津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■道程一里には桜を植樹

2025-03-30 07:44:12 | 史料

 昭和30年代末期の熊本大学では「藩政史料演習」として、学生諸氏が解読した史料の内、「御印之物」という文書を「史料細川家」として刊行している。
忠利から綱利までの三代の文書で、奉行その他の伺に対して藩主が「御印」して承認・指示した決済文書群である。
一紙文書で時代やその内容も、一定の規律は無く、内容も多岐にわたっていて面白い。

 今桜の時期、寛永三年の記事をご紹介しよう。

     りょう分道のノリ志れ丁にて遠近有之間三十六丁ニ念を入 よりつめ志るしニ両わきニ桜をうへ候へと可申付候
     中津御くらのふのはたけなどにあたり候所可有之候 又其旨得御意候はてハ所之者同心申まじく候間 これハ此方
     ゟ尋させ可申候 以上
       (張紙)「寛永三年二月十七日」
                    奉行中

 領内の街道の里程が測量などによって確かなものとなってきたのだろう、しかしながら「一里の塚」などといった確かなものがないため、ちゃんとした道程三十六丁(一里)の位置の両側に「桜」を植えるようにとの奉行からの指示である。
小倉~中津(三斎居城)間(約52㌔)ではないかと推測するが如何だろうか。中津のはたけに桜の苗木があったのだろう。
案外三斎の指示かもしれない。そんなことを思いながらこの文章を読むと大変興味深いし、その「一里桜」の跡は現在どうなっているのかと考えるとこちらも興味深い。

 

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■忠利と叔父孝之、花に寄せて、そして仲違い

2025-03-25 06:50:46 | 史料

         遠山桜         忠利君
     とを山の霞につゝむ桜花長閑にもふけ春の朝風

         惜花           孝之主
     散花を惜心もおしなへて豊なる世の程そしらるゝ

 寛永三年三月廿五日、小倉城の本丸で花見の宴が催された折の忠利と叔父・孝之の歌である。(綿考輯録・忠利公--上、p127)
後には仲違いする歳が一つしか違わぬ孝之(休斎)と甥である藩主・忠利の蜜月の時代の話である。
孝之は幽齋公の四男で嫡兄の忠興公とは22の年の差がある。幽齋の隠居料の名目で豊前香春城(25,000石)を預かったが一国一城令により退身、京都へ出て幽居、甥である忠利から三百人扶持をもらっている。
幽齋が自分の隠居領を相続させようとしているようだが、実行されたようには見えない。

 二人の関係が悪化すると忠利は、「我等おぢに休斎と申者御座候、不聞事候而中をたかい申候」と公言をはばからない。
熊本入国後も勝手な振る舞いが多く、忠利の頭を悩ませている。
孝之は熊本に入る事も、禄を忠利から受ける事さえ嫌い、忠興の居る八代で過ごしたようだ。
忠利は忠興に相談を持ちかけ、忠興の五男・立允(宇土藩祖)から扶持をもらうのはどうかとさえ申し出ている。

正保四年七月七日卒、享年63。京都の細川家墓所、大徳寺・高桐院に眠る。女子・小万は家臣・小笠原民部長之室。

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■古文書の終活-3

2025-02-20 08:20:24 | 史料

          

 熊本城内に「熊本城城郭模型」が展示してあるが、熊本城や時習館などは資料が残されているが、侍屋敷などの資料はなくそのほとんどは真実とは程遠い想像上の代物である。
そんな中、写真の「三卿家老米田(長岡監物)邸」だけは平面図が残されていて、熊本大学の伊東教授の監修のもとにこの模型に作り直されている。
その許になったのがかってブログでご紹介した「二ノ丸・米田御屋敷絵図について」に掲載している絵図(左写真)である。
恥ずかしながら所有者として私の名前をご紹介いただいている。
私がこの絵図を入した時期、別途熊本大学図書館にやや小ぶりなものが寄付をされたことが、地元新聞に報道された。
出処は一緒で二件に分けてヤフオクに出品されたものと思われる。

