今年の3月21日から10回に亘り、ご厚誼いただいている北九州市小倉在住のソムリエ・小川研二氏の論考「再考小倉藩葡萄酒事情」をご紹介してきた。
今般追加稿として「有馬直純」をお送りいただいた。ここにご紹介するとともに過去の稿についても再掲しておく。
・■再考小倉藩葡萄酒 (一)ミサ用葡萄酒
・■再考小倉藩葡萄酒 (二)ガラシャの菩提
・■再考小倉藩葡萄酒 (三)キリシタン忠利
・■再考小倉藩葡萄酒 (四)忠興の仕打ち
・■再考小倉藩葡萄酒 (五)藩主と葡萄酒
・■再考小倉藩葡萄酒 (六)御薬酒
・■再考小倉藩葡萄酒 (七)葡萄酒製造法
・■再考小倉藩葡萄酒 (八)キリストの御血
・■再考小倉藩葡萄酒 (九) 真田信之
・■再考小倉藩葡萄酒 (十)結び
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■有馬直純
有馬直純は細川忠利(1586〜1641)と出生と死亡の年が同じであり、二人は生涯の友であった。
先述(九)の真田信之の正室は本多忠勝の長女小松姫で弟が忠政である。
そして直純の継室は忠政の長女国姫(家康曽孫)であり、その妹亀姫が小笠原忠真の正室である。忠利の正室は忠真の妹千代姫という縁戚関係でもあった。
さて、直純の父晴信は著名なキリシタン大名であり、四万石の肥前日野江藩主であったが、慶長十七年(1612)、岡本大八事件により改易となる。
しかし、直純は国姫との関係からか、家康の処遇により父の領地を継承した。
父の改易には直純が関係していたといわれ、『日本切支丹宗門史』に「ドン・ミカエル(直純)は、かねて父の計画を訴え出ていた。そこで公方様(家康)は、顧問官に調査を命じた。陰謀と賄賂の事実は明るみに出された。」
晴信の旧領地奪回工作に岡本大八に賄賂を渡していたが、全くの詐欺であったことが判明した。大八は息子とともに死刑となった。しかし、晴信はこれで飽き足らず、さらに領地奪回工作を続けていた。
「ミカエルは之を知るや、その恐ろしい夫人、並びに左兵衛と共同して、新たに陰謀を企てているものとして、公方に訴え出た。」そして、「死刑の宣告を受けた」のである。
「恐ろしい夫人」とは国姫であるが、祖父家康と同じく大のキリシタン嫌いであった。「左兵衛」は長崎奉行長谷川左兵衛のことで、直純の領地島原を狙っていたと伝わる。若き藩主に父のことも含めて絵を描いたのは間違いない。
この年、将軍秀忠は「彼(直純)に棄教して御国に何か一宗を信仰し、家来にも棄教させよと命じた。そこでミカエルは、表面上は公方と同じ浄土宗を奉じ、新たに左衛門左と名乗った。」直純のキリシタン宗根絶の迫害が始まることになる。
「有馬殿は、公方に告発されまいとて目立ったキリシタンを若干犠牲にして、手本を示そうと思った。彼は有家のキリシタン二人を死刑に処し、幾程もなく又一人有馬のキリシタンを現場に処した。」
そして「最も残酷な迫害の舞台は有馬領であった。」(同上、1613年の項)
「聖堂は転覆され、宣教師達は或は追放され、或は逃走した。」(同上)
やがて、直純の異母兄弟になる「八歳になるフランシスコと六歳になるマテオの幼い弟二人を死刑にせよ」(同上)と命じた。
「左衛門佐殿は、やがて浄土宗の仏僧「幡随院」(ばんずいいん)を政庁から連れて来た。彼は、この仏僧に領内の全住民を堕落させる任に当たらせた。しかし、一人として地獄の手先の説教を聴きに来る者はなく、子供らは往来に来ると、彼を馬鹿にするのであった。」(同上、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第二期第二巻)
イエズス会側の記録は迫害者や他宗を悪魔呼ばわりするのが常套手段である。
さて、日本側の『幡随意上人小伝』(文久二年、1862年)をみてみよう。
幕命(家康)により高齢(72歳)にも関わらず名僧であった幡随意上人がキリシタン教化のために江戸から島原へ派遣されたのである。
