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小説 囚われた男(6)

2006-11-06 11:12:34 | 小説



 ソファでうとうとしていた生実は、はっと目をさまして時計を見ると、夕方の四時半にもなっていた。この仕事の疲労度は、カーレース場で時速三百キロの高速で車を運転するか、フルマラソンの距離を走ったようにぐったりとしてしまう。
 もっとも、車を走らせることやマラソンを走ることで刑務所に入れられることはない。
 この仕事は、その危険が付きまとってきて精神的疲労の方が強い。そんなわけで、大いに気晴らしが必要になる。そうは言っても何事も準備や後始末を怠ると、あとで悔やむことになる。

 眠気覚ましの濃いコーヒーを淹れて、新川町のアパート五階の窓から見る都心は、早くも黄昏が訪れつつある。五階程度の高さからでは、ビルの隙間から覗くようなものだ。もっとも高所恐怖症の生実にしてみれば、これが限度の高さといえる。
 浴室で念入りに体を点検する。体は筋肉の塊のようで、四十四歳にしては衰えが見えない。1キロ3分半で走れることがそれを証明している。

 柑橘系のコロンをすり込んで白のワイシャツにブルーのネクタイ、濃紺のブレザーとグレイのパンツ、磨き上げられた茶色の靴という格好は、洋服屋で見かける胸部マネキンに着せた背広と、全く同じ形をしている。大胸筋を鍛えている男なら、うらやましく思う体形だ。

 今朝使った九ミリオートマティック拳銃を、上着の右ポケットに滑り込ませる。地階の駐車場で、三菱パジェロ・スーパー・エクシードのV6 3800㏄に乗り込みキーをひねると、220馬力エンジンが唸りを上げて目覚める。
 暖機の間、車の周囲を一周、異常を点検する。窓に埃がついているが気にするほどでもない。再び車に乗り込んでシートベルトを締め、ウォッシャー液でフロント・ガラスを洗い流す。これで視界は良好。ギヤーをDレンジに叩き込み、ゆっくりと駐車場のスロープを登り、夢の島マリーナに車首を向ける。

 早めにライトを点灯して、繊細なタッチでピアノを演奏するキース・ジャレットのCDが、しばらくの間お供になる。
 首都高湾岸線の側道357号線に突き当たり、左折して新木場インターそばをマリーナのバースに入っていく。オーナー用の第一駐車場に車を停めて係留場に向かう。
                
 ヤマハCR133クルージング・ボートは、全長11㍍27、全幅3㍍55、総トン数5㌧、370馬力、キッチン、トイレ、シャワー、寝室があり長期バカンスに最適な設備を備えている。
 もちろん釣りの設備もある。キャビンのテーブルで九ミリオートマティック拳銃を分解してビニール袋に入れる。それをクローゼットの棚の靴箱にしまう。今夜出港して海にばら撒くことになる。

 携帯電話でタクシーを呼ぶ。金曜日ということもあって時間がかかるかもしれないと配車係が言う。「時間の方はいいよ。一晩中かかるのは困るけど……」お互いに笑いあって電話を切った。
 今日はかなり冷えた日で、見上げる空に雲はごくわずかに浮かんで、月の光がいやに冷たく感じる。固定桟橋に打ち付ける波のぴちゃぴちゃという音や、黒々とした熱帯植物園の輪郭や、遠くの倉庫の明かりが水面を彩っている。

 ふと、今は亡き妻と子供のことが頭をよぎる。どうしても忘れることが出来ない。思い出しても体が震えるほど怒りがこみ上げてくる。あれ以来殺しを専業とするようになった。ふーっと大きく息を吐いてその記憶を一時締め出した。