           2018年10月2日の熊本日日新聞

この様ないきさつもあり、この絵図をどこに納めようかと悩んでいる。
熊本大学図書館に先述の絵図がそんざいしているから、この絵図は熊本城に展示していただくのが良いのかもしれない。
何とも悩ましい限りではある。

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■制度化前の忠興・忠利の参勤

2025-02-18 07:01:30 | 史料

  一年前「我が家の二代目さん」で、「我が家の2代目さんが活躍したのは綱利公の時代である。参勤にも4~5度御供をしているし、代参を命じられたり中々頑張っている。」と書いた。

 細川家には忠興公の小倉時代から齊護公にいたる「御代々様御参勤御帰国」が残されていて、その日付などの詳細が一目瞭然である。二代目の記録と照らし合わせてみると、まさしく間違いない。

 但し、江戸幕府により参勤交代が制度化されたのは、忠利の肥後封襲の二年後の寛永11年の「武家諸法度」の第二条「大名小名、在江戸交替相定むるところなり、毎歳夏四月中、参勤致すべし」だから、それ以前の参勤の記録はそれぞれの個人の自由裁量もしくは幕府からの何らかの指示によるものである。
しかし、日帳等を見るとやはり「参勤」という言葉が記されてある。
とくに忠興の寛永11年前の参勤については、一つ/\その内容の詳細を辿ると、忠興の幕府に対する細やかな配慮が伺える。

参勤の要がない隠居(元和9年)後の参勤については、幕府もその必要がないことを再三諭している。

            御代々様御参勤御帰国 (1) 忠興公
            御代々様御参勤御帰国 (2) 忠利公

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■私蔵古文書の終活

2025-02-14 07:32:21 | 史料

 ヤフオクで買いあつめたもの、その他私蔵している古文書類をしかるべきところに納めようと準備を始めた。
随分散財もしたが古いもので20年、新しいものは昨年購入のものがあるが、書状などは唯一無二の品で、永青文庫にもないものと自負している。
私蔵が死蔵になっては、私が居なくなった後はどうなるか判らないから、元気なうちに落ち着く先を見つけようという思いである。
手元には写真でも撮っておけば事足りる。あまり執着心はない。

 ■まずは「定彦さん」関係の文書である。過去に何度か触れたが、宇土細川家の7代目立礼(本家に入り10代・齊茲)の末弟・左膳が
  朽木家に養子(興章)として入ったが、病気の爲離縁し宇土家へ戻った。
  その嫡子が朽木定彦で朽木家ではこれを順養子にしようとしているが、定彦本人はこれを拒み、結果として細川刑部家の6代・興形
 (細川宜紀七男)の惣領興度を初代として興した新別家の二代目となっている。
  この事柄は相当もめたらしく、これに関する資料を熊本地震後ヤフオクに出品された際、落札入手したものである。
  宇土細川家と刑部家は、宇土細川家の祖・立孝と刑部家の祖・興孝の生母が共に清田氏(吉)であり、そんなことも影響しているの
  かもしれない。さてそんな定彦さんに関係する文書が以下の如くである。これを精読すればその原因も判明するのではないかと思う
  のだが、完読には至らないままである。

    1、八代朽木家取扱之扣写 135㎜×200㎜冊子 14葉 一点
    1、宛先不明 朽木内匠書状  一点
    1、三淵永次郎・松井典禮・坂崎忠左衛門宛  長岡監物書状  一点
    1、宛名不明 くつき定彦書状(朱色紙)  一点
    1、 同      同   ( 同 )  一点
    1、長岡與三郎家「先祖附」    一点

 ■今一つは宇土細川家の「銀三百貫」の借銀証文である。安永五年(1776)21名の藩士の署名・花押が付されている珍しいものである。
  かって、三回にわたりご紹介した。
       ■宇土細川家借銀に関する一札
       ■宇土細川家借銀に関する一札(2)
       ■宇土細川家借銀に関する一札(3)

