みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

ななみみず前身「みみざこ連」




仔ニャンコ・仔ワンコが新たなお家に迎えられるには、いつ頃が良いのでしょうか?
いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

庭のステージ

2022-08-29 | おきにいり


これも別件で検索していて見つけた家禽の顔見世興行







ニワトリさん、アヒルさん、ハトさんの「合同ステージ」ですね。
この方々も(四つ足家畜の皆さんとならび)人類の存続に大きく貢献してきました。

この絵はドイツの動物画家オットー・ショイエラーの作品です。ドイツ語Wikiの記事しかありません。





大公演

2022-08-26 | おきにいり


ちょっとだけ前回の続きです

全く別の件でネット検索をしていたら、ステキな海の混成ステージを見つけました







背景にカモメ軍団、前景にペリカン部隊、目立ちませんが、両者の間にはさまれて画面右に並んでいるのがチドリ・グループだと思います。
ヨーロッパ・ムナグロでしょう


前回の続きにするつもりは全く無かったのですが、画像の説明を読んだらウクライナのドナウ・デルタでした。


それで、ついでだから更にウクライナです



ウクライナ語は存在しないというプロパガンダがあります。ウクライナ語というのはロシア語の方言で独立した言語ではないと言うわけです。

ロシア語によく似た、つまりスラブ語派の言語は色々ありますが、それらの言語については「ロシア語の方言に過ぎない」というプロパガンダはありませんね

ところで、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、イタリア語は、ラテン語から発展した言語です。全部ラテン語の方言だとも言えるわけですね。そんなアホなことを言う人はいません









超正論

2022-08-23 | その他


前回の胡て坊記事末尾に「忘れない」と書きましたから今回はウクライナです



ウクライナ出身で、ドイツ、ウクライナ、ジョージア3国で活動する作家カーチャ・ペトロフスカヤ






ちょっと前に彼女のインタビュー記事を読みました。
ジョージアもソ連崩壊後に独立し、領土を巡る対立からロシア軍に侵攻されているため、ウクライナとジョージアの連帯感は大変強いそうです。
南オセチア紛争
彼女は夫とともに様々なウクライナ支援プロジェクトに携わっています。
そして「軍事的にロシアを撃退する以外に道はない。ほかにどんな方法でプーチンを止められますか?」と断言しています。
凄いなあ。正論、超正論です。

ナチス・ドイツの時も「ドイツがソ連と闘ってくれれば自分たちは高みの見物」と米英仏が高を括っているうちに、結局、世界大戦になってしまったのです。つまり、「ヒトラーに適当なエサを与えておけば大人しくしているだろう」という愚かな目論見は全くはずれ、結局、武力(戦争)で決着をつけなけらばなりませんでした。
今回も同じです
既にソ連崩壊後から始まったコーカサスの様々な紛争も「遠いよそ事」と無視し、ドンバス戦争ロシアのクリミア併合も「この程度で収まれば」と見て見ぬふりをし続けた結果が、ロシア軍によるウクライナ侵攻となり今に至るわけです。

この超正論を主張するのはバルト三国など、ロシア帝国、ソ連の帝国主義によって何世紀も圧迫・占領支配されてきた国々です。ジョージアの場合は「あんな遠くの小国くらいロシアに与えても痛くも痒くもない」と殆ど見殺し状態でした。それでもウクライナには一応、武器援助が続けられています。
危険なのは、ロシアの侵攻から半年経った今「支援疲れ」と「戦争慣れ」の兆候が強くなっていることです。

しかし、原子爆弾開発最終段階だった第二次世界大戦当時と違い、今はロシアを頂点に複数国に使用可能な核兵器が山ほどあります。
核戦争を覚悟で超正論を実行すべきなのでしょうか もう頭がゴッチャゴチャになるのでふて寝します



ウクライナに言及している以前のボログ記事
涼魚
東と西その1
ガマズミの歌
地下鉄コンサート
流浪の街
多くなり過ぎるのでその他略


ところで・・・カーチャ・ペトロフスカヤはユダヤ人の家系です。現ウクライナ大統領もユダヤ人家系です。

ペトロフスカヤの最新刊は「私を見つめた写真(Das Foto schaute mich an)」です。
この本は、まだキンドル版になっていないので「あるいはエステル」のキンドル版を買いました。
ユダヤ系の曾祖母エステルがナチスによって殺されたバビ・ヤール事件をテーマとしたものです。
読んだら報告します。これもウクライナへのささやかな連隊表明です






永遠の胡て坊

2022-08-20 | かりねこ


8月20日は胡て坊の命日です。ちょうど1年前、胡て君は急性腎不全のため急死
そのときのくるねこ記事:ご報告
全国の数多い胡てファンにとって大きなショックでした

可愛い胡て坊の姿を自分で描きたいのですが、全く自信が無いので「はぴはぴ くるねこ」第8巻の表紙をお借りしました。
胡て坊が、大好きな胡ぼ兄(胡ぼソファ)に寄りかかっています。
本当に胡て坊は、胡ぼ兄にウザがられるほど胡ぼ兄で、毎日付きまとって(寄りかかっていた)ので、逆に胡て坊急死の後は、胡ぼん君が何日も胡て坊を探し回っていました






胡て坊は情緒豊かで繊細、控え目な性格で、他の猫さんたちとも仲良く暮らしていました。きっと兄弟姉妹と優しい母猫さんに囲まれて短いながら幸せな幼少期を過ごしたのでしょう。
Wikiくるねこに略歴があります。

猫さんの守護天使のような乙女さんに保護された日の様子は:6月12日
両足骨折の手術成功の様子は:
良い仔の胡て坊:シーバッ!ディオ!

