東京都内で唯一の坂東三十三箇所観音霊場札所である。東京見物の目玉といえる観光地でもある。
推古天皇36年(628年)宮戸川(現在の隅田川)で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)竹成(たけなり)兄弟の網にかかった仏像があった。これが浅草寺本尊の聖観音(しょうかんのん)像である。この像を拝した兄弟の主人土師中知(はじのなかとも、この人物の氏名には諸説あり)は出家し、屋敷を寺に改めて供養した。これが浅草寺の始まりという。
観音像は高さ1寸8分(約5.5センチ)の金色の像であるといわれるが公開されることのない秘仏のため、その実体は不明というほかない。その後大化元年(645年)、勝海上人という僧が寺を整備し観音の夢告により本尊を秘仏と定めたという。さらに平安時代初期の天安元年(857年。天長5年(828年)とも)、延暦寺の僧慈覚大師円仁が来寺して「お前立ち」(秘仏の代わりに人びとが拝むための像)の観音像を造ったという。これらのことから浅草寺では勝海を開基(創立者)、円仁を中興開山と称している。
雷門や仁王門は天慶5年(942年)、安房守平公雅が武蔵守に任ぜられた際に創建したとの伝えがありこの頃に寺観が整ったものと思われる。上記のようにウィキペディアに記載がある。
この日は快晴に恵まれ、修学旅行の生徒や英語、フランス語、中国語、韓国語などが交じり合った言葉が聞こえ外国からの観光客で賑わっていた。
雷門の前の車道には、人力車があり歩道には交番があってお巡りさんが立ち番をしていた。ここの英語表示が、KOBANでKOUBANでないのが解せなかったが、欧米人はコバンと発音するためかもしれないと思い直した。
雷門の大きな提灯を下げる仁王門から、仲見世の奥に本堂があってここも人であふれていた。
本 堂
お馴染の風景
本堂の内部
本堂の横に木々に囲まれた小さな一角があった。観光客の姿は見えず、ちらほらと日本人や外国人の単独行の人が見えるだけだった。なぜか喧騒から離れてほっと一息つける場所のような気がした。
そのほかの境内には、木々がほとんど見えない殺風景な景観で、ざわざわとした落ち着かない気分に見舞われた。
境内の端に重用文化財の浅草神社があり、浅草寺の草創に関わった3人を祭神として祀る神社で、明治の神仏分離以降は浅草寺とは別法人になっている。
もう一つの重要文化財二天門は、今年の9月まで工事中で囲いがしてあった。
浅草寺から銀座での昼食会に向かった。現役引退時の会社の同僚三人と18年ぶりの会食は、談笑のうちに時間が流れた。それにしても、そのレストランの客筋は、圧倒的に老若の女性が多かった。近頃、女性が元気だといわれているが、まさにその通りだった。