宮本武蔵の知行に係るいくつかの資料が残されている。
一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
寛永拾八年九月廿六日 御印
奉行中
この年の三月十七日に忠利が死去しているから、この指示書は光尚によるものである。
前年忠利は以下のような指示書を発している。これをみると光尚は忠利の意向を踏襲していることが判る。
一、宮本武蔵ニ米三百石遣候間佐渡さしづ次第ニ可相渡候
以上
寛永拾七年十二月五日 御印
奉行中
又十九年には同様の指示所が発せられているが、「堪忍分の御合力米」と申すようにと伝えよと指示がある。
「合力米」と「堪忍分之御合力米」との違いがまだ呑み込めないでいるが、合力米(ごうりょくまい)とは「施し与える」米であるから、より穏やかな「堪忍分」の表現をするようにとの気配りであであろうか。
宮本武蔵ニ米三百石遣候間可相渡者也
寛永拾九年十一月八日 御印
奉行中
宮本武蔵ニハ御米被遣候時御合力米と不申唯堪忍分之
御合力米として被遣候由可申渡旨奉七郎右衛門
重賢公についての逸話である。
江戸ゟ御下國の刻岡崎の入口に廣き所茶屋有之候所に松平丹波守様御家来乗物引馬にて下馬仕居
被申候 拙者参候て其儘御召候へと申歸候得は唯今の者は家老と見へ申候 念を入れていねいにじぎ
候や先刻丹後(ママ)守殿供の侍共四五人下馬仕候刻何も手を土に付居申候 我は手を付不申候て
てじぎ仕候 定て乗物にさわると存候て手に土つき可申と存たると思召候 併御意にて手よこれ申は
不苦候侍の手を土につき居候時は何時も我も手をつき候てじぎ仕候へと被仰聞候 ケ様の事も能々
心付可被申候 如御意常に手よこれ不申様にと覺悟仕候事能く御覧被成候て右之通に被仰聞候と奉
存候
江戸からお下国の際、岡崎の入り口の広い所に茶屋がある場所に、松平丹波守様のご家来が乗り馬から下馬し居られる。
私参りて挨拶をして帰ると、殿様は「相手は家老であろう、丁寧に辞儀したか」との仰せである。
丹波守の家来衆は手をついておられたが、自分は殿様のお駕籠に手を触れることもあるので手をつかなかった、と申しあげると
相手が手をついて居れば、こちらも手をつくのが当然であるとの御意である。私の振る舞いを良くご覧になられておられた。
先にご案内の通り、「八代朽木家取扱之扣写」は過去3回に私ご紹介してきましたので、今回は4回目という事でご紹介いたします。
この文書の主は、朽木家8代朽木昭久で八代松井家の8代・営之の末子ですから、朽木家の血脈からすると昭久自らは離れているので、義兄で宇土家へ帰った昭信の嫡子・定彦を順養子として男系血脈を保ちたいという思いがあふれているようです。
しかし定彦は朽木家を離れどこか養子に出たいと望んでいるようです。
細川幽齋公の実家・三淵家に繋がる朽木家の男系血脈をつなぎたいと考える、8代・昭久の真摯な思いがつづられています。
下書
此日者御委細之御返書被成下夫々奉拝見候
誠厚思召候処乍憚御尤御儀奉存候併
順養子儀ハ何ゟ難奉任
尊意思召と奉背猶申上候処重畳之私身分
に而ハ不幸両罪ニ茂相當申候得共此節之儀ハ
御張上居候ゟ御内意被 仰付候次第御座
候上私儀茂此間申上候通去年以来能々
相老申候處先祖之血脈と申乍恐
少将様江茂奉對申候而者是非跡を譲不申
候而者私心底何分難相濟其上信紀儀ハ
先祖ゟ之血脈女系ニ茂無御座候得者前角先祖
之血脈之定彦殿幸此家ニ被居候事ニ候得ハ
是非是ニ跡を譲譲申候方先祖江對し候而ハ
相當可申哉と乍憚奉存候