その他の可愛い胡て記事の数々
ふたりでサンマを
Prince'sプリンプリン
箱プラス
ぼんてつ座布団
もっと優しく
猫間商事社歌  YouTubeバージョン
部屋に降る雨
ふぁっはーん祭
をぢさんと胡て坊

もっと沢山ステキな「胡てネタ」があるのですが、きりが無いので以下省略・・・
高度に進化した生物は皆そうですが、猫さんもひとりひとりが唯一無二の存在。2度と同じ仔は現れないのです。
くるねこ愚連隊から雲上事業部へ栄転されたどの猫さんも個性豊かな方々でした。ただ一期生中最も短命だったとトメ猫さんでも享年14才でした。
だから胡て坊は、まだまだ元気に楽しく過ごしてくれると思っていたのです。
でも胡て坊は、高速道路で落命寸前のところを助けられて、9年も実に幸せに過ごしたのです。
これからも雲上事業部で幸せにね

他にも忘れらない猫さんは沢山いて「かりねこ」カテゴリーに幾つか記事があります



でも、ウクライナも決して忘れていませんよ





怖いよぉぉぉ

2022-08-17 | かりねこ


怖いのを一生懸命我慢している良いコの猫さん







いつものHPに「あなたの(ペットの)獣医体験を教えてください」という記事がありました。


沢山の投書があり、「かかりつけの獣医さんに満足している」という内容から悲しい体験まで色々・・・
特にひどい例としては
「病気の猫を入院させ、何かあったら必ず知らせてください。いつでも、すぐに駆けつけますから」と念を押していたのに「安楽死させました」と事後報告があった。猫が死んでしまったので「安楽死させた」ことにしたのではないかと疑っている。あの獣医のところには2度と行かない。
というのがありました。
ウサギを飼っているが、本当にウサギにも詳しい獣医は残念ながら極めて少ないという投書もあります。
「ひどい獣医に対する罰則はないのか?」という投書のほかに「ひどい飼い主も多いぞ」という意見も・・・
高い治療費についての投書も色々あります。3000ユーロ=約41万円前後の例も幾つか見られます。
(もちろんペット健康保険も色々あるようです)
投書は400に上るので、とても全部は読めません。追々読んでみようかな







あるくうかん

2022-08-14 | そこらへん


「歩くための空間」の勝手な省略です。
ウィーンの代表的な「あるくうかん」2ヵ所
他にも歩行者専用の道路はありますが、主に地元民用。
以下の2ヵ所は旅行者・観光客も多いところです



旧市街グラーベン:帝室御用達時代からの高級専門店や国際ブランドの旗艦店が集まっています。中央右に見えるのはペスト記念柱






マリアヒルファーシュトラーセ:旧市街を取り巻くリンク大通り西駅を結ぶ通りで幅広いレパートリーの店舗が並んでいます。数々の脇道も掘り出し物の宝庫です。
何故か英語Wiki記事は無いようですが、ドイツ語Wikiには写真が沢山あります。




日本語Wikiでは「リングシュトラーセ」と表記されていますが、ドイツ語発音ではリンクです。まあ、リンクシュトラーセの英語が「リングシュトラーセ」だと言うこともできるかも

「歩行者天国」という言葉がありますが、それ以外は「歩行者地獄」なのか?と思ってしまいます
でも歩行者専用道路は長いですね。






「猫のののちゃん」がGooブログに移転、猫のののちゃんちとなりました。
内容豊富なお料理集がなくなったのは残念ですが、以前は色々な料理を見ては、ウィーンでは入手できない食材ばかりで残念に思ったものです。
でも、これから又順次お料理も紹介され、又「楽しい残念」が増えることでしょう






小さな宝石

2022-08-11 | おきにいり


Covid-19パンデミックのせいで1年以上遠ざかっていた自然史博物館へ久しぶりに行ってみました
これからは毎回1室に絞ってじっくり見ようと決め、今回は動物学部門の最初の部屋「単細胞生物腔腸動物」の最初の部屋だけで1時間くらい過ごしました。

特筆すべきはブラシュカ父子の、精巧でしかも芸術的なガラス模型コレクションが展示されていることです。
小さなガラス模型の中で、とても可愛らしく気に入ったのがPolycera quadrilineataです。背中に花飾りをつけたおチビちゃん












