8時半、起床。鱈子とご飯の朝食。
女子マラソンのTV観戦の途中、11時過ぎに妻と家を出て、娘の劇団の公演を観に、神楽坂に向かう。電車の中でケータイのワンセグ放送を観る。野口みずきは残念だった。
早めに着いたので、神楽坂の路地を歩いていて見つけた「トンボロ」というカフェで昼食をとる。
神楽坂は脇道が面白い
右の「トンボロ」、左の「SKIPA」、中でつながっている。
ロイヤルミルクティ(アイス)とサンドウィッチとクロックムッシュ
丁寧な作りのサンドウィッチだった パンはトーストで
「獣の仕業」第5回公演「せかいでいちばんきれいなものに」。
ストーリーらしきものはある。パンフレットの「あらすじ」にはこう書いてある。
三月、女たちの元へ一通の手紙が届いた。 『ぼくはきみを愛している』
その手紙を手に、女たちはある部屋へやってくる。
部屋の中にはずっとニュースが聞こえている。 『安心してください』
女たちを集めた男は尋ねた。昨日なにをしていたのか、と。彼女たちはやがて話し出す。
たのしかったこと、つらかったこと、昨日までの自分の持ち物を。
それらはすべて「昨日までの事」だった。
男は続けて尋ねた。「彼」の事を。彼について、知っている事を。
彼女たちは順番に話していく。彼との出合い、あるいは別れ際の出来事を。
本当は彼はどれなのか。どれが正しい彼なのか?
そして別の場所、今日より一ヵ月も前、雪の積もる図書館では館長が寄す処(よすが)に語りかけていた。
寄す処は館長から「彼」の日記帳を託されるのだが・・・。
なるほど。「彼」についてのアイデンティティの物語のようでもあり、「彼」を喪失した女たちのアイデンティティの物語のようでもある。しかし、「あらすじ」を読んでいなければ、ストーリーはわかりにくい。それはいつものことだ。彼らの芝居にとって重要なのはストーリーよりも、言葉と身体、そして音響と照明である。とくに今回の芝居は言葉だ。これまで観た彼らのどの芝居よりも言葉があふれていた。あふれかえっていた。言葉の洪水。制御されない言葉のシャワー。統合されない言葉の無数の断片。最近の「インハイス」の朗読劇、つかこうへいの「飛龍伝」、彼らが経験したこの二つの芝居も言葉があふれていたが、朗読劇は独白中心で、「飛龍伝」は会話中心であったが、「せかいでいちばんきれいなものに」は、独白も会話もあるが、中心となるのは呼びかけであった。誰への? 観客への呼びかけである。役者たちは、はっきりと客席に顔を向けて、呼びかけていた。訴えていた。何を?かけがえのないありふれた日常を。すでに失われてしまったありふれた日常を。これでもか、これでもかと、ふりしぼるような声で訴えていた。ピアニストがフォルテシモで鍵盤を叩き続けるように訴えていた(ときにピアニシモで語る場面があるので、観客は「ふー」と息をつくことができる)。このストレートな、ある意味で愚直ともいえるストレートな表現は、彼らにとってのリアリズムなのであろう。もちろん私たちは、そして彼らも、日頃、こんなふうには語らない。こんなに大きな声で、こんなに早口で、こんなに身体をよじりながら、こんなにレトリックを駆使して語ったりはしない。でも、こんなふうに語ってみたいという気持ちがどこかにある。そうしないのは、日常的な世界でそれをしたら、周囲から、おかしな人、あぶない人、恐ろしい人と思われてしまうからである。演劇という非日常的な空間であるからそれができるのである。非日常的な空間で語られることは、だから、日常的な欲望である。日常的なものへのむきだしの欲望である。そうしたことを自覚的に試みたのが、今回の芝居だったのではないか、そういう感想をもった。役者たちはそれぞれの持ち味を生かしての熱演だった。次回は、今回とは趣を変えて、余裕のあるクールな演技も観てみたい。
観劇を終えて、神楽坂の街を歩く。日曜日は歩行者天国のようである。
甘味処「花」で一服。日曜日は定休日のはずが、なぜか営業している。クリームあんみつを食べる。女将さんはあいかわらず話好きである。
坂道を飯田橋まで歩く。
蒲田に戻り、家に帰る前に、しばらくぶりに「緑のコーヒー豆」に立ち寄る。虫の知らせというやつだったのだろう、店内に「急なことですが、3月16日をもって閉店いたします」との貼紙が出ていた。今週の金曜日ではないか。「閉店されるのですか?」と店の方に尋ねると、「はい」と苦笑された。何か事情があるのだろう。3年半の営業だった。カフェラテとホットドックを注文し、日誌をつける。 閉店までにもう一度来ることができるだろう。
私の日常生活の構成要素であるカフェが1つなくなってしまうと思うと、淋しい限りだ。