前回の続きです。
●高尾盆地
今度は宿の近くの八幡神社から、島の中央部へ向かう坂を登ってゆくことにしました。海岸部から中央の高地へジグザクカーブが続く坂道をひたすら登ってゆくと、途中で「与助岩」と称する大きな岩の前を通過します。一見すると何の変哲のない岩ですが、島には言い伝えが残されているらしく、傍らに立つ説明版によれば、
海べりの集落から中央部まで、地図上では大した距離はなさそうなのに、実際に歩いてみると、坂を登りきるまでかなりの距離と標高差があり、ちょっとした登山のようでして、夏は水を携行しないと大変なことになっちゃうでしょう(この島では海沿いの東区や西区以外に自販機や店はありません)。島には公共交通機関が無いので、島内の移動に際しては有料で宿から車を借りるか、あるいは自分の脚力に頼る他ありません。
全身汗だくになりながら、歩き始めてからちょうど30分で、道の先が明るくなって勾配が緩やかになり、ようやく高尾盆地に到達です。まず目に入ってくるのは「十島開発総合センター」という立派な建物。館内には集会所や会議室などがあるのですが、実はどうやらここで宿泊もできるみたいでして、旅行者は島の民宿に泊まるのが原則ですが、もし宿にあぶれた場合はこちらへ相談すると何とかなるかもしれません。
「十島開発総合センター」から先へ進むと道の両側の視界が開け、特に右側には島とは思えない雄大な牧場が広がっており、そこではトカラ馬がのんびり草をはんでいました。
いまではすっかり数が少なくなってしまった日本在来種の馬の一種であるトカラ馬。大きさは所謂ポニーと同等です。一時はトカラから姿を消したそうですが、喜界島や鹿児島など他の地域で飼われていたものをトカラへ戻して、この牧場で繁殖させているんだそうです。馬はとても可愛らしく、ずっと眺めていても見飽きることがありません。
トカラ馬は人懐っこい性格も特徴のひとつなんだそうでして、私が柵に近づくと、馬の方からこちらへ歩み寄ってきてくれました。道沿いに立てられている掲示板ではそれぞれの馬について紹介されています。
いかにも馬専用の牧場らしく、道路には「馬注意」の看板が立っています。
高尾盆地の中央部へとやってきました。中之島はトカラの中心的役割を果たしており、小規模ながらいろんな公的施設があるんですね。たとえばこれは、鹿児島地方気象台の中之島地域気象観測所。といっても観測機器が設置されているだけで無人なんですけどね。
こちらは「歴史民俗資料館」。トカラの島々の概要や自然、歴史・民俗などを大きなパネルや実物などの展示品を用いて紹介しており、館内では土器・丸木舟・漁具・民具などいろんなものがを展示されています。
村発行の観光パンフレットによれば私が訪問した木曜日は休館日のはずでしたが、実際に訪れてみると玄関に置かれたパイプ椅子には「開館」の札が立てかけられており、その下には係員を電話で呼び出してほしいと書かれた紙が置かれていました。さっそくそこに記されている番号へ携帯で連絡すると、1分ほどですぐに係員の方がやってきて下さり、館内の展示をひとつひとつマンツーマン状態で細かく解説してくださいました。
地方へ赴くと民俗資料館の類をよく目にしますが、入館してみても大抵は古民具を陳列展示している程度に留まっているため、残念ながら民俗学に関心のない人には決して面白いものではない場合がほとんどです。しかしながら、こちらの資料館は実物のみならず、実にわかりやすい解説パネルも用意されており、またジャンルによって展示エリアを分けているため、トカラに関する諸々を誰でも興味深く知ることができる、非常に有益な施設となっていました。中之島へ訪れた際には是非訪れるべき施設です。なお上画像の右側(下側)は悪石島のボゼです。
資料館の敷地内には「本土復帰記念碑」が立っています。第二次大戦の敗戦後に沖縄がアメリカの施政下にあったことは知っていても、奄美やトカラも占領下にあったことを知る人は少ないでしょうね(当時の英語で表記された南西諸島の地図を見ると、奄美群島は"Northern Ryukyu"と書かれています)。1946年2月2日以降、北緯30度以南(口之島以南)はアメリカが占領することとなり、トカラ列島に関しては1952年2月10日に日本へ復帰しました。
こちらは中之島天文台。九州では最大級のカセグレン式60センチ反射望遠鏡なんだそうです。といっても天文に関する知識がほとんどない私にとってはその意味がよくわかりませんが、この大きな望遠鏡の他、館内には一度にたくさんの人が星を見ることができるモニターも装備されており、とにかく天文ファンには垂涎の施設なんだとか。
中之島はトカラの他の島と同様に牛の生産も盛んでして、天文台の周囲は広大な牛の牧場となっていました。
牛がおじさんに導かれ、道路をノソノソと歩いてゆきます。
牧場地帯が終わって密林地帯に入ると、門柱の跡らしき物体と遭遇。よく見ると消えかかった白字で「中之島小学校 日の出分校」と表記されていました。ここには分校があったんですね。
校庭跡と思しき広場の奥には小さな池、そして小さな建物が残っていました。これってまさか校舎の遺構? ちらっと中を見たらパイプ椅子がたくさん置かれていていましたが…。また池のほとりには動物を象った白いコンクリの朽ちかけた造形(おそらく遊具の一種)が立っているのですが、これは何(アシカ)?