守節院様ゟ茂家督之処御断被遊度
被思召上候旨御書残被置候御返書ニ
相見候得共是者乍憚強■断被為成候 ■=虫食い 御ヵ
片付けものの中から以前「熊本藩表彰規定」という一枚資料を見付けだしている。
身分を12段階に分け、それが一等から六等に分けられているから72種に細分されている。
最高位「1の一等」は、「紋付裏付上下一具・同 長上下一具・同 半上下一具・同 時服一」と云ったものだが、最下位に当たる「12の六等」になると「鳥目300文」とある。
非常に興味深いのは、「4」医師・茶道等のくくりになると、たとえば「4の三等」になると、「紋付時服一+銀二枚」とお金が添えられているし、「4の五等」になると「白銀三枚」といった具合である。
添えられるものも多様で先の「銀二枚」「白銀三枚」に加え、「白銀二枚」「同一枚」「銀二枚」「金子三百疋」「同弐百疋」「同百疋」「銀五両」そして「鳥目」が「壱貫文」から「八百文」「七百文」「六百文」「五百文」そして最下位の「三百文」といった具合である。
実はこの一枚ものの資料の出所がどこなのか判らないままであったのだが、これが先に古書籍店から購入した「熊本歴研・史叢」の第8号、先にご紹介した蓑田勝彦氏の論考「江戸後期熊本藩における通貨制度-藩札の流通-」に掲載されたものであった。
表の左の算用数字並びに朱線は筆者が書き加えたものである。
朱線部分の( )書は、蓑田先生が、先にご紹介した「白銀」「疋」等を銭(貫文)に換算して記入されたものである。
「白銀」は銀43匁の小判状のもので、贈答用に白紙に包まれて「白銀〇両」と書かれている。
「疋」とは「金・1分(1/4両)=100疋」と規定されているから、400疋が1両だと理解している。
「銭一疋」というものもありこちらは「=10文」だという。
これについては、私はまだよく理解ができていない。
「この事件は真実か」を二度にわたってご紹介したが、私は「真実だろう」と理解している。
光尚公の死去後の大国・肥後藩を誰にゆだねるのかという幕府内の思惑は、幼い六丸をもって継承せしめようとする細川本家家臣団との思いとはその考えにいささかのずれがあったことが伺える。
しかし、必死の交渉は「幼い六丸による継承」を勝ちとった。そんな中で起きた不幸な事件であった。
54万石という大藩をわずか8歳で襲封した六丸が、初めて御暇をいただき帰国するのは寛文元年(1661)のことであり、12年間を国許から離れ江戸詰めの家臣に取り巻かれて成長した。
生母・清高院とともにその派手な生活ぶりは国許の重臣たちの眉をひそめさせた。
その結果として、松井興長の綱利や清高院に対する諫言や、田中左兵衛の諫言、また清高院御付の女性に対する服装に対する規定など枚挙にいとまがない。
松井興長の諫言については過去に御紹介した。
松井興長・諫言 1-1
生母・清高院に対する諫言については、刊本で紹介されたことはないように思うが、これに対する返書は紹介されたものがある。
また清高院御付の女性たちの服装についての申し付けなどの書(こちらは古文書写)などが残されている。
こちらもご紹介しようと思っている。
先日ご紹介した、宇土支藩初代の行孝が牢人を使って、国元から江戸へ下ってきた家老の福知平右衛門を殺害したという話は
まさに秘事である。
この事は、宇土支藩は兎も角、本藩でも人口に膾炙することはなかったであろう。重賢代の総奉行・堀平太左衛門が書き記した
「堀家秘書」に書き残されたという。上妻文庫「梅原丹七・福知平右衛門一件畧記」より該当項をご紹介する。
