津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■二つの論考を読む

2024-06-17 06:01:58 | 論考

 昨日は二つの資料を読んだ。
   1、お姫様たちの西南戦争:史料の解題と紹介
          2007・03・05 「文学部論叢」 三澤 純氏
   2、砂取細川家と顕光院 (講演史料)
          平成29年10月7日 くまもと文学・歴史観 青木勝士氏

 西南戦争開始時、官軍は西郷郡の侵攻に備えて「射界の清掃」を行っている。
官軍はこれを事前に細川家に通達したらしく、北岡(現・北岡自然公園)邸には当時ここに細川護久の側室・縫が生んだ三人の姫がおられたが、すぐさま避難のために立田邸に出発された。そして40日余にわたり戦況を見ながら避難行をされた。
さて、この資料に「射界の清掃」のことが書かれていることは承知していたから、これを読むのが目的であったが、ここで「坪井付近で60軒、安政橋辺にて30軒ばかり」を焼き払った(東京日々新聞記事)と紹介していることを確認、目的を果たした。
 「射界の清掃」は18日に通達され、19日の正午に実行される予定であったが、余りにも急な通達に住民は避難のすべもなくおろおろする中30分延長され、町々に放火、火の海になった。
三人の姫、嘉寿(9歳-22歳没)・宣(7歳-伯爵・松平直亮室)・志津(6歳-男爵・阿蘇惟孝室、後離婚)は、長い避難行が続き、4月27日大風雨の中、北岡邸に帰られ東京から帰熊されていた護久公にお会いになることになる。
(但し御三方の満年齢については、嘉寿姫が明治二年九月十四日生で7歳、宣姫が明治四年三月十五日生で6歳、志津姫が明治五年八月六日生まれで4歳ではないかと、私見を述べておく)

 (1)の論考の中に、細川斎護夫人・顕光院についての消息が書かれていた。
 (2)の史料では、顕光院を実娘・峯姫(松平春嶽夫人)が東京から見舞に熊本に訪れたことが紹介されていたが、これが(1)の資料により「老衰」と「持病ノ癪気・眩暈」で上京の予定をやめたことが記されている。壬申(明治5年)三月(17日)付で、東京府にあてたものである。顕光院と長男嫁・鳳臺院、護久長男・建千代、長女・嘉寿も同行予定であったが、これも取りやめになっている。
(2)の資料を補強する史料である為、(1)資料に該当部分をコピー添付した。

 

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■小西マンショ(Conisci Mancio)考

2024-02-25 08:58:39 | 論考

小倉在住の小川研次氏とのおつきあいは6年半ほど前にさかのぼる。「小倉藩葡萄酒事情」という冊子をお送りいただいて以来である。
氏はワインのソムリエとして著名な方だが、キリシタン史にご興味を持たれて多くの論考をものにされお送りいただき、当方サイトでもお許しをい
ただき掲載させていただいた。
今回も小西行長の娘・マリアを生母とするキリシタン・小西マンショをとりあげられた以下のような論考をお寄せいただいた。
お許しをいただきここにご紹介申し上げる。

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        小西マンショ(Conisci Mancio)考        北九州市・小川研次

■追放と帰国
関ケ原の戦い(1600)の敗者となった対馬藩主・宗義智は舅の小西行長が処刑され、その長男が処刑されるために京都へ送致されたことを知った。
そして、「(行長)の娘(マリア)を妻に持ったことからくる災難を大いに恐れ、彼女を救ってもらうために書状をしたため、彼女を幾人かの下女
とともに船に乗せて長崎の司祭たちのもとへ送った。」(「1599~1601年、日本諸国記」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)のである。

マリアは1593年12月に対馬に滞在していたグレゴリオ・デ・セスペデス神父より洗礼を授かった。
セスペデスはここから、行長の要請であっ
た朝鮮へ向かったのである。(朴哲『グレゴリオ・デ・セ
スペデス』)帰国後は豊前中津の黒田如水に招聘され、活動していたが、細川ガラシャの
霊的指導者
だった関係で細川家入封後、小倉教会上長として勤めることになる。
さて、マリアには1歳となる子がいたが、のちの小西マンショとされる。有馬のセミナリオで学んでいたが、1614年の幕府のキリスト教禁教令のた
めに、マカオへ追放される。この時、15歳であった。(『キリシタン時代の日本人司祭』)

その後、マカオからペドロ岐部とともにローマを目指した。(岐部はゴアから踏破)
先に帰国となった岐部は1623年2月1日付のリスボンからローマのペンサ神父宛の書簡に「霊的なことにも世俗のことにも、マンショ小西をよろし
くお願い申し上げます。」と後輩のことを気遣っている。(『キリシタン人物の研究』)

1632年、小西は18年ぶりに帰国する。マカオ経由マニラ発で薩摩に上陸した。
「(イエズス会の) 斎藤神父と小西神父は、ドミニコ会員ディオゴ・デ・サンタ・マリアと同船していた。彼らの航海は夥しい事故のために、二十日
が五ヶ月に延びた。ディオゴ神父はこの間に一行の髪
が白くなったのを見た。
彼らは遂に薩摩に上陸し、そこに一六三三年三月まで留まった。」(『日本切
支丹宗門史』1632年の項)
小西一行はマニラから20日の航海で日本に到着予定だったが、遭難して5カ月も要したのである。
マニラから先行したセバスチャン・ビエイラと同時期の1632年7月あたりの出航で、薩摩には11月末から年末にかけて到着したと思われる。小西家
と島津家は縁戚関係になり、小西行長の妻の叔父は島津弾
正で、貴久の三男・歳久の養子・忠隣のことである。キリシタンであった。(『薩摩切支
丹史料集成』) また、藩主・家久の義母・竪野永俊尼(カタリナ)がおり、キリシタンを擁護してた。竪野も小西家
縁故(行長家臣・皆吉続能娘)
の人物であった。(同上)
神父不在の地に身内であるマンショ小西らが現れたことは、大変な喜びであっただろう。
マンショらが薩摩を離れて間もなく、島津家家臣の矢野主膳がキリシタン明石掃部(全登)の子・小三郎を堅野の家臣ジュアン又左衛門が匿ってい
ることを暴露したのである。(「9月19日付伊勢貞昌書状」『戦国・近世の島津一族と家臣』)

寛永10年(1633)12月7日付の各家老宛「島津家久條書」から、「一ヶ條之儀に付、内談可有之衆之事として「南蛮宗之事」「立野之事」「赤石掃
部子、定早々可召上候事」「志ゆあん又左衛門尉事」(一
部抜粋)とある。(『大日本古文書家わけ第十六島津家文書之四』)
義母立野(竪野)の対処に苦悩している家久の姿が浮かぶ。
小三郎発覚が堅野への処断のトリガーとなったのである。

■訴人
「ディオゴ・デ・サンタ・マリア」は大村出身の朝長五郎兵衛という日本人司祭であるが、1633年7月に長崎で捕縛され、8月17日に穴吊の刑により
落命した。(『信仰の血証し人
~日本ドミニコ会殉教録』)
朝長の居場所は拷問を受けたシモン喜兵衛の告白により、明
らかになった。(『日本切支丹宗門史』)
「斎藤神父」はパウロ斎藤小左衛門であるが、1614年11月、小西マンショらとともにマカオへ追放されれ、司祭叙階後にマニラから帰国となった。
しかし、薩摩を発ってから半年後
の9月に天草の志岐で捕縛され、10月2日に長崎で穴吊の刑となった。(『キリシタン時代の日本人司祭』)
小西らは薩摩におよそ3カ月の滞在後、旧暦寛永10年(1633)1~2月頃に発っているが、小西以外の二人の神父は帰国から半年以内に捕縛され
ている。この年の2月の幕府のキ
リシタン訴人褒賞制による伴天連(神父・司祭)訴人には「銀は百枚」が功を奏したのだろう。(「キリシタン訴人褒賞制について」『キリシタン研究』)
寛永11年(1634)7月には肥後では「切支丹の訴人百人余」も出たという。(『熊本藩年表稿』)
しかし、日本人最後の司祭となった小西は1644年に処刑されるまで、潜伏して活動を行っていた。(『キリシタン時代の日本人司祭』)
有力な庇護者がいなければ不可能である。

さて、日本側の史料をみてみよう。寛永10年(1633)5月から7月までの熊本藩主・細川忠利の書状(『大日本近世史料編細川家史料』(書状
番号))に3人の司祭が記されている

まず、寛永10年(1633)5月12日付(西暦6月18日)の長崎奉行・今村正長宛書状(2181)である。
「其元伴天連いまた居申候にて御つかまへ候由、扨々妙なる宗体にて御座候」(長崎にいまだに伴天連(司祭)がおり、捕まえたとのこと、さて
さて奇妙なる宗教である)とある

この「伴天連」は上述の時期から長崎で捕縛された「ディオゴ朝長五郎兵衛」と思われる
興味深いのはキリシタンを擁護していた忠利の言葉「驚き申し候」である。この時、松
野半斎(大友宗麟三男)や加賀山主馬など多くのキリシタン
家臣を召し抱えていたからで
ある。(『肥後切支丹史』上巻)
さらに伴天連の捕縛が続く。同年6月13日(7月18日)付・曾我古祐宛書状(2260)に、「於天草彼伴天連小左衛門尉つかまへ由候由」(天草に
於いてかの伴天連小左衛門を捕
まえたとのこと)とあり、パウロ斎藤小左衛門のことである。
『日本切支丹宗門史』には「天草志岐」にて捕縛とあり、朝長と同じく場所は合致しているが、西暦9月としている。
この書状から斎藤が捕縛されたのは7月18日以前となる。朝長
や斎藤の処刑月(8月、10月)のひと月前である。おそらく捕縛時期が不明であったためにひと月前とした可能性はある。
同状に「九右衛門と申伴天連は長崎薬屋五郎左衛門所へ天草之もの送届申候由、承候」(九右衛門という伴天連は長崎の薬屋五郎左衛門の所へ天草
の者が送り届けたとのことを承
知しました)とあり、九右衛門を長崎へ送った「七郎兵衛」は天草で捕まり、もう一人の「半六は筑後之者と申候由」
のために、柳川藩主・立花忠茂へ捜索を依頼したとのことで
ある。
この書状は7月7日に家臣が受け取ったとしているが、忠利がホールドしていたと思われる
追伸で「九右衛門」も既に「熊本を罷り出でた」として行方不明としているところから
、次の事件後に追記したと推測される。忠利は何らかの手を
打っていたのであろう。


■発覚
寛永10年(1633)6月29日(8月3日)今村・曾我古祐宛書状(2242)に「先度我等国へ伴天連参候刻、宿をかし申候我等内嶋村三郎兵衛儀」(せん
だって私の国(肥後)へ伴天連
が参った時、宿を貸した私の家臣・嶋村三郎兵衛の件)とあり、忠利にとって、いや、細川家においての重大事件が
発覚する。
宿主は小姓組衆の三郎兵衛である。(「肥後御入国宿割帳」)忠利のお気に入りであったようで、小倉藩時代から「供之者」であった。
(「於豊前小倉御侍帳」)弟は留守居組だ
った嶋村善助と思われる。(同上)
三郎兵衛一家はキリシタンであったが、家中共々と転宗の証文を提出した。ところが、奉公人にキリシタンがいたことが発覚し、妻、子供、弟とも
に「成敗」したとある。

果たしてそうだろうか。この頃、キリシタン宿主は死罪であるが、忠利は温情により、転宗証文で決着しようとしている。忠利の指示により、「伴
天連」を匿っていたのではなか
ろうか。
昨年末、忠利の庇護のもとで小倉に潜伏していた中浦ジュリアンが捕縛されてい
たことも一因と考えられる。母ガラシャの追悼ミサにも「伴天連」
が必要であった。

さて、「伴天連九右衛門」こそ、小西マンショではなかろうか。そうであれば、実名は「小西九右衛門」となる。
「長崎薬屋五郎左衛門」は「ミカエル薬屋」(ミゼリコルディア組頭・慈悲会)で間違いないだろう。7月28日(旧6月3日)に処刑されていること
から(『日本切支丹宗門史
』)、5月までにはすでに捕まっていたと考えられ、九右衛門はそれ以前には長崎に入っていたことになる。
おそらく、小西ら3人は薩摩から天草・島原経由、長崎へ向かったと思われる。
そのキーマンが「薬屋五郎左衛門」であった。4月頃であろう。ここでビエイラや伏見に潜伏していた管区長マテウス・デ・コーロスのことを聞い
て、斎藤は天草へ、小西は長崎
から筑後へ、そして熊本へ入ったと推測される。
この直後、五郎左衛門は捕縛されたので
ある。おそらく、報奨金目当ての訴人がいたのであろう。

■白井太左衛門
薩摩キリシタン騒動の最中、細川家に薩摩から「白井太左衛門」という人物が現れる。
太左衛門は島津家家老・喜入忠続(忠政)の家臣(叔母聟)であったが、忠続は細川家家老・松井興長に細川家への仕官を依頼したのである。
寛永10年(1633)の月日は明確では
ないが、忠利は「御小姓組」300石で召し出している。(「先祖附」『新・肥後細川藩侍帳』)
忠続の義母は堅野であり、妻妙身(竪野娘)もキリシタンであった。このような状況から家老職を辞したのであろう。驚くことに太左衛門もキリシ
タンであった。転宗したのは3
年後であるから、細川家召し抱えの時は現役であったことになる。(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』)
当時、御法度であったキリシタン家臣の召し抱えを忠利は承知の上で実行し
たことになる。