「怪術を現し巧に人を惑わして政を乱すものあり。吉利支丹耶蘇宗と称す。希くは邦家安寧の為赴いて教導に尽くされ」るために、江戸から直純と台風に遭遇しながらも、上人の「法力」により無事に「肥前国直純の館に到る。乃ち錫を同地の三福寺に掛け夢中感得の尊像を奉安し、四十八日の別行を修し」たのである。やがて、「国中上人の教化に服して正法を信仰するもの続出するに至る。直純その洪化に感じ新たに一道場を営建し上人を請じて創主となし満字山観山寺と称し寄するに荘園百戸を以てす。時に慶長十八年なり」
観山寺は延岡に転封後、二岸山白道寺となり、元禄八年(1695)、有馬清純が越前丸岡藩に移封とともに移る。(現福井県坂井市丸岡町)
慶長十八年とは1613年であることから一致するが、内容は違う。
実際は島原のキリシタン棄教はなかなか進まなかった。24年後の島原の乱からみても多くのキリシタンが潜伏していたことがわかる。
「罪の人であるこの不幸な大名(直純)は、公方様からは始終疑われ、左兵衛には虐待を受け、どうして良いのか分からなかった。」(『日本切支丹宗門史』1613年の項)
ついに有馬の領地を狙っていた長谷川左兵衛は江戸幕府に訴える。
「彼は九月政庁(幕府)に出かける前、ドン・ミカエルがキリシタンでありながら公表することを望まぬこと、また誰もそれを知っていること、並びに内府様(家康)は直ちにこの大名に対して、断然たる処置を執らるべきことを書き送った。」(同上)のである。直純はすべての教会を破却し、八名のキリシタンを処刑したが、効果もなく「家臣五十人の知行を取り上げるだけに止めた。」(同上、1614年の項) 極刑を覚悟しているキリシタンになす術はなかった。
『有馬晴信記』の「慶長十九年七月十三日肥前之国高来郡日野江城ヨリ日向国縣ヘ所替之事」の項に「左衛門佐若輩ニ候條。幾久仕置難申付可有之候。日向国ハ葛木郡(高来郡)ヨリハ所柄能ク候。左衛門佐義御贔負ニ被思召候。一万三千石御加増。先知合五万三千石被下候」とある。
(左衛門佐は若輩である。ずっと難題を申し付けた。日向国高来郡より所替えした方がいいと贔負に思い、一万三千石加増し合計五万三千石となされた)
家康の温情である。直純がキリシタン対策に心労を重ねていたことが、国姫から家康の耳に届いたことは間違いないだろう。旧地は長谷川左兵衛の思惑通りに長崎と併合したことはある意味成功であろう。
「彼(直純)は八月同地に赴いた。彼の先祖は、二十六代連綿として有馬の地を領し、如何なる騒乱にも耐えて来たのであった。神の怒りが、全く情深い計算によりミカエルを改易した。要するに、この放埒な子を家庭の父の家に連れ戻すためであった。」(『日本切支丹宗門史』1614年の項)
慶長十九年七月十三日は西暦1614年8月18日であり、縣(あがた)は後の延岡である。
その後の直純のキリシタンに関する記録はないが、翌年1615年、大阪の陣の後に日向国に入った宣教師がいる。ドミニコ会の司祭ハシント・オルファネルである。
1609年に長崎で信徒組織ロザリオ(聖マリア起因)の組を結成し、特に禁教令後に大村や有馬で顕著に飛躍した。(五野井隆史『イエズス会士によるキリスト教の宣教と慈悲の組』) このことにより聖マリア信仰が育んでいくことになる。
1622年の「元和の大殉教」では、55人処刑されたが、宣教師21人を除いた34人の内21人がロザリオの組員であったことが物語っている。4月初旬に長崎にいたオルファネルは12月初旬まで筑後、豊前、豊後、日向への長途の巡歴をしていた。(『日本キリシタン教会史』)
日向入りの前に豊前中津にいたが、細川忠利の家老久芳又左衛門(くばまたざえもん)の屋敷に身を寄せていた。(同上、1618年忠興により処刑) 実は直純が幡随意上人を招いたり、改宗策を強行していた1613年に、オルファネルは有馬にいたのである。(『日本切支丹宗門史』) 小倉に潜伏することになるイエズス会司祭中浦ジュリアンも有馬にいたことも付記する。
日本人武士に変装したオルファネルは日向に向かった。もちろん、直純と会うためであることは間違いないだろう。忠利の伝言を持って。
時代は下り寛永十七年(1640)八月七日の有馬直純宛忠利書状に以下の文言がある。(『大日本近世史料 細川家史料二十六』)
御気色しかと無之由二付而、ぶとう酒参度由、我等給あましハ江戸ニ置候而、此方へ持而参給かけ候入物共、
此印判を口ニおし進之候、事之外薬とハ覚申候、
