9時、起床。朝食はサーモンのソテー、トースト、紅茶。新年度の授業の準備を本格的に着手。まずは前期の担当科目(週6コマ)の具体的な授業計画の一覧表をエクセルで作成する。一部の科目については講義要項に毎回のシラバスを掲載しているが、ほとんどの科目は大雑把なスケジュールを載せているだけなので、ゴールデンウィークに入るまでの3回の授業について、具体的な内容を詰めておく。それ以降については、あまりリジッドに設計してしまうと、授業は生き物であるから、せっかくの自然な流れがギクシャクしてしまうことになるので(とくに演習に関してはそういうことがいえる)、ほどほどがよい。詳細は現場(教室)で学生たちの顔を見てからだ。
昼食は卵かけ御飯ですます。お彼岸のおはぎなどの甘味の過剰摂取に加え、3月下旬は職場や親族のつきあいで会食する機会が多く、スローダイエット計画が頓挫しそうになっている。人間関係がからむとダイエットは著しく困難さを増すのである。ここは意志の力でもって何とか踏みとどまらねばならない。食後、ジムへ行き、筋トレを3セットとウォーキングを40分(エビチリ一皿分のカロリーを消費)。帰りにシャノアールでレモンスカッシュを飲みながら社会学演習ⅠBのテキスト『自己と他者の社会学』(有斐閣)の「第4章 感じる私」(井上俊)に目を通す。タイトルだけ聞くと怪しげだが、内容は感情社会学の話である。本書は14の章を14人の執筆者が書いているので、章によって文体も面白さの水準も違う。全部の章を読むつもりはないのだが、この章は学生に読ませようと決め、参考文献をチェックしておく(未読のものは読まねばならないし、持っていないものは購入しなければならない)。
帰宅し、夕刊を開いて、驚いた。訃報欄に「達正光(たち・まさみつ)」という名前があったからだ。41歳のプロ棋士(6段)である。死因は「心不全」となっている。私はこの人が4段(一人前のプロ棋士)になる前後に何回か指導将棋を受けたことがある。あれは1984年のことであった。前年の12月に結婚し、東横線の綱島に所帯をもった私は、毎週末、渋谷の道玄坂にあった高柳将棋道場に通っていた。そこで指導将棋を担当していたのが奨励会3段の達正光だった。達は小学生名人(第2回)と中学生名人(第3回)のタイトルをひっさげて、1978年に5級で奨励会に入った。13歳だった。当然、将来の名人候補である。ちなみにいまをときめく羽生善治三冠は第7回の小学生名人、渡辺明竜王は第19回の小学生名人である。4段になったのは1984年7月。達は19歳になっていた。10代での4段は決して遅くはない。むしろ立派なことである。しかし名人候補(エリート)であり続けるためにはもっと早くに駆け抜けていなければならなかった。私が達から指導将棋を指してもらっていたのはそのころのことである。いつも飛車落ちであったと記憶している。めったに勝たせてはもらえなかった。負け続けるとやる気をなくしてしまう者が多いので、適度に勝たせてやるのが指導将棋の心得なのだが、達にはそういうところがなかった。私はそれを好ましいことだと思った。むしろ素人相手の指導将棋の仕事は後輩の奨励会員に早いところ譲って、トーナメントプロとして精進してほしいと思っていた。私は達が19歳にしては大人びていること、周囲の大人たちとの会話に馴染んでいるようなところが、気になっていた。もっと尖ったところというか、周囲の雰囲気から超然としているところが欲しいと思った。ほどなくして達は指導将棋の仕事を後輩と交代し、私も転居をして高柳将棋道場からは自然と足が遠のいた。しかし将棋雑誌などで彼の戦績はいつも気にしていた。達は、最初の数年こそ、まずまずの戦績を上げていたが、しだいに凡庸な棋士になっていった。それは端から見ていても辛いものがあったが、本人にはさぞかし忸怩たるものがあったろう。大学教師にはプライドの高い人が多いが、プロ棋士はそれ以上だ。「将棋に負けると自分がダメな人間になったようで悲しい」と言ったのは大山康晴十五世名人である。達の通算戦績は347勝377敗(勝率0.479)。ここ3年間は勝率2割台と低迷していた。最後の対局は3月6日のC級2組順位戦10回戦の対横山泰明4段戦であった。達はこの対局に負け、順位戦3勝7敗で降級点をとっている。順位戦は棋士にとっての本場所ともいえるもので、A級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5つのリーグから構成されている。毎年、A級で第一位となった棋士が名人挑戦者となり、リーグ間でメンバーの入れ替え(昇級と降級)も行われる。達はついにC級2組から上に昇ることができなかった。名人の座は彼にとってあまりに遠かった。達正光の冥福を祈りたい。合掌。
