みみずのしゃっくり

みみずのしゃっくりのように役に立たないことを不定期に書き込むブログ。
専属スターはいませんが、猫っぽい内容です。

ななみみず前身「みみざこ連」




仔ニャンコ・仔ワンコが新たなお家に迎えられるには、いつ頃が良いのでしょうか?
いわゆる「8週齢」問題については、こちらをご覧ください。六つ子の仔猫の動画もあります。

最新記事は、この下です↓
通常1日おきに更新の予定ですが、2日おき、あるいは3日おきになることもあるかも・・・(^v^;)

開かれた美女

2017-02-27 | その他

ウィーンのヨゼフィーヌムは医学史博物館です。この美女も、ここにいらっしゃいます。
人体内部臓器のワックス模型ですが、とにかく美女です





ヨゼフィーヌムは、名称からも分かるように、科学技術に力を入れた皇帝ヨーゼフII世によって1784年に設立され、現在ヨゼフィーヌムの名で医学史博物館となっている建物は1785年に完成しました。

当時、皇帝は、弟のトスカナ大公をフィレンツェに訪問したとき、フィレンツェ製の精巧なワックス人体模型を見て感心し、3万グルデンをかけて数々のワックス模型を制作させました。ワックス模型は医学全般と外科医学の医師・医学者養成のためであり、同時に解剖学博物館に展示されました。

金額についてはギルダー参照
換算するのが面倒なので、お時間のある方は換算してみてくださいませ

ヨーゼフII世が礎を築いたウィーン大学医学部は王朝時代、世界で最も進んだ医学部でした。斉藤茂吉が留学したのも王朝末期のウィーン大学です。


ヨゼフィーヌムは誰でも行きたがる観光名所というわけでもないので、独語ウィキしかありません。

画像はヨゼフィーヌムのHPにあるものです。英語HP(沢山、画像があります)


      

ヨゼフィーヌムには自分で行って写真を撮ろうと思ったのですが、どうせ、この写真のようにはっきりしたものは撮れないので、サボりました

このところ写真を撮っていないので、借り物画像が続いていますが、そろそろ自分のピンボケ写真もアップし・・・ようかな






就活猫

2017-02-25 | かりねこ





就活中のジェームズ君はネクタイでおしゃれキャットフード会社に就職し
「猫の猫による猫のためのキャットフード」開発を夢見ています



      


上の文章は、私が勝手に付けた説明で、これも前々回のプーさん同様、オーストリアの新聞HPに紹介された写真です。


プーさんは最近の記事ですが、ジェームズ君は大分前に登場しました。この新聞HPでは、週間天気予報のページに良く猫さんが登場します。









北方の親族

2017-02-23 | おきにいり

ラジオで数日間サーミ人の伝統音楽が紹介されていました
その伝統音楽はヨイクと呼ばれ、キリスト教以前の原始宗教として禁止されてきたのですが、本当の伝統というものは、単なる禁止で滅びるものではないのですね。今も歌い継がれ、むしろ貴重な伝統文化として評価されているようです。

ヨイクの一例


サーミ人の伝統的な居住地域はラップランド、その住民はラップ人と呼ばれていました。でもラップランドは平たく訳すと「ど田舎」、ラップ人は「ど田舎者」ということになるので、今では使われなくなっています。

ジプシーロマあるいはシンティ・ロマ人と呼ばれるようになっているのと同じですね。

サーミ人は、アメリカ・インディアンエスキモーあるいはイヌイット、アイヌなどとも民族的・文化的に縁戚関係にあります。つまり、この方々は広い意味での北方の親族と言えるでしょう。

追記:
シリーズ最終回の放送によれば、遂にヨイクが教会でも歌われるようになったということです



アイヌの伝統文化も、大切に守り受け継ぐべき日本の宝と言えるでしょう。
熊などの木彫や織物、ムックリは極めて特徴的でひと目でそれと分かります。

YouTubeで見つけたユーカラ






ヤルムークの人々

2017-02-19 | その他

ヤルムークヨルダン川に注ぐ支流の中で最大のものです。




第一次世界大戦でここも戦場となりました。遠くに見える壊れた橋は、第二次大戦後の1946年にハガナーに破壊されたものです。


もうひとつヤルムークがあります。ダマスカスの最南部にあるパレスチナ難民の居住地区でヤルムーク・キャンプと呼ばれますが、初期のパレスチナ難民が住み着いて、長年のうちに普通の市街地に発展しました。



