下のYazooの2枚組LPは、チャーリ・パットン(Charley Patton)を「Founder of the Delta Blues」としている。「Founder」は「 創設者」あるいは「基礎を作った人」という意味だが、現実にはパットン以前からデルタ・ブルースが存在していたことは疑い得ない。が、パットンは、先人たちの遺産を受け継ぎ「ブルースで飯が食える」ことを証明した最初のブルースマンの一人、と言うことは出来るだろう。つまり、「プロ・ブルースマンの嚆矢(こうし)」とでも云うのが正確なところではないか、とわたしは考えている。
今日の我々から見れば、それは極めて重要なことで、エンターテイメント性を強く持ったブルースの始まりでもあり、それが後のモダンブルースやロックに繋がってゆく。その意味では、パットンの音楽は「商業的ブルースの始まり」と言えるのかもしれない。そこがまた、パットンの音楽への評価、あるいは人柄を大きく分ける一因でもある。パットンの音楽を「常にある種、崇高感が漂う(髙地明著『ブルース決定版』1994年音楽之友社刊)」という人もいて、そこから彼の人柄を導き出して尊敬する人も多い。が、一方で、例えばパットンの朋友とも言えるサン・ハウスがステファン・グロスマンのインタビューに答えて次のように語っている、「彼(パットン)は、酒のみでケチ、妻(バーサ)に金を渡さず、白人の台所から食べ物を持ってこさせていた」(Stefan Grossman著『Delta Blues Guitar』1969Oak PublicationsP11を要約し拙訳)。バーサは、当時白人宅で手伝いをしてたらしい。思うに、ブルースで稼ぐことが出来た初期のミュージシャン達は、おそらく手にした金を前に戸惑ったのではないだろうか。ある意味「あぶく銭」のように感じてしまい、金銭感覚が麻痺していったのかもしれない。
それはそれとして、パットンの演奏していたのは、ジュークと呼ばれる踊れる酒場や、あるいはハウスパーティーだったので、彼の音楽は必然的に「ダンスミュージック」という側面が強い。なので、パットンをブルースの源流と考えると、ブルースは基本的に「ダンスミュージック」と、捉えることになる。一方で弾き語りに近いブルースマン達も多く存在していて、サン・ハウスは「飛んだり跳ねたりするのはブルースじゃない」と、きっぱり言っている。
何はともあれ、良い音楽であれば、その性質は聴く者にとってはあまり重要ではない。ことにパットンはテーマが広く、男女のことはもとより、綿花を食い荒らす害虫を歌った「Mississippi Boweavil Blues」、あるいは洪水を取り上げた「High Water Every Where」など、重いテーマをさらりと歌い上げる才能には脱帽するしかない。が、例えば水害にあった人が洪水をテーマにした曲を聞いて楽しんだり踊ったり出来るのもなのだろうか、そのあたりの疑問は残る。
それにしても、デルタのリズムの取り方は個性的で、間合いの取り方とシンコペーションは他の地域では聴かれない。ビック・ビル・ブルーンジーなどのようにミシシッピーからシカゴなど都会にでたブルースマンは多いのに、わたしの知る限りの録音ではデルタのリズムを匂わせるものは他の地域には少ない。デルタ・ブルースの真髄ともいえる強烈に叩きつけるようなリズムが、ある意味では泥臭くて受け入れられなかったのかもしれないが、残念な気もする。
さて、そんなチャーリ・パットン の生年ははっきりしない。ミシシッピー州で生まれたことは間違いないだろうが、1881年又は1887年というのはパットンの姉妹や元の妻で、墓碑には1891年4月となっているらしい。亡くなったのは、1934年4月28日ミシシッピー州インディアノーラ(Indianola)だった。生年が特定できないので、何歳でなくなったのかも分からない。おそらくは40代半ばくらいから50代前半で亡くなったと推測される。酒のみで、乱れた生活をしていたとも言われ、内蔵を悪くしていたらしく、直接の死因は心臓病と言われている。。
このYazooの2枚組LP(L-1020)も以前はなかなか手に入らなかった。1984年頃、仕事で横浜に行った時に、たまたま覗いた輸入盤のレコード店で見つけた。その時には、とても嬉しかったことを今でも良く覚えている。