この二種類7つの共通するところは「宇土細川家」に関わる資料である。
まずは、教育委員会にでもご連絡して、受け入れが可能かどうかをお聞きせねばならぬ。
「読み下し」が完了しておらずいささか心残りはあるが、先様で研究の材料に成るのではないかとの思いがあっての事である。
いつか「宇土市史」などに成果が発表されればこれにこしたことはない。
   

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■本能寺からお玉ヶ池へ ~その㉑~

2024-11-09 16:43:52 | 史料

  

  

     

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■宮本武蔵の300石は堪忍分

2024-09-26 08:42:10 | 史料

宮本武蔵の知行に係るいくつかの資料が残されている。

 一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
   寛永拾八年九月廿六日 御印
                  奉行中

 この年の三月十七日に忠利が死去しているから、この指示書は光尚によるものである。
 前年忠利は以下のような指示書を発している。これをみると光尚は忠利の意向を踏襲していることが判る。

 一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間佐渡さしづ次第ニ可相渡候
   以上
     寛永拾七年十二月五日 御印
                  奉行中
 又十九年には同様の指示所が発せられているが、「堪忍分の御合力米」と申すようにと伝えよと指示がある。
 「合力米」と「堪忍分之御合力米」との違いがまだ呑み込めないでいるが、合力米(ごうりょくまい)とは「施し与える」米であるから、より穏やかな「堪忍分」の表現をするようにとの気配りであであろうか。

   宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
   寛永拾九年十一月八日 御印
                   奉行中
    宮本武蔵ニハ御米被遣候時御合力米と不申唯堪忍分之
    御合力米として被遣候由可申渡旨奉七郎右衛門  

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■「手をついての挨拶」

2024-06-11 07:58:59 | 史料

    重賢公についての逸話である。

     江戸ゟ御下國の刻岡崎の入口に廣き所茶屋有之候所に松平丹波守様御家来乗物引馬にて下馬仕居
  被申候 拙者参候て其儘御召候へと申歸候得は唯今の者は家老と見へ申候 念を入れていねいにじぎ
    候や先刻丹後(ママ)守殿供の侍共四五人下馬仕候刻何も手を土に付居申候 我は手を付不申候て
    てじぎ仕候 定て乗物にさわると存候て手に土つき可申と存たると思召候 併御意にて手よこれ申は
    不苦候侍の手を土につき居候時は何時も我も手をつき候てじぎ仕候へと被仰聞候 ケ様の事も能々
    心付可被申候 如御意常に手よこれ不申様にと覺悟仕候事能く御覧被成候て右之通に被仰聞候と奉
    存候

 江戸からお下国の際、岡崎の入り口の広い所に茶屋がある場所に、松平丹波守様のご家来が乗り馬から下馬し居られる。
 私参りて挨拶をして帰ると、殿様は「相手は家老であろう、丁寧に辞儀したか」との仰せである。
 丹波守の家来衆は手をついておられたが、自分は殿様のお駕籠に手を触れることもあるので手をつかなかった、と申しあげると
 相手が手をついて居れば、こちらも手をつくのが当然であるとの御意である。私の振る舞いを良くご覧になられておられた。

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■八代朽木家取扱之扣写(4-1)

2024-06-07 08:17:04 | 史料

 先にご案内の通り、「八代朽木家取扱之扣写」は過去3回に私ご紹介してきましたので、今回は4回目という事でご紹介いたします。
この文書の主は、朽木家8代朽木昭久で八代松井家の8代・営之の末子ですから、朽木家の血脈からすると昭久自らは離れているので、義兄で宇土家へ帰った昭信の嫡子・定彦を順養子として男系血脈を保ちたいという思いがあふれているようです。
しかし定彦は朽木家を離れどこか養子に出たいと望んでいるようです。
細川幽齋公の実家・三淵家に繋がる朽木家の男系血脈をつなぎたいと考える、8代・昭久の真摯な思いがつづられています。

   

