既に2月後半、長年定期購読している
NZZに載った記事なのですが、ほかに色々なことがあって、この記事に戻ってくる機会がありませんでした。
本文が長くなりました。こめんなさい
2月にパリで上演された能に関する1ページの記事です。
タイトルは
時代を超越し、モダンで、しかも700年の歴史を持つ
サブタイトルは
「他に類例のない極度に簡素なエレガンス」
おんぼろコンデジで少しアップしたピンボケ写真
上の写真は「
清経」の舞台です。
このほか「
葵の上」「
砧」「
翁」など6作品が上演されたとあるので、残る2作は狂言だったと思われます。
執念深く検索すれば残りの演目も突き止められるはずですが、横着します
もし暇と関心がおありの方はパリの
Cite de la musiqueのHPを調べてみてください
(Citeの綴りは文字化け防止のためアクサンテギュ無しです)
さて記事の要点を紹介しますと・・・
今回の能パリ公演は、日仏修好160周年と日本開国150周年(厳密には約150年ですね)を記念したものである。
能では舞台のサイズやデザイン、用いる木材、更に衣装に用いる布など細部にわたるまで詳しく規定されている。このため伝統的な能舞台は、日本で部分を制作しパリで組み立てられた。出演したのは2人の人間国宝を含む最も重要な
能楽師である。パリでの能に関する関心は極めて高く、チケットは公演の始まるずっと前に売り切れとなった。なにしろ19世紀末の
ジャポニスム以来、フランス人にとって日本の伝統文化は単なる流行以上の重要性をもっている。とりわけ能は、日本伝統文化のシンボルとも言える存在である。
能がヨーロッパの芸術家を魅了するのは、イリュージョンやナチュラリズムを排した厳格な上演スタイルが多大なインスピレーションを与えるからである。つまり舞台装置などは殆どない。例えば「葵の上」では「葵の上」は全く姿を現さず、舞台に置かれた小袖が病臥する葵の上を示している。物語の内容と風景は観客が想像しなければならない。典型的な「
すり足」は本体のない霊的な存在を連想させる。「泣く」などという感情の逸脱は、ただ手を顔の前にかざすだけで表現される。
とりわけ印象的なのは、出演者が見事に姿を消してしまうことである。出演者は依然として舞台の上にいるのに、観客は、その存在を意識しなくなる。「清経」では、清経の霊と妻が何分も不動の姿勢で対峙しながら、2人の間で高まる感情的緊迫感が観客にも伝わってくる。
西洋演劇では次々と新たな演出が求められるが、能では(歌舞伎、文楽などもそうですね)世襲によって代々演出が受け継がれ、いわば「太古性(アンシャニテ)」が守られる。
多くの相違点はあるが、そこには時代や文化圏の違いを超えて共通するものがある。狂言上演では、舞台の上に投影される字幕によって、パリの観客も大笑いする。これはヨーロッパの古い喜劇とも共通する「原初的な人間性の笑い」だからである。
能はギリシャ悲劇とも多くの共通性をもっている。そこに共通するのは人生のはかなさを嘆く「原初的な人間性」である。
能
コンメディア・デッラルテ
古代ギリシャの演劇
ギリシャ悲劇
日本伝統芸能
驚いたことにウィキ記事の
能も
日本伝統芸能もフランス語版の方が詳しいのです
まあ、日本語ウィキでは、様々な項目別に詳しい記事があるから、ということでしょうが・・・
以前に和英辞典編纂の手伝いをしていた頃、先生が漢字に関する問い合わせをヨーロッパのどこかの国の学者に送ったことがあります。
日本語や能の勉強をするにはヨーロッパへ留学・・・なんてことにはならないと思います。
以前に黒澤明が「能は好きだが歌舞伎は下品だ」と言っているのを、どこかで読みました。
私は黒澤明を尊敬していますが、この意見には反対です
私は歌舞伎も好きです
以前の関連記事
世界博物館
文楽inスイス
西洋版墨田川