みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

ななみみず前身「みみざこ連」




仔ニャンコ・仔ワンコが新たなお家に迎えられるには、いつ頃が良いのでしょうか?
いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

後の祭

2015-12-29 | 旧市街

仕事のため運動不足なので散歩してきました

市庁舎前のクリスマス市はクリスマスで終わりですが、美術史博物館自然史博物館の間のマリア・テレジア広場のクリスマス市は、そのまま年末年始市として続きます。まあ「後の祭」ですね

広場の「後の祭」ピンボケ写真を並べます


1)逆光の美術史博物館


3)広場の後方は自然史博物館


3)リンク大通りの向こうに「外ブルク門」

ナポレオンに勝った記念に建てられました

当時のヨーロッパの王侯にとってナポレオンは憎い宿敵だったのですね
「外ブルク門」と言うのは、正門がミヒャエル門だからです。

4)通りと左端に自然史博物館


リンク大通りは、車道、歩道、自転車道、駐車スペースなど幾つにも区切られているので、一見しただけでは幅の広さに気づきません。

5)広場の中央、マリア・テレジア記念碑


記念碑の説明はドイツ語ウィキだけ(他の言語はイタリア語)

6)屋台のひとつ

クリスマスの「後の祭」だから内容は同じ

でも、クリスマス期間は1月6日まで続くので、まだ一応大丈夫(何が大丈夫なのかわからんけど

7)ラウドン男爵の騎馬像


マリア・テレジア記念碑の中央には女帝が座り、その周囲を側近や重要な廷臣が囲んでいます。

8)広場の後方に「外ブルク門」


9)「後の祭」の看板

12月27日から元旦まで

10)保温用のケープ


11)シロクマさんと雪だるまさん専門店(ペンギンさんもいるみたい)


12)ロウソクの店


13)マスコットや小物

中央はロウソクのようですが、火をつけるのはもったいない・・・

14)色々な飾りもの

遅いけど今から飾っても誰も文句は言わない

15)スノードーム(スノーグローブ)がいっぱい

ウィーンが発祥の地とも言われています

16)広場を通り抜けて振り返ったところ、後ろは自然史博物館



広場の後の通りを渡った次の目的地(散歩コース)へ続きます でも乞無期待


次の更新は来年になると思います。どうぞ良い大晦日をお過ごしください  






希望の星

2015-12-24 | その他

またまた、またまた間が空いてしまいました。ゴチャゴチャ小さい仕事が続いて・・・
しかも、これから「仕事のクリスマス」になります その前に急いでちょこっとアップ


私が通うアラビア語コースの主催者(シリア出身、国連勤務)が、シリアとの国境に近いトルコの難民キャンプで教育・医療センターを設立しました。
その功績に対し、国連事務総長賞が授与されました。私が写真を見たいと言ったところ、彼女が、このチラシを送ってくれました。


左から3人目後が彼女です

本文は英語です。こちらでご覧ください

国連での仕事のほか、アラビア語コースを運営したりアラビア語圏の映画を上映したり、短編集を執筆・出版したりしながら、医療センターも立ち上げるなんて、スーパーウーマン

シリアの内戦は、まだまだ続くでしょうが、こうした人たちの努力が、いつか解決への道を切り拓くと思います

アラビア語コースの記事のひとつ


      


色々なクリスマスカードが届いていますが、一番クリエーティブでしかも簡単にできると感心したのが下のカード



緑枠は私がつけました

家族(両親と娘2人)の指紋に目と赤ポチと角をつけて「赤鼻のトナカイ」

上の行が「メリークリスマス」で、下の行が「2016年が良い年になりますように」



       

そういうわけで、一段落つくまで更新なしになりそうです。合間があれば簡単更新するかも・・・

こんなボログですが、どうぞ、これからも宜しく でも恒例、乞無期待


どうぞ、良い年末年始をお過ごしください  





初めての質問

2015-12-20 | ことば

またまた間が空いてしまいました
プロバイダーが新しいモデムを郵送してくれるというので注文したところ、モデムが届いた日から、ネットもメールも不通になりました。
新モデムを取り付けるのがややこしいので、シリア出身のアッシリア人の友達(コンピューター技師)に頼み、付け替えてもらいました


コスプレ猫さんは今回の本文と全く関係ありません




生まれた国と違う国に住んでいると、出身国のことを質問されるのはよくあること。
日本の近代化に関しては1868年を中心とする明治維新のことを話す機会が良くありました。
しかし、一定時期を過ぎれば、知人友人はもう質問を終わった後で、赤の他人から、いきなり質問を受けることもありません。

ところが、時々行く薬屋さんで、初めての質問を受けました。

外国人が日本語を喋るとき、その日本語から、その人の出身国が分かりますか?