         下書
 此日者御委細之御返書被成下夫々奉拝見候
 誠厚思召候処乍憚御尤御儀奉存候併
 順養子儀ハ何ゟ難奉任         
 尊意思召と奉背猶申上候処重畳之私身分
 に而ハ不幸両罪ニ茂相當申候得共此節之儀ハ
 御張上居候ゟ御内意被 仰付候次第御座
 候上私儀茂此間申上候通去年以来能々
 相老申候處先祖之血脈と申乍恐
 少将様江茂奉對申候而者是非跡を譲不申
 候而者私心底何分難相濟其上信紀儀ハ
 先祖ゟ之血脈女系ニ茂無御座候得者前角先祖
 之血脈之定彦殿幸此家ニ被居候事ニ候得ハ
 是非是ニ跡を譲譲申候方先祖江對し候而ハ
 相當可申哉と乍憚奉存候
 守節院様ゟ茂家督之処御断被遊度
 被思召上候旨御書残被置候御返書ニ
 相見候得共是者乍憚強■断被為成候      ■=虫食い 御ヵ

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■複雑な「熊本藩表彰規定」

2024-05-31 06:46:37 | 史料

 

 片付けものの中から以前「熊本藩表彰規定」という一枚資料を見付けだしている。
身分を12段階に分け、それが一等から六等に分けられているから72種に細分されている。
最高位「1の一等」は、「紋付裏付上下一具・同 長上下一具・同 半上下一具・同 時服一」と云ったものだが、最下位に当たる「12の六等」になると「鳥目300文」とある。
非常に興味深いのは、「4」医師・茶道等のくくりになると、たとえば「4の三等」になると、「紋付時服一+銀二枚」とお金が添えられているし、「4の五等」になると「白銀三枚」といった具合である。
添えられるものも多様で先の「銀二枚」「白銀三枚」に加え、「白銀二枚」「同一枚」「銀二枚」「金子三百疋」「同弐百疋」「同百疋」「銀五両」そして「鳥目」が「壱貫文」から「八百文」「七百文」「六百文」「五百文」そして最下位の「三百文」といった具合である。

 実はこの一枚ものの資料の出所がどこなのか判らないままであったのだが、これが先に古書籍店から購入した「熊本歴研・史叢」の第8号、先にご紹介した蓑田勝彦氏の論考「江戸後期熊本藩における通貨制度-藩札の流通-」に掲載されたものであった。
表の左の算用数字並びに朱線は筆者が書き加えたものである。
朱線部分の( )書は、蓑田先生が、先にご紹介した「白銀」「疋」等を銭(貫文)に換算して記入されたものである。

「白銀」は銀43匁の小判状のもので、贈答用に白紙に包まれて「白銀〇両」と書かれている。
「疋」とは「金・1分(1/4両)=100疋」と規定されているから、400疋が1両だと理解している。
「銭一疋」というものもありこちらは「=10文」だという。
これについては、私はまだよく理解ができていない。

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■綱利周辺に対する種々の諫言

2024-05-14 06:51:00 | 史料

 「この事件は真実か」を二度にわたってご紹介したが、私は「真実だろう」と理解している。
光尚公の死去後の大国・肥後藩を誰にゆだねるのかという幕府内の思惑は、幼い六丸をもって継承せしめようとする細川本家家臣団との思いとはその考えにいささかのずれがあったことが伺える。
しかし、必死の交渉は「幼い六丸による継承」を勝ちとった。そんな中で起きた不幸な事件であった。

 54万石という大藩をわずか8歳で襲封した六丸が、初めて御暇をいただき帰国するのは寛文元年(1661)のことであり、12年間を国許から離れ江戸詰めの家臣に取り巻かれて成長した。
生母・清高院とともにその派手な生活ぶりは国許の重臣たちの眉をひそめさせた。
その結果として、松井興長の綱利や清高院に対する諫言や、田中左兵衛の諫言、また清高院御付の女性に対する服装に対する規定など枚挙にいとまがない。
松井興長の諫言については過去に御紹介した。

