マリーナに向けスピードを上げる。テルマと増美はすでに姿を消していた。
 室内灯を消すと計器の赤や緑の光が、生実と久美子の顔にほのかに投げかけ影を作っている。
 生実は久美子の上唇をそっと吸った。熱い吐息と喘ぎが漏れてきて、久美子の舌がまたもや強烈に踊りだした。その嵐のような口撃から、ようやく解放されて、胸を大きく弾ませながら「どお、これから家に来る?」と口にしてから、しまったと思った。
 自らの生業(なりわい)から自宅を安易に人に知られてはならない。この不文律をうっかり忘れていた。幸いなことに久美子の返事は
「ぜひ、行きたい! でもまだバイセクシュアルになれてなくて決心がつかないわ。ごめんなさい!」
「いや、いいんだ。私の方が性急だった。あなたの立場も考えずに」

 クルーザーがマリーナに戻ったのは、もう午前一時半を過ぎていた。桟橋や建物の外灯が一枚の写真のように、動きのない静けさを伝えている。
 その静けさの中に、一人の男と三人の女がどやどやと踏み込んできた。
生実はタクシーを呼んで女性たちを送り届けるようテルマに依頼する。テルマには、後日チップを大いに奮発することになるだろう。
 久美子が最後に乗り込んで、生実の手を握って名残惜しそうに見つめてきた。奥に座ったテルマと増美はけらけらと笑っている。
生実は、タクシーのテールライトが角を曲がって、夜の闇に消えるまで見つめていた。それから第一駐車場に停めてあったパジェロに乗り込んで、新川町のアパートに向かった。