文化逍遥。

良質な文化の紹介。

看取りを終えて、本2冊

2014年04月29日 | 介護
5年の間、介護ベッドに居た母の看取りを終えた。
時々に良く考えて最善と思われる方法を採ったつもりだったが、終えてみるともっと良い方法があったのではないか、という悔悟の気持ちに襲われた。「後悔のない介護は無い」とも言われているが・・・

寝付いたときにすでに90歳近い高齢だったので、基本的には経管栄養(胃ろう、経鼻胃管など)はせず口からの食餌で、感染症にかかった場合は薬で対応していった。実際に何度かの誤嚥性肺炎や尿路感染を起こしたが、その都度抗生剤を使って回復した。そして最後は、血管が弱って点滴の針をさすことが難しくなり、飲み薬の抗生剤も発熱や口の中が荒れるなどの副作用が強くなり使えないと判断せざるを得なかった。それでも母は、亡くなる2日前まで自分の口から食べていたのだった。

医師は往診に来た時もまだ未練があったようで、筋肉注射や経管栄養などの選択肢もある旨説明があった。しかし、それは選択しなかった。その日、4月15日の夜、氷が解けるように母は自宅で亡くなった。93歳11ヵ月。
すべては、結果論になる。が、やはり心に残るものを感じる。
そこで、関連図書を2冊図書館から借りてきて貪り読んだ。


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著者は特別養護老人ホームの常勤医で、入所者を安易に病院に送らずホームでの自然な看取りをすすめている石飛先生。
実は母の亡くなる数日前に、早朝のラジオで偶然この石飛先生の話を聞いた。その内容は「死ぬということは細胞が分裂を止めるということで、その時に余分な水分や栄養を人為的に無理矢理入れても吸収できず苦しいだけだ」というものだった。細胞分裂を止めようとしている時点をどこで決めるのか、判断が難しいところだとは思う。が、少なくとも「老齢で食べられなくなった老人には無理な延命措置は苦しませるだけで益は無い」、という主張には慰められるものがあった。


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こちらは、石飛先生の考えに同調して自宅での看取りをすすめている在宅医の長尾先生。
開業以来17年間で、700人以上の患者をその自宅で看取った、という実績をもとにエピソードをまじえて具体的に描かれている。


母は、左の手や脚の拘縮(伸ばせなくなること)はあったが皮膚はきれいで、むくみや床ずれなどはほとんど無かった。死に顔も、葬儀に来た人が皆「きれい」と言ってくれた。
上の2冊を読むと、病院で延命治療を受けて死んだ場合、それは珍しい事と言えるらしい。
人は、枯れるような死こそが「自然」なのだと、今は考えている。




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