さて、前年(1632)末、忠利は他国の「奉公人」を抱きかかえようとしていたが、幕府の許可などで苦労していたようである。喜入忠続宛の書状か
ら太左衛門のことであろう
。(「十二月晦日喜入忠続宛書状」(1885))
豊前から肥後への転封直前のおびただしい時であったが、重要案件だったとみえる。
しかし、翌年(1633)正月の忠続宛書状には「牢人之儀預申候」とあり、忠利は一旦、浪人として預かっていたのである。
(「正月十八日喜入忠続宛書状」(1984))

奇しくも小西マンショらが薩摩を離れた時期と一致する。推測だが、同行した可能性はある。
同年9月5日付太左衛門宛忠利書状(2329)
に太左衛門から「南蛮菓子あるへる」を頂き、
謝意を記している。「あるへる」は有平糖のことである。長崎からのお土産だろうか。
の頃、すでに細川家に仕官していたと思われる。正保元年(1644)3月2日、太左衛門は江戸にて乱心者によって殺されたという。
(「先祖
附」)小西の没年と同じである。

■喜入忠続
喜入家と細川家の関係は幽斎(藤孝)時代に始まる。忠続の兄久道の嗣子の死、又、男子が早世していたのであった。仏門に入っていた長重(忠続)
だったが、天正17年(1589)
に幽斎が薩摩にいた時、盟友島津義久に喜入家を継がせるように推挙したのである。
「幽斎は媒酌の労をとり、長重に伊集院抱節の娘を娶らせた。長重は還俗して喜入家を継ぎ、名を忠政と改め、摂津守と称した。
時に年、十九歳であった。」(『枕崎市誌』上巻

伊集院久治(抱節)の娘の死後に、後妻として入ったのが妙身である。慶長19年(1614)、忠続(忠政)は幕府の命により島原へキリシタン取
締りのために逗留
していた。(「本藩人物誌」)この時の様子を『日本切支丹宗門史』(1614年の項)に記されている。
「薩摩の人達は、海岸を伝って東に向かい、三会、島原、並びにその他の村々へ行った。
戦争に出て、血を流すことにしか馴れていなかったこれらの人達が、キリシタンに先ずしばらく退くように忠告した。そこで、大部分の信者は、山
中に逃れた。薩摩の人達は、命
令を実行した風にして、最早この地方には、キリシタンは一人もおらないと宣言した。」何と、忠続はキリシタンを保護していたのだ。これらのことから、忠続もキリシタンだった可能性は十分にある。
細川忠利は肥後国転封前(1632)に忠続へ薩摩と隣国になることの喜びを表していることからもかなり親密であった。
(「十二月晦日喜入忠続宛書状」(1885))

寛永11年(1634)10月の書状には忠利が島津家久から忠続が無事であったことを聞いて安堵している。(「十月四日喜入忠続宛書状」(2633))

義母堅野の種子島配流、妻妙身、娘於鶴のキリシタン発覚で幕府より忠続にも嫌疑がかかっていたと思われる。又、忠利が特に案じたことは召し抱
えた忠続の叔母聟であるキリシ
タン白井太左衛門の暴露であることは容易に想像できる。

■奇説
喜入忠続の前妻の死後に後妻として入ったのが妙身であったが、奇説が存在する。
妙身が小西行長の遺児で、前夫は有馬直純だったという。つまり、母堅野は「肥後の士皆吉久右衛門続能」の娘で「小西摂津守行長の室」であり
「行長と生める女子は喜入摂津守忠政の室となれり」とある。(「鹿児島県史料旧記雑
録後編」『戦国・近世の島津一族と家臣』)
前夫有馬直純との間に「於満津」がおり、島津久茂(喜多村久智)に嫁いでいるという。(「枕崎市史」同上)ところが、『寛政重修諸家譜1520巻』
によると、有馬直純の段に嗣子康純(母・国姫)の
前に「女子」がおり、「母は皆吉氏」とし、「家臣有馬長兵衛純親の妻」とある。
また、「有馬家九流一門人数」として「康純公御姉聟 有馬長兵衛殿」(「佐々木系図」『薩摩と延岡藩(有馬家)との関係』)とあることから、
康純には「皆吉氏」の姉がい
たことに違いない。
直純は慶長15年(1610)に国姫(徳川家康曾孫)と再婚しているので、前妻との子の生誕はこれ以前と考えられる。なお、康純は1613年生まれで
ある。
「於満津」だが、生誕は1612年(1706年没)であるから、直純の子とは考えにくい。
直純は「正室ドンナ・マルタを離婚して憚
らなかった」(『日本切支丹宗門史』1610年の
項)とあり、前妻の洗礼名は「マルタ」であった。
「有馬殿の正室マルタは、千々和の附近に住んでいた。彼女は再婚を勧められたが、拒絶した。彼女は、長崎の山間に追放され、藁葺の小屋に監禁された。」(同1612年の項)
再婚を命じたのは国姫である。「それでも嫁がせようとしたので、彼女はもっと遠くに行く覚悟でいた。まだ二十歳で、いとも上品に育てられたにもかかわ
らず、デウスを傷つけ
るよりは、日本から脱出し極度の貧困にも耐える決意であいた。そして栄ある死の準備をしていた。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第2期第1巻)
その後は消息不明である。典拠は未見だが、盛山隆行氏の直純の正室は「有馬家家臣皆吉久兵衛絡純の娘マルタ」とし「一女を儲けた」という論考が
ある。(「有馬氏三代の閨閥」『歴史読本』2009年4月
号)
むしろ、こちらの方に整合性がある。但し、妙身は行長の娘の可能性は否定できない。
そうであれば、小西マンショの叔母となる。1634年、堅野は種子島に流刑となるが、その後、忠政の妻妙身、その娘(於鶴)、妙身の前夫との娘
(於満津・島津久茂室)もキリシタンとして母を追うことになった。


■将軍上洛
寛永11年(1634)、将軍・徳川家光の上洛の折、不可解な事が起きる。
7月19日(9月11日)付の忠利の長崎奉行・榊原職直宛書状(2507)に「九州・中国・四国、何も閏七月十八日に御暇被下候」と将軍より帰国の許
可が下りたが、忠利には許可が
下りなかったのである。忠利の他には「京極丹後(高広)・京極修理(高三)・伊藤修理(伊東祐慶)・松倉長門
(勝家)・宗対馬(義成)・黒田(忠之)」が残された。黒田は将軍と江戸へ同行を望んでいたからである。
さて、忠利と黒田を除く他の5名との共通点は明らかに「キリシタン」である。
京極高広・高三兄弟はキリシタン高知を父に持つ。祖父母(高吉・マリア)の代からであり、叔父の高次(若狭守)、叔母のマグダレナ(朽木宣綱室)
とキリシタンファミリーで
あった。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)細川家と京極家とは足利義輝・義昭将軍時代に共に仕えていた。
兄弟は受洗の記録はないが、「内密」にされていたのかも知れ
ない。幕府は忠利との関係から情報を得ていたのだろう。
伊東祐慶は細川小倉藩時代に小倉教会でグレゴリオ・デ・セスペデスの助手として活動していた天正遣欧使節の伊東マンショの従兄弟である。
祐慶はキリシタンを擁護していた。
松倉勝家は先述の通り、キリシタンの取締りの立場であった。特に島原には多くのキリシタンがおり、司祭らが
潜伏して活動していた。前年(1633)9月15日(10月17日)の忠利
書状に「松倉内之者なと内々に申分御座候にて三五、六人立退由候由」(2346)
とあり、
家臣35、6人が何らかの理由で立ち退いたとある。キリシタン絡みの可能性もある。
寛永12年(1635)末には47人も退去している。その中に「相津玄察・松島半之丞」など島原・天草の一揆の策謀者が含まれていたとされる。
(吉村豊雄『天草四郎の正体』)

転宗を強制したのが理由かもしれない。なお、忠利は寛永13年(1636)7月に27名の家臣から「転び証文」を提出させている。
(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』上巻)

さて、宗義成だが、小西マンショの異母兄弟である。ここに忠利が帰国の許可が下りなかった最大の理由である。
忠利が匿った「伴天連・九右衛門」こそ、小西マンショであったと考えられるからである
家光は「九州之内には未だ伴天連」(2508)がおり、捜索を十分にすることと直に伝えた。
家光にはかなりの情報が入っており、母ガラシャの魂はキリスト教でなければ救われないと信じている忠利の気持ちは理解しているが、立場上、言わざるを得なかったのである。
「自分の治世の間に母親ガラシャ夫人の葬儀(追悼ミサ)を行いたいと考えていた」(「1609、1610年度年報」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)ことを貫いていたのである。
元和9年(1623)10月16日付忠利書状(138)に「秀林院様御弔之僧衆為迎、来二一日早舟差上申候」(秀林院様の弔いの僧たちを迎えに、来る二十一日に早船を差し上げるように)ただし、江戸へ使いの者がいるならば、この舟には乗せないようにと警戒している。
秀林院(ガラシャ)の命日は7月17日であるが、10月21日(12月12日)に迎えに行くという。なぜだろう。キリストの降誕祭の前であるが、意図はあったのだろうか。
「その父とは大いに違い、宣教師に対して非常に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した」(『日本切支丹宗門史』1624年の項)
「秀林院様」専属の僧は仏教僧に仮装した「中浦ジュリアン」ではなかろうか。

さて、忠利と三斎(忠興)の帰国の暇が下りたのは7月29日(9月21日)であった。(『熊本藩年表稿』)
帰国後、忠利はキリシタン捜索に力を注ぐことになるが、同年12月に河喜多五郎右衛門を国惣奉行に指名している。(同上)五郎右衛門はキリシタンであった。(1636年転宗・『肥後切支丹史』上巻)
忠利の盟友・有馬直純と島津家久との書状がある。同年9月26日付有馬直純宛書状(2621)に直純の領地において、キリシタンに宿を提供した百姓の処遇についての意見を述べている。平キリシタン(伴天連など宣教師ではない)であれば、「構いなし」と長崎奉行から聞いているとし、キリシタンと知っていたならば「成敗」ありとしている。
同年10月29日付島津家久宛書状(2660)には、長崎奉行所で島津領内にキリシタンがいるとの申し出があったことについても、今回の「御改」(定)は「伴天連・入満(いるまん・修道士)・同宿(助手)」ことで、キリシタンではないので、余計なことは言わないように、もし、キリシタンがいたならば、「内緒」で知らせてほしいとアドバイスしている
直純も父・晴信とともにキリシタンであり、家久は先述の通り、義母・堅野がキリシタンであった。彼らは忠利との親しい関係だったが、キリシタン問題となると、真っ先に相談する相手であった。
特に長崎奉行・榊原職直は忠利の「親友」であったことも起因してい
るのだろう。

■小西マンショの行方
その後の「小西九右衛門」こと「小西マンショ」の行方が気になるところだが、寛永11年(1634)9月16日(11月6日)に忠利の領地で長崎奉行の上使によりキリシタンの穿鑿を受けている。(『熊本藩年表稿』)
事件の詳細は上妻博之編著『肥後切支丹史』から引用する。
「寛永十一年九月十六日玉名郡湯倉村(現・玉名市伊倉)というところに、切支丹がいると長崎奉行に訴人が出たので、逮捕のため二人の使者を差し遣わすとの通知が来た。九月二十日の午の刻二人の使者は湯倉村に来たので、郡奉行は早速罷り出、在所を二重に取り巻き、使者は心当たりの家を捜索したが、何物もない。この報が二十日の夜の丑の下刻に奉行所に届いたので、早速馬上侍を急派し、家老長岡佐渡は熊本から夜中馬を飛ばして湯倉村に馳せつけ、藩内の港は舟留めを命じ、街道の□は人留めをして検挙に手を尽くしたが、遂に犯人不明に終わった。」
筆頭家老・松井興長まで登場する大捕り物が繰り広げられたのだが、ただの「切支丹」の対応ではない。明らかに「大物」である。まず考えられるのが、昨年から指名手配となっている伴天連「九右衛門」である。
訴えから4日後に長崎奉行から捜索が入るという知らせがきたという。ある意味、この間に逃避しなさいともとれる。結果、もぬけの殻だったのである。
昨年の忠利書状(2260)にある「筑後の半六」が有明海を渡り、筑後から国堺の高瀬(玉名)近くに送り届けたことは十分に考えられる。伊倉唐人町には多くのキリシタンがいたとされ、「バテレン坂」や「吉利支丹墓碑」が現存している。(玉名市)隣接する山鹿郡には忠利の身内である小笠原玄也家族が住んでいたが、寛永12年(1635)10月、庄村の訴人によりキリシタン発覚となった。(『山鹿市史』)

島原、筑後国、豊後国への移動が容易であるこれらの地域には多くのキリシタンが潜伏していた。
翌年10月、忠利は寵臣阿部弥一右衛門を飽田・山本・玉名・山鹿の「御代官頭」に任命している。弥一右衛門は森鴎外『阿部一族』の主人公である。(同上)
寛永14年(1637)10月に勃発した島原・天草一揆での忠利は陣中に熊本から葡萄酒を取寄せている。(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』創刊号)
多くのキリシタンの死を目前として、「ゆるしの秘跡」を行ったのだろうか。そうであれば、そこには「伴天連・九右衛門」がいたはずである。

