みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

ななみみず前身「みみざこ連」




仔ニャンコ・仔ワンコが新たなお家に迎えられるには、いつ頃が良いのでしょうか?
いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

融合の美

2016-10-30 | おきにいり

数日前ラジオで紹介されたCD。私の好きな「東洋と西洋の融合から生まれる美の世界」です


ラジオのHPプログラムで紹介されていたYouTubeです。



フランスのチェリスト、ギリシャのリラ奏者、イランの打楽器奏者という4人によって東洋と西洋の旋律が融合しています。


チェロ奏者のジャン=ギアン・ケラスとCDについては、日本語では、このサイトが詳しいようです。

アマゾンでも扱っています。


英語ウィキの記事
Jean-Guihen Queyras(チェリストについて)
Chemirani Ensemble(打楽器奏者について)

リラ奏者のサイト

太鼓について
ダラブッカ(オリエントからアフリカ北部アラブ諸国で一般的な太鼓。私はダルブーカと聞き覚えていました)
イランで用いられるのはトンバク(同じイスラム圏でも、ペルシャ人の国イランは、アラブ諸国とは違っています)
大型の太鼓はダフ(Daf

撥弦楽器から派生した擦弦楽器のリラについて言及されているウィキ記事:ライアー


以前の関連記事
三兄弟のCD
アレッポの光芒




長い

2016-10-28 | その他

以前には仕事の関係で、良く辞書や事典をめくっていましたが、近年は辞書の代わりにインターネット放浪しています。
そういうとき、本題とは無関係に、色々と役に立つ、あるいはとんでもない発見をします。そのひとつ・・・


カモメさんが・・・

ウィキ・フリー画像です

とても長いのです。金魚のうんPにも負けません

このカモメさんを見つけたドイツ語ウィキ


       


前回の追記

私も昨日改めて全ての元太さん物語をおさらいして思い出したのですが、元太さんは、猫さんにしては例外的に「スワレ、フセ、マテ」ができました。

やっぱり飼い主さんが「点の位置が変わっただけ」と仰るように「元太さんは元犬さん」だったのに違いありません(つまり卯月さん?)






忘れられない猫さん

2016-10-26 | かりねこ

猫さんは誰でも可愛いのですが、その運命や際立った個性などで
忘れられない猫さんたちがいます   




上の写真はウィキ・フリー画像で今回の内容とは関係ありませんが、今回の猫さんもトラネコさんでした。


様々の忘れられない猫さんのおひとりが元太さん。
このヒトは、自分で飼い主を選んだ猫さんで、しかも、殆どの犬さんとすぐ親しくなるという不思議な能力の持ち主でした。


その選ばれた飼い主さんが、元太さん没後2周年に元太さん紹介記事を時系列でまとめてくださいました:不思議な猫の物語

この元太さんが現れる前に、飼い主さんの愛犬のひとり卯月さんが虹の橋へ旅立っています。
あまりに犬さんとの付き合いが上手なので、飼い主さんは「卯月の生まれ変わりでは?」とも書いていらっしゃいます。
卯月さんの魂が元太さんに乗り移って、飼い主さんのところへ導いた・・・
私は有りうると思います


おまけ

私がいつも読んでいるオーストリアの新聞HPに飼い主さんが跳ぶ愛猫を撮った写真が紹介されています。
跳躍猫さん






未知との遭遇

2016-10-24 | おきにいり

なんか昔々、こんな題名の映画があったようですが、別に宇宙人との出会いでなくとも、「殆ど未知」との遭遇は地球上でもあります。

安土桃山時代から島原の乱・完全鎖国までに多少外国人と接触があったにしても、幕末の日本人にとって西洋人(つまり、当時開国と通商を求めてやって来たアメリカ、イギリス、ロシアなどオランダ以外の西洋人)とは「殆ど未知」との遭遇だったと思います。蘭学者は、ある程度知っていたと思いますが、僅かな少数派でした。

そうした幕末時代に起こった生麦事件を詳細に客観的に描いているのが、この本です。



上下2冊の表紙を合わせると、当時の生麦村の道を大名行列が通る風景で、行列で道が塞がれているのが良く分かります。
(この絵は生麦事件参考館に所蔵されているものです)

1862年、異母兄の島津斉彬の遺志を実行しようと島津久光は軍勢を従えて上洛後、江戸へ向かい、更に京都へ戻る途中、生麦村で騎馬4人の外国人と遭遇。道脇にさがって下馬することもせず、行列の中に入り込んできたため、久光の従者によって斬られ、ひとりが死亡、2人は重傷、唯一の女性は難を逃れたという事件でした。

