医師であり作家。坊主であり作家。という最近の芥川賞作家たち。
今年は、無職で作家。でしたが。
先日見た『阿弥陀堂便り』はよくある癒しがテーマのなんでも
ない映画だと私は感じました。
自殺者が、年間3万人を超え、引きこもりやニートと呼ばれるやるべきものが
見出せない人たち。社会がやんでいる。人々の心が病んでいると、騒がれて
いますが、それらを題材にした映画や本が話題になるたび、結局問題の本質
や現実に潜む真実には触れていないと感じます。
まず、ネットにあふれる阿弥陀堂便りの感想を読んでみるとおおむね自然に
癒されていくお話で、自分も癒されていくというものが多いです。
私は、数年前まではものの真実を突き詰めて考えることに意義を感じていました。
たとえば自然にしても絶対にぶれない唯一無二の真実があり、それにより世の中
周っていてるものと信じていました。ですから、何かをやるにもとことん真実を
感じ、最も良いものを求めていました。それは趣味の世界でも、自分の人生でも
そうです。
しかし、ここ数年は人それぞれ考えることがあり人それぞれの思いがあるので
感じ方も人により違うというあたりまえのことに気が付いてもいました。
それは、中国の荘子の言葉を引くまでもなく、その思想を解説するまでも
ないことです。
人それぞれ感じることがあり、人それぞれの考え方を持っていたとしても
唯一無二の真理は存在すると考える人がほとんどだと思います。私は、
最近それを知っている人とそれを全然その存在すら気づかない人の差を
考えるようになったのです。つまりは、どちらの人生もたいした違いはなく
時は過ぎているのです。
まったくものを考えない人は幸せだと言う人がいます。自分が考えたり日々
悩んだりする苦労を知らないからという意味と、自分には真理を求める
知性があるという誇示と両方の意味で語られるようです。
さて、阿弥陀堂便りには自然と癒しというテーマだけでしょうか。
まったく何も考えず、何も求めず生きている市井の人々の感性の中に日々に
真理や普遍の真実があるとするのが、まさに阿弥陀堂便りです。
阿弥陀堂に暮らす93歳も生きているおばあさんの言葉と、あくせく日々生きている
我々と両方の考える人と何も考えもしない人に対比させたときにやはり見えてくるものが
あるのです。これは何も考えなくても生きていけるとか、自然の中で暮らしていけば
長生きできるといった単純な話ではありません。
今年は、無職で作家。でしたが。
先日見た『阿弥陀堂便り』はよくある癒しがテーマのなんでも
ない映画だと私は感じました。
自殺者が、年間3万人を超え、引きこもりやニートと呼ばれるやるべきものが
見出せない人たち。社会がやんでいる。人々の心が病んでいると、騒がれて
いますが、それらを題材にした映画や本が話題になるたび、結局問題の本質
や現実に潜む真実には触れていないと感じます。
まず、ネットにあふれる阿弥陀堂便りの感想を読んでみるとおおむね自然に
癒されていくお話で、自分も癒されていくというものが多いです。
私は、数年前まではものの真実を突き詰めて考えることに意義を感じていました。
たとえば自然にしても絶対にぶれない唯一無二の真実があり、それにより世の中
周っていてるものと信じていました。ですから、何かをやるにもとことん真実を
感じ、最も良いものを求めていました。それは趣味の世界でも、自分の人生でも
そうです。
しかし、ここ数年は人それぞれ考えることがあり人それぞれの思いがあるので
感じ方も人により違うというあたりまえのことに気が付いてもいました。
それは、中国の荘子の言葉を引くまでもなく、その思想を解説するまでも
ないことです。
人それぞれ感じることがあり、人それぞれの考え方を持っていたとしても
唯一無二の真理は存在すると考える人がほとんどだと思います。私は、
最近それを知っている人とそれを全然その存在すら気づかない人の差を
考えるようになったのです。つまりは、どちらの人生もたいした違いはなく
時は過ぎているのです。
まったくものを考えない人は幸せだと言う人がいます。自分が考えたり日々
悩んだりする苦労を知らないからという意味と、自分には真理を求める
知性があるという誇示と両方の意味で語られるようです。
さて、阿弥陀堂便りには自然と癒しというテーマだけでしょうか。
まったく何も考えず、何も求めず生きている市井の人々の感性の中に日々に
真理や普遍の真実があるとするのが、まさに阿弥陀堂便りです。
阿弥陀堂に暮らす93歳も生きているおばあさんの言葉と、あくせく日々生きている
我々と両方の考える人と何も考えもしない人に対比させたときにやはり見えてくるものが
あるのです。これは何も考えなくても生きていけるとか、自然の中で暮らしていけば
長生きできるといった単純な話ではありません。