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■本能寺からお玉が池へ ~その⑮~

2023-05-13 07:16:57 | 論考

 このシリーズは、東京深大寺にある医療法人社団‐欣助会・吉祥寺病院の医師で明智光秀のご子孫である西岡暁先生によるものであり、これも光秀の血を引く三宅艮斎やそのご子孫、これに連なる江戸時代から、近代初頭にいたる江戸・東京の医学の系統を明らかにされた、大変興味深いものである。
季刊であるため3ヶ月の間が空いたが、その「じんだい・第71号」をお送りいただいたので全文を文字おこしをしてご紹介申し上げる。
今回は細川家にも関りある森鴎外の「護持院ヶ原の敵討」や、三宅藤兵衛と赤穂浪士との関りなども取り上げられている。お楽しみいただきたい。

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   吉祥寺病院・機関紙「じんだい」2023:4:28日発行 第71号            
     本能寺からお玉が池へ ~その⑮~              医局・西岡  曉


      春なれや 名もなき山の 薄霞 (芭蕉)

 この句は、芭蕉さんが「桃青(とうせい)」と名乗っていた時代に「野ざらし紀行」で故郷・伊賀から大和への道行の途中、大和国に入
にあたって詠んだ句で、季節は春です。そして、芭蕉さんの代表作と云われるのも、春の句です。

その句は、今では誰もが知るところとなっていたので、芭蕉さんの作品だと言うばかりではなく「俳句の中の俳句」とまで云われています。

      古池や 蛙飛び込む 水の音 (芭蕉)

 この句は、「本能寺の変」(とは無関係ですが、)から百年ほど後の1868年(貞享3年=「野ざらし紀行」の翌年)に江戸・深川の芭蕉
庵で
詠まれたもので、芭蕉さんは初めに「蛙とんだり 水の音」という下の句を思い付きました。
これだけでも「俳句の革命」なのだそうです。
(ですが、その話はこちらのテーマからは外れるので、ここでは触れません。)

 さてここで、これまで幾度も登場された「お玉ヶ池生まれ」(異説あり、と言うか「お玉ヶ池生まれ」が異説とされています。)の「蕉
門四
天王」&「蕉門十哲」筆頭で「月下を医す」人=宝井其角(1661~1707)にはいま一度お出まし戴きましょう。芭蕉庵の「蛙」の
(?)句会に
参加した其角は、師匠の芭蕉さんに上の句のアイディアを訊かれると直ちに「山吹や」と答えました。

(その後芭蕉さんが直した下の句と合わせると次のようになります。

      山吹や 蛙飛び込む 水の音 (芭蕉&其角?)

 これはこれで「山吹」(の花の姿)と「水の音」の対比が際立つ名句です。芭蕉さんがこれを採ったとしても、蛙の鳴き声ではなく水の
音を採り入れたことだけで「俳句の革命}と云われたことでしょう。ただ芭蕉さんはそうは思わず、「古池や」としました。
そのお陰でこの(「古池や・・・」の)句は、世にあるすべての俳句の代表作と云われるまでになったのです。
「古池や・・・」の句が「俳句の革命」なら、種痘は「医学の革命」と言えるでしょう。(強引なのは百も承知です。)
「お玉ヶ池種痘所」の発起人・三浦艮斎の先祖である明智岸の妹・ガラシャは、辞世「散りぬべき時・・・」に桜花を詠っています。
ガラシャの辞世の歌は、(土岐)明智一族の心と(日本の)キリシタンの心を重ねて詠ったものです。それから400年、「日本人の心を詠
った」と称する桜花の俳句があります。

      ちるさくら 海あをければ 海へちる (高屋窓秋)

 この句を詠った高屋窓秋は、三浦艮斎・坪井信道(二代目)等が開設した「お玉ヶ池種痘所」を源流とする東京帝国大学医科大学に学ん
だ産婦人科医でもあった水原秋櫻子の(窓秋は医師ではなく俳句の)弟子の一人です。
ところで、一昨昨年の「深大寺道をゆく」旅では、芭蕉さんの桜の句をご覧頂きました。

      さまざまなこと 思ひ出す 櫻哉  (芭蕉)

 この句は、芭蕉さんが「芭蕉」になって7年、江戸へ下って16年の1688年(貞享5年。「野ざらし紀行」から3年。)春、故郷・伊賀上
野に帰省した芭蕉さんが伊賀の桜を詠んだもので、その桜の屋敷=芭蕉さんの旧主・藤堂良忠(藤堂藩侍大将。俳人・蟬吟でもありました。1642~1666)の遺児・良長(俳号・探丸)の屋敷は、今「様々園」の名で遺されていて(私邸のため)園内には入れませんが、毎年塀越しに桜花を愛でることが出来ます。

[17] 湯島
「お玉ヶ池種痘所」の発起人・三宅艮斎の先祖である明智岸の妹・玉に洗礼を授けて「ガラシャ」にしたのは、侍女の清原マリア(生没年不詳)でした。清原マリアの父・清原枝賢(1520~1590)の伯母・智慶院は、ガラシャの夫・細川忠興の祖母です。
昔の昔のその昔、清原マリアの先祖と云われる清少納言(同じく生没年不詳)が「春はあけぼの・・・  夏は夜・・・ 秋は夕暮れ・・・ 冬はつとめて・・・」と書いた時代になるのでしょうか。
 不忍池もその東にあった姫ヶ池も、その北の千束池も(と云うことは「お玉ヶ池」も)海だったその頃、海の上から(後に江戸の町になる)陸を眺めた時、上野の山も本郷台地も島に見えたことから本郷台地(の海寄り部分)は湯島と呼ばれるようになりました。 

               
                              江都名所「湯しま天満宮」(歌川広重)

 これが湯島の「島」の由来ですが、「湯」の由来は良く分っていません。(本来なら[8]か[11]でお話しすべきでしたが、)その頃この辺りはまだ「本郷」ではありませんでしたので、「本郷台地」とは言えません。尤も「台地」もは見えなかったから(現在の本郷も含めて)「湯島」と呼んだ訳で、湯島に出来た集落の中主なものが「湯島本郷」と呼ばれ、室町時代に略して「本郷」になったと云われています。
 (「本能寺の変}の主要メンバー・斎藤利三の曽孫と思われる)徳川綱吉は、湯島の地に1690年(元禄3年)、湯島聖堂(@文京区湯島1丁目)を建てました。百年後ここは幕府の学問所=正平坂学問所になったので、「学校教育発祥の地」とされていますが、元は儒学に傾注していた綱吉が孔子廟として建立(正確には、林羅山が1632年に上野に建てた施設の廟=忍岡聖堂を移築)したものです。
 正平坂学問所は、明治維新後明治政府の「昌平学校」になり、1869年に([9]で述べたように、医学校が「大学東校」、開成学校が「大学南校」になったのと同時に)「大学校」になりました。大学侯は国学と漢学の学校でしたが、国学と漢学との抗争(?)が激化したため、2年後に廃校されてしまいました。一方(?)大学南校は外国語と洋学の学校でしたが、1874年に「東京開成学校」と統合して「東京大学」となります。その際、東京大学文学部が「史学哲学及び政治学科」と「和漢文学科」の二学科で発足しましたので、廃校されて6年の(大学南校の源流である)昌平学校が、ちゃっかり(?「東京大学文学部」の名称で)復活したとも言えるようです。
 ところで、芭蕉さんは「奥の細道」の旅から戻った次の年・1692年(元禄5年)の桃の節句に、宝井其角ともう一人の高弟・服部嵐雪(1654~1707)を招きました。その折芭蕉さんは、「草庵に桜桃あり。門人に其角・嵐雪あり」と称えた上で、次の句を詠みました。

      両の手に 桃と桜や 草の餅  (芭蕉)

 それに応えて、という訳ではありませんが、嵐雪は春の句と言えば、次の梅の句でしょう。

      梅一輪 いちりんほどの 暖かさ  (嵐雪)

 服部嵐雪は、江戸・湯島の生まれと云われ(異説もあります。)、湯島天神の鳥居には、嵐雪の本名=服部久馬之助の名前が刻まれているそうです。もし嵐雪が湯島の生まれならば、この句の「梅」は、当時から有名だった湯島天神の梅(=「湯島の白梅}?実際、湯島天神の梅はその8割が白梅だそうです。)を詠ったものかもしれませんね。

 [18] 一橋

 徳川幕府五代将軍・綱吉は、母・桂昌院(お玉の局)の祈祷所として1681年(天和元年)に護国寺(@文京区大塚5丁目)を、幕府の祈祷所として1688年護持院(現共立女子大学@千代田区一ツ橋2丁目)をと、二つの巨刹を建立しました。この中護持院は、綱吉の死後1717年(享保2年)に火災で焼失したため護国寺の境内に移され、護持院の跡地は火除け地となり、「護持院ヶ原」と呼ばれるようになりました。「江戸名所図会」によれば、護持院ヶ原はその後、冬から春にかけては将軍家の狩場として使われましたが、夏から秋にかけては江戸の市民に開放され、市民の憩いの場になったそうです。
 森鴎外の小説に、「播磨国飾東郡姫路の城主酒井雅楽頭忠実の上邸は、江戸城の大手向左角にあった。・・・」と始まる話があります。
この「姫路の城主酒井雅楽頭忠実」は、[10]で触れた酒井抱一の兄・忠以(姫路藩第2代藩主)の次男(ですが、藩主としては4代目)です。この小説のヒロインは「細川長門守興建の奥に勤めていた」娘ですが、細川興建は、ガラシャの夫・忠興の弟・興元を初代とする矢田部藩(@茨木県つくば市)の第8代藩主です。細川興元は、忠興とガラシャの次男(=明智光秀の孫でガラシャがキリシタンとした)興秋を養子にして、後には興秋とその母・ガラシャの勧めで自身もキリシタンになったそうです。ガラシャの夫・忠興の母・沼田麝香も、ガラシャの死の翌年キリシタン沼田マリアになりました。

 鴎外のこの小説は、漱石の「吾輩は猫である」の8年後同じ雑誌「ホトトギス」に掲載されました。題名を「護持院ヶ原の敵討」と言い、そのクライマックスの舞台に護持院ヶ原が使われています。「ホトトギス」主宰・高浜虚子(1874~1959)が居(兼「ホトトギス」発行所)を構えたのは、護持院ヶ原から九段坂を挟んで西に半里ほどの処でした。

       灯をともす 掌にある 春の闇  (虚子)

 ところで「敵討」といえば、なんといっても「忠臣蔵」でしょう。討ち入りの後、大石内蔵助始め17名の赤穂浪士が熊本藩お預けとなり、浪士を引き取りに赴いた旅家老(他藩で言う江戸家老)が明智光秀の玄孫・三宅藤兵衛重経で、下屋敷で出迎えたのが藩主で同じく明智光秀の玄孫だったこと、そして熊本藩士・堀内傳右衛門が大石内蔵助に三宅藤兵衛は明智左馬之助(秀満)の子孫であると教えたことを[8]でお話ししました。この時の将軍事件のきっかけ(=浅野内匠頭の切腹)を作ったと云われるのは、誰あろう(斎藤利三の曽孫と思われる)徳川綱吉です。また討ち入りの日の月番老中は稲葉正往でしたが、正往は[14]で述べたように斎藤利三の玄孫です。
 赤穂浪士の討ち入りから150年近く後の1856年(安政3年)、徳川幕府は洋楽の研究教育のため「蕃書調所」を九段坂下(@千代田区九段北1丁目)に開きました。「蕃書」とは、今でいう「洋書」のことです。蕃書調所の教授(後には頭取)には、後年「お玉ヶ池種痘所」の発起人筆頭となる箕作阮甫が、同じく発起人(で織田信長末裔・坪井信道の娘婿)になつ坪井信良が教授手伝いになりました。6年後蕃書調所は、護持院ヶ原に移転して「洋書調所」になります。

        

                             絵本江戸土産「護持院ヶ原」(歌川広重)

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■吉原実氏論考御紹介ー『慶長日件録』に現れる佐久間備前守安政とその一族

2023-05-11 07:25:24 | 論考

        『慶長日件録』に現れる佐久間備前守安政とその一族
                                   吉原 実

 天武天皇第三皇子である親王を遠祖とし、公家で半家の清原国賢を父に持つ舟橋秀賢が、慶長五年(一六〇〇)正月より同十八年正月十八日まで著した日記『慶長日件録』という文献がある。その原本は不明だそうだが、写本は前田家が所蔵との事。当時の日本には、東に関ヶ原ノ合戦で勝利した徳川家康・秀忠父子、西には淀殿・秀頼母子の豊臣政権、相方が相並んで存在するという複雑な時代であった。その様な混沌とした時代を両方のバランスを取りながら生き抜こうとした公家衆のしたたかな姿を見る事ができた。日記には秀賢と親しく交わる近江高島藩主・佐久間備前守安政やその一族の様子も登場する。安政の室の実家である勧修寺家も義兄・光豊の時代で、もちろん秀賢との関わりも方々に登場する。それらに目を向けながら当時の時代背景を理解する事も、歴史を知る観点からも必要かと思われるのである。

慶長六年(一六〇一)

 十二月廿四日
「參揚明處、廣橋大納言、勸修寺宰相、御前有之、秀賢堂上之事、以兩人御披露之處、御免由兩人被申、則稱号舟橋可稱之由仰也、稱号代々高倉雖相搆、高倉他家有之、粉敷被思召之由、如此被改者也、」
(近衛、広橋兼勝、勧修寺光豊らが立ち合い、秀賢の姓を清原から船橋に変える事が認められた時の様子である。この日が初昇殿でもある)

