津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■赤穂義士の討ち入りとか、クリスマスイブとか

2024-12-24 08:51:50 | 徒然

 脈絡のない話だが、これは江戸時代の時間の管理と、ユダヤ教における時間のとらえ方についてである。
「12月14日寅の上刻赤穂浪士が本所吉良上野介の屋敷に討ち入り」と言い伝えられている。
「どっちなの・・」と頭がこんがらがるが、江戸時代の日の変わり目については「暦林問答集」に「丑を昨日の終となし、寅を今日の始となす」とあることからすると、寅の上刻には日替わりしていることに成り、「14日・・討ち入り」という表現は根拠を失うことになる。
某大教授の「吉良邸に討ち入ったのは「寅之上刻」とされています。現在でいうと午前3時過ぎです。旧暦では午前3時を過ぎると翌日になるので、正しくは15日ということになります。ときどき「討ち入りは12月15日」となっているのはそのためなのです。」という解説をされている。
「14日未明には行動を起こして、日が変わるころ討ち云った。「引き上げは寅の下刻(5時)」とあるから、上野の御印を上げたのは15日の5時前」といった感じで受け止めておこう。

 今日はクリスマス・イブ、どなたもクリスマスの前日ととらえておられるだろうが、これも間違いでユダヤ教における日が変わる時間が関係している。
ユダヤ教では日没をもって「日替り」とする。つまり現在の24日の日没時から25日ととらえているから、現在のイブは「25日の夜」にあたる。
「イブ=Eve」は夕方や晩を意味する『evening』の古語『even』からきているとされる。クリスマス・イブは「クリスマスの夜」なのである。
街中は若い人たちで大賑わいをするのだろうが、こんな爺のたわごとなどどうでもいいことだ。

 私が申しあげたいのは、国により時代により時間の考え方が多様であるということである。
日本の旧暦12月14~15日は、グレゴリオ暦によると、年が替り1月の30日になる。積雪があったとされるがこれも真実ではないらしいが、現代の季節感では来年の1月の末という事に成るから真実味はある

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■難行苦行

2024-11-27 19:42:29 | 徒然

 今日は午後、胃カメラ・大腸の内視鏡検査のために病院行。
胃カメラの経験はあるが、大腸の方は初体験である。朝8時からの4時間での、2リットルの「ニフレックス」なる下剤の服用には参ってしまった。
それでも何とか1時間半で飲み干したが、わずかに味が付いた「ポカリスエット」みたいなものだ。
そでに体験された方は、私と同じ経験をされているわけだが、下剤の服用やその後の生理現象は本当に難行苦行である。
病院では胃カメラのために喉に麻酔をし、腕に睡眠薬を点滴したが、気が付いたときにはすでに終了して、睡眠が解除するのを待って終了、都合3時間ほど、ほぼほぼ睡眠の中の事であった。
胃には異状なく、腸には2センチほどのポリープが見つかったが、これは経過観察という事に成り、ひとまず安心できる結果を得て大安心である。
体重の減少の原因は何だろうという事に成ったが、妻の入院や、夏の暑さ、これらに伴う食事の不摂生など複合しているのだろう。
腹が減って帰り道はいささかふらふらしながらの帰宅となったが、夕食が旨かったのは勿論のことである。
祝杯を上げたいところだが、御酒の方は今晩はお休みにしておこう・・・

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■着物の着付け

2024-11-25 12:44:23 | 徒然

                                                                       
 この画像はダイレクト出版のPRに使われているものである。(お叱りを受ける可能性が大いにあるが・・・)
実はこの画像左右が逆になっている。着物の召し合せが左前になっているし、左腰にあるべき刀も逆になっているから単純なミスによるものである。
着物は相手方から見て、の字に見えるように着る。「右前」というが、右手で「懐手」ができるように着る。
「左前」は死に装束共、また経営が立ちいかぬ状態を形容したりする言葉として縁起の悪い言葉として知られる。

