みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

ななみみず前身「みみざこ連」




仔ニャンコ・仔ワンコが新たなお家に迎えられるには、いつ頃が良いのでしょうか?
いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

撮影現場の今

2015-06-28 | おきにいり

ご無沙汰してすみません
リンク大通りの続きを、ぽちぽちとアップするつもりだったのが、何故か突然、映画史上の名画を思い出しました。

そのタイトルは・・・第三の男

ウィーンが舞台になる映画も沢山あり、また某所としてウィーンで撮影される映画も多いのですが、映画史上に残る名画で、しかも第二次大戦直後のウィーン「まるごと」という感じの映画は他にないと思います。戦後の混乱した世相や闇取引、当時の市街の様子などを今日に伝えるという意味でも貴重な作品です。

オーソン・ウェールズ生誕100周年を記念して、フィルムが修復されたそうです。
映画のあらすじなどは下にウィキ版をリンクしました。

撮影現場の現代の写真をウィキ・フリー画像からアップしました。


先ず、ハリー・ライムが住んでいた家


旧市街ヨーゼフ広場に面するパラヴィチーニ宮殿です。英語ウィキに簡単な説明があります。


追跡シーンに出てくる階段


映画の中では、この階段は爆撃の被害で半分壊れています。ウィーン最古のルプレヒト教会から下のモルツィン広場を結ぶ階段です。


緊迫した場面の重要な脇役:大観覧車


この映画のおかげで「『第三の男』の大観覧車」として世界的に知られるようになりました。


クライマックスの迫力ある追跡シーンの舞台:ウィーンの下水道


地下のもうひとつの都市とも呼ばれる大規模な下水道システム。「第三の男」ガイドツアーも実施されています。


印象的な幕切れの舞台:中央墓地


こういう並木道が多いので、撮影に使われた並木道がどこかは判りません。

ハリー・ライムの墓を「演じた」墓碑(右端)



中央墓地の住人:リスさん


中央墓地はリスの団地ではないかと思うくらい、リスさんを良く見かけます。ほかにも多くの野生動物が生息しているようです。



テーマ音楽:ハリー・ライムのテーマ




辛口で詩情のある幕切れ




Wikipedia:
第三の男
中央墓地(英語)
連合軍軍政期
大観覧車
みみずボログの共同占領記事:ジープの4人

アントン・カラス:テーマ音楽の作曲者・演奏者
日本語ウィキには書かれていませんが、昭和天皇の前でも演奏したようです。このテーマ音楽で一躍有名になり、引く手あまただったのに全て断り、ウィーンでホイリゲを経営しましたが、アントン・カラスの名声のため、有名人が押しかけるので、本人は嬉しくなかったようです。本人の望みは「普通のホイリゲで普通にツィターを演奏して暮らす」ことだったようです。

「第三の男」博物館(英語)



     


ゴタゴタ期はまだ始まったところで、向こう暫くまばら更新になります。
たまーに覗いてやってくださいませ もちろん乞無期待です







150年序

2015-06-22 | 旧市街

いよいよゴタゴタ期が始まります つまり、更新まばら期になります

その直前、6月20日のNZZ(新チューリヒ新聞)に2ページのリンク大通り特集が載りました。
スイスの新聞(と言ってもヨーロッパを代表する高級紙のひとつ)にオーストリアの首都の大通りが特集されているわけです。(リンク大通り開通150周年記念記事)


1ページ目:ウィーンの解放


上の写真をちょっとアップ:1885年の写真

リンク大通り開通宣言から20年後の様子

左手に、美術史博物館自然史博物館エプシュタイン宮殿、突き当たりに国会議事堂が見えます。

2ページ目:前ページの続きと別のリンク大通り記事


上の写真をちょっとアップ:1858年、城壁撤去中(右端はドナウ運河)