慶長八年(一六〇三)

 七月廿八日
「今日、内大臣秀頼公被迎妻室云々、江戸大納言家、御息女也、伏見ヨリ大坂ニ到舟船悉、」
 (大坂の豊臣秀頼の所へ江戸から千姫が輿入れした日である)

 八月十一日
「乙未、晴、秀頼卿御祝、其爲御禮諸公家下向、及予也亦大坂ニ下、冷泉、山科、四條令同船、申刻到大坂、着岸、秀頼卿拝出、長印軒宅一宿、」

 十ニ日
「晴、齋了、着衣冠、秀頼卿亭参、先揃家衆御禮、有御振舞、次淸花等也、有一献、御太刀進上、晡時各退出、平野大炊人道己雲齋許ヘ行、」
(大坂城の豊臣秀頼の所へ、冷泉為景・山科言継・四條隆昌たち他の公家衆と共に下向した。前月にあった秀頼と千姫の婚礼の祝いを持参したようである。秀賢が十二日に寄った平野氏は、平野大炊九朗右衛門長景の事であろう。父の長治は清原宣賢の孫であるので、秀賢とは親戚にあたる。細川幽斎(藤孝)も親戚にあたる。長景の弟・長泰は賤ヶ岳七本槍の一人)

 十三日
「晴、早々長印許へ行、長印令同道、片桐市正許へ行、式目假名抄遺之、一段満足由也、今度、秀頼卿自萓堂、式目假名抄之事被仰出、書本出來間、市正令同道、城ニ参、則式目抄上下ニ冊、居臺并錫酒鍋三つ進上也、見事出來御祝着之由、御返事也、帷子壹重袷壹銀子五枚致拝領、尤眉目之至也、未刻退出、長印令同道、長印私宅に歸、次今中彌三郎許、振舞行、今中勘右衛門始逢宅、及黄昏、歸大炊許ニ、」
(長印を同道させて片桐市正(且元)の所へ行く。とは、京都の行政権を司る役職()の責任者の事。式目名抄とは御成敗式目(貞永式目)を注釈し本にした物。秀賢の四代前の清原が著した。秀頼の母(・淀殿の事)からも要望があり、持参したようである。今中勘右衛門とは光安の事で、元々足利将軍家の奉公衆であったが、この当時は浅野長政に仕えている。秀賢が大坂に下向した折には泊まる長印軒、この家の長印という人物は誰であろうか。専門家の方のご教示も頂いたが、長印という者らしいと言う事以外は判明しない。御調も名なのか職業なのかも判らない。秀賢に写本を依頼しているので、裕福な商人なのかも知れない)

 九月廿一日
「さくま久衛門女中より二荷三種給之」
(佐久間安政の奥方より四個(二荷)の酒樽と三種類の酒の肴を頂く)

 十二月七日
「勸修寺宰相殿へ兩種二荷遺之、儀同殿爲一周期故也、」
(勧修寺光豊の父であった晴豊(儀同)の一周忌のお供えを届けたようである。命日は翌日の八日であるが、我が家の菩提寺である近江高島の幡岳寺の過去帳にもその様に記載が残る)

慶長九年(一六〇四)

 二月廿日、
「佐久間久右衛門、簾中令來給、杉原一束給也、」
(佐久間安政の奥方が訪れ、紙を一束戴いたそうである。安政の奥方は公家・勧修寺晴豊の娘で、後の光寿院である。杉原紙は播磨国杉原で透かれた和紙)

 四月十六日 
「晴、朝食、片桐市正可被振舞由、被示之間、僧正令同心、向彼宅、於書院、片市相伴、有振舞、此間榜庵被來、則令雑談畢、巳刻、市正令同途、御城へ登、有暫、秀頼様御対面、御手取熨斗鮑給也、予秀頼様へ進物、御太刀一腰、三畧踈本一字不見點也、黄昏書之進也、則有御被見、御祝着之由也、次秀頼様御母堂様へ杉原一束、箔帯ニ筋裁一筋上ニ置之進上、又秀頼様政所様へ錫五封進上、午刻歸宅、次平野己雲齋嫡男五郎左衛門、加藤主計頭家中ニ居住也、」
(秀賢が片桐市正を同道させて大坂城へ行く。大坂城では秀頼や淀殿、千姫に色々な進物を献上している。親戚の平野長治の嫡男・五郎左衛門長時と会う。長時は加藤清正の家臣であった)

 六月三日
「今夜九條殿、殿中納言、御納婦迎也、其身三好小吉息女也、小吉死後、秀頼卿御母堂爲猶子養育也、今度秀頼卿御母堂、悉皆御造作也、路次行粧擔物等驚目者也、」
(言中納言・九条幸家が正室を迎える。相手は三好小吉(豊臣秀吉の姉の子である羽柴秀勝)の娘で。実は秀勝と淀殿(茶々)の妹であるとの間にできた娘であったが、秀勝亡き後に淀殿の猶子として育てられた。その嫁入り支度を淀殿がすべて行い、輿入れ道中の荷物の豪華さに人々が驚いたと書いている)

 七月四日
「晴、佐久間九(久)右衛門女中天朔誕生女子云々、日取共書付遺也、従女房衆、爲祝義、双樽兩種遺也、」
(佐久間安政の奥方に女子が誕生したので、日取共書付と祝いを持って行かせたようである。天朔とは、天(神)が示した第一日目という意味か暦の事だろうか。当時、安政は伏見の屋敷にいたと思われるので、七月一日に生まれた情報が三日後のこの日に着いたのかもしれない。安政と奥方の間には六人の娘がいたが、この日に生まれたのは何人目の子であったのだろうか。我が家の初代の腹違いの妹たちにあたる)

 十二月八日
「今日勸修寺儀同、晴豊卿第三回忌也、昨日可焼香之由、内々被示之間、辰刻、向彼亭、座敷相伴衆、廣橋大納言、中御門中納言、亭主、飛鳥井宰相、鷲尾宰相、阿野少将、左衛門佐、小川坊城、土御門左馬助、予等也、此外僧俗卅人斗有也、」
(公家の勧修寺晴豊の命日である。その三回忌。秀賢たち公家衆は昨日すでに焼香を済ませていたようである。この時の勧修寺家の当主は光豊で、父の跡を継ぎ後陽成天皇の武家伝奏をしていた。佐久間安政の室・光寿院の兄にあたる)

慶長十年(一六〇五)

 六月十五日
「佐久間九衛門息女來入、三荷三種与給之、奴僕以下悉薦晩飡、」
(佐久間安政の娘が酒と肴を持ってきたので、下男たちも含めて皆で夕食に頂いたとの事である)

 十二月十八日
「晴、齋了、佐久間久右衛門息女歸宅、此中依病惱、於予宅、養生也、本復之間、被歸宅、」

(安政の娘が病の為に秀賢の自宅で療養していた様子。病が癒えたので、この日に帰宅したとの事である。佐久間家との昵懇な間柄が判る記事である。齋了とは、毎日の神事を終了したという事)         

慶長十一年(一六〇六)

 十一月廿ニ日
「晴、早朝、板倉伊賀守へ予知行所、人足、爲公儀、淀之塘、御普請、罷出由、承届候、然は予也手前屋敷相替ニ付、屋作普請、人足無之間、被用捨様ニト申遺處、則同心也、仍人足召遺畢、次九條殿ヘ参、御對面也、次親王御方へ参、論吾従今日令讃初給、次曼受院宮より二種二荷給也、次九條殿二荷三種給也、次佐久間久右衛門女中、二荷二種遺也、」
(朝早くに京都所司代・板倉勝重の所へ行っている。秀賢の知行地にある淀の堤での公儀の普請の為に人足が必要なのだが、自分の屋敷の建て替えの人足が無くなるが構わないと言ってあった様子。それを重勝が了承したので、早速人足を送ったとの事。この勝重の嫡男が重宗である。親王の所へ論語を教えに行っている。この日が初回のようである。親王とは、後陽成天皇の皇子・政仁親王(後の後水尾天皇)の事だと思われる。曼殊院(天台宗)は宮門跡なので、この時の宮はであろうか。佐久間安政の所へ物を届けている。「二荷二種」とは天秤棒で担がれる荷物二つで一荷と数えるそうであるので、二荷で四個の荷物。この場合は酒樽の事であろう。「種」とはおそらく酒の肴の事ではないだろうか。二種で二種類の酒の肴)

 三月廿一日
「晴、今夜新宅へ移徒、仍爲祝義、佐久間久右衛門女中より双樽兩種被恵也、」
(禁裏増築の為に移転した秀賢の新居が完成し、この日から移ったようである。佐久間備前守奥方よりお祝いの酒樽二つと肴を贈られる)

慶長十二年(一六〇七)

 四月廿一日
「晴、女房衆、八千代丸、金丸等、伏見叔母之許へ行、佐久間久右衛門女中衆、予女房衆姉也、」
(秀賢に仕える女たちの姉たちが、佐久間安政の奥方に仕えていた様子。因みに、「船橋家譜」には、秀賢の妻は近江の六角義賢(承禎)の娘(従妹・叔母の子)となっている。当時の佐久間家の伏見屋敷は古地図で確認すると、現在の京阪電車・墨染駅の近くにあるが、京屋敷は二条城の近くにあったのであろうか。伏見と京を結ぶ鳥羽街道や竹田街道を往復したのであろう)

 十月四日
「佐久間久右衛門息女三人、被來、美濃帋五束給也、」
(安政の娘三人が、秀賢の所へ来たようである。美濃紙を三束、手土産に持参した)

慶長十五年(一六一〇)

 正月十五日
「十帖たひ一足佐久間久右衛門女中より給也、」
(安政奥方から十足の足袋の一束を貰ったようである) 

 十八日
「晴、今日右府、惣禮也、仍早々令衣冠、殿下令御禮、登城御禮之次第、先摂家二献、次公家衆一献有也、」
(豊臣秀頼(右府)が公家衆たち皆の礼を受けた。秀賢が九条忠栄(殿下)と共に大坂城に登城したようである。秀頼より摂関家と門跡には二献、その他の公家衆には一献があった)

 廿八日
「晴、参番、内義、伏見佐久間久右衛門へ行、」
(秀賢が宮中へ出向く当番であったようである。奥方が伏見の佐久間屋敷に出向いたとの事)

 六月十五日
「壽光院得度、法身院僧上、戒師、」
(佐久間安政の正室・光寿院の母で、勧修寺晴豊の妻であった寿光院が得度した。寿光院は土御門有脩の娘で修子の事である。法身院僧上とは高雄山・神護寺の法身院普海僧上の事だろう)

 十六日
「壽光院より諸白樽、肴等給也、豊國ニ位、一折恵也、」
(豊國ニ位とは豊臣秀頼の事である)

 七月十一日
「佐久間久右衛門女房衆來入、朝食薦也、諸白双樽、肴三種給也、午刻久右衛門始而被來、太刀折帋、帷子、單服等恵也、女房衆、單服、帷子被恵之也、子共各々有音信、」
(京の秀賢宅に佐久間久右衛門の女房衆(婦人たち)が来訪。朝食を薦め、諸白両樽と肴三種を給わった。諸白(もろはく)とは、麹米と蒸米両方に精白米を使う酒造りの製法。今の清酒のようなものらしい。午後には久右衛門自身が初めて来訪。太刀折帋(折紙)・帷子(かたびら)・単服などを戴く。女房衆には単服と帷子を戴く。子供達にもそれぞれ音信(いんしん・贈り物)を戴く)

慶長十六年(一六一一)

 十月十六日
「晴、早朝、佐久間備前女中より重箱餅給也、」

(佐久間備前の奥方から重箱の餅を給わった。これより先、秀賢は九月廿四日に京から江戸に出府。駿府滞在を経て十月十四日に江戸に到着し、日本橋近辺に借宿している)

 十七日
「佐久間備前女中より白米壹石五斗、塩噌給也、朝喰二佐久間備前へ行、」
 (白米や塩・味噌を給う。その後に朝食まで御馳走になったようである。佐久間家との親しい間柄を表している)

 十八日
「佐久間備前守より酒樽、鮭一尺海老、豆腐等贈給也、」
(いろいろと戴いているようである)

 廿日
「晴、午刻御豪様へ進物共進也、備前より案内者被添遺也、御豪様へ箔貼帯五筋、京殿へ帯一筋、女共より縫箱帯二筋進也、」
(秀賢が将軍・秀忠夫人のを訪ねるにあたり、佐久間安政より案内者を遣わされたようである。高価な帯を土産に持参するようだ。京殿とは京極高次の室で江の姉、の事であろう)

 廿三日
「佐久間備前守へ朝飡ニ行、次三縁山増上寺へ見物に行、」
(佐久間備前守邸へ朝食に出向き、その後、増上寺へ行ったようである)

 廿六日
「山、冷令同心、佐久間大膳亮許へ朝飡に行、」
(冷泉為景・山科言継と共に佐久間大膳亮勝之の所で朝食を馳走になったようである。佐久間勝之は安政の弟である)

 十一月朔日
「晴、佐久間備前女中より鳥子榮螺等給也、」
(安政の奥方より、とりのこ和紙やサザエを戴いたようである。とりのこ和紙とは鳥の卵のような色をした厚手の)

