フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月24日(土) 曇り時々小雨

2007-03-25 02:46:28 | Weblog
  9時、起床。菅野昭正『変容する文学のなかで』下巻を読む。菅野は昨日購入した『石川淳評論選』の編者であるが、肩書きはフランス文学者、文芸評論家、東大名誉教授である。『変容する文学のなかで』下巻は東京新聞等に1990年12月から2001年11月まで連載した文芸時評をまとめたもので、いつだったか、古本屋で下巻だけ売っていたのを(したがって格安の値段で)購入したもので、上巻は所有していない。私が読んだことのある小説について書かれた部分だけを拾い読みしたのだが、その丹念な評論に感嘆し、畏敬の念さえ抱いた。こういう仕事を毎月毎月、20年も続けるというのは、並大抵のことではない。「あとがき」の中で菅野は批評という行為の心得のようなこと述べている。

  「批評はまず作品を読むことからはじまる。時評という話の枠を離れて言うのだが、一般に批評というのはよく読むことからはじまる。あるいはよく読むことからしか始動しない。」

  至極あたりまえのことのようだが、あまりまえのことを20年続けるというのは全然あたりまえのことではない。

  「それが批評の最初の段階である。そんなふうに私が考えるようになったのは(あるいはそれがいっそう固まる恰好になったのは)、ある特別なイデオロギーの体系が先行する批評に、その昔よく出会ったからである。また、文学と隣りあう人文科学(言語学、歴史学、精神分析学、文化人類学、神話学等々)から拝借した新種の概念やら用語やらの集積に、作品を分解してしまう批評が、ある時期からしばしば見受けられるようになったからでもある。何よりもまず作品を読むという基礎的な作業にたいして、そういう種類の批評は冷淡であることが多いのではないか。」

  何らかの批評(分析)のための方程式があって、任意の作品を変数に代入すれば、あっというまに解が出て来てしまうような、そういうインスタントな文芸批評(分析)がここでは批判の対象とされているわけだが、私は自分が仕事をしている社会学の分野でも同様のことがいえると思いながら、自戒の気持ちをもってこの部分を読んだ。20年間、文芸時評を書いてきて、その間に文学がどのように変容してきたか、菅野は簡潔に報告する。

  「女性作家の活動の場がしだいにひろがってゆくこと、都市で孤独に暮らす単身者が作中人物として登場する作品が目立つようになったことなど、時評で観測した現象をここにまた呼びだすのはもう無用な寄道だが、ひとつだけ念のために書いておきたいのは、小説の書き方の変容である。まず第一に、幻想、幻視など現実を異化しようとする想念が、しだいに大事な部分を占めるようになった、ということがある。もちろん、それが空虚な戯れとして空廻りする例はいくらでも挙げられる。しかし世界の隠れた混沌の相を探る、現実の奇妙な歪みを照らす、人間のなかに潜む惑乱に近づく-幻想、幻視をそのために頼み甲斐のある方法として活用しようとする意識は、しだいに確かな根を張りつつあるように見える。/また、リアリズムを基調とする作品の性質も変わりつつある。現実を再生したりその模像となることをめざした、リアリズムの昔ながらの規範から抜けだそうする動きは、すくなくとも稀少ではなくなっている。たとえば、日常生活の断面をいかにも現実的に描きだすよう装っていながら、その種の断面を連ねてゆく運びのなかから、現実の奥に澱むものを暗示的に炙りだそうとする、リアリズムの異端児のようなリアリズムで書かれた小説は、数えればかなりの数にのぼるだろう。」

  上巻もぜひ読みたくなったので、インターネットで上下揃いではなく上巻単独で出品されている古本を捜して注文する。
  小雨がぱらつく中、散歩に出る。3月9日にオープンした日本橋丸善に行ってみた。以前は地上5階、地下1階の丸善単独のビルだったが、新しいビルは日本橋丸善東急ビルという名前になって、丸善の店舗は1~3FとB1のみになった(服飾部門は他のビルに移ったらようである)。ただし内装は格段にグレードアップしていた。まずは地下1階の文具フロアーを見物。「大人のおもちゃ」という表現は誤解を招くであろうが、文具は大人のおもちゃである。楽しく、飽きない。

          
                  地球儀がいっぱい

  しかし、楽しい気分はここまでだった。3Fのカフェで名物のハヤシライスを注文したのだが、まずサラダ(これはなかなか美味しかった)が来て、次に運ばれてくるべきハヤシライスが待てど暮らせどやってこない。もしやと思って、店員に確かめたら、「申し訳ございません。当方のミスで注文が通っておりませんでした」と言われた。しかし少なくともサラダは来ているわけだから、注文が通ってなかったというのは解せない話である。私は食後の珈琲はキャンセルし、ハヤシライスをすぐにもってくるように言った。連れがいれば、たぶん穏やかな口調で言ったであろうが、一人であるから、そういう配慮は必要ない。いくらか叱りつけるような口調で言った。店員の教育は客の役目である。すぐに運ばれてきたハヤシライスは、色が黒く、甘ったるくはなく、むしろ少々の苦味があり(玉葱をいためるときに焦げ目をつけるのだろうか)、さまざまな具材は原型を止めぬほどに長時間煮込まれている。★5つを満点とすれば、3.5といったところだろうか。これは店員の不手際を反映した結果ではない。世間では「とろとろになるまで長時間煮る」ことをありがたがる風潮があるが、私はそれには反対である。ものには限度というものがあり、歳をとって歯ごたえのあるものが食べられないのであれば別だが、こういう肉や野菜の食感の消失したハヤシライスは旨いとは思えない。薬膳料理の一種のような感じがする。食事を終え、しかし、伝票が来ないので、これは御代はいりませんということなのかと思いつつ、レジに向かうと、案の定、フロアーチーフらしき人物が寄ってきて予想していた言葉を言ったので、いや、それには及ばない、珈琲はキャンセルしたのでハヤシライスの分だけを支払うと宣言して、千円札をレジに置いてさっさと店を出た。もし私がフロアーチーフであれば、客の上着の内ポケットのパーフェクトペンシルに着目して、この客は文房具好きなであることを察して、客がハヤシライスを食べている間に、日本橋丸善オープン記念のグッズを文房具売場から取り寄せて、客が店を出るときにお詫びのしるしですと言って手渡したであろう。あっ、そう…。悪いね…。客のささくれ立った気持ちもそれで収まったであろう。そのくらいの判断が瞬時にできなものですかね(できるか!)。気持ちを立て直すべく、私は丸善を出たその足で銀座二丁目の伊東屋に行き、そして伊東屋オリジナルの多機能ペン(黒・赤ボールペン+シャープペン)を購入したのであった。
  夕食は鶏の唐揚げ、ツナのオムレツ、若布と葱のスープ、御飯。『ハゲタカ』の最終回を観て、フィギアスケート女子最終日の演技を観た。どちらも大変によかった。深夜、強い風といくらか雨も降っているようである。明日は大学の卒業式だ。自分が卒業するわけではないのに、なんだかそわそわする。