 この画像を偶然見て思い出したのだが、今年の夏、遠来の友人とお会いするため出かけた折の、帰りの電車(熊本では市電のことを電車と云う)に乗った折、若い男性が祭りにも出かけられたのだろう、着物(浴衣?)を着ておられたが、これが「左前」の着付けだった。
座席に座っている私の目の前に立っているから気になって仕方がない。
じろじろ見ないように目を伏せていたが、その人の左手がやけに動く。

彼は左効きだったのだ。なるほどと合点はいったが、これが果たして通用するのだろうかと大いに気になった処である。

 洋服は男は「右前」、女は「左前」である。これも随分以前の事だが、若い女性が男物のYシャツを羽織っているのに気付いた。
これはファッションだろうから兎角は申し上げぬが・・・着物はやはりまずいような気がしてならない。

 仕立物で生計を立てていた母親のせいで、こんなことはついつい知識となったいる。

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■松平武元とか田沼意次とか

2024-11-10 08:21:56 | 徒然

先に「■謎解き・細川和泉守殿とは何方」でご紹介した松平右近将監、諱を武元といい徳川吉宗・家重・家治に仕え、家治からは「西丸下の爺」と呼ばれ信頼されたという。
来年の大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」では、この松平武元を石坂浩二が演じるというが、大変な老け役である。
やや猫背の白髪交じりのふと眉と言った感じで、かってのハンサム俳優の大チャレンジなのだが、氏も御年83歳で私よりも一つ年上だから、年相応の役なのかもしれない。
このドラマは田沼意次の時代と謳っているが、松平武元と意次は大変仲が良かったらしい。
そんな二人が活躍する政の世界と、浮世絵版元・蔦屋重三郎の活躍がどう絡まってドラマ仕立てになっているのか興味深い。
来年も欠かさず大河を見ることになりそうだ。
石坂浩二氏の松平武元の姿はこんな感じでした。右端が田沼意次の渡辺謙氏。
https://www.instagram.com/p/DB_LqnQM5Iu/?utm_source=ig_embed&utm_campaign=loading



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■「東風」という風

2024-10-25 06:45:29 | 徒然

「東風=こち」といえば、「春のやわらかな東から西へと吹く風のことをいう」のだそうだが、私には日本海の荒れた東風というイメージがある。
数日前熊本ではとんでもない強い東風がひと時吹き荒れた。そんなとき「東風」という言葉に少々思いをしたのでいろいろ書きつけてみた。

 夏目漱石の「吾輩は猫である」の登場人物に越智東風という人物がある。
主人公である名もなき猫の飼い主・珍野 苦沙弥先生の元へ水野観月の紹介状を持ってやってきたのが越後東風である。
東風はその後、この作品の中で度々登場するが、この人物は「とうふう」ではなく「こち」が正しい名乗りである。
「おちこち」と韻を踏んでおり、読みを間違えるととうとうと「こち」が正解であることを言い立てるという。

「京都漱石の会」というサイトに、『吾輩は猫である』に登場する越智東風の命名について という南八枝子という方の一文がある。
この方は柳田國男のお孫さんだそうで、その柳田國男の文章を紐解きながら紹介しておられるのでお読みいただきたいが「國男によると、越智東風(おちこち)は自分のすぐ上の兄、井上通泰が歌や新体詩を発表する際に使っていた変名だというのです。」とある。
漱石は、このことをかすかな記憶の中にあって使ったのだろう。
その漱石には  東風吹くや山一ぱいの雲の影  という明治23年9月の句がある。箱根での句だと思われるが、「東風」が春の季語であることなどお構いなしである。

 さて、万葉集にある大伴家持の歌に
    東風いたく吹くらし奈呉の海士の 釣する小舟漕ぎ隠る見ゆ    がある。
まさに荒れる日本海の有様が歌われていて、春の穏やかな風とは言い難い。
この東風について「越俗語東風謂之安由之可是也」(越の国の俗語で東風をあゆのかぜという)と解説している。
家持のこの歌は「東風=あゆのかぜ」と歌うべきなのだろうか。
それはともかく、井上通泰氏は何故「越智東風」と名乗られたのかを知りたいところである。