 四日
「吉田周慶來談、晩飡ニ行、論吾一部遺也、入夜新庄越州より紅花廿袋賜也、佐久間備前へ朝飡行、山冷令同心畢、盛法印参會、新庄越州へ行、」
(新庄越州は麻生藩二代藩主・新庄直定の事。佐久間盛政の娘・虎姫の違父弟にあたる。山科と冷泉と共に佐久間備前の所に朝食に行く。盛方院とは、堂上家の吉田兼右の一族で宮内卿・吉田浄慶の事であり、幕府の医官でもあった。周慶も一族であろうか)

 五日
「晴、拂曉、佐久間備前より使者被示、鶏時後、女中男子誕生云々、木造長吉より蝋燭五十挺給也、次佐備州へ男誕生見舞ニ行、太刀馬遺也、有盃圴、従盛方院、書状共致來也、佐久間備前より紅花五十袋給也、同大膳亮より蝋燭百挺給也、同久六より紅花十五袋給也、木造左馬助内義より紅花十袋給也、板根傳三郎見舞ニ來、」
(佐久間備前守安政に、朝早くに二人目の男子(安長)が誕生したようである。腹違いの嫡男の勝宗とは二十三歳の年の差があった。秀賢が慌てて見舞いに行き、太刀と馬を遣わした。盃酌があった。医師・吉田浄慶から書状が来る。お産の現場にいたのであろうか。佐久間勝之や勝宗から紅花や蝋燭を給わっている。木造長吉・左馬助は福島正則家臣の南伊勢の木造(北畠)氏の一族だろうか。嫡男・勝宗(久六)は元和二年(一六一六)三月に、二十八歳で家督を継ぐことなく早世してしまう。その奥方は信濃・上田藩主の真田信之の娘・まさ(見樹院)であった。佐久間家の家督は結局、この日に生まれた安長が将来継ぐ事になる。一方、佐久間安政には三人の奥方がいた。最初の奥方は、織田信長が紀州を手中に収めた折に、紀州有田の土豪・保田(湯浅)知宗が、安政の伯父である柴田勝家に人質に差し出した娘を娶り、その婿養子となり保田安政と名乗った。勝宗は保田氏との間の子である。次に佐々成政の娘を娶る。二人の間には娘が一人いたと伝わる。最後は公家・勧修寺晴豊の娘を奥方にする。この日記に登場する光寿院で、勧修寺宰相・光豊の妹、京・鹿苑寺の住持・の姉である。因みに、我が家の初代は紀州・保田氏の庶家である吉原氏を継いだと思われる。最初の奥方との間の子で、佐久間家の系図に出ない勝宗の弟であろう)

 六日
「晴、上洛令用意畢、備前女中より小袖一重給也、及晩、新庄越州へ行、此間備前暇乞、被來云々、逐跡、備州、越州へ被來、越州内者新亟、折檻佗言、再三令助言、今夜相済畢、」
(秀賢が上洛の用意をした。佐久間安政の奥方より小袖一重を戴く。晩に新庄直定の所に行っている間に安政が暇乞いに来たが、秀賢がいないので追って新庄邸にやって来たようである。因みに、新庄直定の嫡男・直好の奥方は佐久間安政の娘である)

 七日
「晴、新因州、同蔵人暇乞、被來、四時出宿、佐備前處立寄、令暇乞、有盃圴之後、乗馬、山、冷同心畢、狩野川一宿、入夜雨沃、」
(秀賢が京への帰路に着く。出発の前に新庄因幡守(直定の従兄弟・秀信か)と蔵人(祖父の直昌か)が暇乞に寄る。四時に宿を出て、佐久間備前の屋敷に寄り別れを告げる。一献酌み交わして乗馬。冷泉爲景が同道する。川で宿を取るがひどい雨のようである。狩野川は静岡県の伊豆にある天城から沼津に至る川)
 
最初に述べたように、この船橋秀賢の日記『慶長日件録』が書かれた時期は、歴史的にも非常に混沌とした時代であった。
しかし、秀賢の日記からはその様な緊張感が伝わらない。日常的な公家衆や武家たちとの交流に勤しむ姿が描かれている。
その中に、当時の近江高島藩主であった佐久間備前守安政や、その奥方との交流の様子が多く現れる。おかげでこの時代に生きていた先祖の姿を見る事ができたのである。
安政同様、親戚である細川家、平野家や浅野幸長、加藤清正、最上義光、池田輝政、松浦鎮信、山名豊国、結城秀康、京極高知、吉田兼見・兼治、三渕藤利や京都所司代・板倉勝重などとの交流も盛んである。
秀賢は慶長十八年六月ニ十八日(異説あり)に四十歳で亡くなっている。ちょうど大坂ノ陣の二年前である。元々虚弱な体質であったようで、豊臣氏の滅亡をその目で見る事なく、その早い生涯を閉じたのである。

   参考文献

   『慶長日件録一・ニ』(続群書類従完成会)
   『新訂寛政重修諸家譜』(続群書類従完成会)
   『系図纂要』(名著出版)
   『勧修寺家系図』
   『公家諸家系図』
   『宮廷公家系図集覧』(東京堂出版)
   『新庄家系図』
   拙稿「初代金沢城主・佐久間盛政の系譜」(同人誌「櫻坂」十四号)
   拙稿「隔冥記に見る勧修寺家と飯山佐久間家の交わり」

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■吉原実氏論考御紹介ー『隔冥記』に現れる勧修寺家と飯山佐久間家の交わり(1)

2023-05-05 06:55:30 | 論考

         『隔冥記』に現れる勧修寺家と飯山佐久間家の交わり
                                       吉原 実 

『隔冥記』は名家で正親町天皇の武家伝奏を務めた公家・晴豊の六男で、京都にある臨済宗・の山外の一つである鹿苑寺(金閣寺)第二世住持であったが、寛永十二年(一六三五)八月二十一日から寛文八年(一六六八)六月二十八日まで和尚が四十四歳から七十六歳、死の二ヶ月前まで三十三年間に渡り書き続けた自筆日記である。
その寛永十三年以前の分は、『鹿苑日録』に含まれているが、当時の公家・武家、町人など、実に様々な人物との交流の様子が事細かに描かれており、江戸初期の京都における風物や文化を知る上での貴重な史料となっている。後の慶応三年(一八六七)に、鹿苑寺住持・憲道修により保存修装され、鹿苑寺開基の足利義満公の帰元五百五十年にあたる昭和三十三年に、当時の京都大学教授で日本中世史研究の権威であった故・赤松俊秀氏により新訂本として編纂され、鹿苑寺より発刊された。その後に、京都の思文閣文庫本も刊行された。
一方、私は先祖と伝わる佐久間久右衛門尉安政や、その兄である金沢城初代城主・佐久間盛政など佐久間一族の研究調査を続けている。
その過程で、安政と弟・勝之が婿養子となっていた佐々成政の研究者である富山市在住の遠藤和子氏より『隔冥記』の存在を御教示頂いたのである。
安政、勝之兄弟は、戦国の厳しい時代を生き抜き、江戸の初期にそれぞれが信濃飯山藩主と信濃長沼藩主の近世大名となった。
それはちょうど承章が生きた時代と重なっている。実は、安政が成政の娘と離縁した後に再婚したのが勧修寺晴豊の娘・光寿院であった。承章和尚の姉にあたる。この二人の母は従三位刑部卿であった土御門有の娘である。その様な関係もあり、私にとっても先祖に関する貴重な史料となるかと思い、県内の図書館を捜し回り、金沢大学付属中央図書館で借りる事ができた。しかし、当然内容は真名書きであり、内容も難解で読むだけで大変な思いをしたが、光寿院を通した安政が藩主を務めた信濃・飯山藩との深い関わりが方々に読み取る事ができたのである。
和尚が『隔冥記』を書き始めた寛永十二年には、飯山藩もすでに初代安政や二代藩主となった二男の安長も他界しており、三代藩主はわずか七歳の三五郎安次であった。その為に祖母にあたる光寿院が後ろ盾となり、藩の運営に努めたのである。
それゆえに『隔冥記』には、弟である承章和尚の所へ幼い安次を連れて光寿院が訪れる場面も出て来る。また、安政と光寿院の間には六人の娘があり、それぞれが大名の所へ嫁いでいるが、その嫁ぎ先との和尚を通した一族姻戚の交流の様子も垣間見える。特に、豊後・佐伯藩の毛利氏、河内・狭山藩の北条氏に嫁いだ娘たちから和尚に度々贈答品が送られて来る。その使いをするのが佐久間姓を持つ家臣達。娘たちが嫁いだ時に付いてきた一族の者達か飯山藩主から姓を賜った者達なのかは判らないが、父子世襲で仕えている者が多い。

今回は『隔冥記』の中から飯山藩・佐久間家改易の寛永十五年前後の事が書かれている第一巻から第二・三・四巻を中心に取り上げて、その時代の動きや交流の様子を描いてみようと試みた。

寛永十三年(一六三六) 
 正月十九日 

「自江戸之佐三五郎、為年玉、白銀貮枚給。江間紹以持参也。」
江戸の佐久間三五郎より、年玉として、白銀弐枚たまわる。これは江間紹以が持参した。
(江間紹似は飯山藩の家老。和尚に藩主の三五郎安次からのお年玉を持参した。白銀二枚は、現在の貨幣価値で三十五万円位ではなかろうか)

 廿一日
「亡母多年召使老婦五六人、爲禮、來、向亡母遺像、焼香。例年明日廿二日雖來、明日予赴随菴公故、今日各來。」
 亡くなった母の遺像に、長年仕えていた召使の老婦たち五・六人が焼香に訪れた。例年は明日の二十二日だが、(空性親王)を訪れる約束があり今日になった。
(母は土御門有脩の娘・寿光院殿天長貞久大姉。空性親王は親王の第二王子である。大覚寺の門跡、四天王寺の別当で後陽成天皇の弟にあたる)

 八月十四日
「於等持院之内大圓院、有齋會、被招予。中川内膳正先考修理大夫二十五年遠忌之辰也。予未明赴等持院、予侍衣闇首座也。」
 等持院の大圓院で行われる中川内膳の父、修理大夫の二十五年遠忌を司る。
(等持院は足利尊氏や足利歴代将軍家の菩提寺である。中川内膳は豊後岡藩主・中川久盛。修理大夫は中川で、安政の兄の佐久間盛政の娘・虎姫の夫である。和尚は侍り首座は相国寺の三伊のようである。)

 十一月廿一日
 「自十塚、着江府。従佐久間三五郎・光壽院殿、追々迎之侍・摝酌來。於川崎、逢之。直到光壽院殿、有打付振舞。入浴室。三伊公其外供者。皆到光壽院。荷物者直遺于宿所、孫右衛門相添、竹子屋彌十郎所、有寄宿之由。通町日本橋南町一町目西カハ、自南、三間目、十左
衛門所、予寄宿也。」
十(戸)塚より江戸に着す。佐久間三五郎・光寿院殿より、追々迎えの侍・摝酌(六尺)が来る。川崎においてこれに逢う。直ちに光寿院殿へ至る。打ち付け(いきなり)振舞いがあり、浴室に入る。三伊公、その他供の者、皆光寿院に至る。荷物は孫右衛門相添え、直ちに宿所に遣わす。竹子屋弥十郎の所に寄宿これあるの由。通町日本橋南一町目の西側、南より三間(軒)目、十左衛門の所、予の宿所なり。
(承章たちが十日程かけ江戸へ行った時の様子。とは、駕籠かきや下男の事。光寿院は愛宕下の飯山藩下屋敷を住居としていたようである。現在の東京都港区虎ノ門一丁目の虎ノ門ヒルズの辺りである。とは江戸の町を南北に走る大通り。神田須田町から日本橋・京橋から芝の金杉橋に至る中央通り沿い。三伊公とはの事。相国寺・玉竜庵の・)

 廿二日 
 「光壽院殿之内土産遺也。土産遺亭主并内方、竹子屋彌十郎亦遺之。城古座頭來。齋了、到金地院、則康首座・教蔵主亦被來。酌酉水。則高薹寺今日下着、於金地院、對談。予到三五郎、晩炊有振舞。誾公同道、到光壽院。及深更、歸宅。」
 光寿院殿の内土産を遣わす。土産亭主ならびに内方、竹子屋弥十郎またこれを遣わす。城古座頭来る。斎が終わる。金地院に至り、即ち廉・教蔵主また来らるる。酉水を酌み交わす。即ち高台寺今日下着。金地院に於いて対談す。予、三五郎に到り、晩炊の振舞いあり。誾公と同道、光寿院に到る。深更(夜)に及び帰宅。
 (酉水とはお酒の事であろう。教蔵主は相国寺の僧。高台寺とは住持の三江紹益。翌日の二十三日には、幕府の年寄衆や奉行たちに挨拶に出向いている)

 十二月小四日
 「巳刻迄雨天、令門戸不出。於三五郎公、有傀儡棚見物。」
  巳の刻まで雨天、門戸を出ざさしむ。三五郎公に於いて、傀儡棚(人形芝居)あるを見物する。

 十一日
「午時於北條久太郎御袋、而有振舞、」
 北条久太郎母の振舞いを受ける。
(この北条久太郎とは、河内・狭山藩三代藩主の北条氏宗。父は北条氏信で、母は佐久間安政と光寿院の二女である。承章の姪の子にあたる。しかし、この本の久太郎の注訳が氏重となっていて大変疑問に思っている。父・氏信の三弟は氏重というが、長男が名乗るのが普通である太郎を名乗る訳も無く、『隔冥記』が書かれる前にすでに没している。下総・岩富藩二代目藩主も同じ北条氏重だが、河内の事や久太郎の母も後に何度も登場するので姪の子である氏宗に間違いは無いと思う。共に小田原の後北条氏の末裔にあたる。安政が北条氏政に仕えていた関係による婚姻関係だろうか。注記の事も確認したいが、この本を編纂された先生方がすでに故人となられているのが残念である)

