前回記事の続きです。
今回も温泉は登場しませんのであしからず
一旦集落へ戻り、今度は集落の西に向けて、鬱蒼と茂る緑の中を歩いていきます。
トカラはどの島でも同様ですが畜産業が盛んでして、ここでも牛小屋を見つけました。小屋の中では仔牛が怯えながらこちらを向いていました。
女神山と呼ばれる峠のようなポイントを通過。
トカラでは観葉植物であるサンセベリアの栽培も盛んです。
こちらの畑ではバナナを栽培中。
そしてこっちではイモ栽培。沿道にはトカラの農業事情がよくわかる畑が連続していました。
集落から歩くこと約25分で、海が見えてきました。左手に小径が分かれており…
その小径にかかる鳥居から伸びる道を進んでみると…
とっても宗教的な雰囲気が漂うエリアへとたどり着き…
その先には観音像が祀られている大鍾乳洞が大きく口を開けていました。十島村発行の観光パンフから説明文を抜粋させていただくと…
なんと奥行きが数百メートルもあるんですか。ではさっそく奥の方へ入り込んでみましょう。
天井からトゲトゲの鍾乳石が幾重にも下がっており、神秘的であると同時に恐怖感をもたらす光景です。万一そのうちの一本がポキッと折れて頭上に落ちてきたら、ひとたまりもなさそうだぞ。
洞内には特に規制線が敷かれているわけではなく、進もうと思えばどんどん奥へと行けそうでしたが、あいにくこの時はライトを持参していなかったため、開口部付近の光が届く範囲でしか行動できませんでした。
鍾乳洞の中から外を見上げると、眩しい光線の中に亜熱帯の植物が茂っています。横井庄一氏や小野田寛郎氏などは、こんな光景を日常的に目にしながら日々を過ごしていたのかなぁ、なんていう想像にふけたりしました。
さて、集落へ戻ってきました。
コミュニティーセンターの裏には「やすらぎ農園」と称する小さな耕作地があり…
その一角では水稲栽培が行われていました。トカラで戦前から水稲を栽培してきたのはこの宝島のみなんだそうでして、民俗学者である宮本常一の著書『生きていく民俗 ---生業の推移 (河出文庫)』でも、この島では稲作が可能であったのみならず、生活に必要な作物は大抵耕作可能であり、また島民は必要最低限の技術(大工仕事など)を持っていたため、かつてはほぼ完全な自給自足ができていた、と書かれています。まさに宝の島だったのかもしれませんね。
はて? ハイビスカスが咲くこのアプローチの先には何があるのかしら?
アプローチの先につながる階段をあがったところには、宝島小中学校の校門がありました。
夏休み中ですから誰もおらず、蝉の鳴き声以外は何も聞こえてきませんでしたが、それにしてもなかなか立派な校舎じゃありませんか。
行事予定が書かれる黒板には、大きく「夏休み」と書かれていますね。
校門の下では一頭のヤギが飼われており、私の姿を認めるや、ヤギさんは急ぎ足でこちらへとやってきました。生徒は夏休みで誰も来ないから、ずっと一人ぼっちで人恋しかったのかな。
宿の夕食です。献立としては、島で獲れたヒラアジの刺身、とんかつ、ゴーヤチャンプルなどなど。宿泊客は私一人だけだったからか、えらくボリュームが多く、失礼が無いように全て平らげましたが、食後はお腹がはちきれんばかりでしたが、いずれもとっても美味しかったので、途中で箸が止まるようなこちはありませんでしたよ。ごちそうさまでした。
翌日は朝7:15出港の上り便で中之島へ向かいました。
今回も温泉は登場しませんのであしからず
一旦集落へ戻り、今度は集落の西に向けて、鬱蒼と茂る緑の中を歩いていきます。
トカラはどの島でも同様ですが畜産業が盛んでして、ここでも牛小屋を見つけました。小屋の中では仔牛が怯えながらこちらを向いていました。
女神山と呼ばれる峠のようなポイントを通過。
トカラでは観葉植物であるサンセベリアの栽培も盛んです。
こちらの畑ではバナナを栽培中。
そしてこっちではイモ栽培。沿道にはトカラの農業事情がよくわかる畑が連続していました。
集落から歩くこと約25分で、海が見えてきました。左手に小径が分かれており…
その小径にかかる鳥居から伸びる道を進んでみると…
とっても宗教的な雰囲気が漂うエリアへとたどり着き…
その先には観音像が祀られている大鍾乳洞が大きく口を開けていました。十島村発行の観光パンフから説明文を抜粋させていただくと…
琉球石灰岩質の宝島にはたくさんの鍾乳洞があります。この鍾乳洞に、キャプテンキッドの財宝が隠されている伝説もあります。中でも、この「観音堂」と呼ばれる鍾乳洞がもっとも大きく、奥行きは400mとも500mとも言われ、かつて「トカラ神道」と呼ばれた信仰の島内最大の拝所になっています。
なんと奥行きが数百メートルもあるんですか。ではさっそく奥の方へ入り込んでみましょう。
天井からトゲトゲの鍾乳石が幾重にも下がっており、神秘的であると同時に恐怖感をもたらす光景です。万一そのうちの一本がポキッと折れて頭上に落ちてきたら、ひとたまりもなさそうだぞ。
洞内には特に規制線が敷かれているわけではなく、進もうと思えばどんどん奥へと行けそうでしたが、あいにくこの時はライトを持参していなかったため、開口部付近の光が届く範囲でしか行動できませんでした。
鍾乳洞の中から外を見上げると、眩しい光線の中に亜熱帯の植物が茂っています。横井庄一氏や小野田寛郎氏などは、こんな光景を日常的に目にしながら日々を過ごしていたのかなぁ、なんていう想像にふけたりしました。
さて、集落へ戻ってきました。
コミュニティーセンターの裏には「やすらぎ農園」と称する小さな耕作地があり…
その一角では水稲栽培が行われていました。トカラで戦前から水稲を栽培してきたのはこの宝島のみなんだそうでして、民俗学者である宮本常一の著書『生きていく民俗 ---生業の推移 (河出文庫)』でも、この島では稲作が可能であったのみならず、生活に必要な作物は大抵耕作可能であり、また島民は必要最低限の技術(大工仕事など)を持っていたため、かつてはほぼ完全な自給自足ができていた、と書かれています。まさに宝の島だったのかもしれませんね。
はて? ハイビスカスが咲くこのアプローチの先には何があるのかしら?
アプローチの先につながる階段をあがったところには、宝島小中学校の校門がありました。
夏休み中ですから誰もおらず、蝉の鳴き声以外は何も聞こえてきませんでしたが、それにしてもなかなか立派な校舎じゃありませんか。
行事予定が書かれる黒板には、大きく「夏休み」と書かれていますね。
校門の下では一頭のヤギが飼われており、私の姿を認めるや、ヤギさんは急ぎ足でこちらへとやってきました。生徒は夏休みで誰も来ないから、ずっと一人ぼっちで人恋しかったのかな。
宿の夕食です。献立としては、島で獲れたヒラアジの刺身、とんかつ、ゴーヤチャンプルなどなど。宿泊客は私一人だけだったからか、えらくボリュームが多く、失礼が無いように全て平らげましたが、食後はお腹がはちきれんばかりでしたが、いずれもとっても美味しかったので、途中で箸が止まるようなこちはありませんでしたよ。ごちそうさまでした。
翌日は朝7:15出港の上り便で中之島へ向かいました。