フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

9月19日(月) 晴れ

2011-09-20 02:38:41 | Weblog

  9時半、起床。今日も朝食抜き。野良の仔猫が庭先に来ていた。名前をつけてやらねばならぬ。暫定的に「チビ」と読んでいるが、安易すぎるだろう。

  午後、散歩に出る。「緑のコーヒー豆」でアイスカフェラテを注文して、鷲巣力『加藤周一を読む』を読む。大学生の頃から加藤の本を読んできたが、ひとつだけわからないことがあった。なぜ加藤は、晩年、というよりも死の数ヶ月前にカトリックの洗礼を受けたのかということだ。その事実を知ったとき、「えっ?」と思った。そう思った人は多かっただろうと思う。このことについて加藤自身は文章を残していない。だからそれは私にとって大きな謎だったが、本書を読んで、その謎が氷解した。

  「入信の数日前、二〇〇八年八月一四日夜、加藤は私に電話を掛けてきて、おおよそ次のようなことを述べた。/「宇宙には果てがあり、その先がどうなっているかだれにも分からない。神はいるかもしれないし、いないかもしれない。私は無宗教者であるが、妥協主義者でもあるし、懐疑主義者でもあり、相対主義者でもある。母はカトリックだったし、妹もカトリックである。葬儀は死んだ人のためのものではなく、生きている人のためのものである。(私が無宗教では)妹たちも困るだろうから、カトリックでいいと思う。私はもう「幽霊」なんです。でも化けたりはしませんよ」。/加藤は「死」を覚悟した。そしてカトリックに入信する意思とその理由を明らかにした、と私は受けとめた。受洗の意思を告げられたとき、私はそれほど意外な感じをもたなかった。驚きもしなかった。「ああ、やはりそうか」というのが率直な感想だった。」(354-355頁)

  近代合理主義の精神を体現した人生を生きた加藤周一は、家族のことを考えて、人生の最後にカトリックに入信したのである。彼にとって家族とは何か。

  「近代日本の多くの知識人にとっては、「家」や「故郷」からいかに離脱するかが知識人として成長していく過程での大きな課題であった。ところが「家からの離脱」「故郷からの離脱」を考えたことは加藤にはおそらく生涯ほとんどなかったに違いない。それは加藤が地方出身者ではなく、東京・山の手出身の(本郷に生まれ渋谷に育つ)、しかも知識階級の家庭に育ったということと深く関係しているだろう。そのうえ、加藤が育った家庭は母を中心としたあたたかい雰囲気に包まれていた。長い旅に出ても帰っていくところはいつも東京・上野毛であった。そこには加藤の家族がいて、妹夫婦がいた(加藤が住んだ家は妹夫婦との二世帯住宅である)。/少年時代から、加藤の家では、母ヲリ子、妹久子氏と加藤による親密な関係がつくりあげられていた。そのなかには父信一でさえ入れなかった。「いつも三対一になるんです」。とりわけ母と加藤との関係は、父信一でさえ「嫉妬していた」という。八〇歳を過ぎても加藤は「母親にああしてあげればよかった、こうしてあげればよかった、という話を涙ぐみながら語った」(以上、実妹木村久子氏談)そうである。そういう意味では、戦後日本の上流中産階級の「家庭」が先取りされていたともいえる。」(358-359頁)

  江藤淳は『成熟と喪失―“母”の崩壊』において、母子密着型の日本社会においては“母”の崩壊なしには真の成熟はありえないことを論じた。しかるに加藤周一の人生においては“母”の崩壊は最後までなかったということだろうか。あるいは母ヲリ子が亡くなったのは加藤が29才のときであったから、そこから加藤の成熟が始まったとみるべきなのだろうか(加藤がフランスに留学したのは、母の死から3年後、32歳のときである)。 

  読書の時間が長くなったので、途中で、カレーライスを注文した。先日、この店の常連とおぼしき高齢の女性客が、「ここのカレーライスは好きなのよね」と言っていたのが印象的で、次はカレーライスを注文してみようと考えていたのである。確かに美味しいカレーライスである。「緑のコーヒー豆」の全店にあるわけではない、この店のオリジナルメニューだと思われる。

  食後のデザートは「甘味あらい」で。今シーズン最後になるかもしれないカキ氷は、私考案の氷イチゴあずきである(メニューにはありません)。

  帰りは、日射しが陰って、風も吹いていたので、30分ほどかけて家まで歩いて帰る。 

  帰宅すると、ガレージの上の屋根に野良猫のはるが寝そべっていた。