9時、起床。朝食は卵かけ御飯。朝食から昼食までの間は執筆タイムであるが、自分で決めた枚数になかなか収まらないで弱っている。禁欲を心掛けてはいるつもりなのだが、書いていると、どうしても分量が多くなってしまう。彫刻に喩えれば、ジャコメッティを目指しているのにマイヨールになってしまっている。トータルの上限は350枚だが、いまの調子で書いていったら500枚になってしまう。いっそのこと500枚書いてから、削って350枚にするか。非情なダイエットだ。いや、いや、やっぱり禁欲して書いていこう。高倉健でいこう。
昼食(かた焼そば)をとってから、健さんのような革ジャンを着て、散歩に出る。シャノアールで持参した浅羽通明『右翼と左翼』(幻冬舎新書)を読む。「右翼」と「左翼」をキーワードにした西洋近現代史ならびに日本近現代史で、面白いし、いま書いている原稿にも役に立つ。原稿を書いている期間はどうしても読書の量が落ちる。アウトプットに時間とエネルギーが取られて、インプットの方がおろそかになる。自宅にいるとついついパソコンの前に座ってしまうので、読書の時間を確保するためには、こうして散歩に出て場所を替える必要がある。
有隣堂に寄ったら、村上春樹の新訳でレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(早川書房)が出ていた(奥付の発行日は3月10日となっている)。あ~、も~、人が原稿を書いているときにこういう本を出しますか、村上さん、あなたって人は。多少とも原稿のテーマと関連している本は、執筆の時間を削って読むことにエクスキューズができるが、文芸書の場合は純粋に娯楽としての読書になりますから。それも短篇・中篇ならまだしも、これ、500頁を越える長編じゃないですか。ええ、もちろん購入はしますよ。しますとも。はい、しました。でも、いま読み始めたら確実に2日は執筆のペースが遅れますから。それはちょっと…。いまはとりあえず「訳者あとがき 準古典小説としての『ロング・グットバイ』」を読むだけにしておこうかなと思ったら、あとがきだけで原稿用紙90枚分もあるじゃありませんか。も~、しょうがねえな~。
「この本を読み飽きない理由としては、まずだいいちに文章のうまさがあげられるだろう。チャンドラー独特の闊達な文体は、この『ロング・グットバイ』において間違いなく最高点をマークしている。最初にこの小説を読んだとき、その文体の「普通でなさ」に僕はまさに仰天してしまった。こんなのがありなのか、と。チャンドラーの文章はあらゆる意味合いにおいてきわめて個人的なものであり、オリジナルなものであり、ほかの誰にも真似することのできない種類のものだった。チャンドラーの生きているあいだも、その死後も、彼の文体を真似ようと試みたものは数多くいたが、たいていはうまくいかなかった。そういう意味では彼の存在は、ジャズにおけるチェーリー・パーカーの存在に似たところがあるかもしれない。その語法を借り受けることは可能だ。というか、その語法は今では貴重なパブリック・ドメイン(文化的共有資産)となっている。しかしそのスタイル=文体の核心をものにすることは誰にもできない。それはあくまでも純粋に、一人の個人に属する私有資産であるからだ。文章を(おおむね)そのままなぞることはできる。しかしなぞられた文体からは、ほとんどの場合、もとあった生命が消えてしまっている。」(536頁)
これで『ロング・グッドバイ』とはしばしのお別れだ。高倉健でいこう。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/23/aa/5c8949cf227056855c5c9043e3d43413.jpg)
原色の街
昼食(かた焼そば)をとってから、健さんのような革ジャンを着て、散歩に出る。シャノアールで持参した浅羽通明『右翼と左翼』(幻冬舎新書)を読む。「右翼」と「左翼」をキーワードにした西洋近現代史ならびに日本近現代史で、面白いし、いま書いている原稿にも役に立つ。原稿を書いている期間はどうしても読書の量が落ちる。アウトプットに時間とエネルギーが取られて、インプットの方がおろそかになる。自宅にいるとついついパソコンの前に座ってしまうので、読書の時間を確保するためには、こうして散歩に出て場所を替える必要がある。
有隣堂に寄ったら、村上春樹の新訳でレイモンド・チャンドラー『ロング・グッドバイ』(早川書房)が出ていた(奥付の発行日は3月10日となっている)。あ~、も~、人が原稿を書いているときにこういう本を出しますか、村上さん、あなたって人は。多少とも原稿のテーマと関連している本は、執筆の時間を削って読むことにエクスキューズができるが、文芸書の場合は純粋に娯楽としての読書になりますから。それも短篇・中篇ならまだしも、これ、500頁を越える長編じゃないですか。ええ、もちろん購入はしますよ。しますとも。はい、しました。でも、いま読み始めたら確実に2日は執筆のペースが遅れますから。それはちょっと…。いまはとりあえず「訳者あとがき 準古典小説としての『ロング・グットバイ』」を読むだけにしておこうかなと思ったら、あとがきだけで原稿用紙90枚分もあるじゃありませんか。も~、しょうがねえな~。
「この本を読み飽きない理由としては、まずだいいちに文章のうまさがあげられるだろう。チャンドラー独特の闊達な文体は、この『ロング・グットバイ』において間違いなく最高点をマークしている。最初にこの小説を読んだとき、その文体の「普通でなさ」に僕はまさに仰天してしまった。こんなのがありなのか、と。チャンドラーの文章はあらゆる意味合いにおいてきわめて個人的なものであり、オリジナルなものであり、ほかの誰にも真似することのできない種類のものだった。チャンドラーの生きているあいだも、その死後も、彼の文体を真似ようと試みたものは数多くいたが、たいていはうまくいかなかった。そういう意味では彼の存在は、ジャズにおけるチェーリー・パーカーの存在に似たところがあるかもしれない。その語法を借り受けることは可能だ。というか、その語法は今では貴重なパブリック・ドメイン(文化的共有資産)となっている。しかしそのスタイル=文体の核心をものにすることは誰にもできない。それはあくまでも純粋に、一人の個人に属する私有資産であるからだ。文章を(おおむね)そのままなぞることはできる。しかしなぞられた文体からは、ほとんどの場合、もとあった生命が消えてしまっている。」(536頁)
これで『ロング・グッドバイ』とはしばしのお別れだ。高倉健でいこう。
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原色の街