「吉原御免状」のその後である。吉原惣名主西田屋三代目・庄司又左衛門を名乗る松永誠一郎。宮本武蔵から伝授された二天一流の名手。
惣名主(そうなぬし)とは、自治的・地縁的結合による共同組織で、その指導的立場を言う。平たく言えば遊里の親玉だろうか。
老中酒井忠清が、その御免状を狙って裏柳生の義仙を使って奪取しようとする。荒木又衛門まで絡んでくる。
誠一郎には、幻斎 という唐剣の遣い手である参謀がいる。剣の達人にまとわりつく心象が物語の展開に従って納得させられるのも著者の力量か。つまり、数多くの敵を倒し味方も失った。やむを得ないとはいいながらも心の重荷として居座っている。剣豪は剣で死ぬ。
ましてや、93歳になる幻斎にとっては、愛妻の腹の上で死ぬなんて、最低の死に方と心得ている。
物語はクライマックスに到達する。荒木又衛門と幻斎の果し合いだ。ともに嬉々として死の決闘に赴く。そして立会人は、松永誠一郎。スーパースターの揃い踏みといったところか。
そして、剣の達人は性技も達人で、幻斎なんて93歳なのに吾妻という20代の女を狂喜させている。荒木又衛門の巨根、松永誠一郎の女を狂わせるソフトな愛撫。なかなかの芸達者な連中ではある。
こればかりではない、著者の薀蓄あるところも垣間見える。西洋の処刑と東洋の処刑の違い。
引用すると「憎しみのあまり、あるいは見せしめのために、肉体を切り刻んで殺すというのは西欧流のやり方である。いわゆる『鉄の処女』などという処刑用具を見ると、これでは即死である。
東洋の処刑は違う。その特徴は、何よりも生かしておくことにある。無理にも死なせないのである。ペニスを切り取って寿命の尽きるまで生かしておく宦官(かんがん)の罰。手足を切断して手当てを加え、生きながら甕(かめ)に入れ、厠(かわや)の底の置いたという西太后(せいたいこう)の処刑。立つことも坐ることも、勿論寝ることも出来ない檻に入れて獣なみに餌を与え、一生飼い続けるという罰の方法もある」想像しただけでも背筋が凍る。
そして吉原の女については「吉原の太夫は、売る女であって、売られる女ではない。そして己を売るのは、惚れた場合だけなのである。つまり太夫は恋の相手であって、単なる情交の相手ではない。
客としては太夫に恋をし、何とかして太夫にも恋させなければ、断じて肉体関係には入れないことになる。一旦、恋の関係を築けば永年の伝統によって磨き上げられ繊細化された性技が来る。恋という精神的要素に、この絶妙巧緻な肉体的快楽が重なるのである。そこにこそ吉原の太夫たちの『処女の及ぶところにあらず』という絶大な自信のよってくるゆえんがあった」
松永誠一郎は、過去に高尾、勝山という女に惚れられた。そして、性技を仕込まれたのである。そして、剣士の決闘には死の美学が漂う。