アラビア語コースで
ヘレン・ケラーに関するテキストを読みました。

ヘレンと
サリヴァン先生
1才の時の熱病で視力・聴力を失い、従って言葉を聞くことも周囲を見ることも不可能となり、自ら喋ることもできなくなった三重苦の少女が、自らも視力を失った経験のあるサリヴァン先生と家族のバックアップで、読み書き会話をマスターし、後に障害者教育に尽力する教育者・文筆家になったという話は、子供の頃から知っていました。教科書や授業などで必ず読んだり聞いたりする話だからだと思います。
しかし、アラビア語のテキストで、ヘレン・ケラーが水泳や2頭立て馬車を御することまでできたと知りました

馬車の場合には、隣にサリヴァン先生か誰かが座り、進行方向を指示していたのではないかと思います。
ついでにウィキってみましたら、思いがけないことを発見しました。
ヘレンが子供の頃から、彼女の母親は「
塙保己一のような立派な先人がいるのだから頑張りなさい」と言っていたということです。
群書類従の編纂者、塙保己一(ウィキ・フリー画像)
塙保己一も学校で必ず教わる立派な先人のひとりですね。
講義中にロウソクの火が消え、弟子たちが困ったのに対し「目あきとは不便なものだ」と笑ったという逸話も有名ですね。
塙保己一は完全に失明したのが7才のときで耳は聞こえたのですから、それに比べてヘレン・ケラーの三重苦克服は本当に凄いと思います。
英語ウィキ
Hanawa Hokiichiにもヘレン・ケラーが訪日の際に塙保己一記念館を訪れ「彼の名前は流れる水のように世代から世代へと受け継がれるだろう」と語ったことが記されています。
ヘレン・ケラーが生まれたのが1880年で、10才頃から母親に塙保己一のことを言われていたとして、既に19世紀末には、塙保己一の名前がアメリカでも知られていたことになります。
もちろん、ヘレンの両親が教養人だったことは確かですが、それにしても、名前の伝わるのが早いなぁと思います。(
明治維新1868年)