みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

ななみみず前身「みみざこ連」




仔ニャンコ・仔ワンコが新たなお家に迎えられるには、いつ頃が良いのでしょうか?
いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

砂漠の色

2017-03-09 | ぴんぼけ

なかなか新しい写真を撮らないので、古いピンボケをアップします





飛行機から見たサハラ砂漠です。
こういう色の境目などは、地面に立っていると却って分かりにくいものです。

砂漠にも白いものから黒いものまで、様々な色のバリエーションがあります。
写真集や砂漠のイメージ画像には白から明るい赤茶色の砂丘が多いですが、砂丘は時々あるだけで、砂漠の大半は「不毛の荒地」や「岩石大地」です。

玄武岩がゴロゴロしている黒い砂漠(正確には岩地)も好きです。そのうちアップするかも・・・


砂漠
サハラ砂漠
Syrian Desert


 今日の蛇足

オーストリアで新しい厚生大臣兼女性問題担当大臣(女性)が決まりました。前任大臣(女性)はガンのため最近亡くなりました。ほかにも近年、国会の議長(女性)がガンで亡くなっています。2人とも、ガンであることを公表してからも活躍、現職のまま世を去りました。


今週のラジオで「福島原発事故6年後」の特集を紹介しています。放射能汚染の問題は解決しておらず、一応の収束までにも数十年かかるはずですから、忘れずに注目していることが大切だと思います。







地下の秘密

2014-12-30 | ぴんぼけ

前回、忘れられないイスタンブールの猫さんをアップしたら、もうひとつ忘れられないものを思い出しました。


その超ピンボケ写真がこれです




これはイスタンブールにあるビザンツ時代の文化遺産、地下の大規模な貯水槽で、イエレバタン・サライと呼ばれています。ユスティニアヌス帝の時代532年から542年の間にに建造されました。長さ138m、幅65mで、28列に合計336本の円柱に支えられ、柱の高さは8m。古い時代の建築部品が転用されているため、メデューサの首が無造作に円柱基部に使われていたりします。それが却って不気味で神秘的な雰囲気をかもし出しています。

上の写真は私が撮った超ピンボケ写真。他にも内部を撮ってみたのですが、薄暗い照明なので、多少なりとも写真らしいのは、これだけでした

そこで、内部の神秘的な雰囲気は、Wikiフリー画像でご覧ください。


トルコ語Wikipediaにあった写真です

今でも水があり、クラシック音楽が流されて、非常に印象的です。雰囲気を楽しむため3回見に行きました。


イスタンブールの前身はビザンツ帝国の首都コンスタンチノープルで、オスマントルコが1453年にイスタンブールを占領して以降、オスマントルコ帝国の首都イスタンブールとなりましたが、1924年ケマル・アタチュルクトルコ共和国を樹立、首都をアンカラに移しました。しかし、イスタンブールは今でもトルコを代表する大都市です。

オスマントルコはビザンツ時代の重要な文化遺産を受け継ぎ、これを凌駕する建築や芸術を生み出そうと努力しましたが、私の印象では、ビザンツ時代の文化遺産の方が、ずっと強烈でした。ローマ時代の水道橋も見事でしたが、最大の傑作はハギア・ソフィア(アヤ・ソフィア)です。感動して毎日見に行ったので、係員に「あなた毎日来ますね」と言われました。



       


世界中ゴタゴタガタガタする中で、世の中ちっとも新しくならないまま「新しい年」なるものが来ます。
でも、猫さんを見習って来年もマイペースで暮らしましょう  

こんなボログですが、これからも宜しく







ぱるまりーあ

2013-06-06 | ぴんぼけ

前回の続きです

この写真も前回載せようかと思ったのですが・・・

・・・アルファベットが見えるので今回にしました

木で季節が分かります(12月)


これを見れば、キリスト教世界であることが一目瞭然

イスラム圏のキリスト教会はタイプが違います

教会の向こうに海が見えます

地中海です

教会の細部


イェレバタン・サライを思い出させる空間




ヤシに城郭


ヤシの並木が続く大通り



      