ええー、そんなこと考えたこともなかったぁぁぁ

その後つらつら考えてみると・・・

ウィーンに住み始めた頃は、ちょっとマトモなドイツ語を喋られると、どれも同じに聞こえましたし、イタリア人とメキシコ人がイタリア語とスペイン語ですらすら会話しているのを聞いても、イタリア語とスペイン語の違いが分かりませんでした

が、何年も住んでいるうちに色々聞き分けられるようになりました。

イタリア語とスペイン語の違いは聞き分けられます。イタリア語の方が柔らかく、スペイン語はやや硬く、アラビア語の影響が感じられます。
ドイツ人のドイツ語、オーストリア人のドイツ語、スイス人のドイツ語も大体聞き分けられます。特にスイス人のスイス語(標準ドイツ語を話している場合)はアクセントやイントネーションがかなり違うのですぐ分かります。スイス独自のドイツ語を話されると殆ど分かりません

私の勝手な特徴づけで言えば
ドイツ人のドイツ語:透明で硬質
オーストリア人のドイツ語:不透明でソフト
スイス人のドイツ語:半分歌っているよう
(以上は全て標準ドイツ語の場合です)

ドイツ語圏以外の人が話すドイツ語で出身国までは確定できませんが、英語訛りとかスラブ語訛りは多少分かります。それに、外見で見当がつく場合もあります。

では日本語を話す外国人の出身国は?
振り返ってみると、何者か不明の人と日本語を話したということは一度も無いと気がつきました。
私が日本語で話したことがあるのはオーストリア人、ドイツ人、ダマスカス大学で日本語を勉強しているシリア人で、始めから国籍のわかっている人ばかりでした。

ウィーンのような大都市の薬屋さんだと、ドイツ語を使う外国人が薬を買いにくるのは日常茶飯事で、かなりの程度、聞き分け可能なのでしょう。


 追記

モデムを替えてくれた友達は、アラブ人ではありませんがシリア出身でアラビア語が話せるので、難民のための通訳ボランティアをしているそうです。






コプト教会

2015-12-14 | そこらへん

ちょっと急な仕事で、ちょっと間があきました

久しぶりに、知られざる教会です。ちょっと前のニュースで、カトリック教会のひとつが、コプト教会に譲られることになったと知りました。

私がウィーン南部に住んでいた頃、いつも電車から見ていた教会です。そばに行ったら、かえって全体を撮れないのでウィキ画像です


名称は「勝利のマリア教会」


ウィーン市庁舎を設計した建築家フリードリヒ・フォン・シュミットの設計です。
「勝利のマリア」という名称は、三十年戦争における白山の戦いでカトリック側が勝利したことに因むもの。

教会内部


外観も内部も、ヴェネチアのサンタ・マリア・デラ・サルーテ(健康のマリア)教会を連想させます。

みみずボログ以前のサルーテ写真
挨拶カード
旅行者のいない・・・

そもそも、こういう円形教会は内外とも一連のモスクを連想させます。一例:セリミエ・モスク
これは脱線です ここでのテーマはコプト教会

コプト教会は、ヨーロッパにキリスト教が伝播するより遥か以前にエジプトで成立したもので、東方諸教会のひとつです。福音記者マルコが最初の教会を建てたと言われます。

コプトはエジプトの古名で、当時の言語がコプト語です。イスラム化に伴うアラビア語の普及によってコプト語は、コプト教会の典礼で用いられるのみになっていますが(絶滅危惧言語)、復興運動もあるようです。

以前、何回かシリア正教会のミサに行ったことがあり、そのうち1回は、コプト教会との合同ミサで、シリア正教会とコプト教会のミサを体験することができました。
東方教会には、ヨーロッパのキリスト教とは違う、キリスト教の原初形態が伝承されているようで興味深いものです。

ウィーンには他に2つのコプト教会があります。そのうちアップするかも、かも・・・

これまで色々「知られざる教会」をアップしていますが、その1例がアルメニア教会


     
 

コプト語はロゼッタ石の解読で、重要な役割を果たしました。
シャンポリオンは、古代ギリシャ語、コプト語を手がかりにロゼッタ石のヒエログリフを解読しました。





上からの眺め

2015-12-10 | 旧市街

前回の続き、アルベルティーナの上から辺りを見たところ。


1)右はオペラ座の裏側

後方にリボンのクリスマス飾り

2)下のスナックスタンドに行列

ガイドブックにでも載っているのでしょう

3)スナックスタンド上の飾り


4)オペラ座の横側


5)アルベルティーナの階段


6)以前に紹介したアルベルティーナ広場


7)降りたところを進むと王宮正門(ミヒャエラートア)があります


8)これも以前紹介した泉水の冬仕様

あるいは修理中かな?