松井興長・諫言 1-1  

松井興長・諫言 1-2  

松井興長・諫言 2

田中左兵衛封事-1

田中左兵衛封事-2

田中左兵衛封事-3

田中左兵衛封事-4

田中左兵衛封事-5

 生母・清高院に対する諫言については、刊本で紹介されたことはないように思うが、これに対する返書は紹介されたものがある。
また清高院御付の女性たちの服装についての申し付けなどの書(こちらは古文書写)などが残されている。
こちらもご紹介しようと思っている。

 

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■この事件は真実か・そのニ

2024-05-13 06:41:14 | 史料

 先日ご紹介した、宇土支藩初代の行孝が牢人を使って、国元から江戸へ下ってきた家老の福知平右衛門を殺害したという話は
まさに秘事である。
この事は、宇土支藩は兎も角、本藩でも人口に膾炙することはなかったであろう。重賢代の総奉行・堀平太左衛門が書き記した
「堀家秘書」に書き残されたという。上妻文庫「梅原丹七・福知平右衛門一件畧記」より該当項をご紹介する。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

一此砌宇土丹後守様御手寄之御老中江御秘事之筋有之候 肥後半国御分領可相成 六丸様御後見ニ可被仰出大形御手遣出来寄候由
 早打飛脚を以宇土到来彼御家老を初御役人中会所江出勤右之御左右承知仕何も恐悦至極歓候處 福地平右衛門ハ扨々是ハ大切至
 極之出来ニ而御家之滅亡此節ニ極り候 程次第ニて御本家ニも可被為障歟 侫姦之奴原上を奉冥候条不届き千万拙者直ニ奉諫候由
 然レ共曽て御承引無之小屋ニ引取居候様ニ被仰付候ニ付不得止引退キ翌日尚又出勤押而御目見奉願如前日強て御諫申上候処御立
 腹ニ而御手打被仰付候由
     但一説ニは翌日御呼出ニ而御手打被仰付候共申候 殺候人は剣術者 名を失念 兼々御意ニ叶御座之御側ニ罷在シ由其説も御
     差図ニ而右之浪人切候由初太刀ハ切損シニ刀ニ切留候由也

 右之事御母公様被聞召以之外逆鱗ニ而御目通不被成様ニと 被仰一年餘御對面不被成由 左候而丹後守様従 公儀被為召候ニ付而
 御出仕之御支度ニ而御式臺迄御出被成候處平右衛門が亡霊切害を仰付候節之通ニ而屹ト御式臺之真中御通筋ニ座着罷在候を被成
 御覧候而忽御気絶候様ニ被為見御出仕相止ミ候而其後御気分不被勝レ終ニ御出仕無之由彼方ニ而ハ極々秘事乍ラ如何して式部殿
 被成御聞候歟其節段々御手前之御老中様江被仰達候とも有之 八代ニは委キ御記録も有之由咄
申候 左相当而其以後御末家ゟ御代替
 ニは奉對御本家隔意を企申間敷段八代江誓紙を被有御取之由承り傳候 勿論此儀者古老咄傳ニ而虚実之儀は存不申候
     但福知屋敷其後他人居住仕事難成とて二十年迄者圍をチンチク竹垣にして明屋敷ニなり居申候
一近年宇土御館ニスクナ彦之神を御勧請被成祭日ニは町在之者参詣被成御免由農証人も多参詣仕よし此相殿ニ福地を御祝被成由宇土
 町邊之下説之由ニ而是以虚実は存不申候事
 月翁様之御時芦田瀬兵衛二男三五兵衛と申者を福永と改名被仰付福永平太夫と申候 外ニ今一人地下何某と改名被仰付両人共百五
 拾石完ニ而(江戸・宇土ト分ヶ)新規ニ被召出候 福地名字をニッニ分其跡を成御立候思召之由ニ候事
 丹後守代ニ福地之霊を神ニ祝江戸日本榎下屋敷内ニ小社を建立霊神宮(社)と祟申候 宇土ニは無之候 祭日六月三日也
一福地之名跡壱人ハ柴崎勘右衛門二男ニ而地本常右衛門と申候 江戸・宇土ニ分相建申候 瀬兵衛・勘右衛門共ニ家老役也 以上

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■この事件は真実か・・?

