温泉逍遥

思いつきで巡った各地の温泉(主に日帰り温泉)を写真と共に紹介します。取り上げるのは原則的に源泉掛け流しの温泉です。

トカラ列島 宝島を逍遥(その2)

2012年08月20日 | 鹿児島県
前回記事の続きです。
今回も温泉は登場しませんのであしからず


一旦集落へ戻り、今度は集落の西に向けて、鬱蒼と茂る緑の中を歩いていきます。


 
トカラはどの島でも同様ですが畜産業が盛んでして、ここでも牛小屋を見つけました。小屋の中では仔牛が怯えながらこちらを向いていました。



女神山と呼ばれる峠のようなポイントを通過。



トカラでは観葉植物であるサンセベリアの栽培も盛んです。


 
こちらの畑ではバナナを栽培中。


 
そしてこっちではイモ栽培。沿道にはトカラの農業事情がよくわかる畑が連続していました。


 
集落から歩くこと約25分で、海が見えてきました。左手に小径が分かれており…


 
その小径にかかる鳥居から伸びる道を進んでみると…


 
とっても宗教的な雰囲気が漂うエリアへとたどり着き…


 
その先には観音像が祀られている大鍾乳洞が大きく口を開けていました。十島村発行の観光パンフから説明文を抜粋させていただくと…
琉球石灰岩質の宝島にはたくさんの鍾乳洞があります。この鍾乳洞に、キャプテンキッドの財宝が隠されている伝説もあります。中でも、この「観音堂」と呼ばれる鍾乳洞がもっとも大きく、奥行きは400mとも500mとも言われ、かつて「トカラ神道」と呼ばれた信仰の島内最大の拝所になっています。

なんと奥行きが数百メートルもあるんですか。ではさっそく奥の方へ入り込んでみましょう。


 
天井からトゲトゲの鍾乳石が幾重にも下がっており、神秘的であると同時に恐怖感をもたらす光景です。万一そのうちの一本がポキッと折れて頭上に落ちてきたら、ひとたまりもなさそうだぞ。
洞内には特に規制線が敷かれているわけではなく、進もうと思えばどんどん奥へと行けそうでしたが、あいにくこの時はライトを持参していなかったため、開口部付近の光が届く範囲でしか行動できませんでした。


 
鍾乳洞の中から外を見上げると、眩しい光線の中に亜熱帯の植物が茂っています。横井庄一氏や小野田寛郎氏などは、こんな光景を日常的に目にしながら日々を過ごしていたのかなぁ、なんていう想像にふけたりしました。



さて、集落へ戻ってきました。



コミュニティーセンターの裏には「やすらぎ農園」と称する小さな耕作地があり…


 
その一角では水稲栽培が行われていました。トカラで戦前から水稲を栽培してきたのはこの宝島のみなんだそうでして、民俗学者である宮本常一の著書『生きていく民俗 ---生業の推移 (河出文庫)』でも、この島では稲作が可能であったのみならず、生活に必要な作物は大抵耕作可能であり、また島民は必要最低限の技術(大工仕事など)を持っていたため、かつてはほぼ完全な自給自足ができていた、と書かれています。まさに宝の島だったのかもしれませんね。


 
はて? ハイビスカスが咲くこのアプローチの先には何があるのかしら?


 
アプローチの先につながる階段をあがったところには、宝島小中学校の校門がありました。


 
夏休み中ですから誰もおらず、蝉の鳴き声以外は何も聞こえてきませんでしたが、それにしてもなかなか立派な校舎じゃありませんか。



行事予定が書かれる黒板には、大きく「夏休み」と書かれていますね。


 
校門の下では一頭のヤギが飼われており、私の姿を認めるや、ヤギさんは急ぎ足でこちらへとやってきました。生徒は夏休みで誰も来ないから、ずっと一人ぼっちで人恋しかったのかな。


 
宿の夕食です。献立としては、島で獲れたヒラアジの刺身、とんかつ、ゴーヤチャンプルなどなど。宿泊客は私一人だけだったからか、えらくボリュームが多く、失礼が無いように全て平らげましたが、食後はお腹がはちきれんばかりでしたが、いずれもとっても美味しかったので、途中で箸が止まるようなこちはありませんでしたよ。ごちそうさまでした。

翌日は朝7:15出港の上り便で中之島へ向かいました。

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トカラ列島 宝島を逍遥(その1)

2012年08月20日 | 鹿児島県
※今回の記事に温泉は登場しませんのであしからず。

 
悪石島の次に私が向かったのは、トカラの有人島では最も南に位置している宝島です。フェリーが港へ近づくと、まず目に入ってくるのがコンクリの擁壁に描かれた巨大な壁絵でした。