●御池(底なし池)
地図を見たら島の中央部には「御池」という池があり、別名「底なし池」とも呼ばれているらしいので、どんなところか興味津々行ってみることにしました。日の出分校から更に先に進み、途中の分岐に立つ道しるべに従って奥へと向かいます。
沿道にはお花がたくさん。
分校跡から約20分歩いて御池に到着です。神秘的な景色が…と表現したいところですが、正直なところ、あまり特筆すべき風景ではないかも…。底なし池という名前から想像するような、不気味な雰囲気もありません。ごく一般的な池でした。でも、小さな島なのに意外な大きさの池を擁するほどの湛水能力を有していることは興味深く、しかもこの池の地下で湧く水の量が年間を通して安定しているという事実は驚かされました。
池の水は川となって海へと流れてゆきます。
年間を通して水量が安定しているため、昭和45年からこの池の水は水力発電に利用されています。これは水力発電用の取水堰です。
池へアクセスする一本道はこの円筒が建つ地点で途切れます(行き止まり)。取水堰を通ってきた水は、ここから急な斜面を下り、その勢いで水車を回して発電するわけですね。発電所の奥には海岸線(七つ山海岸)が広がっています。ということは、私は歩いて実質的に島を横断し、集落とは反対側の岸までやってきたことになるわけです。
●ヤルセ灯台・七つ山海岸
御池(底なし池)から一旦分岐点まで戻り、今度は南東へ延びる道に入って、「歴史民俗資料館」の方が奨めていたヤルセ灯台やセリ岬を目指します。竹林の中を掻き分けるように延びる山道をひたすら進むと、ようやく灯台へのアプローチへと到達することができました。辺りは放牧場となっており、道は馬の糞とヤギの糞で埋め尽くされていると言っても過言ではない程の状況でした。碧い空には白い灯台がよく映えますね。
資料館の方が特に奨めて下さったのが、灯台の裏に位置するセリ岬。まるで東尋坊のような断崖絶壁や、海から鋭く突き出たような奇岩に、外洋のうねりが絶えることなくブチ当たって白い波しぶきを上げています。その様子を眺めていると、海に吸い込まれそうになってしまいました。いやはや、まさに絶景です。もし本土にこんな景勝地があれば、間違いなく周囲にお土産屋さんが林立していることでしょう。
灯台へ向かう途中の道には、七つ山海岸を見張らせる素晴らしい絶景ポイントがありました。海をよく観察していれば、しばしばカメを肉眼で発見できるそうですが、探し方が悪かったのか、あるいはこの時は本当にいなかったのか、残念ながらカメを見つけることはできませんでした。
七つ山海岸には地図に載っていないキャンプ場があります。実際に立ち寄ってみると、ここは海水浴場としても使われていたのか、シャワー室やトイレまで設けられているのですが、外観から推測するにあまり築年数は経っていないように思われますが、窓は完全に破れており、室内はヤギに侵入されて糞だらけになり、すっかり荒廃していました。地図から消され、荒廃状態も放置されているということは、村はここを実質的には放棄したのでしょうね。もったいない…。でも、もし整備したところで、島外からのアクセスが悪くて観光客の絶対数が少ないこの島では、利用客が増える可能性はかなり低いでしょうから、放棄も仕方がないのかもしれません(というか、はじめから造らなければいいのに…と思ってしまいます)。
中之島滞在中は、時折シャワーみたいな雨は降ってきたものの、ほとんどは天気に恵まれ、ひたすら歩いた日には幸いにも灼熱の日光を遮る雲が上空にかかってくれたので、思いのほか体力のロスを気にせず散策することができました。
次は平島へ向かいます。
●高尾盆地
今度は宿の近くの八幡神社から、島の中央部へ向かう坂を登ってゆくことにしました。海岸部から中央の高地へジグザクカーブが続く坂道をひたすら登ってゆくと、途中で「与助岩」と称する大きな岩の前を通過します。一見すると何の変哲のない岩ですが、島には言い伝えが残されているらしく、傍らに立つ説明版によれば、
16世紀中頃、トカラ列島を荒らし回っていた海賊日向の与助という人物やその一味を、当時の郡司が美女を囮にして酒盛りを開き、与助らが油断したところを退治した。すると、与助の霊はこの大きな石と化し、体は灰となって飛び散って人々の血を吸うブト(ブヨ)になったという…。
この日向という人物は、生前は海賊として暴れまわり、討たれた後はブヨになって人々を襲うという、生きている時も死んだ後も、徹底的に世間様へ散々迷惑をかけるとんでもない輩なんですね。海べりの集落から中央部まで、地図上では大した距離はなさそうなのに、実際に歩いてみると、坂を登りきるまでかなりの距離と標高差があり、ちょっとした登山のようでして、夏は水を携行しないと大変なことになっちゃうでしょう(この島では海沿いの東区や西区以外に自販機や店はありません)。島には公共交通機関が無いので、島内の移動に際しては有料で宿から車を借りるか、あるいは自分の脚力に頼る他ありません。