 菅原道真は、大宰府から遠い京都を想い「東風吹かば思い起こせよ梅の花・・・」と読んでいるが、これは京への思いが強く、「強い東風」というニュアンスは伺えないような気がする。

 熊本の高名な漢学者・宇野東風(とうふう)先生は、なぜ「東風」と号されたのかも知りたいと思う。京都・東京などへ雄飛したいという思いがお有りだったのだろう。その思いは成就した。

 

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■安倍晴明の子孫と細川家

2024-08-02 06:50:16 | 徒然

 「光る君へ」でユースケサンタマリアが安倍晴明を演じて存在感を示している。
安倍晴明の嫡流の子孫が土御門家である。ところで細川家はこの土御門家とのかかわりも深い。
土御門 久脩(ひさなが)の妻は、三淵晴員女である。つまり細川藤孝(幽齋)の妹聟という関係になる。
元和七年の忠興文書五月十日書状には、

 「忠利小倉移徙吉日ト定メ土御門久脩(室・三淵晴員女=幽齋末妹)ニ依頼ス」とあり、親密な親交ぶりが見て取れる。
公家衆とのかかわりが深いのも忠興の戦略的思考があったのではないかと理解している。
ちなみに、土御門久と三渕氏女との間に生まれた泰重に、織田信長の弟、信包の孫である織田三十郎女が嫁いだ。
その津田三十郎(細川藩士津田家1,000石の祖)は管領斯波氏の血を引く斯波近利・細川家家臣津川辰珍兄弟の妹(織田信重室)の子である。

三淵晴員ーー+ーーー細川藤孝 ーーー+ーーー忠興ーーー+ーー忠利ーーー光尚
     |        |      |               ‖
     |        |      +ーーー  万      ‖
     |        |          ‖ーーー弥々(男子出生するも死去・後男子も死去)
     |        |    烏丸光廣ーーー光賢
     |        |
     |        +ーーー伊也
     | 吉田神道      ‖ーーーー萩原兼従(豊国廟初代社務職)
     |  吉田兼見ーーーーーーー兼治
     | 兼見卿記著者   慶長18年(1613年)、後陽成上皇に神道を講ず。
     |
     +ーーー 
        ‖ーーーーーーーーーーーーーー泰重
       土御門久脩

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■漢字雑感

2024-07-22 06:10:10 | 徒然

 古文書に親しんでいる中で、最近漢字についていろいろ思うところがある。
御家流の筆法による文書ばかりではないから、9割方くらい読めれば私的には「読んだ」としたいのだが、読めない字を■と表示している
と、これが気になって仕方なく、一文字を一日がかりとかで何とか読めたときにはまさに留飲を下げる心地よさである。

ところで「変体文字」の中には、「耳」を「ニ」と読ませたりするものがあるが、これは漢音と呉音の違いからきていることを最近知った。
「耳」は「ジ」だろうと思い込んでいたが、「ニ」と読ませるのは呉音である。仏教の経典などはほとんど「呉音」で読むらしい。
たとえば時折くちずさむ般若心経などに「無限鼻舌身意(ムゲンビゼツシンイ)」とあるが如しである。

それゆえこれらの文字が呉音の読みであることを知ることになる。

「王」という字の読みは「ワ」とあることが古文書に初めて親しんだ当初は理解できないでいたが、これは「オウ=漢音」「ワウ=呉音」
であることを知ったが、ほかにも大変興味深いものが色々あり、「春=す」は音ではなく「人名訓」だし、「鵜=う」は訓読みからであり、
変体かな=音読みの常識が通じない。

