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ピーター・ブース・ワイリー「黒船が見た幕末日本」

2009-10-23 14:08:18 | 読書

          
 1945年(昭和20年)9月2日曇り空で涼しい日、横浜沖で日本が無条件降伏の文書に調印する日だった。旗艦ミズーリ号船上には、連合軍最高司令官マッカーサー元帥を始め、連合国軍の代表が揃っていた。ミズーリ号の停泊位置は、ペリーの黒船の停泊位置であり回転砲台の上には、ぼろぼろのアメリカ国旗が飾られていた。
 それはペリーが旗艦に掲げていた31の星を散りばめた国旗を、わざわざ持ってきたものだった。そしてご丁寧なことに、マッカーサーのアメリカ向けのラジオ演説にも「我々は、92年前のわが同胞ペリー提督を思い出しながら、東京に立っている。……」とペリーを引用している。つまり日本人を軍国主義の檻から、ペリーの意図した友好と自由への扉が開かれたと言うわけだった。
 この本を読み終わった丁度このとき、アメリカのゲーツ国防長官が来日していて、オバマ大統領訪日までに普天間問題の結論を出せと迫っていた。まるで1853年7月8日の黒船来襲とそっくりな展開になってきた。そして日本の対応も全くそっくりだ。1853年当時には、引き伸ばし作戦を画策したが、ペリーの武力行使を示唆する脅しに、ずるずると譲歩を余儀なくされた。今回も引き伸ばしを頭に置いているのは明白だ。だからこそ国防長官の厳しい表情での来日となった。
 引き伸ばした結果どうなるのだろうか。オバマ大統領来日中止と言う事態があるのか。もしそうなると外交上の信用失墜は計り知れないし基地問題の解決はかなり遠のいてしまう。この辺が外交未経験の政党の怖いところだろう。そのあいだに米中の接近がより密になり、日本の国際的孤立が促進される。いずれにしても日米双方とも約150年前と変わらないやり取りといえる。いつもアメリカの強い態度、日本の先延ばし戦術。
 余談はこの辺に置いといて、一体ペリーは何故日本に開港を迫ったのか。それなりの事情があったようだ。簡単に言えば、当時のアメリカは、捕鯨が盛んで太平洋で鯨を追っていた。捕鯨の用途は、油は明り用、骨は女性のペチコートの芯に使っていたという。黒潮に乗って日本近海までやってくるので、捕鯨船も水や食料などの補給、蒸気船のための石炭も必要とされた。
 それに国際競争の激化。当時はイギリスが世界を支配していたと言っていい。アメリカも中国租界に飽き足らず、日本に触手を伸ばしたと言うところだ。ありがた迷惑なのは日本だが、それも時の流れと言うべきか。
             
             ペリー提督
 いずれにしても、強硬に開港を迫ったマシュー・カルブレイス・ペリー海軍士官は、どんな男だったのか。引用すると「遠征隊員にとってペリーは気難しい存在だった。彼は自分の行為が歴史的重要性を持つものだと思っていたし、持病の関節炎のせいで、怒りっぽい性格になっていた。1820年代に地中海に出かけ、イズミルの岸でずぶぬれになって消火活動をしたのがたたって、それ以来長年、関節の痛みに悩まされていたのである。
 このとき五十八歳で、体重も増し、太鼓腹を突き出し、貫禄のそなわった風貌をしており、顔も肉づきがよく、常にしかめっ面をし、口元は引き締まっていた。
 髪は赤褐色で、白髪もなく、耳の周りは豊かなカールヘアになっていた。性格は率直で、部下に対しては威圧的だった」いわゆる陽気なアメリカ人とは程遠い人物だったようだ。
 著者のピーター・ブース・ワイリーは、1942年生まれ。サンフランシスコ在住の歴史家。ウィリアムス・カレッジ卒業後、ウィンスコンシン大学大学院で修士号習得(アメリカ史)。ベトナム戦争の反戦活動家として活躍し、政論雑誌『リバイアサン』創刊に関わり、編集を担当。その後、通信社パシフィック・ニュース・サービスの編集者兼記者を経て、ボブ・ゴトリーブとコラム配給会社ウェスト・ポインツ社を設立し、アメリカ西部に関する新聞コラムの共同執筆に携わる。出版社ジョン・ワイリー&サンズの取締役として、国際的な出版事業にも従事している。
コメント (1)
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