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小説 人生の最終章(14)

2007-05-15 13:11:52 | 小説

18

 七月四日火曜日、けいを迎えにモノレールの千葉みなと駅に着いたのは、待ちあわせ時間午前九時少し前だった。車の中から周囲を見渡していると、こちらを向いて手を振っている女性が目に入った。
 けいだった。車を降り、手を振り返して、けいが来るのを待った。すらりとした肢体を、白のコットン地のサマードレスに淡いブルーの柔らかい布で出来たベルトを腰の横で結んでいた。
 襟ぐりの深い胸は、黒のキャミソールで谷間を覆いながら、胸の豊かさを何気なく見せつけると言う心憎い着こなしだった。手には麦わら風サマーハットを持ち、白のショルダーバッグを肩から提げ、足元はサンダルで涼しげな装い。薄化粧に口紅をきれいに引いていて、微笑むときれいな歯並びが見えた。
 香田は、こんな素敵な女性とのドライブに興奮していて、妻への後ろめたさはどこかへ置き忘れたようだった。その香田の服装は、カーキの短パンから日焼けした剥き出しの足にスポーツサンダルを履いて、白のポロシャツを羽織っているだけだった。
 近づいて来たけいは、にこやかに「今日はありがとうございます」と言った。
「いえいえ、こちらこそ」と香田は言いながらドアを開けた。けいはお尻から優雅なしぐさで助手席に座り、シートベルトを締めた。
 エンジンをかけエアコンのスイッチを入れて、車を発進させた。エアコンは強い風の吹き出しで瞬く間に車内を快適にする。混んでいる市街地から、国道二九七号線で勝浦に向かう。今日も夏の日差しが強く、三十度は簡単に越えるだろう。車内の静寂を破ってけいが
「香田さん、奥様には、なんとおっしゃって?」
「ただ一宮に行ってくると」
「それだけ?」
「ええ、その一言だけ。ただ、これには説明が要るでしょうね」
「そのようね。で?」けいの表情は見えないが、笑っていないことは確かだ。香田は話し始めた。
「実は一宮には、私の娘が借りたマンションがあるのです。娘はボディボードをやっていて、サーフィンにも興味があるので海の近くに拠点が欲しかったようです。
娘が言うには、家賃を払っているのでウィークデイに空き室にしておくのは勿体ない。お父さんも利用してと言うのでちょくちょく行っているわけです。
 じゃあ、妻がどうして行かないかという疑問が出てきますね。これにも訳があって、子猫を娘が貰ってきたのです。世話のかかるころで、妻はそれにかかりっきりと言うわけで、一宮に行くのも特に理由が要らないのです。
 しかも、一宮には電話もないし、私は携帯電話も持っていません。と言うわけで、一旦家を出れば糸が切れた凧と同じでふらふらとどこへでも行けるのです。これは悪いことですか?」
「少なくともいいこととは思いません。でも、私もこうしてご一緒しているのですから、ある意味で奥様を欺いていると言えるでしょうね」
「まあ、お気持ちは分かります。でも、折角のドライブですから、楽しく過ごすことにしませんか?」
「ごめんなさい。ちょっと固く考えてしまったようです」
車は田園地帯を走っていた。香田は、MDディスクを再生した。ジョニ・ミッチェルの「ボス・サイド・ナウ」で、大好きな曲だった。

 けいはその曲を聴きながら、なぜあんなことを言ったのか。詰問調で断定的な言葉に苛立ちを感じていた。でも、この曲は本当に心に響くものがある。と思っていると口から言葉が自然に飛び出していた。
「いい曲ですね。心に染み渡るようだわ」とけいは言っていた。
「ええ、何度聴いてもうっとりします。実を言いますと、この曲のことは知らなかったのです。映画の中で使われていて印象に残って、図書館でCDを借りてコピーしたのです。
 映画というのは「海辺の家」と「ラブ・アクチュアリー」に効果的に使われていました。よろしかったら、CDに焼いて差し上げますよ」
「CDに出来るのですか。パソコンを使って?」
「ええ、デジタルカメラの映像もCDに焼付けできます。ご迷惑でなければ、あなたのヌード映像もOKです」香田は思い切って言ってみた。
「あらいやだ。私なんかもう人に見せるようなものではないわ」香田の追及は緩まなかった。
「でも、その映像を自分のためにと言う意味なら分かりますか? よく聞きますよ。まだ張りのあるときの自分の裸体を残しておきたいと言う願望があると」
「もうその辺でおやめになって。ええ、ありますとも」と言いながら、香田の左腕を握った。香田は、そっと彼女の手を握り返した。彼女は、その手を自分の膝の上に置いて撫でていた。香田の股間が疼きだした。

 交通事故も起こさずまた起こされずに、勝浦海中公園の駐車場に車を止めた。時計を見ると午前十一時になろうとしていた。海中公園の見学に一時間ほどかかるとして、昼食はこの中のレストランで摂るしかなさそうに思われた。観光地の食べ物は、どこも似たり寄ったりで、美味しいものが少ない。
 そのあと風光明媚といわれる守谷海岸で、素足で海の渚を歩いたり、周辺の探索に歩き回ったりして、一宮に近い太東崎漁港の駐車場には午後四時ごろに着いた。
 車から降りるとむっとする暑さが襲ってきたが、それは一瞬のことで、海からの風が心地よく頬を撫でて通り過ぎる。西からの陽がまだ強く焼かれるような熱気を額に感じながら、突堤に歩いていった。
 サーファーが波間から勢いよく飛び出してボードに立とうとする姿や、釣り人が糸を垂れて熱心に海面を見ているのを、ぼんやりと眺めながらいつの間にか手をつないでいた。
 太東崎漁港の背後の小高い丘に、関東ふれあいの道があって、眺めを楽しむのにいいところだ。二人は急な階段に息を弾ませながら登っていった。ほんのしばらくで平坦なところに出た。左側は太平洋が広がり,右には房総の小さな起伏が見渡せる。けいに手を出すと、汚れたものでも掴むように指先を絡めてきた。
 三百六十度見渡せる突端には、小さな幅の狭いベンチが置いてあり、プラスチックのビールケースで支えてあるのは、地元の人の気配りだろうか。そのほほえましいベンチに座って太平洋を眺めた。香田は景色を意識していなかった。
 午後の遅い時間で人の気配がない。漁港や民家が見えるが、誰もこの展望台を凝視しているとも思えない。香田はそっとけいの手を取ってきつく握った。けいが顔を向けた。二人は見つめあい自然に唇を寄せ合った。舌が絡まり始め、けいのチュニックの上からノーブラの乳房に香田の手が伸びた。突然強い力で体を離された。
「ここでは――厭!」とけいが肩で息をするように途切れ途切れに言う。香田はうなずきながら「じゃあ、下りようか」二人は無言で下りていった。
 二人は、車に座っていた。西日をさえぎる丘で影が増し暗く感じる。海はまだ輝いていた。
「さっきはごめん。思わずああなってしまった」と香田はしょんぼりとして言った。
「いえ、それはいいの。厭といったのは、あそこではと言う意味。香田さん。して欲しいの」といって香田を凝視する。
「えっ、本当に? 後悔しない?」
「大丈夫よ。私も子供じゃないわ。このままお互いのお家に帰ってしまうなんて、耐えられない」とけいは言って大きく息を吐き、目を閉じた。


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