9)オペラ座横にも長い行列

ガイドツアーを待つ行列かな?立見席券購入窓口は別の場所のはずですが・・・

10)乗り降り自由の観光バス

観光名所ごとに停留所があります

11)オペラ座前のウサギさん

ほかでもないアルブレヒト・デューラーのノウサギさん

12)帰りの電停

並木と共存する停留所



文中のリンクと重複しますが以前のアルベルティーナ記事
殺された猫の幽霊
見ない展
広場の石碑






城壁斜面の名残り

2015-12-08 | 旧市街

前回の公園(庭園)奥には塀があって階段で上に上がれます。
以前には、この構造が不可解だったのですが、漸く、古い時代の旧市街を囲む防壁と外側斜面(防衛のため大砲は兵士を配置)の名残りではないかと思い当たりました。


1)高くなったところに大温室があります


2)ホーフブルク王宮(ここは新王宮)の後ろ側


3)上に行く(下に降りる)階段


4)泉水は冬で水は止めてあります


5)上から見たところ(公衆トイレの入り口)


6)向こうに門が見えます


7)その反対側には大温室


8)門の方へ向かいます


9)門の上には皇帝家を象徴する双頭の鷲


10)門を通ると又階段:アルベルティーナに続いています


11)振り返ると一段下の大温室や新王宮


12)アルベルティーナ入り口の方へ向かいます


13)ここにもフランツ・ヨーゼフ皇帝の銅像(騎馬像)


来年は皇帝没後100周年です。長い歳月が経ったような、ついこの間のことのような・・・

14)振り返ったところ


15)パンをゲットしたコクマルガラスさん



この辺りの以前の記事
見ない展

コクマルガラスさんの以前の写真
新緑と静寂
春の庭


あと一度続きます すみません、乞無期待






孤独な皇帝

2015-12-06 | 旧市街

フランツ・ヨーゼフ皇帝の銅像がある公園を散歩してきました
目下クリスマス前のアドヴェント期間中で、市内あちこちのクリスマス市は混雑していますが、人混み苦手の私は今年はクリスマス市スルーの予定


1)リンク大通りの一角


2)そこに公園入り口があります


3)説明のプレート

王宮庭園と呼ばれています

王宮庭園は1818年から1823年に造園され、ハプスブルク皇帝家のプライベートな「庭」でしたが、第一次大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊した翌年1919年から一般公開されるようになりました。

4)庭園の中


5)刈り込まれた並木も葉の落ちた後


6)大通りに背を向けてたたずむ皇帝の銅像


7)そのシルエット


8)離れてみたところ


9)葉の残っている枝


10)黄葉の大木


11)立派な常緑の松もあります



フランツ・ヨーゼフ皇帝(1830~1916)は、1848年の三月革命の後18才で即位、第一次世界大戦の最中に86才で世を去りました。
超保守的な人物で、生涯、電話も自動車も使わず、国を支えるのは軍隊の力だと信じていたようです。
息子を皇帝にしようとする母親のスパルタ教育で育てられ、母親の指図に逆らうことはありませんでしたが、母親が結婚相手に予定していた女性の妹の一目惚れし、このときは自分の意志を貫きました。
しかし、皇妃となったエリーザベトと皇帝は全く違うタイプで、年とともに疎遠になり、皇帝の片思いの夫婦だったと言えます。

多民族帝国は民族主義台頭とともに目に見えて崩壊への過程をたどり、メキシコ皇帝となった弟マクシミリアンがメキシコ革命の中で銃殺され、唯一の息子ルドルフ皇太子が自殺し、エリーザベト皇妃が暗殺され、その後皇位継承者になったフランツ・フェルディナント大公がサラエボで暗殺されるなど、次々と身内を不幸な事故で失っています(このほかにも親戚が事故死している)。

王権神授説を信じる旧弊な思考に凝り固まっていたとはいえ、それは幼少からの教育によるもので、個人的には誠実で規律正しく勤勉でした。
臣民のための謁見の日が設けられ、高位の貴族から貧民まで、差別なく誰でも皇帝に謁見することができました。
公式の行事は皇帝に相応しく豪華なものでしたが、日常生活は極めて質素でした。
公式の席では軍服を着用し、そうした幾つかの軍服以外には、まともな背広など持っていなかったということです。私服と言えば、狩猟用の服くらいだったようです。
皇帝自身も、自分の没後に帝国が崩壊するであろうことを察知していたと思われます。それでも、フランツ・フェルディナント大公が暗殺された後、セルビアに対する宣戦布告に署名して、これが第一次大戦の始まりとなりました。