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一此砌宇土丹後守様御手寄之御老中江御秘事之筋有之候 肥後半国御分領可相成 六丸様御後見ニ可被仰出大形御手遣出来寄候由
早打飛脚を以宇土到来彼御家老を初御役人中会所江出勤右之御左右承知仕何も恐悦至極歓候處 福地平右衛門ハ扨々是ハ大切至
極之出来ニ而御家之滅亡此節ニ極り候 程次第ニて御本家ニも可被為障歟 侫姦之奴原上を奉冥候条不届き千万拙者直ニ奉諫候由
然レ共曽て御承引無之小屋ニ引取居候様ニ被仰付候ニ付不得止引退キ翌日尚又出勤押而御目見奉願如前日強て御諫申上候処御立
腹ニ而御手打被仰付候由
但一説ニは翌日御呼出ニ而御手打被仰付候共申候 殺候人は剣術者 名を失念 兼々御意ニ叶御座之御側ニ罷在シ由其説も御
差図ニ而右之浪人切候由初太刀ハ切損シニ刀ニ切留候由也
右之事御母公様被聞召以之外逆鱗ニ而御目通不被成様ニと 被仰一年餘御對面不被成由 左候而丹後守様従 公儀被為召候ニ付而
御出仕之御支度ニ而御式臺迄御出被成候處平右衛門が亡霊切害を仰付候節之通ニ而屹ト御式臺之真中御通筋ニ座着罷在候を被成
御覧候而忽御気絶候様ニ被為見御出仕相止ミ候而其後御気分不被勝レ終ニ御出仕無之由彼方ニ而ハ極々秘事乍ラ如何して式部殿
被成御聞候歟其節段々御手前之御老中様江被仰達候とも有之 八代ニは委キ御記録も有之由咄申候 左相当而其以後御末家ゟ御代替
ニは奉對御本家隔意を企申間敷段八代江誓紙を被有御取之由承り傳候 勿論此儀者古老咄傳ニ而虚実之儀は存不申候
但福知屋敷其後他人居住仕事難成とて二十年迄者圍をチンチク竹垣にして明屋敷ニなり居申候
一近年宇土御館ニスクナ彦之神を御勧請被成祭日ニは町在之者参詣被成御免由農証人も多参詣仕よし此相殿ニ福地を御祝被成由宇土
町邊之下説之由ニ而是以虚実は存不申候事
月翁様之御時芦田瀬兵衛二男三五兵衛と申者を福永と改名被仰付福永平太夫と申候 外ニ今一人地下何某と改名被仰付両人共百五
拾石完ニ而(江戸・宇土ト分ヶ)新規ニ被召出候 福地名字をニッニ分其跡を成御立候思召之由ニ候事
丹後守代ニ福地之霊を神ニ祝江戸日本榎下屋敷内ニ小社を建立霊神宮(社)と祟申候 宇土ニは無之候 祭日六月三日也
一福地之名跡壱人ハ柴崎勘右衛門二男ニ而地本常右衛門と申候 江戸・宇土ニ分相建申候 瀬兵衛・勘右衛門共ニ家老役也 以上
このようなコピーが顔を出した。
慶安三年綱利の遺領相続前、幕府内に於いては、宇土細川家に半国を相続させれという案が存在したらしい。
宇土支藩においては国許へ報告、家老福知平左衛門が急きょ江戸へ下り、宗家に対し恐れ多いこととして藩主をいさめたために殺害
されたという話が残る。その一端をうかがわせる史料である。
此書不審之儀共左ニ記ス 但元ハ付紙之由
一丹後守行孝丑ノ年ニテ慶安三年十四歳ニ當ル 未タ御貢献可仕御年
齢ニ無之 公儀江秘事之手遣等可有之時節ニ無御座候 殊更
綱利公御代ニ至候而ハ御本末之御間も 御前代より者振合宜敷候
左候得者手前より企候悪心ニてハ無之酒井公之御内意にても
起り候事にても候哉之事
圓寂湛相信士 慶安三庚寅年六月三日 俗名福知平左衛門勝定
墓所ハ宇土泰雲寺ニ在り
一綱利公慶安三年寅四月十八日御遺領御相續被蒙仰候 福知
命日者同年六月三日
右之条々不審ニ付書付入置申候以上
己四月 井戸一水
井戸一水ハ井戸亀右衛門
子孫ニ而宇土御家司
代々勤候井戸ト見へ候