 
今回宝島でお世話になったのは老夫婦が経営する「民宿とから荘」さんでした。2階建ての2階に10室近い客室があり、今回はこの中でも最も勝手口や洗面所に近い部屋をあてがってくれました。6畳の和室で冷房完備ですが、他のものは何もありません。


 
客室にテレビは無いので、もし視聴したければこの大広間でみることになります。といってもこの日の宿泊客は私一人だけでしたし、スケジュールの都合上、この島では1泊しかできなかったので、時間が許す限り島内を巡ることで精いっぱい。あまりこの広間で寛ぐ時間はありませんでした。窓からは海を一望でき、日が暮れれば海から涼しい風が吹き込んできます。



宿のお爺さんは民宿経営の傍ら、薪で釜を焚く塩造りも行っています。天候によって釜の焚き方(薪のくべ方)が違うらしく、この日は好天に恵まれて釜を焚く好機でもあったため、お爺さんは晩も早朝も問わず、頻りに釜へと出かけていました。


 
今回お世話になった「とから荘」を含め、宝島の民宿はみな港近くの集落に集まっています。さっそく細い路地がウネウネと延びているこの集落を歩いてみましょう。平家の落人伝説が残っているこの平島の住民は圧倒的に平田姓が多く、民家の間に立つお墓を見ると悉く「平田家之墓」となっていました。


 
こちらはコミュニティーセンター(村役場出張所)です。フェリーの切符もここで購入しますが、いつでも窓口が開いているわけではないので、所定の時間を狙って出向く必要があります(これはトカラのどの島でも共通ですが)。私は翌日の早朝に出港する上り便で経つ予定でしたので、前日の昼下がりに切符を購入しました。


 
コミュニティーセンターには自販機が2台あり、コカコーラ系の他サントリー系のドリンクも購入可能。また夕方からオープンする売店(食料品や雑貨などを取扱)も併設されています。



こちらは宝島郵便局。島唯一の金融機関でもあります。トカラ列島で郵便局がある島はこの宝島以外では、中之島と口之島だけです。


 
郵便局の近くから海岸へ下りてゆく何の変哲もないこの坂道はイギリス坂と呼ばれており、十島村発行のガイド(パンフレット)から説明文を抜粋すると…
文政7年(1824年)イギリス船が宝島沖に現れ、数人のイギリス人が小船で上陸し、食用の牛を求めましたが断られ、逆恨みしたイギリス人は銃を乱射して牛3頭を強奪しました。その後藩庁から島に来ていた役人らが応戦し、イギリス人の一人を射殺しました。その現場一帯はイギリス坂と呼ばれ、このことがきっかけで、翌年に「異国船打払令」が出されたといわれています。
とのこと。私はフェートン号事件が異国船打払令の大きなきっかけだと思っていましたが、たしかにこの頃はナポレオン戦争のために勢力をすっかり失ったオランダに代わってアジアの覇権を握るようになったイギリス船が次々に日本近海にやってきていたわけですから、この宝島で発生した事件はそうした流れのひとつとして起こったのであり、長崎や宝島などで起きた事件の数々によって幕府は異国船打払令へ発令しようとしたわけですね。



イギリス坂を下りきると発電所を発見。


 
発電所から海岸に沿って東方向へ歩くと「がっこうのうえん」と書かれた札が立つ場所を通過しました。夏休み中だからか、特に何かを栽培しているような形跡はみられませんでした。



さらに東へ進んで、途中に突き当たった分岐を海の方へ行ってみると…


 
小さな馬小屋に遭遇。在来種と思しき小型の馬(おそらくトカラ馬)が一頭だけ屋根の下でのんびりしており、その馬は私を見つけると、興味津々といわんばかりに元気よくこちらへ近づいてきて、愛想をたっぷり振りまいてくれました。


 
さらに奥には、白い砂浜の大籠海水浴場が広がっていました。天然の入り江を活かしながら、安全に海水浴が楽しめるよう人工的な設備も施工された海水浴場です。この上ない天気なのに、この時は誰もいませんでした。



無人ながらちゃんと男女別のシャワーもありますよ。


 
入江は干潮で水が思いっきり引いており、しかも濁っていたので、入江の口まで歩いていき、そこから潜ってみることにしました。


 

海中にはサンゴ礁が広がっていますが、すっかり白化している上に泥をかぶっており、決して美しい光景とは言えません。でもそんな海中をたくさんの魚たちが泳いでおり、その様子を私は潜りながら飽きることなく2時間近くも観察し続けてしまいました。

次回に続く…

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