赤い塔は撤去され、城門がまだ残っています


記事「ウィーンの解放」要点(カッコ内は私の注)
1683年オスマントルコの第二次ウィーン攻囲のトラウマが長く続き、長く防壁と突堤が撤去されなかったが、それは社会進歩の大きな妨げとなっていた。周辺部には市民の町が発展し、防壁内の旧市街には皇帝の宮殿、貴族、高位聖職者、行政府、市民がひしめき合っていた。当時ウィーンを訪れたイギリスのレディー・モンタギューは「ここでは街の上に街を重ねるつもりらしい」と皮肉っている。

既に1741年、ベネディクト会の修道士アンセルム・デシンクは「この場所(防壁と突堤)に家を建てることが許されるなら、多くの美しい宮殿が建てられ、世界に類例のない都市が誕生するだろう」と述べている。

(大砲の射程距離など軍事技術の大幅進歩によって)中世からの防壁は全く意味を持たなくなった。1809年に一時ウィーンを占領したナポレオンが防壁の一部を爆破していったのは、いわば象徴的な出来事だった。

1857年のクリスマスにフランツ・ヨーゼフ皇帝の発した勅令は「ウィーン新聞」に公表された。
「ウィーン市街を周辺町村と結び付け拡張する工事が一刻も早く開始され、我が帝都たる首都が整備されること、これが私の意思である。」

これは他に類例の無い大規模な都市開発計画で、国際的建築コンペティションが実施され、受賞プランは無かったが、主要な応募作のアイデアが取り入れられ、1859年には基本プランが皇帝に許可された。この都市開発計画はパリの近代化とは全く異なり、極めて慎重に数十年をかけて実施された。
防壁・突堤撤去によってできた空き地の半分以上が道路に充てられた。

リンク大通りは建築の実験場となり、当時(フランツ・ヨーゼフ皇帝の基本姿勢により)全面的な市民権を得たユダヤ系上流市民が次々と歴史的建築を実現し「ユダヤのブールヴァール」と呼ばれた。その輝かしい時代は、ナチスのオーストリア併合とともに終わりを告げたが、彼らの遺した歴史的建築は、今もウィーンで光彩を放ち続けている


ここに150年の歴史概要と数々の写真を紹介するつもりでしたが、それは、かなり時間を要するので、今回は「序」だけにしました。


以下ウィキ・フリー画像から

中世から近世へのウィーンの様子

防壁と壕、その外側に兵士を配置する突堤のあるのが良くわかります

1858年段階の市街図

環状の白い部分にリンク大通りとそれを飾る建築、公園などが造られました


現代のリンク大通りらしい画像を2つ

2013年のブラスバンド・フェスティバル


2013年、自動車に反対するデモンストレーション

車道部分に臨時の芝生を敷いてゴロゴロ。これも「座り込み」の一種


以前のリンク大通り記事
スルメ150年
霧の日
その他略



以上「150年」の序でございます。まばら更新で続きを紹介いたします 
でも恒例、乞無期待







山の響き

2015-06-20 | おきにいり

ラジオから懐かしい歌が流れてきました

子供の頃、音楽の先生から借りたレコードを繰り返し聞いたオーヴェルニュの歌です。
山岳地方の美しい風景をお楽しみください

オーヴェルニュ地方
オーヴェルニュの歌





南フランスの民謡と思い込んでいましたが、ラジオを聞いた後ネット検索で、フランス中部山地の民謡と知りました
歌詞も、前回触れたオック語だそうな

主としてソプラノで歌われるそうですが、ジェラール・スゼーも歌っていたというので、そのYouTubeもアップ。





山岳地方の民謡ということで、ヨハン大公のヨーデルに通じる雰囲気も感じました。


       


6月前半に30度を越していたのに、このところ15度くらいで風邪気味です

このごろの非行天候では温度変化が大きいので、皆様もご注意ください


 今日の蛇足

もう何年も経済危機のギリシャは、EUから借金をしてやりくりしていますが、見通しの確かな財政立て直し案を提出しないため、ヨーロッパ中央銀行や国際通貨基金も融資各国も、更なる融資を渋っています。そのままだとギリシャの国家財政が破綻する・・・って、一体どうなるんだろう