以上朱書宮村氏雑撰録巻八ヨリ写加フ
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この話には前段があり、「梅原丹七・福知平右衛門一件略記」という記録が残されている。
そのうちのこの事件にかかわる福知平右衛門の件については過去ご紹介したように思うが、ブログ内検索をしても見つからない。
又資料そのものが現況行方知れずであるので、見つかり次第ご報告しようと思う。
蛇足ながら、井戸一水という署名があるが、通常は「井門」と記されていることが多い苗字で、なかには「いかど」と読まれる方がおられるが、ここにあるように「いど」が本当であることを記しておきたい。
一、八月廿三日板倉修理切腹之事 仮付先立無刀麻上下
留守居 岩崎彦右衛門 注:以下お預けの水野監物御家来衆
白張屏風建廻場所致 奥山三平
切腹相濟候所江仕廻致候 大武勘次
三崎太右衛門
中林又助
諸立用人 山田太治馬
給人 五十幡万右衛門
大小姓 山路兵太夫
切腹いたし場所江罷出節 鈴木又八
付添出る無刀麻上下 鈴木清右衛門
股立取る 岩崎小弥太
大沢宇内
三方脇差持出ル中小姓 大内伴蔵
介錯仕候 吉田弥次右衛門
刀を持脇指を差麻上下中小姓 平崎文太
迦罷焼香■持出ル袴着
監物様御宅江御越被仰渡 水野對馬守様
土屋美濃守様
橋本阿波守様
八木十三郎様
御徒目附四人
御小目附二人
右之通之事
但板倉修理葬候寺は駒込乗物丁永西寺と申候 禅宗之由尤板倉寺ニ而も無之水野監物様御寺ニ而勿論無之監物様御家来之
存寄候寺之由
一、板倉修理屋敷御預り 花房近江守
堀田兵部
右両人江御預ヶ朝夕は食物之御両人之御方ゟ焼出シ其外小屋ニ而は湯茶煙草の火も置不申ニ一切武具刃物取上ヶ申候由水野
監物様江板倉修理殿御預被成候と覚書之由御屋敷内ゟ有之候写之置候之事
一、右ニ付刀番之者被申付右之趣急度屋敷江申遣留守居之者 御城江呼寄即刻留守居罷出請取之人数 御城江差越左之通
(中略)
乗物ハ常ゟ丈夫成錠前有之青網持参刀箱壱錠前有之鋏箱錠係ル
右通御城江請取ニ遣ス 平川口ゟ入組右之外ニ傍足軽餘斗ニ遣ス是ハ扣在候
一、修理殿事大目附御立合後御渡被成候乗物ニ乗せす候 細懸ヶ平川口ゟ出シ御徒目附四人御小人目附十四人付添ヒ差越候乗物ニ
錠おろし
一、此方ゟ持参之刀箱ニ御■物を入右御徒目附被参御屋敷ニ而御■物請取尤請取候段御拵等委細ニ書付受取書御徒目附ニ相渡候
一、途中前後御留守居用人物頭大目附給人徒士先江立中小姓左右ニ囲ム
一、御預人有之候段先達而屋敷を申越候ニ付差急キ小書院之内四方板張ニ大竹打入口は二重ニ一口手水前雪隠ハ囲之脇
一、昼夜番人は頭一人大目附一人横目一人給人二人中小姓二人其外惣外■足軽番人不知致御預人有之住近承之早速呉脇前江申付
御差遣御衣類夜具共ニ出来有寄置
一、公儀御伺之上御食事等夜食一汁三菜此間ニ度ニ御菓子出箸は長サ三寸
一、右御食事度毎々如何様御菓子如何程致参候と也儀扣ニ置
一、御預人有之候内御登城其外御他行無之家中屋敷之者用事門外ニ而承置賣人門内ニ不入
一、修理殿元取之結髪ゟ御切候と相見候 御年二十二歳
一、御刀ハ無銘安き物弐尺三寸脇差ハ一尺七寸丹波守吉道也
一、御鼻紙袋印籠有之
一、御懐中ニ三寸程之鏡奉御紙ニ包ミ有之候
一、十五日之暁監物様御逢被成候
一、切腹被 仰付候哉と仕度等も出来有之候由以上
夘八月十五日
右之通不慥候得共写之置候
(以下御坊主衆の処分などについては略す)
(了)