日本語名を探すとヨスジツノウミウシですが、Wiki記事はウミウシしかありません。

日本語名の「海牛」は立派な名前ですが、英語名は「海ナメクジ=Sea slug
ドイツ語名はMeeresschnecke(メーレスシュネッケ)で「海カタツムリ」と言えますが、ドイツ語ではカタツムリもナメクジもシュネッケなので、やっぱり「海ナメクジ」とも解釈できます。但しシュネッケだけではカタツムリで、ナメクジは「家無しカタツムリ(シュネッケ・オーネ・ハウス=Schnecke ohne Haus)」と呼ばれます
ついでにフランス語も「海ナメクジ=リーマス・ド・メール」その他略・・・






モネの橋もどき

2022-08-08 | おきにいり


ウィーン21区に水上公園(Wasserpark=ヴァッサーパーク)があります。公園の三分の一が水面です。その一角に、ジヴェルニークロード・モネ邸にある水の庭園に架かる橋を思わせる風景が見られます。








地図のウィーン市域を北北西から南南東へ流れるのがドナウ川。その右側の弓形の部分は「ドナウ旧流」と呼ばれます。幾つもの傍流に枝分かれし複雑に蛇行していたドナウ川が、19世紀末の大規模な治水工事で「整形」されたときに残された古い傍流部分で、弓形の北端が水上公園です。






2008年に引っ越す以前は19区(ウィーンの北山地区)に住んでいて比較的近いので、何回か散歩しました。
観光地ではなく地元民の憩いの地なので、落ち着いた雰囲気です。
その後16区(ウィーンの西山地区)に住むようになったから足が遠のいていました。加えてCovid-19パンデミックで遠出は避けていました。
そろそろ又行ってみようかなと思っています


水上公園についてはドイツ語Wikiの記事しかありませんが、幾つか写真もあります。

旧ドナウとドナウに関する以前のボログ記事
ドナウの草刈り
旧ドナウ実写





涼魚

2022-08-05 | その他


暑い日が続いているので、涼しげな画像をアップしてみました






インド洋のミノカサゴです。姿は涼しげですが、有毒魚で攻撃性も強いそうなので、水族館や写真で眺めているのが一番安心・安全です。



ロシアによるウクライナ侵略戦争はまだ続いています。侵略された国を応援する側は「疲れた・飽きた」と支援を止めるわけにはいきません。

いつものHPに、オーストリアの元外交官で現在カーネギー財団の研究員である人の分析記事がありました。

これによると、ロシアはウクライナ全土を占領することはできないだろう。しかしウクライナもロシア軍を完全にロシア領内に押し戻す力はないだろう。この膠着状態では心理戦が重要となる。既に西側諸国でも現在のインフレとエネルギー危機をウクライナのせいにする政治グループもある。今後の動向はウクライナを支援する西側諸国の団結と持久力が決め手となる。


西側諸国はロシアの石油と天然ガスに大きく依存しています。いつの間にこうなったのか不思議なほどです。エネルギー分野でのロシアからの「独立」が決め手です。





東と西その2

2022-08-02 | その他


産業革命以降の社会発展の集大成が2つの世界大戦であり、その結果、20世紀は戦争と動乱・紛争の世紀となりました。
第一次世界大戦は列強の縄張り争いであり、その愚かな戦後処理が第二次世界大戦への遠因となりました。そして英仏の譲歩がナチスを増長させました。ドイツとソ連が戦って共倒れになればよいというのが英仏の下心でしたが、結局世界大戦となってしまいました。これと並行して冷戦の時代が始まりました。以上の歴史も詳しく分析しようとすればきりがありません。

超簡略化すれば第二次世界大戦後の東欧の歴史は、ソ連帝国主義からの解放の歴史でした。その試みのひとつが1956年のハンガリー動乱です。


ブダペスト市街を走行するソ連軍戦車





以前私がお手伝いをした和英辞典を編纂したのはウィーン工科大学の先生です。
この先生は父親がハンガリー人、母親がオーストリア人で、ハンガリーで生まれました。しかし母親はハンガリーでの生活に耐えられず、幼い息子を置いてオーストリアに戻ってしまいました。
両大戦間から第二次世界大戦直後の時代、ヨーロッパ中が混乱していましたが、ハンガリーの人々にとっても混乱と困難の時代だったと思います。
工科大学の先生が24才のとき、母親に会いにオーストリアに来ていました。それが1956年の10月で、ハンガリー動乱が始まったのです。先生はハンガリーに戻らず、そのままオーストリアに留まりました。先生はバイリンガルで育ったので、全く言語の問題は無かったでしょう。それにハンガリーへ戻るのは非常に危険だったと思います。
ウィーンからブダペストへは、ウィーンからオーストリア西端のブレゲンツまでより遥かに近いのですが、それでも「東と西」の大きな隔たりがあったのです。


辞典を紹介した記事:K好む国
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