2024-05-12 09:24:09 | 史料

  このようなコピーが顔を出した。
慶安三年綱利の遺領相続前、幕府内に於いては、宇土細川家に半国を相続させれという案が存在したらしい。
宇土支藩においては国許へ報告、家老福知平左衛門が急きょ江戸へ下り、宗家に対し恐れ多いこととして藩主をいさめたために殺害
されたという話が残る。その一端をうかがわせる史料である。   
 
          

           此書不審之儀共左ニ記ス 但元ハ付紙之由
       一丹後守行孝丑ノ年ニテ慶安三年十四歳ニ當ル 未タ御貢献可仕御年
        齢ニ無之 公儀江秘事之手遣等可有之時節ニ無御座候 殊更
        綱利公御代ニ至候而ハ御本末之御間も 御前代より者振合宜敷候
        左候得者手前より企候悪心ニてハ無之酒井公之御内意にても
        起り候事にても候哉之事
          圓寂湛相信士 慶安三庚寅年六月三日 俗名福知平左衛門勝定
            墓所ハ宇土泰雲寺ニ在り
       一綱利公慶安三年寅四月十八日御遺領御相續被蒙仰候 福知
        命日者同年六月三日
          右之条々不審ニ付書付入置申候以上
            己四月          井戸一水
                           井戸一水ハ井戸亀右衛門
                                           子孫ニ而宇土御家司
                                           代々勤候井戸ト見へ候
          以上朱書宮村氏雑撰録巻八ヨリ写加フ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 この話には前段があり、「梅原丹七・福知平右衛門一件略記」という記録が残されている。

そのうちのこの事件にかかわる福知平右衛門の件については過去ご紹介したように思うが、ブログ内検索をしても見つからない。
又資料そのものが現況行方知れずであるので、見つかり次第ご報告しようと思う。
蛇足ながら、井戸一水という署名があるが、通常は「井門」と記されていることが多い苗字で、なかには「いかど」と読まれる方がおられるが、ここにあるように「いど」が本当であることを記しておきたい。

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■生田又助覺書(8-了)

2024-04-23 08:37:38 | 史料

一、八月廿三日板倉修理切腹之事 仮付先立無刀麻上下
           留守居       岩崎彦右衛門     注:以下お預けの水野監物御家来衆
         白張屏風建廻場所致   奥山三平
         切腹相濟候所江仕廻致候 大武勘次
                     三崎太右衛門
                     中林又助
           諸立用人      山田太治馬
           給人        五十幡万右衛門
           大小姓       山路兵太夫
         切腹いたし場所江罷出節 鈴木又八
         付添出る無刀麻上下   鈴木清右衛門
               股立取る  岩崎小弥太
                     大沢宇内
         三方脇差持出ル中小姓  大内伴蔵
         介錯仕候        吉田弥次右衛門
       刀を持脇指を差麻上下中小姓 平崎文太
       迦罷焼香■持出ル袴着
  
   監物様御宅江御越被仰渡       水野對馬守様
                     土屋美濃守様
                     橋本阿波守様
                     八木十三郎様
                     御徒目附四人
                     御小目附二人
  右之通之事
   但板倉修理葬候寺は駒込乗物丁永西寺と申候 禅宗之由尤板倉寺ニ而も無之水野監物様御寺ニ而勿論無之監物様御家来之
   存寄候寺之由