猫さんが散歩しているところといえばヨーロッパでは先ず南欧。
教会建築を除けば、とてもアラブ的な街並みの佇まい。

前回と今回のピンボケ写真の場所はパルマ・デ・マリョルカです
古代ローマ時代にはパルマリーア・パルメンシス(Palmaria Palmensis)と呼ばれていました。

十数年前のことで、アルジェリアからの帰り、飛行機乗り換えのため1泊しました。
翌日、飛行機に乗る前の空き時間に、「アラブ地区」とも言うべき歴史地区を散歩したときに撮りました。
当時の資料を見れば詳細データが分かるのですが、引っ越し後、探し出すのが大変なので、詳細データなしでごめんなさい
エンサイマダという名物のお菓子は買ってきました。美味かった~

当時は、アルジェリア内戦の終息期で、多くの航空会社はアルジェへの直行便を取り止めていました。
それで、アルジェ→パルマ・デ・マリョルカ→バルセロナ→ウィーンという、とても面倒な空路で戻りました(行きはウィーン→マドリード→アルジェでした)。

この2~3年の「アラブの春」でも、アルジェリアは、特に政変がありませんでした。
1990年代のアルジェリア内戦で、同様の紛争が続いたため、今回は巻き込まれなかったのかも知れません。



           

「震災で消えた小さな命展」これからも続きます
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後期スケジュール






日々の思い

2013-01-13 | ぴんぼけ

過去に5回シリアに滞在、アラビア語集中コースを受講した私は、もう一昨年からずっとシリア情勢を心配しています。お世話になった人たちはどうしているか、遺跡の数々はどうなったか・・・ウィーンにいる友達や知り合いにも、シリア関係者があります。

本当は別ブログに分類整理して順次アップしていく予定が、もう長らく頓挫
(歴史的に分類して古代から現代まで並べようなどと思ったので挫折中


今回は例外としてシリアの話です。


既に昨年夏NZZ(新チューリヒ新聞)にも大きな記事が載りました

シリアに極めて多い古代の遺跡が内戦で破壊されるのではないかという危惧を述べた記事

写真の部分をちょっとアップ

世界的に名高い遺跡都市パルミュラです


私もパルミュラが好きで3回ほど行っています。当時山ほど撮ったピンボケ写真のごく一部です。


遺跡都市の入り口部分:古代都市の城門

山の上に見えるのはアラブ時代の城塞です

入り口と中央コロネード(メインストリート)、円形劇場などめぼしいものは一定程度修復が進んでいました。


この風景はガイドブックにも登場:これは私の撮った写真です

古代ローマの列柱とアラブの城塞という奇妙なコンビ


ここらあたりから大分荒れています、つまり廃墟のまま


上の写真の遠くに見える2本の柱


古代の彫像も無造作に放置されています



ディオクレティアヌス帝の軍営基地と呼ばれる部分

遺跡都市入り口から一番奥まで来た部分
ベドウィンの家族が石の小屋を建てて住んでいました(多分不法建築)

既にアレッポのスーク(バザール)が戦闘で焼失したことはアップしました。アレッポの名高い城塞やモスクも破壊されています。
パルミュラや他の遺跡、ダマスカスの歴史的建築や国立博物館の膨大な所蔵品などが被害を受けないかと大変心配です。



今通っているアラビア語コースの主催者もシリア出身ですし、私のクラスの人もお父さんがシリア人です。主催者の家族や親戚は移住を考えているということで、クラスの人の親戚は、既に殆どヨルダン、レバノン、トルコに避難しているそうです。私は毎日シリアのことを考えていますが、彼女は辛いので考えたくないと言っていました。
去年までは「早く終息するといいね」と言っていましたが、もう簡単に終息する可能性は少なくなりました。
レバノン内戦は15年続きました。そんなに長引かず早く終わって国内情勢が安定することを祈るばかりです。