吉村昭の「桜田門外ノ変」同様、事件以後の出来事が詳しく書かれており、翌年の薩英戦争への経過、更に翌年の下関戦争へと続く推移が良く分かります。誰かを主人公にするのではなく、ルポルタージュのように書かれていますが、それでもスリルと迫力があります。

そして、現代の目で見れば、事件当事者のどちらの立場も良く理解できるのです。薩摩藩士が、無礼にも行列に入り込んできた騎馬の人物に斬りつけるのは、当時としては当然の義務で、しかも尊皇攘夷思想の絶頂期。これが如何なる外交問題に発展するかなど、薩摩藩士は殆ど考えていなかったでしょう。
これに対し、騎馬で物見遊山に出掛けた4人の外国人については、無知のそしりは免れません。当時は外国人襲撃事件が続発していますし、外交官や交易のため日本へ進出した商人なども、当時の日本の政治体制、基本的礼儀作法などは知っていたはずです。

しかし、結局大きな外交問題となって軍事衝突にまで発展し明治維新を早めることとなりました。日本全体を巻き込む大戦争にならなかったのは幸運と言えますが、これは幕藩体制の「怪我の功名」で、薩摩藩も長州藩も「独立国家」として遥かに軍事技術の優れた外国と戦い、すぐ敗北したのです。激烈な攘夷思想で凝り固まっていた尊皇攘夷派が、皆揃って天皇様に申し訳ないと切腹するのでなく、西洋諸国の軍事技術に素直に感嘆したおかげで、明治維新となったのでした。


蛇足ですが・・・
当時のニール英国代理公使が事件の経緯を報告する手紙を本国に送り、その内容を和訳したものの宛先は「不列顛女王陛下」。「不列顛」はブリテンと読みます。当時はヴィクトリア女王の時代でした。


生麦事件
薩英戦争
下関戦争

以前の吉村昭作品紹介:落日と暁





MAKあれこれ

2016-10-22 | そこらへん

はるかく」展以外に館内(デザイン部門)をウロウロして見たもの。
説明は読まずに、ただササッと撮っただけなので、勝手な説明です


1)中央列柱ホールに講演会席のようなものが設置されていました


2)キッチンユニット?日本語で言うと「台所屋台」かな?


3)太陽熱調理器


4)どこか古めかしく愛らしい戸棚


5)急ぎ朝用柱

顔を洗ってエスプレッソ飲んで、家を飛び出すのだ

6)園芸用屋台


7)図柄の気に入った大皿


8)縞の大鉢まるで日本の食器みたい


9)シリーズ本の背表紙デザイン


10)同じ模様のタイルと布


11)日本の羽織


12)グーテンベルク印刷のオリジナル(中央のページだけ)

ちょっと感動しました



以前のMAK記事
現代デザインの古典
台所革命
実写MAK
応用美術館




はるかく

2016-10-20 | そこらへん

オーストリア応用美術館MAK)で「春画展」が開催されています。
(10月12日から来年1月29日まで)
タイトルは漢字を訓読みしてみただけです
ロンドンの春画展が大成功だったので、ウィーンにある所蔵品も展示したのかもしれません。
大半が春画ですが、普通の浮世絵や現代のヌード写真(荒木経惟作品)も展示されています。


石川寅治:黒猫

江戸時代の浮世絵や春画と現代の接点といった意味で展示されているのかもしれません

他の作品は鈴木春信菊川英山歌川国麿歌川国貞喜多川歌麿葛飾北斎などです。

この美術館は美術史博物館自然史博物館同様、フラッシュなしなら撮影可。










会場の様子

小雨の平日でしたが、多くの人が見に来ていました


大型・小型のカタログのうち小型の方を買いました


チケット



展示されていた全作品は、多色刷り木版画として美しく、春画も時々ユーモラスです。美術館のHPにもカタログにも「16才未満の鑑賞者には不快感を与える可能性があります」と断り書きがあります。他の国は知りませんがオーストリアでは16才以上は大人扱い(多分他のヨーロッパ諸国も同じ)。そして低年齢者立ち入り禁止ではありません
春画という言葉については「直訳すると『春の絵(フリューリンクスビルダー)』である」と一応説明されていますが、Tsunamiなどと同様Shungaが、そのまま使われています。

面白いことに画像をググる場合、「春画」でググるより「Shunga」でググった方が沢山画像が出てきます


この春画展のスポット広告







壁の蔦

2016-10-18 | そこらへん

場所によりますが、ツタの紅葉も半ば散っています
おんぼろコンデジのピンボケ写真です




















      


 今日の蛇足:30年目のチェルノブイリ


オーストリアの新聞HPに、チェルノブイリの現状が紹介されていました。数年間にわたって構築されていた放射線防止の巨大な覆いが今年中に漸く完成するそうです。ラジオではウクライナの科学者が語っていました。