全身汗だくになりながら、歩き始めてからちょうど30分で、道の先が明るくなって勾配が緩やかになり、ようやく高尾盆地に到達です。まず目に入ってくるのは「十島開発総合センター」という立派な建物。館内には集会所や会議室などがあるのですが、実はどうやらここで宿泊もできるみたいでして、旅行者は島の民宿に泊まるのが原則ですが、もし宿にあぶれた場合はこちらへ相談すると何とかなるかもしれません。
「十島開発総合センター」から先へ進むと道の両側の視界が開け、特に右側には島とは思えない雄大な牧場が広がっており、そこではトカラ馬がのんびり草をはんでいました。
いまではすっかり数が少なくなってしまった日本在来種の馬の一種であるトカラ馬。大きさは所謂ポニーと同等です。一時はトカラから姿を消したそうですが、喜界島や鹿児島など他の地域で飼われていたものをトカラへ戻して、この牧場で繁殖させているんだそうです。馬はとても可愛らしく、ずっと眺めていても見飽きることがありません。
トカラ馬は人懐っこい性格も特徴のひとつなんだそうでして、私が柵に近づくと、馬の方からこちらへ歩み寄ってきてくれました。道沿いに立てられている掲示板ではそれぞれの馬について紹介されています。
いかにも馬専用の牧場らしく、道路には「馬注意」の看板が立っています。
高尾盆地の中央部へとやってきました。中之島はトカラの中心的役割を果たしており、小規模ながらいろんな公的施設があるんですね。たとえばこれは、鹿児島地方気象台の中之島地域気象観測所。といっても観測機器が設置されているだけで無人なんですけどね。
こちらは「歴史民俗資料館」。トカラの島々の概要や自然、歴史・民俗などを大きなパネルや実物などの展示品を用いて紹介しており、館内では土器・丸木舟・漁具・民具などいろんなものがを展示されています。
村発行の観光パンフレットによれば私が訪問した木曜日は休館日のはずでしたが、実際に訪れてみると玄関に置かれたパイプ椅子には「開館」の札が立てかけられており、その下には係員を電話で呼び出してほしいと書かれた紙が置かれていました。さっそくそこに記されている番号へ携帯で連絡すると、1分ほどですぐに係員の方がやってきて下さり、館内の展示をひとつひとつマンツーマン状態で細かく解説してくださいました。
地方へ赴くと民俗資料館の類をよく目にしますが、入館してみても大抵は古民具を陳列展示している程度に留まっているため、残念ながら民俗学に関心のない人には決して面白いものではない場合がほとんどです。しかしながら、こちらの資料館は実物のみならず、実にわかりやすい解説パネルも用意されており、またジャンルによって展示エリアを分けているため、トカラに関する諸々を誰でも興味深く知ることができる、非常に有益な施設となっていました。中之島へ訪れた際には是非訪れるべき施設です。なお上画像の右側(下側)は悪石島のボゼです。
資料館の敷地内には「本土復帰記念碑」が立っています。第二次大戦の敗戦後に沖縄がアメリカの施政下にあったことは知っていても、奄美やトカラも占領下にあったことを知る人は少ないでしょうね(当時の英語で表記された南西諸島の地図を見ると、奄美群島は"Northern Ryukyu"と書かれています)。1946年2月2日以降、北緯30度以南(口之島以南)はアメリカが占領することとなり、トカラ列島に関しては1952年2月10日に日本へ復帰しました。
こちらは中之島天文台。九州では最大級のカセグレン式60センチ反射望遠鏡なんだそうです。といっても天文に関する知識がほとんどない私にとってはその意味がよくわかりませんが、この大きな望遠鏡の他、館内には一度にたくさんの人が星を見ることができるモニターも装備されており、とにかく天文ファンには垂涎の施設なんだとか。
中之島はトカラの他の島と同様に牛の生産も盛んでして、天文台の周囲は広大な牛の牧場となっていました。
牛がおじさんに導かれ、道路をノソノソと歩いてゆきます。
牧場地帯が終わって密林地帯に入ると、門柱の跡らしき物体と遭遇。よく見ると消えかかった白字で「中之島小学校 日の出分校」と表記されていました。ここには分校があったんですね。
校庭跡と思しき広場の奥には小さな池、そして小さな建物が残っていました。これってまさか校舎の遺構? ちらっと中を見たらパイプ椅子がたくさん置かれていていましたが…。また池のほとりには動物を象った白いコンクリの朽ちかけた造形(おそらく遊具の一種)が立っているのですが、これは何(アシカ)?