渡し舟

2011-08-29 | ぴんぼけ

久々にカテゴリー「ぴんぼけ」です

実はみみずボログの自前写真はみんなピンボケ

バーゼルの渡し舟です


バーゼルの友達の住まいはライン川に面しています


ベランダの下にライン川が見えます

ここからちょっと歩くと渡し舟の乗り場

舟はミュンスターに向かいます


一切動力を使わず、水流と両岸をつなぐ鋼索と歯車の組み合わせで往復


立っている人が「船頭」さん


ミュンスターが近くなりました


帰りの舟から見た川面


上から見た渡し舟



もちろん、往復の間にはミュンスターをゆっくり見ているのです。
バーゼルのミュンスターは素晴らしい歴史的建築なのですが、離れて撮らないと全体像が入らず、全体がある程度わかるのは渡し舟からの写真だけ


ドイツ語圏3国(ドイツ、オーストリア、スイス)では、大きな歴史的教会に「ドーム」または「ミュンスター」という呼称が用いられます。ドームはラテン語のドームス(家)に由来し、一般的には司教座あるいは大司教座となっている教会です。
ミュンスターはラテン語のモナステリウム(修道院)に起源する名詞です。
ライン川より西にあるのがミュンスターで、東にあるのがドームだという説もあります。


Wikipedia:Basler Muenster(ドイツ語ですが、ミュンスター内外の写真が沢山あります)

Wikipedia:バーゼル

みみずボログの以前のバーゼル記事
スイス人の発見
堅気なバーゼル市民
3ヵ国1日ツアー

バーゼルに関する詳しい案内はこちら
Wikitravel:Basel(英語)




     


ゴマグリモナカのMichimichiさんが描かれた脱原発ニャンコの缶バッジ


必ず身に着けて歩くという方は、下をクリックして申し込み方法をご覧ください。
NO NUKES NECO project
色々な脱原発バッジがあります




茜空

2010-11-11 | ぴんぼけ


三夕の歌がある「秋の夕暮れ」は、やっぱり特別なのでしょうか
数日前ベランダからのピンボケ写真です


赤く燃える雲(西の空)


南の空


夕空の飛行機雲:ちょっと見えにくいけど・・・


全体




 茜空が良く似合いそうなもみじちゃん 


 画像クリック





もくもくも

2010-07-15 | ぴんぼけ


もくもく湧く雲は、自然が空に描き出す芸術作品です

フィルム時代のピンボケ雲をスキャンして並べてみました


以下4枚は以前住んでいた家の窓から撮ったもの










典型的な離陸時または着陸時の雲写真

どこの飛行場か忘れました が、砂漠の上ではなさそうです


シリア砂漠の遺跡都市パルミュラ:アラブの砦から見た砂漠

墓所の谷と呼ばれる古代都市国家時代の墓地

遺跡都市のパノラマはこちら


プンタ・サッビオーニへ向かう船から撮ったヴェネチアのラグーナ

後方の島はヴィニョーレ

プンタ・サッビオーニは、アドリア海へ出入りする水路を隔ててリドと向かい合う島カッヴァリーノの集落。ここへ向かう定期船は、ヴェネチアを起点にラグーナを巡航する定期航路では、最も遠くまで行くものに数えられます。イタリア語のWikipediaにも出てきません。つまり、な~んにもありません

画面中央右側、奥深い水路の見える島がヴィニョーレ(Wikipediaフリー画像)

左後方、屋根瓦で赤っぽく見えるのがヴェネチア本島、左手前は映画祭の島リド。ついでに、右上後方がムラノ・ガラスのムラノ島、ヴェネチアとムラノの間にあるのが墓地の島サン・ミケレ
 ここから蛇足
更についでに、ヴィニョーレの左の島はチェルトーザで、1997年まで軍の射撃場として利用され、近年は再開発プロジェクトが実施されつつあるそうです。



復帰という転落

2010-05-06 | ぴんぼけ


かなるぐらんで薄暮の港に続いて、トリエステの複雑な歴史をごく簡単に紹介します

現代で言えばイタリア東北端にあたるトリエステは、北のオーストリア、東南のスロヴェニアによって、ゲルマン文化圏、スラブ文化圏と接しています。そのトリエステが、中世に神聖ローマ帝国(その後のオーストリア=ハンガリー帝国)の一部となったのは・・・

中世から近世のイタリア半島は、都市国家が互いに抗争する「戦国時代」だったからです!