細川宗孝を殿中で襲い死に至らしめた旗本6,000石・板倉修理(勝該)、その原因は乱心だとされるが一方では家紋がよく似ているが故に、
同族の佐渡守勝清(当時・若年寄)と間違えて切り付けたという話がある。
修理の病気(狂癇の質)などを理由隠居させ、勝清の庶子を跡継ぎに入れよういう話があったらしい。
一方氏家幹人氏著「旗本御家人・驚きの幕臣社会の真実」には、修理の屋敷が白金台の細川家下屋敷の隣のがけ下に位置し、大雨の時に汚水
が流れ込み浸水することがあり、これを恨みに思ったという確信犯的な理由を挙げている。
同書には写真が添えられているが3~4mの高低差が伺える。
氏家氏は人違い説より「恨み」説が真実に近いとされるが真実は闇の中である。
たしかに「分間江戸大絵図」を見ると細川家下屋敷の北側に「板クラ下ツケ」の書き込みがある。
処でこの板倉氏、一族四家が大名として明治を迎えている名家である。
板倉修理(勝該)の系を遡ると三河深溝藩主・重昌に行きつくが、この人が天草島原の乱で討死したその人である。
下総関宿 伊勢亀山
勝重――+――重宗――+――重郷――重常
| | 上野安中 陸奥泉
| +――重形――重同――勝清
| 三河深溝 下野烏山
+――重昌――+――重矩――+――重良
| | 武蔵岩槻 陸奥福島
| +――重種
| (旗本)
+――重浮――勝丘――勝該(断絶)
一、上野御預り之処御逝去ニ付松平太膳太夫様江被仰付候由十六日夜御沙汰有之候得へは御沙汰無之太膳太夫様之方御手疵迄ハ主馬様
(重賢)ゟ御人数被差出候様ニとの御事ニ而翌十七日彼方様ゟ御引渡相濟候事 判読不明源か
一、御大変之御使者御国許江御使番瀬戸角右衛門十五日暮候而被差立候 御逝去之御使は村井■兵衛十七日暁被差立候事
一、御家中之面々月額之儀剃申間敷候 御家人は十五日は御出棺迄ニ御觸有之候事
一、十八日御棺被成候 妙解院に参候事
但御法號今日大川座元被差上候事
隆徳院殿廓殃一義周大居士
一、廿日為 上使重森兵部少輔様御出御香奠銀五十枚御拝領被成候事
一、主馬様(重賢)御儀御定式之御服忌被成御請候様ニと被仰出候 依之ゟ 殿様と奉唱候様ニと廿日監物殿ゟ御沙汰候事
一、御用番御老中本多伯耆守様ゟ御留守居呼ニ参候 都甲太兵衛参候処御一類様之御内御出被成候様ニと之御事ニ付山城守(織田信舊)
様御出被成候處御書付ニ而仰渡候 左之通
板倉修理儀切腹被 仰付候段細川主馬江可被相達候
右之通之御書付山城守様御持参御出被 仰出候ニ付御家中之面々御中小姓以上大書院ニ而監物様被仰渡候 其已下江は織衛殿被申渡
候事
但武田叔安老ゟ以去ル廿日御老中様ゟ御内々候而被仰聞候は修理儀切腹此間ニも被仰付趣之処此節傳奏之公家衆御留之御内故
被押■延引候 右之段極御内々ニ而御申達候様ニと堀田相模守様被仰聞候由相模守様は去る十五日之御用御聞懸ニ付右之通之由
一、板倉修理切腹之儀被 仰渡候由之書付御留守居中ゟ見せ被申候間写置候左之通
板倉修理
去ル十五日於殿中細川越中守江手疵為負候 乱心とはいへとも越中守依之相果切腹被仰付者也
右之趣可申渡旨本多伯耆守殿・水野壱岐守殿・水野對馬守・橋本阿波守・八木十三郎ニ被仰渡水野監物宅におゐて切腹之儀右両
人立合右之書付對馬守申渡之
但右両人と有之候ハ阿波守殿・十三郎殿御両人之御事ニ而監物様御宅江は御三人御出之由
一、廿七日朝五ッ時(7時)御出棺ニ而妙解院江御草々有之候 九ッ半(12時)時分彼方江御着棺暮前ニ万事相濟申候 右之御供相勤候事
落髪之面々
竹原清太夫 松野■五郎 伊藤忠右衛門
杦村角太夫 佐田右兵衛 元田万平
