灘康次(なだ・こうじ、本名定男=さだお)さんが3月5日亡くなった。89歳だった。芸能好きな人には馴染み深い歌謡漫談グループ「灘康次とモダンカンカン」のリーダ―だった人だが、実は日本の芸能史を語る上では欠かすことのできない重要な人だった。
以下は、ウィキペディアより抜粋。
「灘 康次(なだ こうじ) - 1929年3月-2019年3月5日、東京都洲崎遊郭出身。本名は灘 定男。リーダーでありリードギター・ボーカル。関東商業学校在学中に予科練を経て戦後「劇団新生」に入団し歌と芝居を習う。ギターは上原げんとに指導を受けた。1947年頃に元あきれたぼういずの川田晴久(川田義雄)の弟子になり「川田義雄とダイナ・ブラザース」のメンバーになる。横浜国際劇場でボーイズデビュー。1956年、川田義雄の病気療養(翌年死去)に伴い、西方健と「カンカンコンビ」を結成(のちに解散し西方は「ぴんぼけトリオ」(のちの「ザ・ぴんぼけ」)を結成した)。灘は1958年にモダンカンカンを結成。メンバーチェンジを繰り返しながら、2010年代まで長く活動した。第42回芸術祭賞受賞。1995年にボーイズバラエティ協会会長就任。その後、同協会名誉会長。高齢のため、グループとしての活動は休止していたが、2019年3月5日14時10分、肝臓がんのため、89歳で死去。」
この人の師匠に当たる川田義雄は、日本のボーイズという芸の生みの親、とも言うべき人だった。その川田義雄が中心になったグループ「あきれたぼういず(第一次)」の録音はSP盤で残されていて、わたしもテープを持っている。戦前のものと思われるので、すでに70年以上前の録音と思われるが、今聴いても「こんなテクニックをどこから仕入れたんだろう?」と感じるほど多様な音楽の要素を取り入れた完成度の高いものだった。「モダンカンカン」は、その直系の芸能グループだった。テレビの芸能番組など見ていると、最近の漫談などは随分と芸が変ったなあ、と感じる。良い悪いの判断は横に置くとして、川田義雄や坊屋三郎の築き上げてきた「ボーイズ・ボードヴィル芸」は終わった、とも感じる。
『アサヒグラフ』1995年12月1日号表紙。「ボーイズ バラエティ協会」創立30周年記念公演の行われたこの年、新宿末広亭の客席に降りて撮影された一枚。写真向かって左が灘 康次、右が坊屋三郎(1910-2002)。やはり1995年頃に、わたしも三宅坂の国立演芸場で行われた同協会の公演でモダンカンカンはじめ協会のメンバー多数をバックにした坊屋のウォッシュボード芸を聴いたことがある。今では、それも大切な記憶となっている。雑誌内のインタビュー記事によると、ギターはギブソンのスーパー400CESで、1960年代前半に70数万円で買ったという。交換レートが1ドル360円で円が安い時代だったが、それを考えあわせても、大卒初任給が数万円の時なので現在の通貨価値にすると300万円位になるだろう。それを、惜しげもなく舞台で使うもの芸人の意地のようなものだろうか・・合掌・・。
以下は、ウィキペディアより抜粋。
「灘 康次(なだ こうじ) - 1929年3月-2019年3月5日、東京都洲崎遊郭出身。本名は灘 定男。リーダーでありリードギター・ボーカル。関東商業学校在学中に予科練を経て戦後「劇団新生」に入団し歌と芝居を習う。ギターは上原げんとに指導を受けた。1947年頃に元あきれたぼういずの川田晴久(川田義雄)の弟子になり「川田義雄とダイナ・ブラザース」のメンバーになる。横浜国際劇場でボーイズデビュー。1956年、川田義雄の病気療養(翌年死去)に伴い、西方健と「カンカンコンビ」を結成(のちに解散し西方は「ぴんぼけトリオ」(のちの「ザ・ぴんぼけ」)を結成した)。灘は1958年にモダンカンカンを結成。メンバーチェンジを繰り返しながら、2010年代まで長く活動した。第42回芸術祭賞受賞。1995年にボーイズバラエティ協会会長就任。その後、同協会名誉会長。高齢のため、グループとしての活動は休止していたが、2019年3月5日14時10分、肝臓がんのため、89歳で死去。」
この人の師匠に当たる川田義雄は、日本のボーイズという芸の生みの親、とも言うべき人だった。その川田義雄が中心になったグループ「あきれたぼういず(第一次)」の録音はSP盤で残されていて、わたしもテープを持っている。戦前のものと思われるので、すでに70年以上前の録音と思われるが、今聴いても「こんなテクニックをどこから仕入れたんだろう?」と感じるほど多様な音楽の要素を取り入れた完成度の高いものだった。「モダンカンカン」は、その直系の芸能グループだった。テレビの芸能番組など見ていると、最近の漫談などは随分と芸が変ったなあ、と感じる。良い悪いの判断は横に置くとして、川田義雄や坊屋三郎の築き上げてきた「ボーイズ・ボードヴィル芸」は終わった、とも感じる。
『アサヒグラフ』1995年12月1日号表紙。「ボーイズ バラエティ協会」創立30周年記念公演の行われたこの年、新宿末広亭の客席に降りて撮影された一枚。写真向かって左が灘 康次、右が坊屋三郎(1910-2002)。やはり1995年頃に、わたしも三宅坂の国立演芸場で行われた同協会の公演でモダンカンカンはじめ協会のメンバー多数をバックにした坊屋のウォッシュボード芸を聴いたことがある。今では、それも大切な記憶となっている。雑誌内のインタビュー記事によると、ギターはギブソンのスーパー400CESで、1960年代前半に70数万円で買ったという。交換レートが1ドル360円で円が安い時代だったが、それを考えあわせても、大卒初任給が数万円の時なので現在の通貨価値にすると300万円位になるだろう。それを、惜しげもなく舞台で使うもの芸人の意地のようなものだろうか・・合掌・・。