トリエステは、強大なライバルであるヴェネチアに征服されるのを避けるため、ハプスブルク王朝の傘下に「身を寄せ」ました(つまりオーストリアの一地方になりました)。
ハプスブルク王朝が、ネーデルランド、スペインなど他の「沿岸領土」を失うと、トリエステは産業革命以降、王朝領内唯一の海港として黄金期を迎えました。これと前後して「一民族一国家」という民族主義が台頭します。その結果、バラバラだったイタリアはリソルジメント運動を経て1861年、イタリア王国となります。トリエステの市民の大半はイタリア人(他はオーストリア人、スロヴェニア人)だったにもかかわらず、まだオーストリア=ハンガリー帝国の一部でした。その反面、トリエステには豪華な建築の数々が建てられました。
第一次大戦でイタリアが連合国側から同盟国であるオーストリアに宣戦すると、トリエステはイタリアの側に立ってオーストリアと戦いました。

これがトリエステの「リソルジメント」で、市内に記念館があります。

館内の様子




イタリア統一のシンボル、ガリバルディの肖像


第一次大戦当時のイタリア軍の制服


当時トリエステの部隊が用いた市章入りの旗


そして、友達の親戚、O家の初代O氏の遺品


初代O氏は、本来ゲルマン系の姓を有するトリエステ市民でしたが、イタリア軍に加わるため名前もイタリア名に変えてオーストリアとイタリアの国境を突破。彼は戦死しましたが、その功績により、遺族には、イタリア政府から正式にイタリア語の姓を認められたのです。


では、トリエステの運命がどうなったかと言うと・・・

ハプスブルク王朝唯一の海港として栄えたトリエステも、イタリアに復帰すると、地方の海港に過ぎなくなりました。しかも第二次大戦後は、トリエステと周辺地域をめぐるユーゴスラヴィアとイタリアの対立で、しばらく宙ぶらりんに・・・
冷戦の時代は地中海沿岸地方における西側最東端で、言わば「地の果て」。念願の復帰を果たすことによって「辺境の目立たない海港」に転落したのです。
漸く冷戦時代の終結とともにトリエステにも新たな時代が訪れたようです。

オーストリアだった時代が長いため、市内の雰囲気はウィーンに良く似ていて、ウィーン風の伝統的なカフェハウスもあります。ウィーン伝統の料理やお菓子が、今でもトリエステに当時の名称で存在します。味も一級

とても複雑な話を、あまり簡潔明快にまとめたとは言えませんがご容赦ください

そもそもイタリアの歴史も複雑なのです
お暇と関心のある方は・・・
Wikipedia:イタリア
Wikipedia:リソルジメント
Wikipedia:トリエステ
などご覧ください

その他の項目は煩雑になるので一切無視



薄暮の港

2010-05-02 | ぴんぼけ


前回に引き続きトリエステのピンボケ写真です


夕闇に浮かび上がる市庁舎(イタリア統一広場)


広場の前、港に面した大通り


ホテル・サヴォイアの窓に映る残照


港の一角


ムッジャからのフェリーが到着



トリエステのすぐ南はスロヴェニア領ですが、せいぜい幅25~30kmで、その南側はクロアチア

トリエステの豪華な建物は、19世紀後半から王朝崩壊までの繁栄期を今日に伝えています。
トリエステは複雑な歴史を秘めています。
そのお話は、またボチボチ・・・




かなるぐらんで

2010-04-30 | ぴんぼけ


カナル・グランデ(直訳すると大水路)と言うとヴェネチアのものが有名ですが
トリエステにも短いカナル・グランデがあります。

有明の月が残るカナル・グランデ


水面に映る建物


夕暮れ時のカナル・グランデ


1900年のカナル・グランデ(Wikipediaフリー画像)

当時はオーストリア=ハンガリー帝国の最も重要な港でした

カナル・グランデはボルゴ・テレジアーノと呼ばれる地区の中心軸とも言うべき存在。
これは、マリア=テレジア女帝の時代、人口急増に伴って開発された市域で、
その統一的な街並みが見事です。

ボルゴ・テレジアーノ:中央部に見える水路がカナル・グランデ

トリエステ観光局のパンフからスキャンした航空写真


Wikipedia:トリエステ


以前のトリエステ記事
どこの海?
ムッジャ
黒猫だんご