ダマスカス地区見取り図の一番下、Al-Yarmoukと書かれたダークブルーの地域で、内戦勃発前には約14万人が住んでいました。この地域は2015年からテロリストの組織イスラム国家に占領され、戦闘が続いているため大半の人々(殆どパレスチナ難民)は国内外へ逃れ、現在残っているのは7000~8000人とされます。


土曜日のアラビア語コースのとき、私のクラスの部屋半分にコースの後半から20人くらいの人たちが集まりました。アラビア語の先生が「この人たちはダマスカスのヤルムークから避難したパレスチナ人で、これからドイツ語を勉強するのです」と教えてくれました。皆パレスチナ難民の孫世代と思われますが、彼らは二重の意味で難民なのです。パレスチナを追われ、ダマスカスのヤルムーク地区で安定した生活をしていたのに、更に命の危険があるためヨーロッパへ逃れ、その一部の人たちがオーストリアで戦争難民と認定され、更にその一部の人たちがアフリカ・アジア研究所でドイツ語を学ぶことになったわけです。

以前の記事難民の顔にも、ソマリアからイエメンに逃げ、イエメンで内戦が始まったため又逃げなければならなくなった人が登場します。

以前の記事川を渡る人々にみみずボログの関連記事がリンクしてあります。



Yarmouk Camp
パレスチナ問題
国連パレスチナ難民救済事業機関





めねてける

2017-02-17 | ことば

メネテケルに驚くナポレオン


ジョゼフィーヌやフランス兵とともに酒宴のテーブル(イギリス)に座るナポレオンと、警告する「空中の手」。

1803年の風刺画で、1806年の大陸封鎖令以前に描かれています。つまり、飛ぶ鳥を落とす勢いのナポレオン絶頂期に描かれたもので、ナポレオンを絶対倒してやるという決意を物語っているのでしょうか


メネテケルMenetekelというのは「不吉な知らせ」の慣用句で
旧約聖書のダニエル書に由来します

ベルシャザル王の饗宴に現れた手

レンブラントの絵

新バビロンのベルシャザル王が快楽的な饗宴を開いていると、突然、空中に手が現れて壁に字を書くのです。誰も読めず、賢者ダニエルが呼ばれて謎解きをします。

書かれているのは「メネ、メネ、テケル、パルシン」で、王の権勢は終わり、王国はペルシャ人とメディア人の間で分割されるという意味である、とダニエルが説明。

そして、その夜、ベルシャザル王は殺されます。


ダニエル書は主役のダニエルが様々な謎解きをし、あるいは難局を切り抜け、冒険物語のようで私は好きです





75年前

2017-02-15 | その他

1942年2月22日シュテファン・ツヴァイクがブラジルで自殺してから、今年は75年目にあたります。これを記念して、ラジオでも作品の一部が朗読されたりしています。

歴史的に文学者の自殺は時々ありますが、シュテファン・ツヴァイクの場合は共感する人も多いかと思います。


ツヴァイクが自殺した家:ペトロポリス

今はカーサ・シュテファン・ツヴァイクとして記念館となっています


シュテファン・ツヴァイクはユダヤ系の富裕な実業家の子としてウィーンに生まれ、ウィーン大学に入りましたが、授業に出席するよりは、当時ヨーロッパ一流の新聞であったディ・プレッセ(編集者のひとりがテオドール・ヘルツル)に投稿する詩を書くことに熱心だったようです。それでも博士号を取得しています。
第一次大戦の体験やロマン・ロランとの交流などによってツヴァイクは徹底的な平和主義者になりました。

第一次大戦後からナチスによる政権奪取までツヴァイクはザルツブルクに居住し、多くの著作のほか、各国の文筆家や学者と交流しています。
ナチスの政権奪取後は1934年からロンドンに滞在、イギリス国籍も取得しています。しかし第二次大戦勃発によって、オーストリア人がドイツ人とともにイギリスの「敵国人」となってからは、収容所に入れられるのを恐れて、ニューヨーク、アルゼンチン、パラグアイを経て1940年ブラジルのペトロポリスに住み着きました。

