季節と珈琲を語るこのブログ。
そして、日々の移ろいと人生の意味などを考えるのですが、ときに
すごい発見をしたような悟りに近づいたような気付きをしたかと思えば
そんなことかとそれがまたつまらないことに思えたりと人生の進歩などは
人のなしてきた歩みからしたらなんとつつましやかなものかと思う日々です。
これは個人の思惑や幸福追求などでは決してなしえない進歩を人類は果たしており、
AIの発展でまたそれが劇的に変わろうとしているときに、ふと思うのは科学がこれだけ
発達してきたいろいろの知識の集積もこの宇宙の成り立ちからしたらほんの望遠鏡をのぞいた
数億キロの事しか知りえていないのです。それも我々の構成している物質などは宇宙の全体
からしたらほんの4%ほどであとはダークエネルギー、だとかダークマターだとか
だといいいます。それもつい最近言われ出したことで、少し前の宇宙論の本では
ボイドという空白部分が延々と続くのが宇宙で、星があるところは固まってあると
いわれていました。
その宇宙もものすごい速度で膨張しており、そもそもビックバンからそれは始まっていて
遠くの宇宙ほど早く膨張しているといいます。それが解ったからといって我々の生活が明日から
どう変わるともいうものでもないのですが、数千年という知の歴史の成果と見ればこれは
科学的知見が人類にとってもっと明るいものをもたらすのではないかという希望のようにも
感じるし、反面同じ地球上に昔ながらの採集狩猟生活をする人々もいるのです。
そういう人が人類の知恵の恩恵を受けていないと言い切れるでしょうか。時間やお金に使われる
ようにあくせくと働かされて昔より長生きする人生が本当に幸せなのか、平原やジャングルに生き
明日のことなど気に病むこともなく明日の食糧がどうなるかなども気にしない人達とどれだけの差が
あるのかとどうしても考えてしまいます。
ネットでつながり、AIにより様々な恩恵を受け、やがて人間の職業にも自動化がとってかわられ多くの
人の職を奪うだろうと予測される今、それにAIは人類より賢くなり、人間にとってかわる存在になると
予測する人が多くいます。一方私もそうですが、人間の意識とか人格の核になっているものは電子化で
作り出せるものだろうかという疑問を呈する人もいます。
それのひとつに物を創造するという行為なのですが、実は自動作曲プログラムとかAIによる小説など
創作活動にもAIの進出はすすんでいます。
そうするとすぐにロボットによる支配がはじまるとかSF的映画や物語が溢れるわけですが、
そんな科学万能な社会のはずなのに実際にはまだ超自然の事を信じていたり、なにかと神や
仏とてをあわせるのが人類です。
なぜこんなことを書いているかといいますと、よく音楽家の人の発言の中でバッハが音楽的になしたこと
とは考えられる音楽理論とか作曲理論をすべてやって見せてくれてもはや彼を越えていくことはないのでは
という事を見たり聞いたりします。しかし、今でも作曲家の人はいて、映画やCMなど常に新しい音楽を必要と
して日々曲は作られています。
20世紀には前衛芸術が一般人には理解不能なものを美の象徴としその後どう変化していくのか全く見えない
具象と抽象と混在するものとなっています。
思想的にも文学的にも何か表そうとするともうすでにそういう考え方はあったという事はあり、知の集積と
いう進歩はもはやないのかという思いに捉われるのです。しかし、機械にない発想は今後もあるでしょうし、
発見や思想の発展もAIのディープラーニングの力を借りてなされて行くはずです。そうすると人間にしか
出来ないこともやがてクローズアップされそれはそれでまた新たな地平につながるのではないでしょうか。
今月の季節のブレンドは『百夏』です。
いつもなら『夕焼け』でこれからの秩父の夕焼けは実に見事で夕日の落ちる様をしばらくみとれてしまう
季節になると言い続けていたのです。
先日NHKで不思議な番組をやっていてそれはドロミテのエンロサディラという現象を追うというもので
つまりこれは日本で言うところの赤富士であり、昔から絵画主題になっています。
登山用語のようになにかと横文字でアーベントロートとかモルゲントロートとかいいますがみんな同じ
太陽が低いところにいる光のショーです。
昭和の人はそんな当たり前のことをはっきりと大声で言ってしまうので山頭火とか永六輔とか夕焼けを
追いそれだけの番組とか旅をしてきました。しかし、いつの間にかそんな当たり前のことをはっきりと
いうのはカッコ悪いとされ夕焼けを愛でる人や月の美しさを言う人も珍しくなりました。
わたしもずっと夕焼けの美しさを言い募ってきたのですが、あれこれを忘れていたというのが夕映えです。
二階のベランダから見る夕焼けを見ている我々は実はその光に照らされて真っ赤に染まっているのです。
その様をその美しさを言い表さなくていいのかと先日思ったらすぐにそれは夕映えだなと言葉があることに
気付き、そんな名前のスナックが秩父にあったなあと思いました。羊山に夕映え用のスクリーンを
張り、夕映えスポットにしたらいいのではないかと考えたりしました。月を見るために色々と造園は
されても夕映えの舞台というのはないぞと少し興奮しました。
杉本博司の江之浦測候所は冬至や春分の日、などの特異点を作庭に盛り込み能舞台などをつくりましたが、
それはあまり美術的ではないことに気が付きます。それは確かに宇宙の中の自分を確認する手法ではあり、
ストーンヘッジの古代の遺跡にも見られるものですが、それは宇宙の中の自分を確認するより自然の循環に
囚われたことを意味していることになると思います。
自然の移ろいの中で自由にいるのに月を見る舞台や夕映えを楽しむ舞台こそが本当は美の作庭なのではと
感じたのです。
夕焼けの美しさをただ眺めるのでなく、その赤い日を全身に浴びて自然の一部になった感覚を味わってみる
そんな舞台を秩父に作ればよいのでは。そんな考えがあれば芝桜の丘なんてものにはならなかったでしょう。
もっと生活と美が混然とあり、自然の移ろいがすべて映えるそんな生活の舞台を築いてこそなのだと
この真夏は考えるのでした。これも百夏のテーマである基本的な珈琲ブレンドの味につながります。
秩父の夕日を受けに秩父に来てみませんか。あなた自身がエンロサディラになるのです。
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