昼食は卵かけ御飯ですます。お彼岸のおはぎなどの甘味の過剰摂取に加え、3月下旬は職場や親族のつきあいで会食する機会が多く、スローダイエット計画が頓挫しそうになっている。人間関係がからむとダイエットは著しく困難さを増すのである。ここは意志の力でもって何とか踏みとどまらねばならない。食後、ジムへ行き、筋トレを3セットとウォーキングを40分(エビチリ一皿分のカロリーを消費)。帰りにシャノアールでレモンスカッシュを飲みながら社会学演習ⅠBのテキスト『自己と他者の社会学』(有斐閣)の「第4章 感じる私」(井上俊)に目を通す。タイトルだけ聞くと怪しげだが、内容は感情社会学の話である。本書は14の章を14人の執筆者が書いているので、章によって文体も面白さの水準も違う。全部の章を読むつもりはないのだが、この章は学生に読ませようと決め、参考文献をチェックしておく(未読のものは読まねばならないし、持っていないものは購入しなければならない)。
帰宅し、夕刊を開いて、驚いた。訃報欄に「達正光(たち・まさみつ)」という名前があったからだ。41歳のプロ棋士(6段)である。死因は「心不全」となっている。私はこの人が4段(一人前のプロ棋士)になる前後に何回か指導将棋を受けたことがある。あれは1984年のことであった。前年の12月に結婚し、東横線の綱島に所帯をもった私は、毎週末、渋谷の道玄坂にあった高柳将棋道場に通っていた。そこで指導将棋を担当していたのが奨励会3段の達正光だった。達は小学生名人(第2回)と中学生名人(第3回)のタイトルをひっさげて、1978年に5級で奨励会に入った。13歳だった。当然、将来の名人候補である。ちなみにいまをときめく羽生善治三冠は第7回の小学生名人、渡辺明竜王は第19回の小学生名人である。4段になったのは1984年7月。達は19歳になっていた。10代での4段は決して遅くはない。むしろ立派なことである。しかし名人候補(エリート)であり続けるためにはもっと早くに駆け抜けていなければならなかった。私が達から指導将棋を指してもらっていたのはそのころのことである。いつも飛車落ちであったと記憶している。めったに勝たせてはもらえなかった。負け続けるとやる気をなくしてしまう者が多いので、適度に勝たせてやるのが指導将棋の心得なのだが、達にはそういうところがなかった。私はそれを好ましいことだと思った。むしろ素人相手の指導将棋の仕事は後輩の奨励会員に早いところ譲って、トーナメントプロとして精進してほしいと思っていた。私は達が19歳にしては大人びていること、周囲の大人たちとの会話に馴染んでいるようなところが、気になっていた。もっと尖ったところというか、周囲の雰囲気から超然としているところが欲しいと思った。ほどなくして達は指導将棋の仕事を後輩と交代し、私も転居をして高柳将棋道場からは自然と足が遠のいた。しかし将棋雑誌などで彼の戦績はいつも気にしていた。達は、最初の数年こそ、まずまずの戦績を上げていたが、しだいに凡庸な棋士になっていった。それは端から見ていても辛いものがあったが、本人にはさぞかし忸怩たるものがあったろう。大学教師にはプライドの高い人が多いが、プロ棋士はそれ以上だ。「将棋に負けると自分がダメな人間になったようで悲しい」と言ったのは大山康晴十五世名人である。達の通算戦績は347勝377敗(勝率0.479)。ここ3年間は勝率2割台と低迷していた。最後の対局は3月6日のC級2組順位戦10回戦の対横山泰明4段戦であった。達はこの対局に負け、順位戦3勝7敗で降級点をとっている。順位戦は棋士にとっての本場所ともいえるもので、A級、B級1組、B級2組、C級1組、C級2組の5つのリーグから構成されている。毎年、A級で第一位となった棋士が名人挑戦者となり、リーグ間でメンバーの入れ替え(昇級と降級)も行われる。達はついにC級2組から上に昇ることができなかった。名人の座は彼にとってあまりに遠かった。達正光の冥福を祈りたい。合掌。