「而」は「に」の変体カナでもあるが、音読みで「ジ」訓読みでは「て、しこうして」であったりする。
「音=ね」もまた訓読みからきているし、興味は尽きない。
最近では奈良・平安時代の「発音」などに興味をいだいている。
ワ行の「ゐ=Wi」「ゑ=We」「を=Wo」の存在や現在はそれぞれが「い」「え」「お」に吸収された意味など、先にも述べた釘貫亨著の
「日本語の発音はどう変わってきたか」を読みながら大変興味深く読んでいる。

古文書を読んでいるときは、とてもじゃないがこんなことは思いもよらずに一心不乱で読んでいるが、一息つくと漢和辞典を紐解きながら
こんな感じ(漢字)の愉しみ方をしている。

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■「漢字」を想う

2024-07-14 07:31:33 | 徒然

 毎日のように古文に触れているが、つくづく日本の漢字に不思議さに圧倒されている。
例えば変体かななどは、今でも苦労させられているが、これが割と近い時期まで当たり前に使われてきている。
たとえば「者」を「~は」と読ませることを考えると、古文を読むにあたっては「もの」と読むか「~は」とよむかは文脈で簡単に判断できるが、白文の漢字文を日本語読みにするために先人の苦労はいかばかりであったろうかと思うのである。

 日本の近代化に伴い、字体が繁体字から現在の形に変えられたり、変体かなをなくしたりして現在に至っているが、もう候文も身近なものではなくなってしまった。
つまるところ、「口語体」「文語体」といった言葉は存在するが、その実態は失われてしまった。
私は山本夏彦氏著の「完本 文語文」を大いなる共感を以て愛読書としているが、文語体による文章の格調の高さは、どんな名文家の手によっても口語体では絶対かなわない。
私の所蔵するこの本は「帯」をなくしてしまったが、その帯には「祖国とは国語である」とあった。

 漢字を国語としたベトナムや中国(台湾)、韓国・朝鮮などでも、ベトナムやハングルに変えた韓国朝鮮は漢字そのものをなくしてしまった。中国は識字率をあげようとして「簡体字」を作り上げたが、これはなんとも書道にはなじまないように思える。台湾は「繁体字」を残しているらしい。

難行苦行で古文書解読にチャレンジしながらも、それでもいろんな意味で漢字という文字は大変面白い。

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■飯田山が消えた

2024-06-22 06:56:23 | 徒然

5月30日に■飯田山が消えるを書いたが、とうとう昨日我が家のリビングの視界から飯田山が消えてしまった。
左側は14階建て、1階あがるのに3週間かかっている。右側が12階建て競うように工事が進んでいるが、平面積が小さい
ので進捗はやや早い。下方階はサッシュが入り、ガラスが入り、ユニットバスなどの据え付けが進んでいるようだ。
引っ越してきて1年を過ぎたが、すっかり景色が変わってしまった。
この二軒のマンション、目の前は自衛隊の広い敷地が連なっていて、高い建物が立つ恐れはなく眺望は満点である。
TSMCの進出を受けて、こういったマンションもすぐ売れてしまうのだろう。

国立市のマンション解体問題や、京都仁和寺前にたつ高級ホテルの建設反対問題など、それぞれ景観が問題になっている。
特に仁和寺前のホテル建設は、特例許可を下したというから何ともいただけない。
守るべきものは何なのか、東京都知事選挙でも神宮の森の問題が争点の一つとなっている。

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■古文書を読む・苦しさと楽しさ

2024-06-20 06:38:39 | 徒然

 まだ本格的な降りにはなっていないが、ここ一週間の天気予報は雨マークばかりである。
本格的梅雨シーズンになった。毎年のことだからしようがないが鬱陶しいことだ。


現在私は「町在」40頁ほどを読んでいるが、これがなかなか進まない。別段悪筆というわけではないが、読めない字が多すぎる。
タイピングする中で読めない字は■表示しながら、とにもかくにも前に進む。後で一文字づつ潰していこうという算段である。
処が一見すると5%くらいはありそう、これは大変だと憂鬱である。
私は、熊本史談会で今月を第一回として「古文書を楽しもう」と称して、資料を作成して会員にお配りした。
例文を配布して予習をしていただき、次回解説をしようというものだ。一年やればかなり読めるようになる。
「馴れですから」とお話ししたが、私自身がこんな有様では話のつじつまが合わないではないか。
古文書を読むという作業は、人様にさきがけて紙面の内容を知る楽しさが何とも言えない。「だからやめられない」

