フィールドノート

連続した日々の一つ一つに明確な輪郭を与えるために

3月25日(日) 雨のち曇り

2007-03-26 00:47:02 | Weblog
  9時、起床。朝食はベーコン&エッグ、トースト、紅茶。食事をしながら、アニメ「ワンピース」を観ていたら、突然、地震のニュースに切り替わった。能登半島付近で大きな地震があったらしい。しかし富山や金沢のテレビ局内の地震発生時の映像ばかりで、なかなか震度6強と報じられている能登や輪島の映像が入ってこない。現地に住んでいる人がブログで情報を発信しているのではないかと検索してみたところ、いくつかそうしたものを発見。「特派員」としてのブログだ。そこに書き込まれた情報は全国ネットのTV局を速報性において上回っていた。現地からの映像一番乗りはやはりNHKであった。NHKのクルーが現地から生々しい映像を送ってきているときに、他局はあいかわらず現地の市役所・町役場への電話取材中心の番組を続けていて、その差は歴然としていた。
  午後から大学へ。五郎八で昼食(せいろ)をとってから、一文の社会学専修の卒業証書授与式に出席。その後、文カフェで行われている二文の卒業祝賀イベントに顔を出す。

       
                    卒業おめでとう!

  午後6時から九段会館で社会学専修の謝恩会。東西線で早稲田から九段下までは駅3つ、九段会館は駅の階段をあがってすぐ、大変近くて便利である。先日の社会学専修の教員懇親会ではずいぶんな量を食べてしまったので、今日は食べる方はほどほどにして、できるだけ多くの卒業生と言葉を交わすことを心掛けた。その中には、大教室で私の講義を聴いたことがあるだけの、今日初めて言葉を交わす者もいた。まさに会うは別れの始めである。みんな明日からはそれぞれの場所で生きていくことになる。いつかどこかで再会するときまで、さようなら。
  *お願い。卒業証書授与式や謝恩会で私と写真を撮った方、その写真をメールに添付して送っていただけないでしょうか。

3月24日(土) 曇り時々小雨

2007-03-25 02:46:28 | Weblog
  9時、起床。菅野昭正『変容する文学のなかで』下巻を読む。菅野は昨日購入した『石川淳評論選』の編者であるが、肩書きはフランス文学者、文芸評論家、東大名誉教授である。『変容する文学のなかで』下巻は東京新聞等に1990年12月から2001年11月まで連載した文芸時評をまとめたもので、いつだったか、古本屋で下巻だけ売っていたのを(したがって格安の値段で)購入したもので、上巻は所有していない。私が読んだことのある小説について書かれた部分だけを拾い読みしたのだが、その丹念な評論に感嘆し、畏敬の念さえ抱いた。こういう仕事を毎月毎月、20年も続けるというのは、並大抵のことではない。「あとがき」の中で菅野は批評という行為の心得のようなこと述べている。

  「批評はまず作品を読むことからはじまる。時評という話の枠を離れて言うのだが、一般に批評というのはよく読むことからはじまる。あるいはよく読むことからしか始動しない。」

  至極あたりまえのことのようだが、あまりまえのことを20年続けるというのは全然あたりまえのことではない。

  「それが批評の最初の段階である。そんなふうに私が考えるようになったのは(あるいはそれがいっそう固まる恰好になったのは)、ある特別なイデオロギーの体系が先行する批評に、その昔よく出会ったからである。また、文学と隣りあう人文科学(言語学、歴史学、精神分析学、文化人類学、神話学等々)から拝借した新種の概念やら用語やらの集積に、作品を分解してしまう批評が、ある時期からしばしば見受けられるようになったからでもある。何よりもまず作品を読むという基礎的な作業にたいして、そういう種類の批評は冷淡であることが多いのではないか。」

  何らかの批評(分析)のための方程式があって、任意の作品を変数に代入すれば、あっというまに解が出て来てしまうような、そういうインスタントな文芸批評(分析)がここでは批判の対象とされているわけだが、私は自分が仕事をしている社会学の分野でも同様のことがいえると思いながら、自戒の気持ちをもってこの部分を読んだ。20年間、文芸時評を書いてきて、その間に文学がどのように変容してきたか、菅野は簡潔に報告する。