(顔色が全くないとのことで、ぶどう酒を飲まれたいとのこと。私共が差し上げる余分のぶどう酒は江戸に置いていますので、こちらへ急いで入物と共に持って来ます。この「印判」を口に押しつけるとさらに薬効が上がると思います。)
別の意味で「御気色…」の部分を(しっかりと表に出ないようにして)とも読めるが、肝心なところは「印判」と「口に押しつける」である。神社仏閣の病平癒の札に「キス」すれば、さらに御利益があると言っているのだろうか。残念ながら日本人にはそのような風習はない。
ルイス・フロイス『日本覚書』に「我々は抱擁するのが習わしであるが、日本人は全くせずに、我々を見て笑う」とある。そして、クルス(十字架)やメダイなどにもキスをする。特に被昇天の聖母マリア(像)の衣装へのキスなどは、日本人からみて異様に映っただろう。当時の日本人にも「口吸い」があったが、ニュアンスが違う。キリシタン教本には上品に「いただく」「拝む」「拝する」など使用していた。(米井力也『Predude to a kiss』
さて、南蛮仕込みの「拝む」としたら「印判」はキリシタン関連と考えら、紙、木製なのか分からないが「聖母マリアの御像」ではなかろうか。
酒をとまり候て能者も御座候、悪者も御座候、如何と笑止ニ存候事、
(酒をやめることはいいことやら悪いことやら如何ですかと(遺憾に)思います) 「酒」が「祈り」とも取れる。
忠利は翌年、寛永十八年(1641)三月十七日に、直純は四月二十五日に没している。
私は死を予感した直純が「痛悔の祈り」を捧げたのでなかろうかと思う。
イエズス会日本司教ルイス・デ・セルケイラの認可の元に配布された『こんちりさんのりやく』(contriçãoポルトガル語=痛悔、1603年印刷) が広く日本人キリシタンに読まれていた。島原発といわれ当然、晴信・直純父子の手元にあったことだろう。
「キリシタン禁制において、270年間潜伏し続けた信徒たちの心の拠り所になったという事実である。」(川村信三『「こんちりさんのりやく」の成立背景と意義』)
同時に神の母とされるマリア信仰も平行していった。
さて、『こんちりさんの利益』は「ゆるしの秘蹟」のマニュアル本であるが、重要な条は「緊急の場合、あるいは戦場に赴くなどして告白を聴く司祭がいない場合は、いづれその機会があれば告白するという覚悟を条件に罪(大罪)をらゆるされる。」とあり、司祭への「告白」がなくても「真の痛悔」があれば「霊魂の救済」が成し遂げらるという。
絵踏、表向きの転宗などは「真の痛悔」があれば、赦されるのである。
父晴信への仕打ち、義理の弟らや家臣の処刑や追放など、キリシタンとしての大罪を心から「痛悔」することにより、人生最後にキリシタンとしてデウス(神)の赦しを求めたのではなかろうか。
「われかつておかせし科(とが)をも陳ぢ奉らじ。ただ罪科のはなはだ重く、しかも数かぎりなき事を白状し奉らせ。しかるといへども、御慈悲わわが科よりも深き御子(おんこ)ぜすす−きりしとの流したもふ御血(おんち)の御奇特わ、わが罪科よりもなを広大にましますとわきまへ奉る也」(「おらしょ」(祈り)『こんちりさんのりやく』)
現代では「御子(おんこ)イエズス・キリストの流し給える御血(おんち)の功徳において、わが罪を赦し給え」となる。
忠利も洗礼を受けているが、直純にとっても「キリストの御血である葡萄酒」は貴重なものであった。
「キリストを信じる者にとって、葡萄酒を飲むことは、感謝を呼び起こすばかりでなく、救いと永遠の喜びの源である主のいけにえを想起させる機会ともなる。」(ブリジット・アン・ヘニッショ『中世の食生活−断食と宴』)
1865年、長崎の大浦天主堂に15名のキリシタン信徒が現れた。応対したフランス人神父ベルナール・プティジャンに、一人の女性信徒が「わたしのむね、あなたのむね同じ」と尋ねた。これは同じキリスト教ですかとの意味で、神父は大きく頷いた。そして彼女は安心したのか。
「さんたまりあさまの御像はどこ」神父はすぐに彼らをマリア像の前に導いたのである。(現在も同じ像)
世に言う「信徒発見」「神父発見」である。
彼らは浦上のキリシタンであった。
奇しくも281年前、その土地をイエズス会に贈ったのが、直純の父・有馬晴信であった。