 廿六日
「自佐三五公、為歳暮、小袖壹重給。」
 佐三五公より、歳暮として、小袖壹重を給わる。
(佐久間三五郎より、和尚が小袖を一重戴いたようである)
 
 廿七日
「自北條久太郎御母儀、爲歳暮、襦袢小袖壺・鼻紙五束給。自光壽院殿、爲小袖代、金子貮兩給。頭巾・帯・踏皮給也。」
 北条久太郎の母から歳暮として襦袢小袖壹、鼻紙五束戴く。光寿院殿より小袖代として金子二両、頭巾、帯、踏皮を戴く。
(襦袢小袖とは(繻子地の錦)で作られた襦袢の事。踏皮とは皮で作られた足袋の事である。金子二両は今の二十万円位であろうか)

寛永十四年(一六三七)
 正月九日

「今日於光壽院殿、初逢三五公母儀也。」、
 今日、光寿院の所で初めて三五郎の母に逢う。
(三五郎の母は、飯山二代藩主・佐久間安長の室で、遠江・横須賀藩主で老中であった井上正就の娘である)

 十日
「予今晩振舞光壽院殿也。奥之相伴十五六人、次七八人也。各爛醉、發歌聲、及半鐘。」
 夜、光寿院を振舞う。奥の者たち十五・六人、次席の者たち七・八人と、歌を唄い泥酔するまで飲みあかす。半鐘に及ぶ。
(半鐘(半宵)とは夜中の意味)

 廿四日
「晩於佐久間久助殿、有振舞。木下儉校・小槇后當・城志賀座頭來。有平家物語、有咄雑談、有三美線。及二更、而歸。」
 佐久間久助殿の振舞いを受ける。木下検校、小槇后當、城志賀座頭たちが来て平家物語を語る。雑談をして三味線まで楽しむ。二更に及び皆帰る。
(佐久間久助とは飯山・佐久間家の重臣だと思われるが、人物の比定が出来ない。とは、夜の時間を五つに分け(五夜)その二番目の時間。とも言い、午後九時か十時頃から二時間をさす)

 廿七日
「於三五公御母儀、有振舞。及深更、酌酉水、泥醉。臺物種々馳走也。木下左兵衛殿短尺拾枚被投予、請點愚筆。」
 三五郎の母の振舞いを受ける。深更まで及ぶ。泥酔する。数々の御馳走が出た。木下左兵衛殿から短冊拾枚を渡されて愚筆で応える。
(木下左兵衛とは豊後・日出藩の二代目藩主・木下伊勢守俊治。和歌でも楽しんだのであろうか)

 廿九日
「佐三五公振舞、有浄瑠璃操。及初更、小槇后當來、有物語。城志賀亦來、引三美線也。」
 佐三五公振舞い、浄瑠璃操りあり。初更に及び、小槇后當来る、物語あり。城志賀また来たり、三味線を弾くなり。
(初更とは午後七時から九時か八時から十時頃をさす)

 二月三日
「佐久間久助殿透引山住后當、而被來、挽三美線敷返。山住后當者、三美線當代名人之二人之内也。」
 佐久間久助殿の誘いで山住后富の三味線を聴く。山住后富は当代の三味線名人の二人の内の一人である。 
(后當とはの事だろう。盲官の役職の一つで、上位から検校、別当、勾当、座頭となる。山住后當とは後の八橋検校の事で、筝曲の基礎を創った人である)

 十三日
「狩采女同道、赴佐久間。監殿十五日御茶之禮。自其、赴松倉長州。」
 狩野采女と共に佐久間将監殿の所へ赴く。松倉長州殿へ赴く。
(狩野采女とは絵師の狩野探幽の事である。因みに、探幽は佐々成政の孫にあたる。佐久間将監は佐久間政(正)勝の事。尾張・佐久間氏の始祖である盛通の嫡男・盛明の曾孫に当たる。茶人としての方が有名である。十五日に盛大な茶会が開かれた。松倉長州とは肥前島原藩主の松倉長門守勝家のことであろう。和尚の兄・坊城俊昌の妻が勝家の妹にあたる。この年の秋に起こる島原ノ乱の原因である悪政の責任を取らせられ、翌年には大名に対する処置としては異例の斬首となった)

 十六日
「為暇乞、赴金地院、夕飡、三五公母儀振舞。於光壽院殿、有振舞、酌酉水、到干撥明者也。」
 暇乞いとして、金地院に赴き夕食。三五公の母の振舞い。光寿院殿に於いて振舞いあり、酉水を酌み、発明に到るものなり。
(発明とは明け方の事。夜通し酒を酌み交わしたのだろうか。和尚はかなりお酒が飲めたようである)

 二月廿一日
「晴天。出江戸。佐三五公為送行、來于品川。於川崎、壹休也。高彌五佐・金太夫・幸琢被來。」
 晴天。江戸を出る。佐三五公送行として、品川まで来る。川崎に於いて、昼休みなり。高弥五佐・金太夫・幸琢が来られる。
(今回の和尚の江戸下向の目的は、将軍・徳川家光からの寺領安堵の継目御朱印拝領の為であった。前年の三月十一日、京都所司代・板倉周防守重宗の邸に高台寺・真乗院・曹源院と和尚を含む五山寺院など(御朱印之有衆)が集められ、この度「継目御朱印」が発行される事になったと告げられたのである。将軍が秀忠から家光に代わり、改めて御朱印を発行するというのである。幕府から下向せよとの指図は無いが、重宗の勧めにより下向したのである。前年十一月に京を発ち、この年の正月十九日に持参した朱印状を返納、二月十日新朱印頂戴、続けて両朱印状の請取状の加判となる予定だったが、幕府は朝鮮通信使への対応に多忙で朱印状交付に時間が掛かり、和尚たちの滞在が今日まで延びたようである。高彌五佐は高井弥五左衛門、金太夫は加藤金太夫)

 三月三日
「晴天白日。自草津、着京、於大津、晝休。昨日之牀達于北山、迎者共膳所崎迄來。雲峯・前渓・仁英西堂被來于北山。自方々、有使者云々。」
 草津を出て、京に帰り着く。途中昼、大津で休む。昨日の予の書状で膳所まで迎えの者たちが来ていた。北山まで僧たちも来る。
(和尚は四か月の間、京を離れていた事になる)

寛永十五年(一六三八)
 正月六日

「於晴雲軒、作善執行。齋僧十員斗。久昌庵大祥忌之辰正當也。」
 久昌庵、大祥忌を行う。
(久昌庵とは承章の乳母だという。その人の三回忌を相国寺の塔頭・晴雲軒でしたようである)

 二月十二日
「作三五郎之内、松本喜右衛門來。紹以同道。喜斎息勘兵衛亦來。於北山、振舞、點鳳團也。」
 佐久間三五郎の内、松本喜右衛門が来る。紹以が同道。喜斎の息子・勘兵衛また来る。北山に於いて振舞いあり、「鳳団」の団茶を点じた。
(団茶とは発酵させたお茶のようである。松本喜右衛門は飯山藩家老。喜斉は張付師・歯科医の親康喜庵と思われる)

 三月廿二日
「自作久間三五郎母義、為年頭之嘉悦、金子貮歩被恵之。當年初而給之也。」
 佐久間三五郎公母儀より、年頭の嘉悦として金子二歩これを恵まる。当年初めてこれを給わるなり。
(金子二分は現在の四万円位であろうか)

 十二月八日
「齋了、歸于北山。自江戸、書状來。佐久間三五郎訃音、銘肝膽、驚嘆者也。」
 斎が終り北山に帰る。江戸より書状来る。佐久間三五郎の訃音、肝胆に銘じ、驚嘆のものなり。
(佐久間三五郎安次は、十一月の末か十二月の初めに江戸で亡くなる。九歳だと伝わる。翌年には無嗣絶家と言う事で飯山・佐久間家は改易となる。母方である井上氏の意向により、八百石の幕臣として家は残るが、飯山・佐久間家としての名跡は、安政の娘が嫁いでいた長沼藩家老職の岩間市兵衛家が佐久間と改名して継ぐ。この家から幕末の学者・佐久間象山が輩出されるのである。三五郎の母であった井上氏は、この隔冥記では後に再婚し竹中式部の妻となったと書かれているが、他の資料すべてに丹波・綾部藩主の九鬼隆季の継室となったと書かれている)

寛永十六年(一六三九)
 九月晦日

「長井茶之壺今日初開口也。内々來月中旬雖可開口、來月五日自江戸、上洛仕佐久間三五郎家老四人依招之、今日吉辰故、開口也。餘之壺
未開也。」
 晦日、長井茶の壺、今日初めて開口なり。内々来月中旬開口すべきと言えども(思っていたが)、来月五日に江戸より上洛仕る佐久間三五郎の家老四人これを招くにより、今日は吉辰(吉日)ゆえ開口なり。余(他)の壺は未開なり。

 十月朔日
「佐久間三五郎家老三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛幷三五公守之片岡五郎兵衛自江戸、赴高野、自高野、依上洛、為音信、今日破木者馬場大木之枯木有之。則成破木、遺者也。自膳所、紅柿一折七十被恵也。」
佐久間三五郎の家老三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛、ならびに三五公守役の片岡五郎兵衛が江戸より高野に赴く。高野より上洛により、音信として今日破木を十把づつ遣わす。破木は馬場大木の枯木これあり、すなわち破木となし、遣わすものなり。膳所より、紅柿一折七十これを恵まるる。
(破木とは薪の事。高野山の奥ノ院には飯山・佐久間家の墓所があり、初代飯山藩主・佐久間安政はじめ多くの供養墓が現存している。安次や光寿院の墓も残っていると思われる)

 五日
「佐久間三五郎家老共招之。三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛、前嶋猪右衛門也。其他片岡五郎兵衛、惣十郎、加藤金太夫亦來。家田勘兵衛亦來也。江間紹以來。」
 佐久間三五郎の家老たちを招く。三宅右近、前嶋頼母、安彦半兵衛、前嶋豬右衛門なり。其の他、片岡五郎兵衛、片山惣十郎、加藤金太夫また来る。家田勘兵衛もまた来る。江間紹以もまた来る。

 八日
「今日佐久間三五郎家老四人・片岡五郎兵衛・片山惣十郎・加藤作右衛門・江間紹以、於玉龍庵、有振舞。袋茶遺之。大昔白遺之。」
(大昔白とは抹茶の銘である。昔ながらの茶葉を蒸す白製法で作った高級な濃茶。飯山藩佐久間家々臣の名が残る史料は初見である)

 九日
「江戸遺之状、今日爲持、遺。此夏北條久太殿給予膳所燒茶入、予不人気之故、返進也。片岡五郎兵衛下向故、言傳、遺北條久太殿也。」
 北条久太郎から夏に戴いた膳所焼きの茶入れを、家臣・片岡五郎兵衛に持たせて返却する。和尚は気に入らなかった様子。

 十一月十二日
「光壽院殿大津之家來玄助ト云。賣券之加判、吉權右衛門到也。」
 光寿院殿大津の家の買主・玄助が来て書面を整えた。
(江戸にいる姉・光寿院が所有していた大津にある家を、頼まれて処分したようである。その手続きをした吉權右衛門は、吉田權右衛門忠継といい和尚の使用人・妙清の前夫)

寛永十七年(一六四〇)
 正月二十二日

「靑天。齋了、如例年、老婦達爲禮、被來。乍次、御影之燒香也。神岡越中内・小坊黄門乳母・淸春・淸甫・神殿此衆被來、終日打談、喫
夕飡、而被歸。」
(例年のように老婦たちが訪れて、母の遺像に焼香する。小坊黄門とは公家の小川坊城俊完、和尚の甥)

 二月七日
「自光壽院殿、金壹歩貮丁來。每年、雖爲金子壹両、今年者貮歩也。自北袋、如例年、自市袋、金子貮歩來。毎年壹歩在之。自去年、貮歩
也。」
 光寿院殿より金一分二丁送られて来る。毎年の金子は一両。今年は二歩なり。久太郎の母より例年の通り二歩来る。森市三郎の母より二歩来る。
(お年玉を頂いたようであるが、細かく記載している。和尚の几帳面な性格が判る)

寛永十八年(一六四一)
   八月朔日

「甲辰日。靑天白日。自河内、飛脚上、自江戸之状來。自北條久太郎、亦書状來、河内道明寺糒三袋給之也。自此方、切形遺之、膳所焼之
茶入参丁入小箱、今日自北久太郎。雖然、茶入之薬悪、於不入予気、宣返納之由、自北久太、依申來、三ヶ之内内壹壺留置、而残貮丁者、
卽今令返進也。自河内之飛脚相留、卽今認返翰、先於河内、遺也。」
 河内から飛脚が江戸の北条久太郎の書状を届けて来た。道明寺粉が三袋添えられていた。
当方も借りていた膳所焼き茶入れ三個が入った小箱を返却する。
(茶入れの釉薬の塗りが悪く、和尚はあまり気に入らなかった様子。三個の内の一個をそのまま置き、後の二個を返してくれれば良いと氏宗から言って来ている)

