フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月16日(金) 晴れ

2012-03-17 11:01:29 | Weblog

  8時、起床。コンビニにパンを買いに出ると、野良猫の「なつ」がいた。この冬は我家の周りで見かけることが多かった。

   ウィンナーとキャベツの炒め、白桃とブルーベリーのジャム、トースト、紅茶の朝食。食事を終えて、録画しておいた『孤独のグルメ』を観る。今日は名のある俳優さんがたくさん出演していた。普通はゲストは1名なのに、今日は小沢真珠、モト冬樹、美保純、3人も出ていた。視聴率がいいから、友情出演が増えたということかもしれない。

  昼前に家を出る。東京都写真美術館に「幻のモダニスト 写真家堀野正雄の世界」展を観に行く。堀野正雄は1907年の生まれ。清水幾太郎と同年の生まれで、しかも清水が日本橋の出身、堀野は京橋の出身である。2人とも中学4年生で関東大震災に遭っている。亡くなったのは、清水が1988年(81歳)であったのに対して、堀野は1998年(91歳)であった。清水より10年長生きした堀野であったが、清水が戦後日本のオピニオンリーダーとして活躍したのに対して、堀野は写真家としての活動は1930年代がピークで、戦後は写真家であることをやめ(仕事もなかったらしい)、ストロボ関連の商品を扱う株式会社ミニカム研究所の経営者としての人生を送った。これだけでも私にとっては興味深い人物であるが、展示会では、彼の写真家としての軌跡を6部構成で再現している。すわなち、(1)築地小劇場の舞台や新興舞踏を撮った時期、(2)美術評論家の板垣鷹穂と組んで機械的建造物を撮った時期、(3)同じく板垣と組んでグラフ・モンタージュ〈複数の写真や文字の組み合わせ)の技法を駆使して大都市東京の実態を撮った時期、(4)告発的なまなざしで社会性に富んだ報道写真を撮った時期、(5)『婦人画報』や『主婦之友』を舞台として女性モデルを盛んに撮った時期、(6)日本の植民地であった朝鮮や中国の人々を撮った時期、である。短期間にいろいろなテーマに取り組んだわけであるが、それは自身の内なる関心からであると同時に、外からの要請でもあったろう。それまちょうど「売文業者」であった清水が、さまざまな雑誌メディアからの注文に応じていろいろなテーマについての文章を次々に発表したのと似ている。才能のある人は、どのようなテーマでも一定水準の作品を仕上げるけれども、短期集中で、同じテーマに長期に取り組むことはないので、器用だがどこかあっさりした印象を受ける。「幻のモダニスト」はスタイリストでもあったのではなかろうか。

  展示会を観終えて、いつものように1階のショップの奥のカフェ「シャンブル・クレール(明るい部屋)」に行くと、店長のGさんが挨拶に来て、実は3月25日をもって閉店することになりましたと言った。あれ、まあ、それは残念。写真美術館とこの明るいカフェは私にとってワンセットのものであったのに・・・。「緑のコーヒー豆」の閉店に続いての馴染みの店の消失は淋しい限りだ。オレンジジュースとキーマカレーを注文する。3月24日からロベール・ドアノーの生誕100年記念写真展が始まるから、初日に来れば、「シャンブル・クレール」と最後のお別れができるな。

  恵比寿から地下鉄日比谷線に乗って人形町に行く。何かの用向きがあったわけではなく、なんとなく気が向いて、というほかはない。しいていえば、キーマカレーではお腹が膨れなかったので、「人形町今半」で牛丼が食べたくなったのである。牛丼というとチープなイメージがあると思うが、「人形町今半」の牛丼は決して安くはない。もちろんメニューの中では一番安いのだが、1890円(消費税込)する。2階の立派な座敷に案内されたが、昼食の時間を外れている(2時半)こともあって、他に客はいない。カウンターで牛丼を食べる気安さとはほど遠い。所在無いので仲居さんとおしゃべり。「浅草今半」と「人形町今半」の関係について教えもらう。やがて朱塗りの盆に乗って運ばれてきた牛丼は、甘めのたれで味付けされた柔らかな肉がふんだんに使われていた。老舗の料亭で食べる牛丼とはかくのごときものなり。

   食後、人形町界隈を散歩する。


甘酒横丁


いま上映中の東野圭吾原作の映画『麒麟の翼』は人形町が舞台である。


他所では見られない商品を扱っている店が目につく


赤ん坊を抱いた人が目立つのは近所に水天宮があるから


和服姿の女性たち



ついでにお参りする(Sさんの安産を祈る)

  大学に顔を出す。くれば仕事というものはあるものである。6時半までいる。

  半蔵門の駅のそばのビルに北欧の家具を展示しているスペースがあって、そこで平河町ミュージックスというコンサートが定期的に開かれているのだが、今夜はそこで笙(しょう)の演奏を聴く。同僚の小沼先生からのご招待である。奏者は2人。目を瞑って聴いていると、音源が移動している感じして、目を開けたら、実際、フロアーの中を二人の奏者が歩いていた。平面的な移動だけでなく、2回のフロアーにあがったりもしている。これは面白い試みだ。視覚の3Dではなくて、聴覚の3Dだ。深い海の底、あるいは宇宙空間で聴いているようだ。笙は息を吹くときだけでなく、息を吸いながらでも音が出る。つまり音は常に持続的に鳴っている。音階の上下と音の強弱があって、無音の間というものがない。生命の呼吸音を聴くような音楽。世俗を離れた不思議な音色にたっぷりと浸る。

  10時、帰宅。昼食が遅かったので、夕食はとっていなかった。カップ麺を食べる。

  吉本隆明が亡くなった。何か書きたいような気もするが、吉本は私には難しい。