シリア情勢の悪化(内戦の深刻化)とともにシリアからの難民も急増中。周辺諸国は大量の難民を受け入れ、例えばトルコでも既に100万人以上のシリア難民を収容していますが、金があるはずのヨーロッパ諸国は、1000人単位、100人単位、ときには数十人単位で、受け入れられないとモメています。
政治家は、難民の生死よりも、自分の票が減るのを恐れているようです


Wikipedia:
グレグジット
難民
シリア騒乱





ないもの

2015-06-18 | ことば

今回は写真もラクガキもありません。「無い」内容だからです


NHKではテレビでもラジオでも色々な語学講座がありますね。
ここではテレビでもラジオでも、全く語学講座がありません。

でも、私の友達や知り合いは大抵数ヵ国語を話します。


テレビやラジオのかわりに、色々な語学学校や国民大学の語学コースは沢山あります。

幾つかの国民大学は、とりわけ多くの語学講座を提供しています。最高250言語まで・・・
ウィーンでは250の言語が話されているのだそうです。

確かに、外出すれば知らない言葉が聞こえてくる街ですが、250もの言語が話されているとは

語学講座の多い国民大学では、本当に珍しい言語のコースがありまして、ヨーロッパの主要言語や東欧・バルカン諸国の言語、更に中東から中央アジア、東アジア、アフリカの言語が並んでいて、オック語なんていう南フランスの方言もあります。
但し、プログラムにある語学講座が常時実施されているとは限りません。最低受講者数3人という下限があるからです。

私がマルクス・アウレリウスに憧れて、古代ローマの知識人と同じように(?)古代ギリシャ語を勉強しようとコースを申し込んだとき、希望者が私ひとりだけで、クラスは成立しませんでした。
もちろん、オーストリアの大学は聴講は自由ですから、大学の古代ギリシャ語の授業を探せば良いのですが、横着で、そこまではしませんでした
国民大学のアラビア語の場合、毎学期、初級クラスは必ず成立するのですが、大抵の人が初級でやめてしまうので、続きがありません。ひょっとすると最近は状況が変わってきているかも知れません。

以前に知り合いから聞いた話では、その人が趣味にアイルランド語コースを申し込んだところ参加者2人だったそうですが、先生が熱心で、2人に自宅でアイルランド語を教えてくれたそうです。アイルランド語はケルト語起源で、英語とはちょっと違うのです。

私はウィーン大学でイタリア語を第二外語に選んだため、少しフランス語も分かりますが、文法も少し勉強しようと、フランス大使館文化部のフランス語コースに通ったことがあります。同じクラスに、台湾からの留学生がいて、休み時間に漢字で筆談していたら、フランス語の先生がビックリしていました。
イタリア大使館文化部もイタリア語コースを行っており、長年通いました。
日本大使館文化部で日本語講座はしないのですかと尋ねたところ「予算がありません」と言われましたが、これも今は状況が違っているかもしれません。


ラジオのオーストリア第一放送(NHK第一に相当)では正午の1時間ニュースの最後に3ヵ国語(ドイツ語、英語、フランス語)のニュースがあります。


以前、地下鉄で本を読んでいたら、向かいの席に座った人が携帯電話で話し始めました。本を読みながらで、当人を見たわけではないのですが、どうもアラビア語のような知らない言語で話しています。で、突然、その人が流暢な英語を話し始めたので、見上げなくても、ユダヤ系アメリカ人かイスラエル人だろうと判断しました。ヘブライ語アラビア語は親戚なのです。
前にアップしたパレスチナ支援グループのユダヤ系アメリカ人は、ずっとアメリカ育ちで、ヘブライ語は話せません。

私のPCの「守護天使」であるシリア出身の友達はアラブ人ではなくアッシリア人の末裔で、アラム語(キリストさんの話した言葉)が話せます







しばらく

2015-06-16 | かーど&手描き

古い表紙の頃、知り合いのため、こんなクリスマスカードの原画を描きました。




御存知、歌舞伎十八番のひとつ「」の鎌倉権五郎景政さん・・・のつもりです、下手ですけど

いまさら説明するまでもないのですが、悪人が善人を殺そうとしていると、花道の奥から「しばらく」と声を掛けて鎌倉権五郎が登場し、花道を通って舞台に出ると、悪人をなぎ払って善人を救うという、とてもシンプルな勧善懲悪劇。

