9時、起床。週末が雨になることは、週間天気予報によりわかっていたが、実際に降られてみると、昨日までずっと晴天が続いていただけに、「せっかくの週末なのに・・・」という気分になる。
朝食兼昼食で、やきそばにベーコン&エッグを乗せて食べる。
昨日頂いた『早稲田現代文芸研究』2号をパラパラと読む。文芸ジャーナリズム論系の学会誌で、先生方が寄稿しているが、1年前になくなった江中直紀先生の追悼特集の頁に渡部直己先生が「江中直紀の「本」について」という一文を寄せている。
「同級生・芳川泰久とともに仏文の大学院に上がったおり、平岡篤頼門下のまばゆい先輩として初めて仰ぎみたその時分から、二〇一一年二月の不慮の死に近ぢかと立ち会うまで。数えれば、三十五年以上の付きあいとなるのだから、江中直紀について、語りたいこと、語るべきことは、公私にわたりむろん山ほどある。」
その山の中から、渡部先生が選んだものは、「久しく不審を禁じえなかったことがら」である。
「すなわち、江中直紀はなぜ一冊の「本」も残さなかったのか?」である。
江中先生の遺稿集『ヌヴォー・ロマンと日本文学』(せりか書房)がこのたび出版されたが、渡部先生はその編者の一人であった。遺稿集を編むにあたって、渡部先生は芳川先生や市川真人先生と伴に2000枚ほどの遺稿に目を通された。
「もとより、個々に出来不出来はある。しかし、こうして抜粋してみれば、今日なお立派に通用する一本である。江中氏はこれをなぜ、それがもっとも欲せられていた時流にみずから投じ入れようとしなかったのか!?」
その答えを渡部先生はこう推測する。
「君や芳川の書物ならいざしらず、この程度のものなら、少なくとも自分の「本」に収めるには足らないというのが、おそらくは、当時の彼の答えであったと思う。さすがに、面と向かってそんな台詞を聞かされたわけではないが、なぜ一本に纏めないのですかと尋ねるたびに、彼はきっぱりと暗にそう答えていた。そして、私もなぜか、そんな答えこそ、江中直紀に相応しいと勝手に納得しつづけてきたのは、狷介であると同時に純粋な彼の矜持を尊重し、かつ、畏敬していたからだ。氏はたぶん、「江中直紀」にしか書けない「本」を求めながら、その折々の文章に、いまだ十分にはその名にあたいしない署名をしぶしぶ記してきたかにみえる。」
「つまりは、ロマンチックなナルシスト? たぶん、そうだとは思う。が、何冊も本を作りながら、作るほどに手に負えぬあまたのナルシストにくらべれば、その自己理想化は、すがすがしいほどに清潔ではないか!」
その江中先生が、晩年、本を出そうという気になったらしい。
「これは、わたしも芳川氏も本人から一、二度聞かされたことであり、現に、千佳夫人の手許に残されたコピー・ファイルには、当人による選別マークが施されていた。「遺稿集」発刊作業は、したがって、江中氏の意志をなかば代行するものなのだが、それにしても、この期に及んで彼がなぜ、自分の「本」を作ろうと欲したのか?」
「それを考えるとじつは胸が痛むj。ここ十年近くの間、彼の文章には、明らかに疲弊と退潮の気味が伺われるからだ。あえて厳しくいえば、そこには、持ち前の自尊心の高さが逆に、マンネリ気味な文章の低さをかばっているかのような停滞ぶりが顕著なのだ。その暗色はむろん、彼を蝕んだ病魔に由来する。とすれば、彼がみずから作ろうとしたものは、江中直紀に来るべき真の「本」ではなく、すでに過ぎ去った力への「墓標」のようなものとしてある。少なくとも江中直紀当人はそう感じていたのだと思うし、あの江中にそう感じさせてしまった点におき、事態は何とも痛ましいのだ。だが、残されたわたしたちにとって、これはけっして「墓標」ではない。それは、江中直紀のもとから来るべき力を、わたしたちの〈いま・ここ〉へとなお招き寄せる「記念碑」としてあるだろう。」
35年以上の付き合いのある人だから書ける文章である。