以前には国による原発の差が強調されていたが、福島第一の事故以来、国による原発の安全度レベル差は意味を成さなくなった。しかもウクライナ東部では今も戦闘が続いていて、別の原発が破壊される恐れもある。原発は国の違いではなく世界的に危険だ。

つまり、当時はウクライナの原発が古くて危険度が高かったという意見もあったわけですが、福島第一のように最も安全度が高いとされる原発でも事故が起こるのだから、世界中どこでも起こりうる、ということなのでしょう。しかも、やっと30年後に大きな覆いが完成するのですが、それで全て解決・以降は絶対安全という保証はありません。
福島第一の場合、まだ5年しか経っておらず、今も問題が起こっています。今後大きな事故が起こらず、オリンピックの年に大地震や原発事故が起こらないよう祈るばかりです。





皇帝を偲ぶ

2016-10-16 | その他

フランツ・ヨーゼフ皇帝没後100周年の特別展のひとつを6月に見て以来、やっと主要会場に行ってきました。
ゴタゴタ期だったり、あまり早く行くと混むだろうという予想から今まで待っていたわけです
でも、宮廷家具博物館の場合と同じに撮影禁止でしたので、写真は外側だけです

乗り換え無し市電停留所を降りるとすぐシェーンブルン宮殿


宮殿正門


鋳鉄の門


宮殿中央部


左の棟に入り口があります

屋台が並んでいるかに見えるのは庭園を回るミニ列車

展示会場はベルグルの部屋と呼ばれる一連の部屋で、暗くしてあるので、普通のカメラでは良い写真にならないでしょう。
皇帝の生涯を偲ぶのに相応しい良い展示だったと思います。

ベルグルの部屋は画家のベルグルが壁と天井いっぱいにエキゾチックな風景画を描き、まるで屋外にいるような空間を生み出しています。
画家を紹介するドイツ語ウィキの記事にシェーンブルンの絵の一部が紹介されています。
暗くしてあるので、天井に広がる葉の生い茂った枝が本物に見えました。


展示は写せないので早くも帰り道。2時間じっくり展覧会を見たので、庭園まで行くのは諦めました
(庭園に到達するまでも長い道程なのです。昔の偉い人は馬車や騎馬で移動

宮殿近くのウィーン川


市電停留所近くの小公園



展示の写真がない代わりにコロマン・モーザーのデザインした絵葉書


この絵葉書は皇帝の治世60周年を記念する一連のイベントや企画のひとつだったものです。モーザーが亡くなってから80年以上経つので、著作権はなくなっています。左にシェーンブルン宮殿正門、右にホーフブルク王宮の正門が描かれています。

フランツ・ヨーゼフ皇帝は非常に保守的な人で、生涯、電話も自動車も利用しませんでした。しかし、それは、息子を皇帝にしようと考えていたゾフィー女大公の方針で、徹底的な保守教育が行われたからで、フランツ・ヨーゼフは敬虔なカトリック教徒として、神と王権神授説を深く信じていました。ハイネに傾倒していたとは、全くフィーリングが違っていて、一目惚れ以来終生妻を愛し続けたとはいえ、全然話題が合わなかったのも当然です。
しかし、生真面目・実直な人物で、皇帝の立場を「帝国の筆頭官吏」と考え、生涯勤勉に責務を果たし続けました。
多民族帝国で唯一、統一の要だった人物が世を去ってまもなく帝国も崩壊しました。皇帝も既に帝国の終焉を予想していたことでしょう。

フランツ・ヨーゼフは即位直後に暗殺未遂を体験したほか、息子、妻、後継者が次々と非業の死を遂げたばかりでなく、その他の親族も数人、不慮の死を遂げています。このため、今でも同情する人が多いのです。私も、そのひとりです。公私両面で打ち続く不幸を生涯黙々と耐えたのはすごいと思います。


以前の関連記事
宮廷家具博物館
大学に行きたかった人
ルドルフ皇太子が鳥類学者であったことも書きました。
孤独な皇帝
フランツ・ヨーゼフ皇帝に対する私の考え方も、娘のマリー・ヴァレリーと同じように変化してきました。






黒髪の力

2016-10-14 | おきにいり


以前にアップした「2つの美術館」の記事があった9月24日付けNZZ(新チューリヒ新聞)には、もうひとつ日本美術の記事がありました。
2つの美術館のあとゴタゴタしまして、アップが遅くなりました



タイトルは「漆黒を読み取る」で、その下には「伊東深水の作品は全て黒髪をめぐっている・・・しかし日本文化そのものも、この黒い導きの糸に貫かれている」と書かれています。
スイスの美術館に展示されている伊東深水作品と「黒髪文化」を解説した記事です。
私は知りませんでしたが、伊東深水の絵も木版画になっているのですね 江戸時代からの伝統と言えるでしょう。