こちらは、裏面。Yazooにしては珍しく録音年順(chronological order)になっている。
このLPには、デルタブルースを特徴付けるオープンGでのボトルネック・チューンばかりでなく、ノーマルチューニングでダンスの時に演奏されたと思われる曲や、当時のはやり歌と思われるものなどが取られており、パットンがパーティーを盛り上げてゆく様子などを彷彿とさせてくれる。余談だが、このLPにはブックレットが付いていて歌詞の他、ミシシッピの街や洪水、奥さんのバーサ・リー(Bartha Lee)の写真などを見ることが出来る。やっぱり、LPはいいなあ。保存には場所をとるけど、文字は見やすいし写真は迫力がある。
パットンの全録音61曲を収録したP-VINEの3枚組のCD。ヘンリー・シムズ(Henry Sims)がヴァイオリンやヴォーカルで、ウィリー・ブラウン(Willie Brown)がギターで加わっている曲もある。また、亡くなる3ヶ月前のニューヨークでの録音ではバーサ・リーが2曲ヴォーカルで加わっている。
これが1960年に撮影されたバーサ・リーの写真。パットンは何度も結婚しているが、バーサは最後の妻で、死ぬまで共にいたという。録音された声を聞くと、なかなかの美声だ。
このCDは、『ブルース&ソウルレコーズNO.7(1995年ブルース・インターアクションズ刊)』にリヴューを書いたときにP-VINEから支給されたもの。ブルース中心の選曲で、16曲を収録。
デルタのギターはどこから来てどこへ消えたのだろう。低音弦を下からはじき返して独特のシンコペーションを生み出す奏法は、パットン、ウィリー・ブラウン、サン・ハウス、3人のデルタ・ブルースマンを介して残った録音が主なものだ。他に、言ってみればヴァリエーションのようなものとして、ジャクソンのトミー・ジョンソンや、メンフィス近辺のミシシッピー・シークスなどが残した録音にその影響が残っているだけだ。いずれにしてもそれらは、やがてブルースの中心地になってゆくシカゴなど、他の地域まで伝わることはなかったのだった。もちろん、さまざまなミュージシャンがカヴァーはしている。が、デルタのシンコペーションまでは遠く、本質的なところまでは至っていない。録音の機会に恵まれなかったブルースマンも多いだろうし、まだどこかに埋もれている録音やブルースマンがいるかもしれない。デルタのギターは、世界遺産だと思っている。なので、地域を越えても、すぐれたミュージシャンが継承してくれることを願っている。
2022/5、加筆改訂
今日の我々から見れば、それは極めて重要なことで、エンターテイメント性を強く持ったブルースの始まりでもあり、それが後のモダンブルースやロックに繋がってゆく。その意味では、パットンの音楽は「商業的ブルースの始まり」と言えるのかもしれない。そこがまた、パットンの音楽への評価、あるいは人柄を大きく分ける一因でもある。パットンの音楽を「常にある種、崇高感が漂う(髙地明著『ブルース決定版』1994年音楽之友社刊)」という人もいて、そこから彼の人柄を導き出して尊敬する人も多い。が、一方で、例えばパットンの朋友とも言えるサン・ハウスがステファン・グロスマンのインタビューに答えて次のように語っている、「彼(パットン)は、酒のみでケチ、妻(バーサ)に金を渡さず、白人の台所から食べ物を持ってこさせていた」(Stefan Grossman著『Delta Blues Guitar』1969Oak PublicationsP11を要約し拙訳)。バーサは、当時白人宅で手伝いをしてたらしい。思うに、ブルースで稼ぐことが出来た初期のミュージシャン達は、おそらく手にした金を前に戸惑ったのではないだろうか。ある意味「あぶく銭」のように感じてしまい、金銭感覚が麻痺していったのかもしれない。
それはそれとして、パットンの演奏していたのは、ジュークと呼ばれる踊れる酒場や、あるいはハウスパーティーだったので、彼の音楽は必然的に「ダンスミュージック」という側面が強い。なので、パットンをブルースの源流と考えると、ブルースは基本的に「ダンスミュージック」と、捉えることになる。一方で弾き語りに近いブルースマン達も多く存在していて、サン・ハウスは「飛んだり跳ねたりするのはブルースじゃない」と、きっぱり言っている。
