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小説 囚われた男(8)

2006-11-12 13:00:00 | 小説
 久美子がちらりと時計を見ると、十時になろうとしていた。大きな影が出来たかと思ったら、あの男がニコニコ笑って立っていた。
「はじめまして、生実です。先ほどはぶしつけで失礼しました。でも歌はとてもよかったですよ。本当にお二人ともお上手ですね。お世辞でなく」
「江戸川です」
「千代田です」久美子と増美は自己紹介した。
「どこかで聞いたように思いますが」生実はまじめな顔をして言った。
「ええ、どなたもそうおっしゃいます。東京二十三区のうちの二つですから」久美子もまじめな顔で答えた。
増美が突然「あのー、お名前おゆ……なんとおっしゃいました?」
「おゆみです。生れると果実の実(じつ)と書きます。どなたにも聞き返されますよ」

 音楽はダンス音楽に変わっていた。
「踊っていただけますか」生実は久美子に視線を漂わせて言った。久美子は一瞬増美を見つめた。増美はあっけらかんとした顔で「踊ってらっしゃいよ」と宣告する。フロアで組み合って増美の方に視線を移すとテルマが近づいていくのが見えた。

 曲はグレン・ミラーの「ムーン・ライト・セレナーデ」が甘くささやき、ターンのステップで太ももが触れ合うと久美子は今まで感じたことがない気分を味わっていた。
 がっちりした筋肉質の体で抱かれていると、なぜか安心感も与えてくれる。
生実は、この女性はレズだから今夜の楽しみはあきらめることになるのかと考えていた。それにしても魅力的な女性だ。レズとはなんとも残念だ。
                
 このレズ情報はテルマが囁いてきた。テルマは増美がお目当てだから、久美子をダンスに誘ってほしいとも言った。策士のテルマめ。
 踊り終わってボックスに戻ってきた生実は、予期しえない話しを聞かされる。テルマが意気込んで
「キヨシ、クルーザーが見たいんだけど、今からいい? ご都合は?」ときた。増美はにこりとして興味深そうだが、久美子は何のことか分からずぽかんとしている。

 生実はすばやく考えをめぐらし、海に出る絶好の口実が出来たということだが「江戸川さんや千代田さんの都合もあるだろうし、それに夜も遅いしね」と口走っていた。
抜かりのないテルマがまたもや
「増美さんの返事はOKよ。久美子さんはいかが?」
主導権を握られて久美子は面白くない。おまけに増美まで横取りされそうな気配。それでも内心生実に興味を持っていたので
「そうね、明日は土曜日だし夜中になっても心配しなくてもいいし、それに冬の東京湾も初めてなので行ってもいいわ」