以下内容の要点です。

深い黒髪は絵画における際立ったエレメントであり、白い顔と紅い唇を一層際立たせる。
洗髪の後で髪を梳るのは、日本伝統の柘植の櫛である。

髪は一種の「表示」である。子供、娘、未婚女性、既婚女性、御所の女官、遊女など、夫々、独自の髪型があった。古い時代、女性は結婚すると眉を剃り落とし、鉄漿で歯を黒く染めた。

武士は兜をかぶる場合のため月代を剃っていた。明治時代にちょん髷が禁止されると男性は暫く戸惑った。当時は、これを揶揄する慣用句があった。
(「散切り頭を叩いてみれば文明開化の音がする」のことですね)
・・・それにしても、兜不要の農工商の方々も月代を剃っていたのは、暗黙の社会的お約束だったのでしょうか・・・

神社仏閣では今でも奉納された大量の髪を見ることができる。
(つまり「髪の霊的力」が信じられていたということでしょうか)

谷崎潤一郎は重要な随筆「陰翳礼讃」の中で、日本伝統の美の世界を描写している。

最近では、2007年に園子温監督が、映画「エクステ」で、ホラー的な髪を扱っている。


住んでいないせいもあるけど、最近の日本映画のことは知りません。この記事の筆者は良く知ってますね。
沢山見たことはないけど、伊東深水の絵は本当に爽やかで美しいと思います


展覧会のスポット広告



展覧会のHP(ドイツ語ですが、伊東深水の絵が見られます)






オカとオコ

2016-10-12 | ことば

大変長らくご無沙汰しましてごめんなさいです       

数日で済む予定が、割り込み仕事が続きまして・・・ 
えー、では気をとりなおしまして・・・今回はオカとオコの話でございます


パリオで有名なシエナで、非常に危険な裸馬による競馬に参加する資格を有するのは17のコントラーダ(地区、日本風に言えば、善隣組合、町内会)。
騎手同士で殴り合っても良い、事前に談合しても良い、という、かなり野放図なルールのところも変わっています

追記:普通の競馬では騎手が落馬したら、馬だけ最初にゴールしても優勝とは認められません。パリオでは鞍も鐙もない裸馬なので騎手の落馬は良くあります。そのためか、パリオでは馬だけでも最初にゴールすれば、そのコントラーダの優勝となります


パリオで一番優勝回数の多いコントラーダはオカ(ガチョウ)です。

オカの旗



優勝するとコントラーダでパレードや祝賀パーティーがあります(オカのパレード)


以前シエナのダンテ・アリギエリで集中コースに通ったとき、クラスの先生に「コントラーダのシンボルにガチョウなんて可笑しい」と言ったところ、「ガチョウは気が荒く、古代ローマでは番鳥(番長ではない)や軍鳥(郡長ではない)に使われていたのですよ」と教えられました。

但し、オカには別に「アホ」という意味もあるのだそうです。A語尾は女性形(マリアとマリオ、ジュリアとジュリオなど)。するとアホは女だけ?ということはないはずだから「男の場合はオコですか?」と言ったのですが先生に「ダメ」と却下されました
ここでも「文法は現実より弱い」ということを悟ったわけです(まあ男性がアホな場合もオカと言うのでしょう)
文法は文学にかなわないという体験はこちら

ところで、イタリア語のオコ(アホ)は却下されましたが、日本語では、アホを意味する烏滸(オコ)がありますね。
烏滸がましい」とか「烏滸の沙汰」という形で使われます。


      


私がシエナ大好きなことは以前にもアップしていますが、集中コースのとき住んでいたコントラーダはイストリーチェ(ヤマアラシ)。

イストリーチェの旗


シエナ最北部のコントラーダで、フィレンツェとトスカナの覇権を争っていた頃、フィレンツェ軍が攻めてくると先ず襲われるのはイストリーチェで、住民が「我々はまるでヤマアラシだ」と旗のシンボルにしたのだとか・・・
イストリーチェは良い響きですが、ドイツ語だとシュタッヘルシュヴァイン(トゲブタ)

以上、画像は全てウィキ・フリー画像です。
日本語ウィキの記事は簡単なので、詳しくは英語版でご覧ください。

Palio di Siena(記事の終わりに迫力ある写真があります)
Contrade di Siena(ここにもステキな写真あり)

各コントラーダの記事はイタリア語だけ(でも写真が面白いです)
オカ:Nobile Contrada dell'Oca
イストリーチェ:Contrada Sovrana dell'Istrice

イモムシを旗に描いているコントラーダもありますが、これは「お蚕」さんで、経済的に重要だったからではないか、というのが私の勝手な推定です