フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

6月17日(日) 曇り

2018-06-19 13:47:01 | Weblog

9時、起床。

トースト、サラダ、牛乳、紅茶の朝食。パンは昨日「パン日和あをや」で買い求めたもの。小ぶりで、もっちりとした食感が好きだ。

朝食をとりながら、久しぶりにNHKの将棋トーナメントを観戦する。森内九段対佐藤五段。森内は羽生と同い年で(少年時代からライバル)、羽生よりも一足先に永世名人を資格を得たが、A級陥落を機にフリークラスに転出し(順位戦からの引退)、現在は将棋連盟の理事職にある。今日の将棋は森内の貫録勝ちの印象を受けたが、彼が羽生を負かすところを何度も観て来て私には、彼がいま一度タイトル戦の舞台に和服を着て登場するところを見てみたい。

昼食は妻と「phono kafe」に食べに行く。時刻は午後3時、遅い昼食だ。

「あと3ヶ月でこのお店も閉まってしまうのね。そしたらこうして週末のお昼を気軽に食べに来れるお店がなくなっちゃうわね」と妻が言った。「週末のお昼」というのはライトなものという意味がある。だから「マーボ屋」は夕食ならいいが、昼食には少々カロリーが高いのだ。「カフェ・スリック」にはパンケーキ・ブランチがあるが、食事メニューはそれだけなので毎週末というわけにはいかない。ライトで、バリエーションがあって、しかも自宅から歩いてすぐのところ。「そば新」は三拍子そろっているが、立喰い蕎麦屋は夫婦の週末のランチの場所(落ち着いて食事ができる場所)としては相応しくなかろう。

いつものようにご飯セットを注文して(ご飯は軽め)、おかずをシェアする。

ベジミートのからあげ(左)、玄米ビーフンの春巻(右) 

新玉ねぎと長ひじきのクルミソース

ひよこ豆のトマト煮

コーンとポテトの豆腐マヨネーズ和え(左)、玄米ビーフンの春巻(右) 春巻は二人前注文

食事を終えて、すぐには帰宅せず、食後の散歩。「あら、くちなし」と妻が言った。妻は私より草花の名前をよく知っている。私は渡哲也のヒット曲『くちなしの花』は知っているが、実際のくちなしを見てもわからないと思う。顔を近づけるととってもいい香りがする。強い香りではなく、上品な香り。「くちなしの白い花、おまえのような花だった」という歌詞から、その女性は口数の少ないもの静かな女性のイメージだったが、上品な雰囲気な女性のイメージがこれで加味された。

われわれの散歩は駅ビルの本屋に足が向くことが多い。

「有隣堂」で雑誌と本を購入。

『文学界』7月号(文藝春秋)。村上春樹の短編が三本掲載されている。7月号、8月号、9月号と3号に渡って小出しに掲載する手もあったと思うが(営業的には)、三本同時掲載というところが太っ腹である。

『文藝別冊 総特集 是枝裕和』(河出書房新社)。

北川悦吏子『半分、青い(上)』(文春文庫)。下巻は8月3日発売とのこと。シナリオ本ではなく、ノベライズ本だが、ドラマでの台詞はほぼそのまま載っている。シナリオにはあったが、ドラマでは省かれた(たぶん尺の関係だと思う)台詞も載っている。

山内マリコ『ここは退屈迎えに来て』(幻冬舎文庫)。初めて読む作家だ。「映画化決定!」という帯の文句に釣られて手に取ってパラパラやっていたら、なかなか読ませる文章とストーリーだった。「ありふれた地方都市で、どこまでも続く日常を生きる8人の女の子。居場所を求める繊細な心模様を、クールな筆致で鮮やかに描いた心潤う連作小説」だそうです。思うに日本で生まれるとして日本のどこで生まれるか、大都市か地方都市か、はたまた農山漁村かで、人生は相当別のもののになるだろう。私はたまたま東京に生まれたが、地方都市や農山村に生れたかったと思ったことは一度もない。でも、地方都市や農山村に生れた人間はそうではないだろう。「退屈」は東京にもあるが、地方都市や農山村の「退屈」は格別なものに違いない。

夕方、視聴が途中までだった『そして父になる』をJ:COMオンデマンドで最後まで観る。

夕食はニシン蕎麦とサラダ。

昼食が遅かったので、「夕食は蕎麦がいいね」と二人とも思っていた。

村上春樹「石のまくらに」を読む。読むときは三本一気にはしない。一日一話、味わって読むのだ。(映画館で映画を観るときも二本立ては観ない。二本上映ときも、一本見たらそれで外に出る。あとの一本も見たいときは別の日にもう一度来る)。

最初のあたりで、こんな一節が出てくる。

「彼女と出会ったとき、僕は大学の二年生で、まだ二十歳にもなっておらず、彼女はたぶん二十代の半ばくらいだったと思う。僕らは同じ職場で、同じ時期にアルバイトをしていた。そしてふとした成り行きで一夜を共にすることになった。そのあと一度も顔を合わせていないいない。」

ああ、これは娘が好まないタイプの小説だなと思った。娘は主人公(男性)がすぐに女性と寝るタイプの小説を好まないのだ。だから村上春樹の小説を娘はあまり好まない。ただし『世界の終りとハードボイルドワンダーランド』は例外らしい。

でも、別の観点からすると、娘はこの短篇に興味を持つかもしれないとも思った。別の観点とは、この短篇には主人公が「成り行きで一夜を共にすることになった」女性が作った短歌が8首、ちりばめられているのだ。まるで『伊勢物語』みたいに。その8首とは次のようなものだ。

 あなたとわたしって遠いのでしたっけ?木星乗り継ぎでよかったかしら

 石のまくらに耳をあてて聞こえるのは流される血の音のなさ、なさ

 今のときときがときならこの今をぬきさしならぬ今とするしか

 やまかぜに首撥(は)ねられてことばなくあじさいの根もとに六月の水

 また二度と逢うことはないとおもいつつ逢えないわけはないともおもい

 会えるのかただこのままにおわるのか光にさそわれ影に踏まれ

 午後をとおしこの降りしきる雨にまぎれ名もなき斧がたそがれを斬首

 たち切るもたち切られるも石のまくらうなじつければほら、塵となる

これは村上春樹が作ったものなのかしら。とくに注釈がないところから、そうだと思われる(可能性として奥さんが作ったということはあるかもしれない)。いくらか俵万智の影響が見られるが(とくに先頭の一首)、血や斬首の出てくる歌のイメージは鮮烈で、なかなかの出来栄えではないだろうか。へぇ、村上春樹はこんな歌を詠むのかと感心した。さきほど『伊勢物語』みたいだと書いたが、それは散文と歌が混じる文章という形式的な意味で、歌の内容は『梁塵秘抄』を思わせるものがある。

2時、就寝。