御葬送前日病死
鎌田早之允 右田牛之助 小林半右衛門
右九人願御免之内早之允病死残八人致落髪候事
一、姫様御儀
静證允様と御法号妙解院大川座元被差上候由 監物殿ゟ御沙汰廿四日有之候事
一、八月十五日御退出龍之口屋敷江被為入候而無程織田山城守様御出被成候 表御玄関ゟ御通利被成候 左候而長岡監物殿・郡織衛方
江被仰聞候は今日於殿中御不慮之儀御老中様方為仰御下城被成前々御出被成候御老中様被仰は御不慮之御儀扨々御笑止ニ思召候
御相手も有之早速被仰置候間御家中之面々騒不申様ニ相心得可申候 御相手之儀は上ゟ御仕置可被仰付候 此段御家中も承申候而
安堵可仕候と委細被仰聞候様ニとの御事ニ候段委細申上候様ニと両人江被仰聞候事 御相手之名も不被仰聞候事
但山城守様ゟは十五日夜半迄被成御座翌日も未明ゟ日々被成御出板倉修理切腹被仰付候日迄毎日/\夜ニ入候迄被成御座候
廿四日迄御詰其後は折々御出被成候 尤御家来之内片岡助左衛門・山本八右衛門両人ニ而一人完三四日御様子承り候と被仰
付候由 隆徳院様御葬日迄相詰候事
一、十五日九ッ(11時)時分御様躰 御尋為 御上使御奏者御番永井伊賀守様御出被成此節為御名代織田山城守様御出逢被成諸事相
済申候
一、同日八ッ(13時)過又々為 御上使御老中様之内堀田相模守様御出被成此節も前々通山城守様御取斗被成相模守様上意之趣御書
付ニ而御持参被成候左之通
上意 細川越中守
手疵弥療治相届快方にも候哉無 御心元被思召候様子■而承り候様ニとの御事ニ候 万一及御大切候共跡式之儀は去年仮養子
ニ被願候弟(主馬=重賢)有之儀ニ候間此度願ニ不及候条致安堵養生いたし候様ニと被 仰出之
右之通御口上ニも被仰聞御書付御渡被成候 尤御醫師武田叔安老江も御呼出御様躰委曲御聞被成候事
但右之趣晩ニ原々と同役中江は監物殿被申聞候事
右之通ニ而弥御願ニ不及事ニ而御老中本多伯耆守様江御聞合候処弥御願ニ不被為由ニ付其旨候事
一、十六日昼八ッ時(13時)前ゟ被及御大切旨ご一家様方其外御心安き御方御知せ有之候 尤御用番本多伯耆守様江も御達有之候事
一、十六日七ッ時(15時)過ニ被成 御逝去候ニ付御用番本多伯耆守様江細川采女正様を以御達被成候事
平か・蜂須賀氏
但為御見舞小笠原右近将監様江は十五日御父子様共ニ御出十五日も朝飯後御出松原阿波守様も御出後二被成御座八時前時前御
帰被成候 以後被為及御大切候御知せ付又々阿波守右近将監様御出十五日は両度御出被成候事
一、五時(7時)ニ御登城四ッ半(10時)比御帰被成候 右五ッ半前より務候處隙取申候擬は御相手板倉修理脇差ハ御縁ノ下迄両度御
吟味有之候得共不相知候ニ付灯燈ニ而床之下之隅迄御吟味之所ニ小用所之奥雪隠之内ゟ懸■を掛入居申候由 右之所は 隆徳院様
被来御座盈縁之下ゟハ折曲り十五間程有之奥ハ暗ク有之吟味ニ隙取候由 小用所迄ハ四五間有之吉三度目ニ尋出ス
一、板倉修理被召捕り御吟味所ニ口書左之通ニ付口書ニ成候由御城坊主持参御留守居中江見せ候由
口書 板倉修理
私小用所江参居候處何者候哉切付候ニ付持合申候人ニ手疵を付候而は不通擬と懐中ゟ鋏を出本取を切小用所之奥迄隠居申候 尤脇
差を持居候事も如何ニ存其所ニ捨置候 其後之儀は覚不申候 已上
八月十五日
右之通之由懐中ニ六寸程之鏡も有之候由右之通故即時ニ乱心ニ相極り候由 但袖ニ大栗石壱有之候由
一、隆徳院様江御目附衆参り被見候へとも御惣身血ニ御染り被成誰共分り不申候 殿方ニ而御座候哉と御尋候得は細川越中守と被仰候
