フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月10日(土) 晴れ

2011-09-11 00:04:54 | Weblog

  9時、起床。焼きソーセージ、レタス、トースト、牛乳の朝食。今日も暑くなりそうだ。

  午後、散歩に出る。散歩といっても今日は少し遠出をする。高瀬君の結婚披露宴(6月11日)で知り合いになった画家の増田常徳さんが国立の画廊で個展を開いているので、見物に行くのである。東京駅から中央線の快速に乗る。中央線は高架なので窓外の風景を眺めるのにはいい。三鷹を過ぎるあたりから緑が多くなる。
  国立で降りるのは初めてかもしれない。ブログの読者は地方の方もいるだろうから、注釈をつけておくと、「国立」は「くにたち」と読む。「こくりつ」ではない。以前、国立にあっていまは立川にある国立音楽大学は私立大学である。国立市立国立第一小学校は市立の小学校である。国立図書館ももちろん市立である。地名の由来は、1926年、中央線の国分寺駅と立川駅の間に新しい駅を作るとき、両側の駅の頭の字をとって新駅の名前としたのであるが、それが同時に地区の名前にもなった。私にとっての国立は山口瞳が住んでいた街。初めて降りる駅なのに懐かしい気持ちがしたのは、山口瞳のエッセーを通して馴染みの街になっていたからである。

  国立に着いて、画廊に行く前に、どこかで昼食をとろうとキョロキョロしながら旭通りを歩いていたら、「無伴奏」という名前の喫茶店を見つけて、そこに入る。こういうときの勘はまず外れない。「無伴奏」といえばバッハのパルティータを連想するが、「パルティータ」は私が金沢に行ったとき必ず立ち寄る名曲喫茶の名前である。類は友を呼ぶ。いい喫茶店に違いない(「喫茶食堂」と注釈がついているのも期待できる)。オムライス(食後に珈琲)を注文。これが実に美味しいオムライスだった。並みの喫茶店のレベルではない。「喫茶食堂」だけのことはある。
  店内には3人の常連らしい年配の男女がいて、三島由紀夫や川端康成について語りあっていた。面白いので、日誌を付けながら聞いていたら、1人がさだまさしはけしからんと言い出した。映画『次郎物語』のさだましが歌う主題歌がスメタナの交響詩「モルダウ」にそっくりだというのだ。ちょっと変えているが、あれは盗作だというのである。私は、思わず噴出しそうになったが、ここはさだのために弁護をしないとなるまると思い、「お話に割り込んですみませんが、あの主題歌は「男は大きな河になれ~モルダウより~」といって、「モルダウ」に日本語の歌詞をつけたものです。監督が「モルダウ」を使ってくれとさだに要請したのです。曲は日本語の歌詞の抑揚に合わせて一部変えてありますが、ちゃんと「作曲:スメタナ、補作曲:さだまさし」と表示してあります。ですから盗作ではありません」。3人はポカンとして聞いていたが、すぐに笑顔になって、「よかったわね、〇〇さん、誤解が解けて」「そうだ、よかったじゃないか。」「うん。でも、やっぱりさだまさしは好きじゃないな」と言った。

 

  増田常徳展が開かれているのは「岳」という画廊で、作品は1階と2階の二箇所に展示されている。増田さんがいらしたので、ご挨拶をしてから、作品を観て回る。暗い絵である。黒い絵である。鈍い黒を基調として鈍い白とのコントラストが清冽な印象を与える絵である。そこにあるのは絶望ではなく、人間の暗部の底にある「確かなもの」である。とことん底まで降りていって、そこから出発しようという強い意志を感じさせる。増田さんがいまの画風を確立したのは10年ほど前、ドイツを旅したときである。今回の個展は今年になって描いた作品が中心であるが、「2011.3.11」と記された作品がいくつかあることからもわかるように、大震災を経験した人間と社会を描いたものである。「震災後の世界をどう生きていくか」―いま、あらゆる分野で、この問いが問われている。個展は明後日、12日(月)が最終日である。

  帰りは、三鷹で途中下車して、駅前のビルの5階にある「三鷹市美術ギャラリー」で開催中の谷川晃一展を見物する。私は鞄の中にいつも「東京・ミュージアム ぐるっとパス」というのを入れていて、それは都内の71の美術館・博物館の入場券あるいは割引券がセットになったものなのだが、都内といっても広いので、何かの用事で近くまで行ったときに見物しようと心がけているのである。
  谷川晃一の絵は明るい。画風の変遷は当然あるが、明るい色彩という点は一貫している。とりわけ近年の絵はミロのように単純で明るい。一枚の絵の中にいろいろなものがゴチャゴチャと賑やかに描かれているという点も一貫している。ブリューゲルが現代の都市生活者になったら描きそうな絵だ。若い頃は、気味の悪いものがよく描きこまれていた。たぶんシュールレアリズムの影響だろう。それがだんだんと楽しげなものに変っていった。きっと谷川は淋しがり家なのでないかと思う。谷川の作品は現代思想の類の本の表紙によく使われる。だから彼の名前を知らない人も、きっとどこかで彼の絵を見ているはずだ。谷川は絵本作家でもある。だから現代思想の類に関心のない人も、子供の頃、どこかで彼の絵を見ているかもしれない。増田常徳と谷川晃一の作品群を同じ日に見られたのは、精神のバランスをとる上で、とてもついていたように思う。

  

  6時半、帰宅。夕食は秋刀魚の塩焼きだった。昨日の秋刀魚の刺身に続いて、秋の味覚を着実に制覇しつつある。