記事に「図々しい人たち」( https://news.yahoo.co.jp/articles/53b87767a4ff861d750a2fa1efcc0ce8f0917c13 )という善意を権利と取り違える社会動向が挙げられている。昔は、「世間に顔向けできない」など、「世間」という存在があったのだが。
善意というのは、トラブルのもとになる。例えば、善意で友人の車に乗せてもらったが事故にあったなどというのは、関係性と責任と補償の間になる。(MBAのネゴシエーションでの課題:第三者に解決をゆだねるなどの解決手法がある)
また善意は無限ではなく有限であり、際限のない要求は「ただ乗り」(相手への思いやりがない)や他の人を考えず全部使う「独占」(共有地の悲劇となり草が枯れる)は問題だ。(昔は、「はしたない」といったものだが。。。)
お店や、ホテルなどの善意に「つけ込む」のは、自己利益を「権利」として言う「強欲」の風潮だ。あるべきは、相互扶助・利益にむけた利他だと思うが。不安・同調圧力のなかでの憂さ晴らしだろうか。
さらに、災害関連の融資や住宅提供なども社会的な「善意」と考える。この返済や返却が、「事情考慮」と「図々しい」に議論が割れている。コロナ禍でのゼロゼロ融資も返済が滞っているようだ( https://www.asahi.com/articles/ASR1Z7HP1QDPUDCB01M.html )
考慮する理由や特例とする判断が必要なら司法の場を利用するのも一手だ。行政としては理由なく認めるとモラル・ハザードになり同様の対応が今後できなくなる恐れがある。かたや個人からは事情変更などの申し立てもあるはずだ。
善意は関係性を重んじてなされる。この関係性を保ちながら、判断をするのは第三者を入れるのが有効だ。その上で、結果を「世間」に明示するのが良いと思う