  「女性作家の活動の場がしだいにひろがってゆくこと、都市で孤独に暮らす単身者が作中人物として登場する作品が目立つようになったことなど、時評で観測した現象をここにまた呼びだすのはもう無用な寄道だが、ひとつだけ念のために書いておきたいのは、小説の書き方の変容である。まず第一に、幻想、幻視など現実を異化しようとする想念が、しだいに大事な部分を占めるようになった、ということがある。もちろん、それが空虚な戯れとして空廻りする例はいくらでも挙げられる。しかし世界の隠れた混沌の相を探る、現実の奇妙な歪みを照らす、人間のなかに潜む惑乱に近づく-幻想、幻視をそのために頼み甲斐のある方法として活用しようとする意識は、しだいに確かな根を張りつつあるように見える。/また、リアリズムを基調とする作品の性質も変わりつつある。現実を再生したりその模像となることをめざした、リアリズムの昔ながらの規範から抜けだそうする動きは、すくなくとも稀少ではなくなっている。たとえば、日常生活の断面をいかにも現実的に描きだすよう装っていながら、その種の断面を連ねてゆく運びのなかから、現実の奥に澱むものを暗示的に炙りだそうとする、リアリズムの異端児のようなリアリズムで書かれた小説は、数えればかなりの数にのぼるだろう。」

  上巻もぜひ読みたくなったので、インターネットで上下揃いではなく上巻単独で出品されている古本を捜して注文する。
  小雨がぱらつく中、散歩に出る。3月9日にオープンした日本橋丸善に行ってみた。以前は地上5階、地下1階の丸善単独のビルだったが、新しいビルは日本橋丸善東急ビルという名前になって、丸善の店舗は1~3FとB1のみになった(服飾部門は他のビルに移ったらようである)。ただし内装は格段にグレードアップしていた。まずは地下1階の文具フロアーを見物。「大人のおもちゃ」という表現は誤解を招くであろうが、文具は大人のおもちゃである。楽しく、飽きない。

          
                  地球儀がいっぱい

  しかし、楽しい気分はここまでだった。3Fのカフェで名物のハヤシライスを注文したのだが、まずサラダ(これはなかなか美味しかった)が来て、次に運ばれてくるべきハヤシライスが待てど暮らせどやってこない。もしやと思って、店員に確かめたら、「申し訳ございません。当方のミスで注文が通っておりませんでした」と言われた。しかし少なくともサラダは来ているわけだから、注文が通ってなかったというのは解せない話である。私は食後の珈琲はキャンセルし、ハヤシライスをすぐにもってくるように言った。連れがいれば、たぶん穏やかな口調で言ったであろうが、一人であるから、そういう配慮は必要ない。いくらか叱りつけるような口調で言った。店員の教育は客の役目である。すぐに運ばれてきたハヤシライスは、色が黒く、甘ったるくはなく、むしろ少々の苦味があり(玉葱をいためるときに焦げ目をつけるのだろうか)、さまざまな具材は原型を止めぬほどに長時間煮込まれている。★5つを満点とすれば、3.5といったところだろうか。これは店員の不手際を反映した結果ではない。世間では「とろとろになるまで長時間煮る」ことをありがたがる風潮があるが、私はそれには反対である。ものには限度というものがあり、歳をとって歯ごたえのあるものが食べられないのであれば別だが、こういう肉や野菜の食感の消失したハヤシライスは旨いとは思えない。薬膳料理の一種のような感じがする。食事を終え、しかし、伝票が来ないので、これは御代はいりませんということなのかと思いつつ、レジに向かうと、案の定、フロアーチーフらしき人物が寄ってきて予想していた言葉を言ったので、いや、それには及ばない、珈琲はキャンセルしたのでハヤシライスの分だけを支払うと宣言して、千円札をレジに置いてさっさと店を出た。もし私がフロアーチーフであれば、客の上着の内ポケットのパーフェクトペンシルに着目して、この客は文房具好きなであることを察して、客がハヤシライスを食べている間に、日本橋丸善オープン記念のグッズを文房具売場から取り寄せて、客が店を出るときにお詫びのしるしですと言って手渡したであろう。あっ、そう…。悪いね…。客のささくれ立った気持ちもそれで収まったであろう。そのくらいの判断が瞬時にできなものですかね(できるか!)。気持ちを立て直すべく、私は丸善を出たその足で銀座二丁目の伊東屋に行き、そして伊東屋オリジナルの多機能ペン(黒・赤ボールペン+シャープペン)を購入したのであった。
  夕食は鶏の唐揚げ、ツナのオムレツ、若布と葱のスープ、御飯。『ハゲタカ』の最終回を観て、フィギアスケート女子最終日の演技を観た。どちらも大変によかった。深夜、強い風といくらか雨も降っているようである。明日は大学の卒業式だ。自分が卒業するわけではないのに、なんだかそわそわする。