寛永十九年(一六四ニ)
    六月十四日

「齋了、赴北條久太郎公宿也。昨日令堅約、今日必可赴北條久太郎公宿之由也。祇園祭也。江間紹以合聟所、見物之好處也。於其所、可令見物之由也。紹以合聟之所、御幸町三條通三條下町之角屋也。名道意也。北久太公令同道、到道意宿、山見物。於道意、切麥出、酌酉水、又歸久太郎宿、喫夕飡、而又赴道意、祭禮見物也。及晩、而予直到于相國寺也。今日、於北久太之内、佐久間清左衛門・田中權左衛門、始逢也。蒔繪師理右衛門亦、始逢逢也。桑山三右衛門是亦、今日始成知人。桑山修理殿表弟也。卽、娣聟也。桑山加賀守殿子息也。今者成町人、被居也。」
 祇園祭を観るために北条久太郎が昨日上洛した。江間の相婿の家が三条通りの角家なので見物に都合が良いと皆が集まった。麦切りや酒が振舞われた。今日の昼には、久太郎、佐久間清左衛門、田中権左衛門たちが蒔絵師の理右衛門と初めて会う。桑山修理殿の表弟・桑山三右衛門が町人になる。桑山加賀守の子息である。
(表弟とはの事。蒔絵師に弟子入りしたのだろうか。桑山修理は大和新庄藩三代藩主で父は一直。継母が佐久間安政の娘で後の真照院である。真照院は安政と佐々成政の娘輝子(岳星院)との間に生まれた娘であったが、故あって母が関白・鷹司信房の継室となり、自身も養女となった。因みに、信房と輝子との間に後に出来た娘孝子は、三代将軍徳川家光の正室・本理院(中の丸殿)である。一方、真照院は豊後岡藩主・中川秀成(ひでしげ)の継室(前室は佐久間盛政の娘・虎姫)となったが子ができずに離縁。その後、鷹司家に戻り、再び桑山家に嫁いだのである)

 十月五日
「予父租勧修寺晴秀公之御影、数年眞如堂内之内、東養坊有之由、常々老婦二位殿御物語有之、依然、以宥蔵主、賴眞如堂之蓮光院、而御影所望仕也。今朝宥公古御影一軸被持來也。開之、而見、則予亡父晴豊公面躰少不差、相似太奇太奇。卽、御影於此方、相留也。晴秀公薨、面到今年寛永十九年、而六十六年也。六十六年、而予對租父之遺像、感嘆有餘。」

 父祖勧修寺晴秀公の御影は、数年に渡り真如堂内の東養坊にあり、常々老婦二位殿が護ってきた。以前より、宥蔵主から真如堂内の蓮光院に置くように言われていたので、今日、軸を持参した。それを開くとすぐに、その姿が亡父晴豊と似ていると言われた。晴秀公が亡くなり、今年寛永十九年で六十六年なり。
(勧修寺晴秀はの事で和尚の祖父。天正四年、南都伝奏を織田信長により罷免され、蟄居させられたそうである。「晴右記」を著す。宥蔵主とは、豊臣秀頼の娘で千姫の養女と言われる、鎌倉・東慶寺の住持であった天秀尼の事かも知れない。太奇とは、はなはだ奇妙だという意味。真如堂は東山にある真正極楽寺の事)

 十一月二日
「冬至之行事如毎年也。自江戸、書状來。自北條久太郎殿御袋、爲音信、肌衣之小袖(股引之付白小袖)給之。珍敷物也。自光壽院殿、沈香買代金壹兩、今日來也。自河内北條久太郎公、書状來、薫物所望之由、申來。依然、我今日、於幡磿所、而薫物取遺、一香合、今日遺于北久太公也。」
 北条久太郎の母より書状と共に、肌着の小袖(股引付白小袖)を戴く。珍しいものである。光寿院殿より沈香を買う代金として一両戴く。河内の久太郎殿からの書状で頼まれていた薫物を播磨屋で買い求め一香合、明日の飛脚で河内に送ろうと思う。(沈香とは調合したお香の事)

                         (文字数が32,000文字を越えたため表示がうまくいきませんので、2回に分けることにしました) 

 

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■吉原実氏論考御紹介ー「紀伊・湯浅党の系譜と飯山藩・佐久間家」 

2023-05-02 06:46:37 | 論考

                                「紀伊・湯浅党の系譜と飯山藩・佐久間家」                         
                                                                                                                              吉原 実

 遠き昔より紀伊国は、熊野や高野山などの寺社勢力と地元に根を張る多くの土豪たちの統治力が強く、中央の政権と一線を隔した感のある所であった。
その中で、現在の和歌山県市や有田川町、湯浅町などを中心にその勢力を維持した湯浅氏と多くの庶家たち。
その系譜を語り継いでいるのは、末裔の家に残る系図であろう。

湯浅氏に関する系図でその根本となっているのは、湯浅家の嫡流の子孫である崎山家に伝わる「崎山系図」と庶流である上山家に伝わる「上山系図」の二本である。
「崎山系図」は、系図と二十六通の文書が一体となる鎌倉時代後期のものである。現在は湯浅氏の菩提寺・(和歌山県有田郡湯浅町)に子孫が寄進して残されている。その文書は、鎌倉時代末の湯浅家当主・湯浅宗村の周辺での訴訟副進文書の一部であり、記載内容も信頼できるものであると言われる。
もう一方の「上山系図」は、その記述が「崎山系図」よりはるかに詳細であり、平安末から南北朝に至る約四百名の湯浅一族を、通称、官途、法名に至るまで詳細に書かれており、その内容も正確なものであると言われている。
「上山系図」によると、湯浅氏は秀郷流藤原氏の従五位下・湯浅紀伊守師重に始まるという。しかし、湯浅氏の歴史的史料での初見は、師重の孫・湯浅権守宗重(戒名=念尊)である。
 平治元年(1156)「平治ノ乱」の折、宗重は熊野参詣途中の平清盛の元へ一早く駆け付け、直ちに京へ帰るべしと進言したと伝わる。
その功績で以後平家に重用され、平重盛(小松殿)の家人となる。

また、治承二年(1178)、比叡山攻めの折には二千人の兵を率いる侍大将になったとも伝わる。
しかしながら治承・寿永ノ戦乱の折には、紀伊に籠り積極的には戦に参加しようとせずを鮮明にしなかったそうである。 

 文治元年(1185)、重宗は平重盛の子・忠房を庇護して湯浅の城に立て籠もり源氏に敵対するが、数か月後に京・神護寺の文覚を通じて源氏方と交渉し、忠房を差し出して源氏方に帰参する。この年の秋には、源頼朝より本領安堵の下文を受け鎌倉御家人となるのである(崎山家文書・文治二年の源頼朝下文など)
 翌年には、自領の湯浅庄、広庄、石垣庄河南、糸我庄、庄を五人の息子に分け与えた。
 その中でも一番器量の優れていた七男である七郎兵左衛門尉宗光(浄心)には、石垣河北、庄も与えられたのである「高野山文書・承元四年(1210)二月十日、案主・惟宗より」
湯浅党の本拠地・湯浅庄を与えられたのは宗重の嫡男・宗景であった。他の息子たちも領地の名をそれぞれ名乗り、宗光は以後保田氏となる。宗光は父と同じ平重盛に仕え、後の鎌倉幕府でも頼朝の家人として重用されたという(埼山文書・承元三年の大江広元下知状、嘉禎四年の北条泰時下知状など)
承久元年(1219)、宗光は熊野神人といを起こし一時対馬に配流されたが、その後、時の執権・北条泰時に召喚され元の職務に返り咲く。
やがて宗光の所領の大半は、次男である保田次郎左衛門尉宗(知眼)が継承する。

承久三年(1221)に起こる後鳥羽上皇と鎌倉幕府との戦い「承久ノ乱」の折には、保田宗光が鎌倉三代将軍・源実朝の未亡人である本願禅尼が住む西八条邸(遍照心院)の警護を命じられている。一方、湯浅の嫡流家である湯浅宗景・宗弘父子は、乱の前にそのをはっきりせず、乱の勃発後も紀伊に留まっていた。
この事により、以後の湯浅氏は支流である保田氏の権限が大きく飛躍し、鎌倉・北条氏からの信頼を一身に受ける事になる。
宗業の跡目相続時にも、三浦義村の口利きにより執権・北条義時の安堵状が速やかに発給された。

続けて、嘉禎四年(1238)四月、北条泰時の下知により京・八条篝屋警護の任を仰せ付けられたのである。篝屋警護の任は京・大番役に匹敵する重要な任務で、それほど信頼されていたという事でもある。
その番編成も宗光を通してのものであり、保田氏が湯浅党諸氏の統制をする体制が確立したのである。
宗業は六波羅両使として紀伊国内で起こった地域紛争に湯浅氏の軍事力・政治力を以ってその力を誇示して行く(崎山文書・京都八条辻固湯浅御家人結番定文、正応二年の湯浅宗重跡本在京結番定文など)

 一方、宗光の三男・三郎左衛門尉宗氏(吉原入道成仏)は、有田郡の東大部分を占める阿弖川庄を治め、阿弖川氏・吉原氏を名乗る。
宗氏の後を嫡男の太郎兵衛尉宗範(覚円)が相続する。

二男・次郎左衛門尉宗親(西仏)には楠本庄が与えられ楠本氏を名乗る。その宗親の二男・孫次郎宗益(清浄)は吉原氏を名乗る。
その屋敷を有田郡石垣庄吉原村(和歌山県有田川町勧喜寺中越)に構えたのであろう。この吉原氏は又次郎宗秀(空浄)、孫次郎宗直と続く。

永仁六年(1298)九月十日付沙弥西仏水田寄進状(歓喜寺文書)に、この宗秀の名が見える。この沙弥西仏とは、前記の湯浅(楠本)次郎左衛門宗親の事で宗秀の祖父にあたる。
しかし、この年より六十七年前の寛喜三年(1231)湯浅景基寺敷地寄進状(施無畏寺文書)なるものが現存している。 
その中にも藤原宗秀の署名があるのだが、年代的にも本姓藤原氏の吉原宗秀と同一人物であるとは思われない。
系図上に出る宗秀は一人であるのでどう解釈すればよいのであろうか。因みに、寺領を寄進した景基は須原九郎景基(元)といい、湯浅宗重の嫡男・宗景の九男である。

この後の系図には、楠本宗親の曾孫にあたる宗が、元弘三年(1333)河内・赤坂城で討死にしたとの記述がある。
鎌倉幕府軍として参加した後、楠木正成に帰順した湯浅党の面々には保田次郎兵衛尉宗顕、石垣左近将監宗秀(吉原宗秀か?)、阿弖川孫六宗藤の名が見える。
宗顕、宗秀は後に吉野で討死にするという。

一方、建武五年(1338)七月十日、足利尊氏御教書により、保田庄の地頭職は保田宗業の孫にあたる次郎左衛門尉行兼(浄宗)に安堵される。
正平十五年(1360)、紀伊日高郡の湯河氏が北朝方として旗揚げする。南朝方に付いていた湯浅党(貴志氏を除く)も戦に敗れ、阿弖川や船で兵庫へと落ちて行く。
永和元年(1375)九月、北朝方の細川氏春が有田郡に攻め入り、南朝方の城が次々に落とされた。湯浅党は、それ以降の守護の被官として命脈を保つ事となるのである。
永禄年間(1558~1570)行兼から八代後の保田宗隆は、紀伊守護・畠山昭高に仕え保田庄の清水城に居城していた。
その嫡男・知宗は、後に織田信長に臣従した折に娘を柴田勝家に人質として出した。その娘の婿として保田家に入ったのが、勝家の甥の佐久間久右衛門安政で、以後、保田安政と名乗るのである。
これ以降は、あくまで断定できない個人的な見解であるが、知宗の娘と安政との間には数名の子があったと思われる。その嫡男は勝宗、「宗」の一字が入るので間違いないと思われる。
ところで、後の天正九年(1581)三月、加賀鳥越で起こる一向一揆との戦いで織田方として討死にしたと伝わる柴田勝家の武将・吉原次郎なる人物がいる(一万石の禄高)。
その吉原なる人物は、保田氏の一族である吉原氏ではないだろうかと考える。
その次郎兵衛が亡くなった後の吉原氏の名跡を継いだのが、安政と保田知宗・娘の間にできた男子(勝宗弟)ではと想像する。

天正十一年に起こる賤ヶ岳合戦で保田知宗は討死にした。その周りにも当然、保田一族がいたと思われるし、吉原氏の中にも亡くなった者がいたであろう。
保田の家は後に知宗の弟・繁宗(華王院住持)が高野山から還俗して継ぐ。

後の飯山藩主となった佐久間家断絶後に、その飛地であった近江高島に土着した安政の子と伝わる吉原久左衛門の「元祖」と書かれている過去帳の意味合いも、次郎兵衛の家の「中興の祖」として理解出来ないであろうか。
その諱は伝わっていないが、「宗」の一字が入っていたのかも知れない。

因みに、鎌倉初期の華厳宗の高僧・(京・栂尾高山寺開祖)は、湯浅宗重の娘と平清盛の家人・平(伊藤)重国の間の子である。
高山寺は有名な「鳥獣戯画」を所有している寺でもある。

     参考文献
     「中世武士団と地域社会」高橋修著 清文堂
     「信仰の中世武士団・湯浅一族と明恵」高橋修著 清文堂
     「続・紀州史の豪族」松田文夫著
     「和歌山県史・中世史料二」 
     「越登賀三州志」富田景周著

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■吉原実氏論考御紹介(1)ー「近江高島・幡岳禅寺に伝わる佐久間安政像」