いか様之儀ニ而ヶ様ニ御手疵被負候哉と御尋被成候得共小用所之後ゟ切付申候 見知不申候男上下着居申候由被仰候 意趣之御覚は
無御座候哉と尋申上候へとも少も意趣有方御覚無御座何卒組留メ可申存候内深手ニ而心外之儀ニ付各方江も不慮之御難題ニ相成申
候由善兵衛参り御留守居中江咄申候事
但殿中ニ而始終之被成方少も御臆シ不被成御落着と成候御事御すが御代ニ御武功之御家故と存感候由町方迄も唱候由之事
一、御城坊主宇田川玄覚御留守居中江時分之覚書持参左之通
御内々申上候覚
去月十五日
太守様御事大廣間於小用所数ヶ所御手疵被為受候処乱心と御見受被遊御家を御大切二思召御相手江薄手二而も御付不被遊其上御相
手之脇差を御打落候 夫ゟ御相手ハ無腰ニ而小用所之奥江被退 太守様江は大廣間盈縁之上迄御出御脇差を被為持御座着被成候 右
之御様子御目附衆馳付御見受候 勿論何も御覚も無之由委御返答被遊候 右之趣彼是無残所被遊方とて松平兵部太輔様殊之外御肝心
被遊候 此段御同席様方江御吹聴有之候由殿中守之御沙汰ニ候
兵部太輔様御肝心被遊候儀は此紙面斗之儀ニ而は無之此外ニ御大切之儀有之其趣ハ書面ニは難申上候 右之趣は私不罷出以前之
儀故承及擬ニ而御見上ヶ不申候付不申上候 乍然此段各様未御聞及も無之哉と存猶又助様迄申上候
已上
夘九月 玄覚
太兵衛様
傳左衛門様
郡兵衛様
右之覚書之内兵部太輔様御肝心之儀口達ニ申候と兼而兵部太輔様江は 隆徳院様別而御心安御座候処平日 公儀を御大切ニ思召候
儀不浅事ニより此節之御落付被成候御被成方国家を御大切ニ思召候筋御平生之御様子相揃細川家代々武功之御家柄故と一入被感入
候由御同席様方へ呉々御噂御吹挙被成候由玄覚申候事
一、御駕参り候ニ付両人ニ而奉抱候而御駕ニ召せ奉り候 又助此手御顔ニ付候血を御単物之御袖ニてぬくい申候事 御脇差御柄鞘共ニ
血のりニ染居申候間古拵之様ニ相見候間分り兼漸ク見分ヶ申御鞘ニも返り角下ニ打はつし疵一ヶ所有之御拪糸も刃之方目貫之邊
筋糸切有之候 御相手之脇差を御柄ニ而御請被成候やと存申候事 左候而猖参湯を差上候得共一向御通り不被成候 其上ニ而御脇差
之儀相尋候得は御預置候由ニ而拭板之縁側ゟ刀箱を御役人持参仕候 忠右衛門・又助御脇差御出シ是ニテ候哉と御渡候ニ付忠右
衛門得江も得見せ候而請取申候而御駕ニ入申候 左候而引取申度由を御目附様江相達勝手次第可仕旨被仰聞候ニ付御駕舁ハ御間
内ハ陸尺外ハ黒鍬大勢ニ而舁中ノ口ゟ平川御門江御出被成彼方橋際より御手人ニ請取舁せ申候 山田嘉右衛門ハ御刀を持村山傳
左衛門一所中ノ口蘇鉄ノ間江罷在其前より御供仕候様■御側之儀は忠左衛門・又助両人ニ而仕上候 御途中は叔安老・玄哲老外
二御番醫四人御付添御徒目附三人御小人目附弐人外ニ御薬■共ニ途中御役人持参仕候 忠左衛門・又助御側ニ不参以前御湯漬少シ
被召上候由叔安老被仰聞候 右之茶碗焼き塩等傍江有之候事
一、御駕は両人御呼被成候跡ニ而御徒目附衆此方様之御城使を召連下乗橋ゟ表御門通り中之口江通候由之事
一、御脇差入居申候箱之内ニ壱尺六七寸程之脇差入居申候 御相手之脇差ニ而可有之を出せ付候処■樋有り反り高キ脇差ニ而身ハ不残
血のり付候而鞘ハ相見へ不申抜身ニ而有之候
一、両人脇差ハ銘々名札ニいたし中之口江御役人持参候事 但刀も御城使持参居候事
一、御途中御付添被成候御醫師衆左之通
御奥本道 武田叔安老
同外科 西 玄哲老
表御醫師本道 田代宗仙老
外科 古田休甫老
同 菅谷伯安老
同 増山養甫老
右之通六人御付添被成候事
一、村山傳左衛門は為御注進 刑部卿様御門前ゟ御先江参候事