 梅雨で外出がままならないから、ここしばらくはミミズのような文字を睨みつけながら過ごすことになる。

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■庶民の暮らしと「銭」

2024-06-11 12:47:19 | 徒然

 随分以前■「旦夕覺書」--月・19をご紹介した。筆者である旦夕(堀内傳右衛門)が、延岡・内藤家への急用を頼まれて一日で着するようにと出発している。
延岡は私の奥方の里だが、今では道路が随分整備されて車で2時間もあれば行くことができる。
当時延岡は「縣(あがた)」藩と称しているが、城下まで120㌔ほどある。日之影あたりから舟で下る算段であろうが、日之影迄90㌔ほどある。
参勤並みの歩きにしても二日がかりの距離になる。

 大雨の中それも雷雨の中、稲光に照らされる中、伝右衛門は高森の岩上(神)御關所にたどり着き馬を借りている。
処があいにく「銀」しか持ち合わせず支払いに難儀している。
たまたま関所に知り合いが居り、銭と換金できたのか無事に用事を済ませている。

 東国は金勘定、西国は銀勘定というが、庶民は銭勘定で生活している。
鼠小僧が一両小判を恵んでくれたとしても、庶民は換金することもできない。これは映画・TVの世界の話である。
もし両替所に持ち込んだりすれば、小判の出所を追1及され下手をすると牢屋に引かれ、小判は取り上げられたろう。
江戸 庶民の生活費というサイトにある通り、一番高給取りの日当が大工で333文(銀5匁)これで家族が一日をくらすのである。
銀50匁=1両とすると、一日1/10両の稼ぎだから、年300日として30両、1両10万とすると年収300万円、これが日雇い町人の最高クラスの稼ぎである。
これとて日常の生活は「銭」の世界であることは間違いない。

 処で無事に用を済ませた傳右衛門は帰熊して報告をすますと、日程に疑義ありとしてお調べを受けたようだ。
縷々説明をしたのであろう、これが認められて、熊本~縣(延岡)城下までの日程が変更されたという。

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■町在を読む

2024-06-09 08:44:50 | 徒然

   

 ある方から「町在を読んでほしいとのご連絡をいただき、その後メール添付の資料が送られてきた。
写真撮影されたものをPDF化されているが、メールでは映像が天地が逆さまになっている。
PDF映像の天地を正すのにどうするのか爺様は知恵が浮かばないから、PC画面でで文章を読むことができない。
どうせ釈文を作らなければならないからと、プリントアウトする。
そしてまずは内容確認のために、全体に目を通す。
ちょうど40枚80頁に及ぶ、中古町に居住していた人形師に関する記述である。
文化中期の頃で、人形職人の渡世が立ちいかなくなっている。そんな折に町別当が自らの貯えを提供して80数人の人形師の生業を援助している。
古文書解読の依頼をされたその方のお宅には、その当時を知ることができる「土人形」の原型「型枠」が多く残されている。
これらの復元と共に、中古町の人形師の歴史を紐解こうとしておられる。
不世出の人形師・松本喜三郎が生まれたのは少し時代が下るが、喜三郎が育った時代は又人形師の生業も持ち直して、多くの人形が作られていたのだろう。その後喜三郎の作品を修復した江嶋栄次郎などの出現は、中古町の主たる産業であった人形製造の豊かな技の蓄積があったからに相違ない。
町別当という役職が単なる町行政のトップというだけではなく、自らの貯えを提供して職人の生業を支えるというそんな奇特な行いがあって、近世古町・新町界隈の繁栄があったことを思い知らされる。
さて今日から爺様はそんな町在史料80頁の解読にチャレンジです。