3月23日(金) 晴れ

2007-03-24 03:41:12 | Weblog
  9時、起床。朝食は卵焼き、鶏肉と大根と人参の吸い物、山菜御飯。午前中に散髪に行く。週末だがお客は少なく、髭を剃ってもらっているとき以外は、ご主人とずっと世間話をしていた。景気が上向いていると聞いているけれども、子どもの数は少ないし、若者の髪型は刈り上げ全盛で(だから床屋に来る頻度は少ない)床屋の景気はよくないという話や、蒲田近辺のお花見スポットの話。帰宅して、昼食は煮込みうどんと山菜御飯。散歩かジムか迷ったが、散歩に出る。有隣堂と新星堂で以下の本とCDを購入。

  『石川淳評論選』(ちくま文庫)
  山田昌弘『希望格差社会』(ちくま文庫)
  アンジェラ・アキ『サクラ色』
  コブクロ『ALL SINGLES BEST』
  『sakura songs』

  『sakura songs』はスピッツ「チェリー」、福山雅治「桜坂」、スキマスイッチ「桜夜風」など「桜」にちなんだ歌14曲を集めたもの。さまざまな花の中で「桜」は格別の意味づけをされている花である。「桜」はそのうち授業で取り上げてみたいテーマである。このCDはそのときに役に立つはずである、という勘が働いて購入。
  カフェ・ド・クリエで『石川淳評論集』を読む。「敗荷落日」は永井荷風の追悼文である(初出は『新潮』昭和34年7月号)。まさに秋霜烈日、凄まじい追悼文である。

  「おもえば、葛飾土産までの荷風散人であった。戦後はただこの一篇、さすがに風雅なお亡びず、高興もっとよろこぶべし。しかし、それ以後は…何といおう、どうもいけない。荷風の生活の実状については、わたしはうわさにばなしのほかにはなにも知らないが、その書くものはときに目をふれる。いや、そのまれに書くところの文章はわたしの目をそむけさせた。小説と称する愚劣な断片、座談速記なんぞにあらわれる無意味な饒舌、すべて読むに堪えぬもの、聞くに値しないものであった。わずかに日記の文があって、いささか見るべしとしても、年ふれば所詮これまた強弩の末のみ。書くものがダメ。文章の家にとって、うごきのとれぬキメ手である。どうしてこうなのか。荷風さんほどの人が、いかに老いたとはいえ、まだ八十歳にも手のとどかぬうちに、どうすればこうまで力おとろえたのか。わたしは年少のむかし好んで荷風文学を読んだおぼえがあるので、その晩年の衰退をののしるにしのびない。すくなくとも、詩人の死の直後にそのキズをとがめることはわたしの趣味ではない。それにも係わらず、わたしの口ぶりはおのずから苛烈のほうにかたむく。というのは、晩年の荷風に於いて、わたしの目を打つのは、肉体の衰弱ではなくて、精神の衰弱だからである。」(416-417頁)