当時のツヴァイクは既に世界的な名声を得ており、他のユダヤ系文化人の亡命者とは違って、経済的にも恵まれた状態にありました。しかし、ヨーロッパを自分の精神の拠り所としたツヴァイクにとって、ヨーロッパが戦争によって互いに殺し合い崩壊していく様子が耐えられなかったのでしょう。オーストリアを離れてから8年間の「亡命生活」は、経済的問題はなくても、精神的には耐え難い歳月だったと思います。
ツヴァイクは身辺を整理し、バルビツール製剤の大量服用によって自殺しました。

1945年まで、あと3年待てば戦争は終わっていたのです。しかし「この戦争の後、二度と再び往時のヨーロッパは戻ってこない」という恐れを持っていたとも思われます。確かに、第二次大戦末期は既に冷戦の始まりでした。それでも、ツヴァイクの理想に似た精神で、フランスとドイツの和解を軸にヨーロッパの統合が進み欧州連合EUへと発展してきたのですが、先を競ってEUに加盟した国々が、今では自国最優先のエゴイズムでEUを敵視するようになっています。ツヴァイクが今のヨーロッパに帰ってきたら、やっぱり悲観するかもしれません。


私はツヴァイクの「昨日の世界」しか読んでいませんが、大変印象的でした。この作品には少年時代からの思い出が綴られ、ウィーンの歴史的ガイドになっているとともに、交流のあった多彩な文化人が登場します。フーゴー・フォン・ホーフマンスタールエミール・ヴェルハーレンマクシム・ゴーリキー、そして上記のロマン・ロランなどなど。

高い単行本ですが日本語訳もあるようです。
昨日の世界I
昨日の世界II






3つのニュース

2017-02-13 | その他

最近のヨーロッパのニュースです


その1)昨年12月ブルガリアの列車爆発事故



危険な化学物質を積み込んだ列車がブルガリアの村で爆発し、周囲の多くの家と飼料倉庫が破壊されました。このため、家畜や犬さん猫さんの食べ物が不足。
各国に支部のあるオーストリアの動物愛護団体「四つ足」が飼料、ドッグフード、キャットフードを提供しました。
(干草14トンとドッグフード&キャットフード1ヵ月分)
こういう、ある国のローカルなニュースは国際的に広く報道されることはありません。
上は私が定期的にカンパしている「四つ足」からのニュースに添付されていた写真です


その2)ドイツの新大統領



大統領に関する以前の記事でも触れましたが、これまでのシュタインマイヤー外務大臣が、ドイツの新大統領に選出されました。ドイツは大統領を国会で選ぶので、アメリカやオーストリアのような手間がかかりません。シュタインマイヤー新大統領は社会民主党所属ですが保守党からも支持され、75%の支持を得ました。保守党のメルケル首相が左右を問わず支持されているのと似ています(写真はウィキ・フリー画像)。

数年前、腎臓病となった夫人のため、シュタインマイヤーは自らの腎臓を提供しています。これは当時オーストリアでも報道されました。


その3)スイスの選択

年中行事のように国民投票の多いスイスで又国民投票がありました。多くの場合、複数のテーマについて国民が国政の方向を決めます。

2月12日の投票では、スイスに定住した難民や移民の3世代目(つまり孫たち)のスイス国籍取得を容易にするかどうかで、ほぼ三分の二が容易化を支持、これに反対する排外主義的な右翼のスイス国民党は敗北しました。
これは、スイス人のオープンな姿勢を新たに証明したと言えるでしょう。

スイスでの2022年冬季オリンピック開催については、開催地に予定されていたグラウビュンデン州の住民投票で53%の住民が反対、オリンピック開催地として立候補することはできなくなりました。
オリンピックを開催する地元にとっては経済的のみならず色々な点で大きな負担になりますから、地元民の意向が大切にされるのは民主主義の証と言えるでしょう。






球形の恐怖

2017-02-09 | かーど&手描き

もう長らく書いていなかった超下手くそなラクガキ
(横着して「マウスらくがき」ではありません)


131の笑い話を集めた「思慮深いメンドリたち」の最初のエピソードです。




地球は球形で猛烈な速度で宇宙を回転していると初めて知ったメンドリたちは不安になり、ひどい眩暈に襲われました。
メンドリたちは泥酔したように草地をフラフラとよろめき、転ばないように一歩一歩注意深く歩きました。
中で一番知恵の回るメンドリが提案しました。「静かで落ち着ける場所に行こう。出来たら四角いところがいいよ。」



      


ルイジ・マレルバの「思慮深いメンドリたち」についてはナポレオン♀をご覧ください