一、惣御供ハ西ノ御丸下馬江廻り居候ニ付平川江廻り候事難成漸刑部卿さま御屋敷前二而馳付候事
御迎ニ罷出候面々 松野亀右衛門
酒井左衛門様御屋敷 中川郡兵衛
松平兵部大輔様との御境迄 堀 平左衛門
松平兵部大輔様 佐野左太夫
御屋敷辻番之邊迄 郡 織衛
公儀御作事所之邊迄 竹原清太夫
小林半右衛門
右之面々御屋敷外ニ罷出候と覚申候 其外は御屋敷内追々罷出候事
一、川岸御門ゟ御入裏御玄関ゟ御居間迄御駕ニ而被為入候 御駕ハ歩御使番歩御小姓等舁候而御■ハ参候事
以上
(つづく)
(生田又助、殿中に入り介抱に勤める)
大御目附 水野對馬守様
御目附 中山五郎左衛門様
土屋長三郎様
右御三人之内五郎左衛門様被仰聞候は 越中守殿不慮ニ御手疵被負候得共随分御元気も能氣遣成事は無之候 上様ゟ早速人参御拝領
被成り武田叔安其外御醫師共も御付御療養被成候間罷通御介抱仕候様ニと御老中被仰聞候間左様相心得御看病仕候 先ッ可被仰聞候御
相手も早速被召捕候間此所は心安可存候 只々御介抱第一之儀候と被仰聞候ニ付又助申達候は御相手之儀は何某様に而御座候哉手疵負
候旨趣は如何様之訳ニ而候哉と御尋申候得は御大法ニ而相手之名は不被仰聞候 右之通被押■候条各之心懸りは無之候、越中守殿被成
方宜候ニ付 御上ゟも御懇之御尋候間心安存御介抱致候様ニと被仰聞候ニ付申達候は越中守儀如何躰之仕方ニ而殿中の御■被成申候
哉と其所恐入居申候處右之通被仰知奉承知候 此上は一刻も早御通シ被下候ハゝ解放仕度由相達申候得は御三人様ニ而直ニ被召連大広
間之廊下筋江被召連候 御徒目附其外御役人六七人程跡ニ付添参り候 右廊下江 隆徳院様被成御座候 御様躰見上候處存外之重手二而御
惣身血ニ御染被成御後之方ゟ御身ニ當テ小キ箱腰掛ケ御身之邊を両手ニ而抱居申候 御足は御延不被成様御役人中押居候而武田叔安・
西玄哲老其外御醫師衆御役人大勢集りニ三十人も可有之と相見申候 忠右衛門儀は直ニ久下善兵衛ニ代り御役分奉抱候 又助ハ御前右之
方ゟ両人名を申上候節御斑岩ニ被成御座候而名を被聞召斗被成御■候得共御後之方忠右衛門を御覧被成候 力ハ無御座候 扨御相手之名ハ
何と申候哉如何様之首尾ニ而御手疵被為負候哉右に付而被仰候御儀も御座候ハゝ疾ニ被為仰聞候様ニと相伺候處内そ被仰候御事ハ無之と
斗被仰候 右御目附様も御家来江後用事之儀無御遠慮被仰候様ニと御申被成候得共其後はいか様とも御意無御座候 早速猖参湯之由叔安老
御渡候ニ付差上候得共漸被召上候 其已後差上候得は御通兼被成候 再應御相手之儀相伺候得共右之通ニ而殊之外御様躰重ク御見被成候御
筋も出御しやくりも御座候而最初御役人様被仰聞候通人参共被成御拝領武田叔安様とも御付被成其外御醫師衆御付添 上様ゟ御懇之御尋
二而御座候由御役人様方被仰聞難有可被思召と奉存候段申上候 左候而叔安老ゟ御相談仕候は殿中之御支無御座候ハゝ屋敷江引取養生加
へ申度段申達候得は尤ト思召候由ニ而御目附様方江右御挨拶被成候ニ付又助儀も右御三人様江元氣も能相見候間御支無御座候ハゝ退出療
養を加へ申度候 且又重キ手疵ニ而御座候間此所迄駕を上ケ申度候不案内ニ御座候条此砌之儀可然様御沙汰奉願候段申達候得は■之御支
も無御座候其通御沙汰被成候由 右之内ニ御召替之御衣類参り候由ニ而御役人持参真白御袷を替シ申候間外之色は無御座候哉と尋候ヘハ
黒御単物有之候間御単物を召せ申御足ニも毛さんを懸有之候間取除可申存候得共其侭ニ而御駕ニ召せ候様ニと御役人衆叔安老も御申ニ付
其通ニ而差置候
(書き込み中)