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■さかしまの本

2024-06-09 06:51:13 | 徒然

 南九州は梅雨入りしたようだ。夕方からポツ/\していた雨は夜分には本降りになっていたらしい。
今朝は雨音で目が覚めた。

 私のデスク回りは毎度のことで本や資料が山をなしている。
昨日は一応所定の位置に御引取り戴こうと本をもとの位置に戻した。
そんな中、ニ三冊の本が逆さまになっている。これも天地を正しく。なんだかそんな句があったと記憶しているが梅雨に絡んだ句だった。
「歳時記」を取り出して眺めてみると、林 翔という方に次の句があった。

       書架の書の一つ逆しま走り梅雨   翔

「さかしま」という言葉はこういう使い方がある。

うっすらと空に明るさが増し、雨も上がったようだ。熊本の梅雨入りは月半ばになるのではないか。
「さかしま」にならないように、歳時記を本棚に戻した。今日は蒸し暑い一日になりそうである。

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■「古文書に親しもう」という企て

2024-06-05 10:25:58 | 徒然

 歴史学者・磯田道史氏の人気は大変なもので、著作は売れるし、TVなどのメディアの顔出しも多く、又講演などの出演依頼は年間1,000件ほどに上るものから取捨選択をしておられると聞く。
現在は、国際日本文化研究センター教授と処も得られた。
昨日は布団に入ってから、氏の著「歴史の愉しみ方-忍者・合戦・幕末史に学ぶ」をななめ読みで読破した。
 そんな中に「古文書が読めるまで」という項があるが、氏が古文書に初挑戦されたのは13歳とあった。
お祖母さまが「あなたは歴史が好きだから」といって、磯田家の古文書を手渡されたそうである。
「御奉公之品書上」「年頭御規式留帳」その他である。磯田家は岡山の鴨方藩・池田家の用人迄上り詰めた家系であったらしい。
「歴史好き」は「道史」という名前からも伺えそうな気がするが、磯田先生このお名前は気に入っておられるのではないか。
 さて13歳の道史少年は、みみずが這い回るような字体を見て、俄然興味がわいたらしい。
古本屋に出かけて「近世古文書解読辞典」を500円で手に入れ、解読にチャレンジした。勉強はそっちのけになったらしい。
はじめは全く読めなかったが・・・ひと月すると半分読め、三ヶ月目には殆ど解読できた」とある。
これは天分とも言えそうだが、このようには行かぬとも、これくらいの情熱があれば殆どとはいかないまでも、独学でも一年もすれば相当読めるようにはなる。

 そんなことを感心しながら読み終わったところだが、私は熊本史談会で今月から「古文書を楽しもう」という資料の配布に携わることにした。
まずは、例文を配布してチャレンジしていただき、解説は翌月にという次第である。
一人でも多くの方々に、古文書に親しんでいただきたいと心から思うが故である。

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■聢与

2024-06-04 06:31:51 | 徒然

                                                             

   この二文字、「聢と(しかと)」と読む。下の文字は「与」のくずし字なのだが、例えば「くずし字解読辞典」の「五十音順書体と文例」の「と」の項を見ても見当たらない。「与」の字体が三例掲載されているが、その読みはすべて「よ」とされている。
「くずし字用例辞典」ではどうだろうか?こちらでは「よ」が音であり、「と」が訓であることが判る。
そしてさすがに「漢字音訓索引」には「と」の欄には、「与=與」が存在している。
ちなみに、「天下無賢不肖、知不知、皆慕其声」という史記にある一文では、「天下賢不肖と、知る知らざると無く、皆其の声を慕う」とあって、漢文の訓読みとしての「と」を確認できる。

 諸兄にはすでにご存知のことと思うが、もっこす爺は「くずし字解読辞典」には何故「与=よ、~と」としないのか、並記で紹介すればいいのに
と思うのである。
「くずし字解読辞典」も「くずし字用例辞典」も、児玉幸多先生が監修されているから、特にそういう思いが深い。

 

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