一、板倉修理屋敷御預り          花房近江守
                     堀田兵部
  右両人江御預ヶ朝夕は食物之御両人之御方ゟ焼出シ其外小屋ニ而は湯茶煙草の火も置不申ニ一切武具刃物取上ヶ申候由水野
  監物様江板倉修理殿御預被成候と覚書之由御屋敷内ゟ有之候写之置候之事
一、右ニ付刀番之者被申付右之趣急度屋敷江申遣留守居之者 御城江呼寄即刻留守居罷出請取之人数 御城江差越左之通
             (中略)
  乗物ハ常ゟ丈夫成錠前有之青網持参刀箱壱錠前有之鋏箱錠係ル
  右通御城江請取ニ遣ス 平川口ゟ入組右之外ニ傍足軽餘斗ニ遣ス是ハ扣在候
一、修理殿事大目附御立合後御渡被成候乗物ニ乗せす候 細懸ヶ平川口ゟ出シ御徒目附四人御小人目附十四人付添ヒ差越候乗物ニ
  錠おろし
一、此方ゟ持参之刀箱ニ御■物を入右御徒目附被参御屋敷ニ而御■物請取尤請取候段御拵等委細ニ書付受取書御徒目附ニ相渡候
一、途中前後御留守居用人物頭大目附給人徒士先江立中小姓左右ニ囲ム
一、御預人有之候段先達而屋敷を申越候ニ付差急キ小書院之内四方板張ニ大竹打入口は二重ニ一口手水前雪隠ハ囲之脇
一、昼夜番人は頭一人大目附一人横目一人給人二人中小姓二人其外惣外■足軽番人不知致御預人有之住近承之早速呉脇前江申付
  御差遣御衣類夜具共ニ出来有寄置 
一、公儀御伺之上御食事等夜食一汁三菜此間ニ度ニ御菓子出箸は長サ三寸
一、右御食事度毎々如何様御菓子如何程致参候と也儀扣ニ置
一、御預人有之候内御登城其外御他行無之家中屋敷之者用事門外ニ而承置賣人門内ニ不入
一、修理殿元取之結髪ゟ御切候と相見候 御年二十二歳
一、御刀ハ無銘安き物弐尺三寸脇差ハ一尺七寸丹波守吉道也
一、御鼻紙袋印籠有之
一、御懐中ニ三寸程之鏡奉御紙ニ包ミ有之候
一、十五日之暁監物様御逢被成候
一、切腹被 仰付候哉と仕度等も出来有之候由以上
    夘八月十五日
  右之通不慥候得共写之置候 

              (以下御坊主衆の処分などについては略す)
                     (了) 

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■生田又助覺書・番外編 板倉氏

2024-04-21 07:30:13 | 史料

               家紋
 細川宗孝を殿中で襲い死に至らしめた旗本6,000石・板倉修理(勝該)、その原因は乱心だとされるが一方では家紋がよく似ているが故に、
同族の佐渡守勝清(当時・若年寄)と間違えて切り付けたという話がある。

修理の病気(狂癇の質)などを理由隠居させ、勝清の庶子を跡継ぎに入れよういう話があったらしい。
一方氏家幹人氏著「旗本御家人・驚きの幕臣社会の真実」には、修理の屋敷が白金台の細川家下屋敷の隣のがけ下に位置し、大雨の時に汚水
が流れ込み浸水することがあり、これを恨みに思ったという確信犯的な理由を挙げている。

同書には写真が添えられているが3~4mの高低差が伺える。
氏家氏は人違い説より「恨み」説が真実に近いとされるが真実は闇の中である。
たしかに「分間江戸大絵図」を見ると細川家下屋敷の北側に「板クラ下ツケ」の書き込みがある。

 処でこの板倉氏、一族四家が大名として明治を迎えている名家である。
板倉修理(勝該)の系を遡ると三河深溝藩主・重昌に行きつくが、この人が天草島原の乱で討死したその人である。

          下総関宿      伊勢亀山    
   勝重――+――重宗――+――重郷――重常
       |      |  上野安中  陸奥泉     
       |      +――重形――重同――勝清
       |  三河深溝     下野烏山       
       +――重昌――+――重矩――+――重良
              |      | 武蔵岩槻 陸奥福島
              |      +――重種                                         
              | (旗本)
              +――重浮――勝丘――勝該(断絶)

 

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