●御池(底なし池)
地図を見たら島の中央部には「御池」という池があり、別名「底なし池」とも呼ばれているらしいので、どんなところか興味津々行ってみることにしました。日の出分校から更に先に進み、途中の分岐に立つ道しるべに従って奥へと向かいます。
沿道にはお花がたくさん。
分校跡から約20分歩いて御池に到着です。神秘的な景色が…と表現したいところですが、正直なところ、あまり特筆すべき風景ではないかも…。底なし池という名前から想像するような、不気味な雰囲気もありません。ごく一般的な池でした。でも、小さな島なのに意外な大きさの池を擁するほどの湛水能力を有していることは興味深く、しかもこの池の地下で湧く水の量が年間を通して安定しているという事実は驚かされました。
池の水は川となって海へと流れてゆきます。
年間を通して水量が安定しているため、昭和45年からこの池の水は水力発電に利用されています。これは水力発電用の取水堰です。
池へアクセスする一本道はこの円筒が建つ地点で途切れます(行き止まり)。取水堰を通ってきた水は、ここから急な斜面を下り、その勢いで水車を回して発電するわけですね。発電所の奥には海岸線(七つ山海岸)が広がっています。ということは、私は歩いて実質的に島を横断し、集落とは反対側の岸までやってきたことになるわけです。
●ヤルセ灯台・七つ山海岸
御池(底なし池)から一旦分岐点まで戻り、今度は南東へ延びる道に入って、「歴史民俗資料館」の方が奨めていたヤルセ灯台やセリ岬を目指します。竹林の中を掻き分けるように延びる山道をひたすら進むと、ようやく灯台へのアプローチへと到達することができました。辺りは放牧場となっており、道は馬の糞とヤギの糞で埋め尽くされていると言っても過言ではない程の状況でした。碧い空には白い灯台がよく映えますね。
資料館の方が特に奨めて下さったのが、灯台の裏に位置するセリ岬。まるで東尋坊のような断崖絶壁や、海から鋭く突き出たような奇岩に、外洋のうねりが絶えることなくブチ当たって白い波しぶきを上げています。その様子を眺めていると、海に吸い込まれそうになってしまいました。いやはや、まさに絶景です。もし本土にこんな景勝地があれば、間違いなく周囲にお土産屋さんが林立していることでしょう。
灯台へ向かう途中の道には、七つ山海岸を見張らせる素晴らしい絶景ポイントがありました。海をよく観察していれば、しばしばカメを肉眼で発見できるそうですが、探し方が悪かったのか、あるいはこの時は本当にいなかったのか、残念ながらカメを見つけることはできませんでした。
七つ山海岸には地図に載っていないキャンプ場があります。実際に立ち寄ってみると、ここは海水浴場としても使われていたのか、シャワー室やトイレまで設けられているのですが、外観から推測するにあまり築年数は経っていないように思われますが、窓は完全に破れており、室内はヤギに侵入されて糞だらけになり、すっかり荒廃していました。地図から消され、荒廃状態も放置されているということは、村はここを実質的には放棄したのでしょうね。もったいない…。でも、もし整備したところで、島外からのアクセスが悪くて観光客の絶対数が少ないこの島では、利用客が増える可能性はかなり低いでしょうから、放棄も仕方がないのかもしれません(というか、はじめから造らなければいいのに…と思ってしまいます)。
中之島滞在中は、時折シャワーみたいな雨は降ってきたものの、ほとんどは天気に恵まれ、ひたすら歩いた日には幸いにも灼熱の日光を遮る雲が上空にかかってくれたので、思いのほか体力のロスを気にせず散策することができました。
次は平島へ向かいます。