ストーリーがシンプルな分、極端に誇張された衣装や大道具・小道具、役者の仕草を見て笑うための演目と言えるでしょう。
設定では、権五郎さんは前髪立ちの若侍だそうですが、豪快な衣装に大仰な髷で、絶対持てない長い太刀を佩き、悪人をバッタバッタと切り捨てると、張りぼての首がコロコロ転がるグロテスクな滑稽さが・・・何と言うか・・・一応楽しいです。



 今日の蛇足:ないもの&あるもの


モンペは、ここら辺では買えません。日本から送ってもらったものです。また復活の兆しもあるようですね。




伝統の日本食が健康食という認識が広まって、リフォームハウス(健康食品や安全な日用品を専門とする店)には立派な梅干があります。

パック


蓋を開けたところ


大量に食べるものではないので、このパックひとつで暫くもちます。







修了証書

2015-06-14 | その他

アラビア語コースの終了式がありました。以前にもアップしているので画像省略。


毎年もらいます

きっと子供たちが喜ぶのだと思います(名前もアラビア文字ですが消しておきました)

今年の記念品

今年の8月15日から来年末までのダイアリー

ここらへんの学校は幼稚園から大学まで秋に新学期が始まるので、ダイアリーも夏休み後半から始まるようになっているのでしょう。



過去のアラビア語関係記事
人間的状況
ライラック再び
ルーラの解決
AAIの窓から
新しい教科書で笑う
新学期
6月の終了式
以下省略


アラビア語コースが終了し、いよいよ夏休み(大まかに言って7~8月、始めと終わりはドイツでは州ごと、オーストリアでは東部諸州と西部諸州で違い、スイスは更に複雑)。
私は、もう少し経つとゴタゴタ期になります


 今日の蛇足

既に長年、巨大イチゴが一般化しています。ビタミンのため時々食べますが、好きじゃありません。人工物の雰囲気・・・
この間やっとスーパーで「野生のイチゴ」なるものを買いました。

パック入り


蓋を開けたところ


小粒で自然な感じですが、食べたら酸っぱかった






針屋横丁

2015-06-12 | 旧市街

前回最後から2番目の写真のところを進んでいくと・・・


1)王宮正門が見えます


ハプスブルク家歴代の皇帝が居城としていたので帝宮でもいいわけですが、低級と連想するせいか王宮と呼ばれます。
尤も、ハプスブルク皇帝はいろいろな国の国王でもあったので、王宮も正しいのです。
私は左へ曲がります。そこは高級ショッピング街のグラーベン

2)この日の目的地はここ


3)パレスチナ支援グループのインフォ・スタンド


私が参加するようになったのは、ダマスカスの旧市街で、これと同じことをしている人たちを見てからです。
でも、今ではダマスカスもシリア全土も、それどころではないと思います。
このグループのインフォ・スタンドは月に1回土曜日午後。でも近年アラビア語コースと重なるので参加できず。
このときは臨時に日曜日だったので久々に参加しました。
この日は、インフォ・スタンドに喜んで、一緒に写真を撮っていた旅行者グループがありました。パレスチナ人だったかも。

このパレスチナ支援グループの主催者は、ユダヤ系アメリカ人でご主人がパレスチナ人ジャーナリスト、ウィーン在住。
オーストリア人のほかイスラエル人や色々な国籍の人たちが参加しています。
以前にも書いたように私はユダヤ文化もアラブ文化も好きなので、早く対等平等な平和が実現するのを願っています。

「立ちんぼ」が終わった後、私の好きな小路を通って帰りました。
これまでにも度々出てきた小路で「ナグラーガッセNaglergasse」。「殴らぁ小路」ではありません。
ナーゲルNagel(針)を作る職人(ナグラーNagler)が住んでいたから。もっと前には古代ローマの城壁が、この位置にありました。