何はともあれ、良い音楽であれば、その性質は聴く者にとってはあまり重要ではない。ことにパットンはテーマが広く、男女のことはもとより、綿花を食い荒らす害虫を歌った「Mississippi Boweavil Blues」、あるいは洪水を取り上げた「High Water Every Where」など、重いテーマをさらりと歌い上げる才能には脱帽するしかない。が、例えば水害にあった人が洪水をテーマにした曲を聞いて楽しんだり踊ったり出来るのもなのだろうか、そのあたりの疑問は残る。
それにしても、デルタのリズムの取り方は個性的で、間合いの取り方とシンコペーションは他の地域では聴かれない。ビック・ビル・ブルーンジーなどのようにミシシッピーからシカゴなど都会にでたブルースマンは多いのに、わたしの知る限りの録音ではデルタのリズムを匂わせるものは他の地域には少ない。デルタ・ブルースの真髄ともいえる強烈に叩きつけるようなリズムが、ある意味では泥臭くて受け入れられなかったのかもしれないが、残念な気もする。
さて、そんなチャーリ・パットン の生年ははっきりしない。ミシシッピー州で生まれたことは間違いないだろうが、1881年又は1887年というのはパットンの姉妹や元の妻で、墓碑には1891年4月となっているらしい。亡くなったのは、1934年4月28日ミシシッピー州インディアノーラ(Indianola)だった。生年が特定できないので、何歳でなくなったのかも分からない。おそらくは40代半ばくらいから50代前半で亡くなったと推測される。酒のみで、乱れた生活をしていたとも言われ、内蔵を悪くしていたらしく、直接の死因は心臓病と言われている。。
このYazooの2枚組LP(L-1020)も以前はなかなか手に入らなかった。1984年頃、仕事で横浜に行った時に、たまたま覗いた輸入盤のレコード店で見つけた。その時には、とても嬉しかったことを今でも良く覚えている。
こちらは、裏面。Yazooにしては珍しく録音年順(chronological order)になっている。
このLPには、デルタブルースを特徴付けるオープンGでのボトルネック・チューンばかりでなく、ノーマルチューニングでダンスの時に演奏されたと思われる曲や、当時のはやり歌と思われるものなどが取られており、パットンがパーティーを盛り上げてゆく様子などを彷彿とさせてくれる。余談だが、このLPにはブックレットが付いていて歌詞の他、ミシシッピの街や洪水、奥さんのバーサ・リー(Bartha Lee)の写真などを見ることが出来る。やっぱり、LPはいいなあ。保存には場所をとるけど、文字は見やすいし写真は迫力がある。
パットンの全録音61曲を収録したP-VINEの3枚組のCD。ヘンリー・シムズ(Henry Sims)がヴァイオリンやヴォーカルで、ウィリー・ブラウン(Willie Brown)がギターで加わっている曲もある。また、亡くなる3ヶ月前のニューヨークでの録音ではバーサ・リーが2曲ヴォーカルで加わっている。
これが1960年に撮影されたバーサ・リーの写真。パットンは何度も結婚しているが、バーサは最後の妻で、死ぬまで共にいたという。録音された声を聞くと、なかなかの美声だ。
このCDは、『ブルース&ソウルレコーズNO.7(1995年ブルース・インターアクションズ刊)』にリヴューを書いたときにP-VINEから支給されたもの。ブルース中心の選曲で、16曲を収録。
デルタのギターはどこから来てどこへ消えたのだろう。低音弦を下からはじき返して独特のシンコペーションを生み出す奏法は、パットン、ウィリー・ブラウン、サン・ハウス、3人のデルタ・ブルースマンを介して残った録音が主なものだ。他に、言ってみればヴァリエーションのようなものとして、ジャクソンのトミー・ジョンソンや、メンフィス近辺のミシシッピー・シークスなどが残した録音にその影響が残っているだけだ。いずれにしてもそれらは、やがてブルースの中心地になってゆくシカゴなど、他の地域まで伝わることはなかったのだった。もちろん、さまざまなミュージシャンがカヴァーはしている。が、デルタのシンコペーションまでは遠く、本質的なところまでは至っていない。録音の機会に恵まれなかったブルースマンも多いだろうし、まだどこかに埋もれている録音やブルースマンがいるかもしれない。デルタのギターは、世界遺産だと思っている。なので、地域を越えても、すぐれたミュージシャンが継承してくれることを願っている。
2022/5、加筆改訂