ウィキ・フリー画像から

1853年、結婚1年前の肖像画


狩猟服姿の晩年の皇帝



父としての皇帝に対する評価を、三女のマリー・ヴァレリーが日記に書き残しています。初めは、父親に冷たい母親の態度を不審に思い、次いで「あんな人物(父親)では母親が嫌がるのも無理はない」となり、やがて「難しい問題が起こると誰でも皇帝に押し付けようとする」と、父親の皇帝としての立場に同情するようになっています。



公園については続きます ・・・乞無期待






手で食べる

2015-12-04 | おきにいり

深刻な話が2回続いたので、ネットから拾った可愛い方々の話を・・・

四つ足の多くの方々、前肢を翼に替えた方々は直接口で食べますが、四つ足の中でも手で食べる方々がいてチャームポイントになっています


ニンジンを食べるムルメちゃん



小さな木の実を食べるツィーゼルちゃん



他にもウサギさん、ハムスターさん、ヤマネさんなど、要するにげっ歯類の方々は手を使ってお食事

げっ歯類って、哺乳類の中で最も繁栄している方々なんですね

ムルメちゃんは日本での呼び名はマーモット
ツィーゼルちゃんは日本語でヨーロッパハタリス

げっ歯類の方々が食べ物を手で持ったりするのは、硬いものを食べるので、持ったほうが齧りやすいからでしょうか。
あるいは、硬いものを持とうとしたため、だんだん、こういう体形になったのでしょうか。


 今日の蛇足

引き続く難民到着でオーバーワークとなったオーストリアの警察官が、待遇改善を求めてストをする予定でしたが、話し合いで増員、装備改善などが決まり、警察官労働組合側も納得し、ストは中止になりました。
警察官もストやデモができるオーストリアでは、たまに警察官のデモ行進があったりしますが、そういうときは、非番の警察官がデモをして、当直の警察官が「エスコート」します。

2015年欧州難民危機
この記事の最後に「オーストリアの国境封鎖」とありますが、まだ封鎖されていません。到着する人々の数は減っています。





分断された国

2015-12-02 | その他

ちょっとゴタつきまして、大分ご無沙汰すみません

シリアの内戦は、2011年から既に4年以上続いています。
当初は民主化を求める平和的運動でしたが、政府側の武力弾圧もあって武力紛争となり、平和的な反体制派は背後に押しやられました。その中で前回書いたように「外部からの人々」がどんどん入り込み、国土が色々な勢力によって分断されています。
極度に簡略化して言えば、これがシリアの事態です。

日本語ウィキの記事にある地図では、IS(イスラム国)が国土の大半を制圧しているかに見えますが、11月26日付けNZZ(新チューリヒ新聞)の記事(ロシアによるシリア空爆の記事)では、ちょっと違います。
紙面を写真にすると地図が不鮮明になるので、スキャンしてみました。




海岸沿いのオレンジ色部分がシリア政府の勢力範囲
黄色がシリア国内の反政府勢力(結束した統一勢力にはなっていないようです)
やや濃いグレーの2ヵ所(北西部トルコ国境近く)がヌスラ戦線
北部国境沿いの草色がクルド人コントロール地域
ユーフラテス川沿いのグレーの部分とシリア砂漠中央部のグレーがIS支配地
藤色が激戦地

ロシアによる空爆の記事なので
藤色星印とグレーの逆▽がロシア軍による爆撃地点
トルコ国境の爆発マークが、トルコ軍がロシア軍戦闘機を撃墜した地点
(トルコはロシア軍機がトルコ領に入ったと主張、ロシア側はシリア上空のロシア軍機をトルコが撃ち落したと主張)

これだけ分断され、戦闘が続いたり、少し静かになったり、また戦闘や爆撃が始まったり・・・の繰り返しで4年間経てば、多くの人たちが難民になるのは当然です。
しかし、国民が皆国外に避難して国内には外国からのテロリストだけ、などという事態になったら、一国の滅亡です。

頑張って国内に留まっているシリア人もありますが、大変困難で危険な日常生活だと思います。
私の通っているアラビア語コースの主催者の家族親戚は、ダマスカスに踏みとどまっています。

唯一の解決は、国内が平和になり、平和的コースで民主化が進むことですが、見通しは暗く道は遠いとしか言えません。