4)小路の入り口から見たところ


今回は番地札を撮って並べます。入り口の石組みから古さが分かります。

5)これは比較的新しい飾り


6)これも新しい


7)上の写真の横の壁にあった案内プレート

1834年に1ヵ月アンデルセンが、以前ここにあった建物に滞在

8)古さを感じます


9)これも古いです


10)


11)


12)以前アップしたアヒルさん大集合のお店


13)相変わらず大集合中


14)貴族スタイルのアヒルさんも


15)シンプルなのは古いと言えます


16)可愛らしい入り口




以前の針屋横丁
中の細道(最後の写真2枚が針屋横丁)
好きな細道上
好きな細道下(アヒルさん大集合)



これにて旧市街とことこシリーズやっと終わりです 今後とも・・・乞無期待






旧市街とことこ

2015-06-09 | 旧市街

前回のギリシャ正教会の反対方向へとことこ歩いていきます


1)こんな風に見えます

右の建物外壁に描かれた赤い塔は、昔ここにあった塔付き城門

で、そこからシュテファン寺院に通じる直線の道が「赤い塔通り(ローテントゥルムシュトラーセ)」と呼ばれています。

2)左角の黄色い建物はどうでもいいのです


3)奥の殺風景な塔が実は歴史的建築


4)見上げたピンボケ2枚


5)殆ど注目されないのも当然で・・・

・・・とても殺風景

6)一応、市の史跡案内があります


以前にも紹介したコルンホイゼルが設計し晩年を過ごした住居塔。
(ちょっと自閉症気味だったかも)

以前のコルンホイゼル記事
修復前後
シナゴーグ

7)塔の下を左へ曲がると「道路またがり時計」があります


8)近づいたところ

これは時刻のはっきり分かる「裏側時計」です

9)時計の下のコワかわいい顔

生きて出てこられると嫌ですが、建物の装飾には面白い

10)アンカー時計の表側

この名前はアンカー保険会社の建物に造られたため

午後3時前なので、右へ消えようとしている人物はカール大帝のようです。
ユーゲントシュティルの傑作のひとつに数えられる時計ですが、歴史上の12人の人物が1時間ずつ左から右へ動いていく仕掛けで、正確な時刻は後に回らないと分かりません。初期のクリムトと共同制作もした画家フランツ・マッチュの設計で1914年に完成しました(既に第一次大戦中)。
毎日正午に12人の人物が、夫々に相応しい音楽と共に一回りするので、観光客が大勢集まります。

11)ホーヤーマルクトの広場


中央にある泉水は「婚礼の泉」と呼ばれ、ヨセフマリアの婚礼を示す群像があります。レオポルトI世が出征中の息子ヨーゼフ(後のヨーゼフI世)が無事帰還したら建立すると神に祈願して建てられたものです。完成したのはレオポルトI世没後でした。

12)ペンションの入り口を飾る国旗の数々


上は右からイスラエル、不明、イタリア、オーストリア、アイルランド(?)
下は右からスイス、日本、ロシア(?)、欧州連合、アメリカ、スウェーデン、スペイン、背後にイギリス(?)

13)とことこ歩いていたらカフェの外席

ちょっと珍しいセット

14)旧市街の醍醐味は、こういう小路

でも、そのまま先へとことこ

15)次の小路


教会に見える突き当たりの建物の正体は今のところ分かりませんが、その下に張り付いたような小さな店舗は文化財保護に指定されています。そのうち記事にするかも・・・

16)旧市街の中心部に近づきました


17)フィアカーと呼ばれる観光馬車



今回の幾つかの項目は、ドイツ語ウィキにしかないか、英語ウィキも数行。それでなくてもリンクが多いので、そうした項目のリンクは付けませんでした。



あと1回続くのです でも乞無期待






ギリシャ小路

2015-06-07 | 旧市街

前回の続きで旧市街へ入っていきます

窓枠絵画再び」の最後の写真は、以前「近世の面影」でも紹介した場所です。

1)その地点へ戻ってきました


2)ウィーン市の旗付きは名所の印


3)正真正銘の「時代もの」

でも当時のままで見栄えしないので観光客には無視されています

4)この階段は私のお気に入り

古いウィーンの名残りで、ここは観光客も良く通ります

5)アイスサロンの犬さんに遭遇


6)階段上り口にある「タコ」(という名のスペイン・レストラン)


