Wind Socks

気軽に発信します。

映画 ビング・クロスビー、グレイス・ケリー、ウィリアム・ホールデン「喝采(‘54)」

2007-07-10 10:46:45 | 映画

              
 今から53年も前の映画を観た。舞台劇を映画化したもので、モノクロで撮ってある。
 演出家のバーニー・ドッドは、プロデューサーの反対を押して新しいショーにフランク(ビング・クロスビー)を起用する。しかし、かつては有名だったフランクは、極度の自信喪失で酒浸りに落ち込んでいる。その原因が、幼い一人息子の手を放した隙に自動車事故で亡くしたからだ。
 若い妻ジョージー(グレイス・ケリー)は献身的に夫を支えているが、当のフランクは映画のセリフから引用すると“新聞や噂にも出なくなると恐れがわく、口実を探し出す。みな事故のせいと信じた。私がそう偽ったのは恐れのせいだ。全盛期にも私は恐れた。いつも恐れた。失敗をカバーするいい口実はありがたかった。飲みすぎても誰も非難しなかった。気の毒がった。それが効かなくなると手首を切った。死なずに人々の注意を集められる程度にね。
 また、みなが私に同情し理解を示した。私の悲劇を話題にした狙った通りに。それを保つためにウソにウソを重ねた。妻までウソの種に”
               
 フランクから真実を告げられる前に、ジョージーの口から事情が語られバーニーは思わず引き寄せてキスをしてしまう。そのあとのセリフ
ジョージー「あなたは私に対しいつも腹を立てた」
バーニー「それは違う。近づくまいとして怒ってたんだ」
ジョージー「もう何年も女として見られてなかった」
バーニー「君は驚きだった。貞節で意志が強く…君を知ったとき…」
ジョージー「キスのこと大げさに考えないで」
バーニー「承知です」そしてバーニーはドアから出て行く。
 残ったジョージーは自分の体を抱くようにして目を細め口元に薄っすらと微笑を浮かべる。私にはこのときのグレイス・ケリーが非常にセクシーに見えた。
 フランクのニューヨーク公演は成功する。バーニーから執拗に求婚してくる。ジョージーは悩むが、結局フランクを選んでハッピーエンドとなる。

 しっかりとした人生ドラマで見応えのある映画だった。監督ジョージ・シートン1911年4月インディアナ州サウスベンと生れ。1979年6月ビバリーヒルズでガンのため死去。映画制作時は、43歳だった。
 音楽ヴィクター・ヤング1900年8月シカゴ生れ。1956年11月カリフォルニア州パームスプリングで、脳溢血の発作のため死去。数々の映画音楽を世に送りだし楽しませてくれた。
 キャスト ビング・クロスビー1904年5月ワシントン州タコマ生れ。1977年10月スペインマドリードで心臓発作のため死去。ビング・クロスビーは、あの有名な曲「ホワイト・クリスマス」の元祖シンガーである。親しみやすい風貌と暖かい歌声で、「わが道を往く」の神父役やボブ・ホープとの珍道中シリーズでコミカルな味を出していたが、この映画のシリアスな演技には目を見張った。本作出演時50歳だった。
              
          左フランク・シナトラ 右ディーン・マーチンと
 グレイス・ケリー1929年11月ペンシルヴェニア州フィラデルフィア生れ。1956年4月モナコ王国レーニエ国王と結婚。世界の男性にショックを与えたと同時に嫉妬も覚えさせた。というのもレーニエ国王というのが、チョビ髭でずんぐりむっくりの冴えない男だったからだ。(私の記憶に誤りがなければ)
 1982年9月モナコで車の運転中、崖から転落して死亡した。(私はそのように記憶している)この映画でアカデミー主演女優賞を受賞し、ゴールデングローブ1955年世界でもっとも好かれる女優に選ばれる。全体に気品があってセクシーな口元に魅了される。本作出演時25歳だった。
              
 ウィリアム・ホールデン1918年4月イリノイ州ファロン生まれ。1981年11月重度のアルコール依存症で、酔って転倒頭を打ち出血多量でサンタモニカで死去。‘53年「第十七捕虜収容所」でアカデミー主演男優賞を受賞。本作出演時は36歳だった。
               
               グレイス・ケリーと

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 読書 ドン・リー「出生地」 | トップ | 映画 ニコラス・ケイジ、テ... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

映画」カテゴリの最新記事