  「葛飾土産以後、晩年の荷風には随筆のすさびは見あたらぬようである。もともと随筆こそ荷風文学の骨法ではなかったか。…(中略)…一般に、随筆の家に欠くべからざる基本的条件が二つある。一は本を読むという習性があること、また一は食うにこまらぬという保証をもっていることである。本のはなしを書かなくても、根底に書巻をひそめないような随筆はあさはかなものと踏みたおしてよい。また貧苦に迫ったやつが書く随筆はどうも料簡がオシャレでない。…(中略)…しかるに、わたしが遠くから観察するところ、戦後の荷風はどうやら書を読むことを廃している。もとの偏奇館に蔵した書目はなになにであったか知らぬが、その蔵書を焼かれたのち、荷風がふたたび本をあつめようとした形跡は見えない。…(中略)…念のためにことわっておくが、わたしはひとが本を読まないということをいけないなんぞといっているのではない。反対に、荷風が書を廃したけはいを遠望したとき、わたしはひいき目の買いかぶりに、これは一段と役者があがったかと錯覚しかけた。古書にも新刊にも、本がどうした、そんなものが何だ。くそを食らえ。こういう見識には、わたしも賛成しないことはない。ただし、そのくそを食らえというところから、精神が別の方向に運動をおこして行くのでなければ、せっかくのタンカのきりばえがしないだろう。わたしはひそかに小説家荷風に於いて晩年またあらたなる運動のはじまるべきことを待った。どうも、わたしは待ちぼうけを食わされたようである。小説といおうにも、随筆といおうにも、荷風晩年の愚にもつかぬ断章には、ついに何の著眼も光らない。事実として、老来ようやく書に倦んだということは、精神がことばから解放されたということではなくて、単に随筆家荷風の怠惰と見るほかないだろう。」(418-420頁)

  本書を編んだ菅野昭正が「解説」の中で的確に述べているように、「石川淳の指摘は正しいし、なぜ無残な落日が訪れたかを糾明する道筋もすこしも間違ってはいないでしょう。しかし、肝心なのはその苛烈な言辞の裏側に、敗戦までの荷風の仕事に対する並々ならぬ敬意が隠されていることです。これを見落としたのでは、なんにもならない。」それにしても、石川淳のこの水際だった自在な文体には舌を巻くほかはない。
  夕食は鰺の塩焼き(二尾)、茄子とベーコンの煮浸し、大根の味噌汁、御飯「イロモネア5」を最初の方だけ見て、飽きてしまった(出演者がみんな売れている芸人ばかりで、最初の頃のハングリーさがなくなってしまった。賞金の100万円なんてどうってことないみたいだ)。
  小津安二郎の最後の作品『秋刀魚の味』(昭和37年)をビデオで観る。軽妙なタイトルや軽快な音楽とは裏腹に、「老い」や「孤独」を正面から見据えたなかなかにシリアスな作品である。ただし、シリアスではあるが、リアリティにはいささか欠けると感じたのは、確率的に考えて、「妻に先立たれた男」が主人公を含めて3人も登場するのは不自然だからである。小津はまさか、妻がそばにいて、娘と一緒に暮らしていれば、男は「孤独」と無縁でいられると考えていたわけじゃないだろうね。

