フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

5月8日(月) 曇り、肌寒し

2006-05-09 02:52:38 | Weblog
  GWは昨日で終わったけれど、私は月曜日が休みなので、個人的な感覚では今日までがGWである。でも、天気はパッとしないし、左上の奥歯は痛むし、それになにより気分を滅入らせるのは、例の4匹の仔猫の身の上にどうもよからぬことが起こってしまったらしいということだ。このところ母猫がずっと我が家の敷地にいる。餌を食べたらサッサと仔猫たちのところへ戻りそうなものなのに、「なつ」と一緒にダンボール箱の中で居眠りをしたりしている。4匹の仔猫は生後2週間である。当然、まだ子離れの時期ではない。考えられることは、母猫が戻っても、そこにはもう仔猫たちはいないということだ。人間の手によってか、あるいはカラスによってか、仔猫たちを奪われてしまったのであろう。突然、母性の持って行き場を失ってしまった母猫は、とうの昔に子離れの儀式(仔猫がいつまでも自分にまとわりつこうとすると唸り声を発して威嚇する)を済ませてはずの「なつ」や「あき」を相手に、虚ろな気持で「母猫」を続けているように見える。産後のだぶついた腹の皮が哀れである。
  自転車で郵便局へ行き、古本の代金と、日本社会学会と家族問題研究会の年会費を振り込む。締めて45000円。財布の中身が急に淋しくなる。やぶ久で昼食(日替わり定食:イカ天丼とおろし蕎麦)を食べながら『週刊文春』を読んでいたら、『ブロークン・フラワーズ』という作品の評判がすこぶるよかったので、ディスカウントチケット店へ行って前売り券を購入(すでに4月29日から公開されている)。明日、大学の帰りに日比谷のシャンテシネで、観られたら観ようと思う。
  立花隆『滅びゆく国家』(日経BP社)を読む。ある時期から彼の書く本のタイトルがえげつなくなった。あるいは大仰になった。だから次のような文章もいくらか割り引いて読む必要があるのかもしれない。

  「ここにおさめられたものは、内容的には、この日本という国がこれからどうなってしまうのであろうかと、国の行く末を案じながら書いたものが多い。それで、このようなタイトルを本書につけることになったわけだが、本当にこの国はいま、危ない大きな曲がり角を曲がりつつあるところだと思う。
  どれぐらい大きな曲がり角かというと、百年に一度あるかないかの大きな曲がり角だと思う。
  まだ、曲がりつつあるところだから、その曲がり角の全貌は見えない。しかし、あと何年かしたときに、その全貌が見えてくると、それは幕末から明治維新にかけて、藩幕体制が一挙に壊れて、近代国家が生まれるに至った動乱期とか、昭和戦前期の満州事変から五・一五事件にかけての激変期(大正デモクラシーが一挙に壊れて、軍閥が日本を支配するに至った時代)に比することができるくらい、国家の根本的システムがアッという間にちがうものに変わっていった『国家システムの大変革期の時代』だということがわかってくると思う。
  ここ数年の、いわゆる小泉改革が急速に進行した間に、日本の戦後民主主義の時代、あたり前とされてきた大原則がいろいろな局面で次々に原則でなくなっていった。
  たとえば、社会的原則でいちばん大切にされてきた平等原則は、『悪平等』として非難の対象になり、代わって弱肉強食の競争原理がもてはやされるようになった。要するに、強い者が勝ち、勝ち組に富が集中していく格差社会こそ当然と考えられるようになったということである。」(14-15頁)

  私は日本人が「格差社会こそ当然と考えるようになった」とは必ずしも思わない。もしそれが本当だとしても、それは一時的な現象だと思う。なぜならそうした考え方には、敗者に対する思いやり、別の表現をすれば、自分が敗者になるかもしれないことへの不安や恐れの感覚が欠如しているからである。格差社会というのは勝者と敗者が半々の社会ではない。少数の勝者と多数の敗者に分かれる社会である。冷静に考えれば、自分が勝者になる確率よりも敗者になる確率の方がずっと大きいのである。そうした社会に人々が安住できるはずがない。いまはまだ格差社会の初発段階で、勝ち組になることへの欲望の加熱装置がフル稼働しているが、いずれ勝負の帰趨が見えて来た段階で、冷却装置が本格的に稼働を始め(スローライフ運動はその先駆けである)、何らかのセーフティネットを人々は強く求めるようになるだろう。