7)「タコ」の中をチラ見

常連が集まりそうな店で入ったことはありません

8)階段を上がると右手に「中世の面影」の小路

この日は何かのイベントで混雑

9)正教風の方がいらっしゃるのでギリシャ正教のイベントかも


10)これも観光客に人気のある小路

両側の建物を支える「腕」が中世の証

「中世の面影」からこの狭い通路までが「Griechengasse=グリーヒェンガッセ=ギリシャ小路」と呼ばれています。
この一帯を「ギリシャ地区」とも呼びます。18世紀前半からギリシャ人商人が多かったためです。そのためギリシャ正教の教会も建てられたのでしょう。

11)またアイスサロンの犬さんに遭遇


12)短い小路の出口(または入り口)に垂れ下がるツタ


13)そこには創業1447年のグリーヒェンバイスルがあります

バイスルはウィーン方言で「メシ屋」といった意味ですが実は高級レストラン

14)バイスルの隣はギリシャ正教の教会


15)ちょっと離れても教会の塔が画面に入りません


16)通りがかりの中庭に侵入


17)ツタがいっぱいの中庭


18)奥には泉水がありました

「中庭に泉水」は、ちょっとオリエント風

但し、水道の無かった時代には、ヨーロッパでも中庭に井戸や泉水がありました。

19)


20)入ってきた方向へ戻ります

南欧なら窓から窓へ洗濯物の満艦飾になるところ

21)あそこから入ってきました


22)やっとギリシャ正教・教会の塔が画面に入りました



以前の関連記事
オーソドックス

愛しのアウグスティン
アウグスティン伝説の現場がグリーヒェンバイスルです。
看板になっているバグパイプを演奏する人物がアウグスティンだそうな。
この記事にアップしたオリジナル版はYouTubeから除去されたようですが、子供たちの歌う「愛しのアウグスティン」は動画が見られます


えーと、まだ続きがあってすみません 図々しく続けます






ドナウ運河

2015-06-05 | 旧市街

前回の横断歩道を渡るとドナウ運河があります。

運河と言っても昔はドナウの傍流だったもので、ライン・マイン・ドナウ運河ドナウ黒海運河のような本来の運河ではありません。

何年も前に一時期、ウィーン市観光局が「小ドナウ(クライネ・ドナウ)」という名称を普及させようとしましたが、全く普及せず、結局「ドナウ運河(ドナウカナル)」のままです。

またまた恒例ピンボケ写真の羅列です


1)「ウィーン・シティ」ターミナル


2)下へ行く通路と上へ行く階段があります


3)まず階段を上がります


4)上にはカフェがあります


5)ここから見たスウェーデン橋

遠くに見える白い塔はウラニア天文台

ウラニアは以前は天文台でしたが、今はプラネタリウムと映画館になっています。

6)遊覧船MSヴィンドボナが戻ってきました

ちょっと奇妙な配色ですがフンデルトヴァッサーのデザイン

7)船着場


8)向こう岸では夏の特別プログラム開催中

後にジャン・ヌーヴェルのビルが見えます

9)ちょびっとアップ

特設ステージでライブ演奏

10)スナック・スタンドもあり日光浴を楽しむ人たち


11)「お約束」のスプレーらくがき


12)下への通路

こういう通路の壁面に広告がありません:スッキリ?それとも殺風景?

13)更に下に船着場


14)案内所+チケット売り場


15)ここからブラチスラヴァへ往復する定期船が発着


16)ショーケースに可愛い猫さん

ブラチスラヴァのお土産品のようです

17)写真1)の通路を出発点へ戻ります


18)ここにもスプレーらくがき




これから旧市街へ向かいます つまり続く でも乞無期待