3月22日(木) 晴れ

2007-03-23 04:02:36 | Weblog
  9時、起床。朝食は塩鮭、豚汁、御飯。昨日、息子が鰻重を食べたとき小骨が喉に刺さったらしい。今朝になっても取れていないようなので、近所の内科に行ったら、耳鼻科に行ってくれと言われ、耳鼻科に行ったら休診で、息子が母にほかに耳鼻科はないかと相談したら、母は何を勘違いしたか整形外科に行くように言い、当然のことながら、整形外科に行ったらここは耳鼻科ではないと言われ、別の耳鼻科に行ったらようやく診てもらえて、小骨はすぐに取れたのだが、初診料も含めて2千数百円もとられたそうで(喉に刺さった小骨を取るのは「手術」なのだ!)、それは昨日の鰻重の金額とあまり違わないものであった。やれやれ。
  昼から大学へ。午後1時からの社会学専修ガイダンスに顔を出す。2年生から4年生まで揃ってのガイダンスは今年が最後である。それが終わってから五郎八に昼食をとりに行く。馬場下の交差点でF君に声をかけられる。彼は今度4年生だが、3年生の後期から1年間アメリカに留学していたので、実質は5年生である。在京のテレビ局から内定をもらえたそうだ。そうか、それはおめでとう。路上で握手をする。五郎八では辛み大根おろし蕎麦を注文した。辛み大根は文字どおり辛みの強い小型の大根で、もっぱら蕎麦の薬味として使われる。確かに辛いのだが、爽やかな辛さで、しばらく味わっていると、辛さの向こうにほのかな甘さを感じる。これは癖になりそうだ。
  食後、シャノアールで珈琲を飲んでいると、演習ⅡBの学生だったKさんが入ってきたので、同じテーブルの椅子を勧め、ポール・オースターの小説についておしゃべりをした。彼女は『ミスター・ヴァーティゴ』を読み終わったばかりで(その展開にはびっくりしたそうだ)、これから『ムーンパレス』を読もうとしているところだが、出世作である「ニューヨーク三部作」は未読とのことだった。私は『ミスター・ヴァーティゴ』は未読だが、これまで読んだ彼の作品の中では『ムーンパレス』が一番好きである。学生と本の話をするのは楽しい。しかし、そういう学生はあまり多くはない。
  研究室に戻ってしばらくして、今度博士課程に合格して私のゼミの一員になったAさんが挨拶に来た。近江八幡の洋菓子店「クラブハリエ」のバームクーヘンをお土産にいただく。Aさん曰く「私はこれを食べてバームクーヘンのイメージが変わりました。バームクーヘンってこんなに美味しいものだったのかと…。」そ、そんなに凄いのか。箱を開けて、密閉されたビニール袋の中のバームクーヘンを見ると、確かによく見るバームクーヘンとは色合いが違う気がする。卵の黄身の色だろうか、黄色みが強い。そしてしっとりした感触が伝わってくる。うん、これは期待できそうだ。「いま、いただこうか」と私が言うと、Aさんは「自分の分は別に買いましたので、どうぞご家族で召し上がって下さい」と言う。そ、そうなの…。じゃあ、そうしますか…。というわけで、バームクーヘン的欲望は脇に置いて、これからの研究計画について語り合ったのだった。
  午後6時から夏目坂の「せきはら」で社会学専修の教員懇親会。6時10分前に店に着いたら、まだ誰も来ていなかった。非常勤の先生方をお招きしているのにこんなことでよいのだろうかと思っていたら、家計経済研究所の久木元先生(社会統計学の授業をご担当)が入って来られた。よかった、私の方が一足早く到着していて。初対面の挨拶をすませ、雑談をしていると、続々と先生方が入って来られた。懇親会は2時間半ほどでお開きとなり、研究室でちょっと雑用を片づけてから、帰宅。風呂を浴び、録画しておいた『拝啓、父上様』の最終回を観る。主要な登場人物一人一人に見せ場を用意した倉本聰らしい最終回であった。とくに堀端のカフェのテーブルでの一平(二宮和也)とナオミ(黒木メイサ)の筆談の場面は、若い2人の不器用でひたむきな思いがひしひしと伝わってきた。こんな時代が自分の人生にもあったなと思う。

3月21日(水) 晴れ

2007-03-22 01:19:30 | Weblog
  9時、起床。朝食は肉ジャガ、豆腐と葱の味噌汁、御飯。菩提寺(下谷の泰寿院)に墓参りに行く。母と妻と息子と私。現地で妹夫婦と合流。このお寺の若奥さんは大変な美人で、よくテレビで「旅館の美人若女将」なんて企画があるけれども、もし下町のお寺でそういった企画があれば、間違いなく白羽の矢が立つであろう。墓参りを済ませて、昼食を池之端の伊豆栄(鰻屋)でとるべく、上野まで歩く。上野公園の桜はまだほとんど開花していないが、気の早い人たちが何組か、ゴザを敷いて花見の予行演習のような宴会をやっていた。不忍池にはたくさんの野鳥がいたが、白いユリカモメはひときわ目を引いていた。池の畔でがらくた市をやっていて、古い雑誌を扱っている店でいまは亡き江戸屋猫八の色紙を見つけて購入(1500円)。伊豆栄では全員が鰻重を注文。鰻重には特・梅・竹・松と4種あって、一般の「松>竹>梅」というランキングとは逆の設定になっていた。私が「特にしましょうか」と言ったら、全員に即座に否決され、上から二番目の梅でいくことになった。私としてもそういう展開になるだろうと思っていた。一種のお約束である。食事の後は、アメ横の商店街を御徒町まで歩いて、そこから電車に乗って帰ってきたが、けっこう歩いて疲れた。夕方まで居眠り。夕食はハンバーグ、牛蒡とレタスのサラダ、野菜スープ、御飯。食後にお萩を1つ。

      
                   不忍池の野鳥たち

          
             江戸屋猫八(相模の彦十役)の色紙

          
                   アメ横の人波