2023-05-01 16:33:56 | 論考

 長くご厚誼いただいている金沢在住の歴史家・小説家の吉原実氏は、佐久間盛政の弟にして近江・高島藩主及び信濃飯山藩主を勤めた
佐久間備前守安政のご子孫である。

この度、氏の著作(安政公のサイトに紹介あり)並びに論考をお送りいただいた。
論考については当ブログでの掲載に御承引いただいたので、全国の歴史フアンのために四回にわたりここにご紹介申し上げる。

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          石川郷土史学会々誌  48号 掲載                   

             近江高島・幡岳禅寺に伝わる佐久間安政像
                                       吉原 実                                 

 我が家の菩提寺でもあり、江戸の初期に近江・高島藩主と信濃・飯山藩主を勤めた佐久間備前守安政が慶長年間に建立した禅寺(当時は幡岳寺)という佐久間・柴田両家の菩提寺は、近江高島(滋賀県高島市マキノ町中庄)にある。
金沢城初代城主となった佐久間盛政を兄に、越前勝山城主であった柴田勝政と越中富山城にいた佐々勝之を弟に持つ私の先祖である安政は、元亀元年(一五七〇)の近江・野洲河原ノ戦いを初陣として、織田信長の下で多くの戦いを生き抜いて来た。
その信長が本能寺で自害した後、伯父である柴田勝家と羽柴秀吉が戦った賤ヶ岳ノ戦いに生き残り、北条氏政、蒲生氏郷、豊臣秀吉に仕え、やがて関ヶ原ノ戦いと大坂ノ陣には徳川方として参陣。元和二年、高島から飯山に移封して初代飯山藩主になるのである。
高島藩から飯山藩の飛地となった近江・高島で、佐久間・柴田両家の菩提寺として現在に至っているのがその幡岳禅寺である。
その幡岳禅寺の位牌堂には、柴田勝家と佐久間安政や佐久間一族、吉原家の位牌が多く残るが、それと供に「伝佐久間安政像」という一幅の軸装の肖像画も残されている。
その画は寛永年間に多く描かれたという武家像であり、その画風や時代から長谷川等伯の弟子の手によるものではないかと言われている。
その上部にある賛は、その時代を生き、京都花園・妙心寺(臨済宗)の住持を勤め、後に奥州仙台の伊達氏に招かれ瑞巌寺の中興の祖となった高僧・により、安政の遠忌の折に書き加えられたもののようである。
その内容は生前の安政の人となりを評価したものである。像に描かれている安政の姿は、多くの戦いを生き抜き、一族の死を見つめ、自分自身も多くの敵の将兵を手に掛けた後に得た安楽の人生最後の時を静かに過ごす姿のように見える。数年前に仙台の瑞巌寺により、『訓注雲居和尚語録』『雲居和尚墨蹟続』として詳しく調査され、賛も専門家により解読されたが、その解釈は仏法に何ら縁の無い素人の私によるものであり、正しいかどうかは判断できないが、参考にして頂きながら読者それぞれの心の中での解釈を試みて頂きたい。

                                将門柱礎、軍壘藩墻。純忠純義、能柔能剛、咲韓彭無王霸之材、威風凛凛。
                                論蘇張少縦横之策、気宇堂堂。同途不同轍、扶弱不扶強。造次於仁、
                                  知應對進退之有節。自然悟道、會生死涅槃之無常。多時忘喜怒哀楽、平居得恭儉温良
                                  老涯雄志猶益加、暮年壮心終末止。施恩士卒、望功君王。眼晴如閃電、髭髪似微霜。

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■今年に入ってから目を通した種々論考

2023-03-15 06:57:29 | 論考

       幕末政治と大名去就問題 - 日韓文化交流基金
       廃藩置県後の旧藩主細川家と旧藩士
       幕藩体制下における八代城 : 「国一城令」による 存続と地震 による移転について
       熊本藩細川家の忍び  
       東京大学史料編纂所所蔵「加々山文書」
       宝暦5年に球磨川中流域で発生した印相崩壊と天然ダムの形成
       永青文庫コレクションリスト
       室町幕府最末期の奉公衆三淵藤 
       熊本城普請に関する新出の加藤清正書状
       寛永十六年細川忠興の人質交代 : 新収史料 細川忠利書状・同光尚書状の紹介を兼ねて
       大友吉統書状について : 戦国時代の記録と記憶
       近世摂家の家臣統制と家内秩序 : 享保期、一条家の家内騒動と家法を中心に
       諸大名からみた柳沢吉保の政治権力-柳沢家家老藪田重守宛書状から-
       
       

 

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■「阿部一族」と、御犬曳き・津崎五助の殉死

2022-11-06 12:38:42 | 論考

    御厚誼をいただいている北九州在住の小川研次氏には、過去に於いていろいろな論考をお寄せいただいた。
その一つに、「阿部一族」に関しても以下のような多くの論考を当サイトでご紹介をしてきた。

                 ■「阿部一族」の一考察(1)
     ■「阿部一族」の一考察(2)
     ■「阿部一族」の一考察(3・了)
     ■秘史・阿部一族(1)
     ■秘史・阿部一族(2)
     ■秘史・阿部一族(3)
     ■秘史・阿部一族(4‐了)
     ■阿部弥一右衛門
     ■宇佐郡大字山の貴船神社にある弥一右衛門の墓碑 
     ■「田川キリシタン少史」-(1)
     ■原稿差し替え「阿部一族の一考察」の宗像兄弟
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・1
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・2
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・3
     ■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・4
     ■森鴎外『阿部一族』の一考察

 今回は御犬曳き五助の殉死に係わる一稿だが、この五助に関しては大友宗麟の曾孫にあたる松野縫殿助が
介錯を勤めて居り、私は大いなる違和感を感じていたが、今回の論考を拝見し納得するに至った。

小川氏のご研究に感謝を申し上げる。

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       四、津崎五助長季(年齢、殉死日不明)

    森鷗外本『阿部一族』でも有名な六石二人扶持の御鷹方「御犬牽」の五助である。
    忠利が鷹狩りの際に伴っていた猟犬の世話係りであった。殉死場所の高琳寺で犬に
    向かって、「おれが死んでしもうたら、おぬしは今から野ら犬になるのじゃ。おれ
    はそれがかわいそうでならん。殿様のお供をした鷹は岫雲院で井戸に飛び込んで死
    んだ。どうじゃ。おぬしもおれといっしょに死のうとは思わんかい。もし野ら犬に
    なっても、生きたいと思うたら、この握り飯を食ってくれい。死にたいと思うなら、
    食うなよ。」と言った。しかし、犬は「五助の顔ばかりを見ていて、握り飯を食お
    うとはしない。」五助は「それならおぬしも死ぬるか」と言って「犬をきっと見つ
    めた。犬は一声鳴いて尾をふった。」そして五助は不憫に思った犬を脇差で刺した
    のである。このエピソードは『綿考輯録』や『忠興公御以来御三代殉死之面々』に
    も記されており、『阿部茶事談』に拠ったと思われる。但し、『綿考輯録』では
    「岫雲院」は「春日寺」となっており、鷹の殉死は「御葬送之節」だが、鷗外本は
    「荼毘の最中」としている。
    五助の介錯人は松野縫殿助(親政)である。父は親英(織部)、祖父は大友宗麟二男親家
    (利根川道孝)で細川家に仕えた敬虔なキリシタン一家である。
    ここで、五助の出自だが、推考してみよう。
    天正七年(一五七九)に親家が国東郷の田原氏を相続した時に、反大友の狼煙を上げ
    た田原親貫と戦うことになる。(田原親貫の乱) 翌年、勝利を得た親家は旧田原家の
    津崎氏を加判衆にしている。(「津崎文書」『大分県史料』)また、津崎氏宛の親家
    の「感状」「安堵状」「書状」の写があるが、津崎善兵衛宛書状の奥書に国学者後
    藤碩田による「明治二年八月廿七日寫終」とあり、「此津崎氏ハ熊本在土」と加筆
    している。(同上)
    また、『於豊前小倉御侍帳』に「津崎善右衛門」があるが、大友一族と共に細川家
    に仕えたと考えられる。大友家との関係から五助はこの津崎一族の可能性は高い。
    五助の法号は「心了助庵」(『綿考輯録・巻五十二』)で「助庵」は洗礼名「ジョア
    ン」(ヨハネ)でキリシタンであったと推される。
    聖書の「ラザロと犬」(ルカ福音書16章19-31節)の話を彷彿させる。貧しいラザロ
    は金持ちの家の門前で食物を待っていた。そこへ犬もやってきてラザロの身体の
    できものを舐め始めたのである。やがてラザロと犬は天国へ行ったという。
    「五助と犬」は『阿部茶事談』に於いて最もキリスト教的な描写である。
    元文元年(一七三六)八月、津崎家が「奥田権左衛門家士水野孫三と申者之三男を
    養子いたし貞次と申候」(同上)とあるが、キリシタン権左衛門正慶(加賀山隼人甥)
    の四代目同名正英である。この代で断絶となる。(「奥田権左衛門家由来記」『肥
    後細川藩拾遺』)
    但し、「私家来転切支丹奥田権左衛門系」類族としてキリシタン穿鑿の対象となっ
    ていた。(『肥後切支丹史』)
    気になるのは、後述する阿部弥一右衛門の条に「一説、津崎五助より跡に付候由」
    (『綿考輯録・巻五十二』)とある。

    推測だが、弥一右衛門は「(先に)跡に付候由」とし、「跡」は痕跡の意で過去の現
    象のしるしである。つまり、弥一右衛門は五助より先に殉死していたのではなかろ
    うか。五助の殉死日について『綿考輯録』編者は判断しかねているが、「日帳」か
    ら判断すれば弥一右衛門と同じ四月二十六日であるが、それ以前とも考えられる。
    あえて弥一右衛門の条に五助を記したのは五助の殉死についての関連があったと考
    えられる。五助がキリシタンであったならば、自死は深い罪となる。その迷いがあ
    ったのではなかろうか。ここでは弥一右衛門がキリシタンであったことは論じない
    が、そうであれば可能性はある。
    『三斎公御以来御三代殉死之面々』に高琳寺(現在廃寺)に「霊犬之塚」が存ずと付
    記している。
    鷗外は「高琳寺」に触れた時、少年期を過ごした故郷津和野の同名の寺を想ったこ
    とだろう。ここは明治元年(一八六八)から六年までの五年間、長崎浦上のキリシタン
    が配流された場所である。現在は乙女峠マリア聖堂として殉教の悲劇を伝えている。

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■高田重孝氏の論考三点

2022-01-30 18:08:54 | 論考

今般は初刊された高田重孝氏著「細川興秋の真実-ガラシャの真実を受け継いだ人々」は、20年の研究と「与五郎(興秋)宛の内記(忠利)書状」の発見によっての成果である。
その経過は、以下三点の論考を以て随時公開がなされてきた。私もその存在は当然承知していたが、今般このような大成果になったことはご同慶の極みである。
同書が私家版であるため入手が困難であるきらいがある。是非ともこの論考もご覧いただきたい。

           ■天草五和町御領の伝承『細川興秋と專福庵』に関する調査報告

           ■試論:細川興秋公の大坂の陣以後 【大坂の陣以後の行動についての確定事項と推論】

           ■福岡県田川市香春町教育委員会宛 香春町調査報告(不可思議寺など) 

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■原稿差し替え「阿部一族の一考察」の宗像兄弟

2021-12-11 14:40:54 | 論考

 かって小倉葡萄酒研究会の小川研次氏より寄せられた「阿部一族の一考察」について、「その二」における「宗像兄弟」に就いて「『宗像兄弟』は当初、大友氏系と見ていましたが、最近の史料により毛利氏系と判明しましたので、差し替えします。」という、原稿の差し替えのご依頼があったのでまずはここにご紹介申し上げる。
尚、2020:03:16日の該当項の差し替えに就いては、後日と致したい。


宗像兄弟(宗像加永衛、宗像吉太夫、年齢不明 五月二日)

忠利殉死者に宗像姓が二人いるのだが、加兵衛景定とその弟吉太夫景好である。宗像兄弟には他に弟二人いたが、藩主光尚の命に従い思い留まった。(『綿考輯録・巻五十二』)

さて、宗像家は「宗像大宮司宗像氏貞之子孫也」(同上)とある。細川家との関係は父清兵衛景延が小倉藩主忠興に仕えたことから始まる。

花岡興史氏「新発見の豊臣秀吉文書と肥後宗像家」(『沖ノ島研究』第六号)によると、宗像大社大宮司宗像氏貞の後室は豊後の大友氏系の臼杵鑑速(あきはや)の娘である。大友宗麟の養女でもあった。

そして鑑速夫婦の三女が備前住人の市川与七郎に嫁ぎ、与七郎は宗像清兵衛と改名する。(「大宮司系譜」) その経緯を考察してみよう。
天正十四年(一五八六)三月四日、氏貞が逝去する。そして大宮司家を継いだのが、養子益田景祥(かげよし)である。毛利氏家臣益田元祥(もとなが)の二男であるが、十歳とされ、幼名は「宗像才鶴」という。(花岡興史) ところが、文禄四年(一五九五)に実兄広兼が急死し、益田家に戻り、小早川隆景の家臣となる。この時に養母と二人の娘が伴ったと考える。奇遇だが、景祥の後室に養母の同系である臼杵甚右衛門統尚(むねなお)の娘が入ることになる。統尚は大友宗麟と奈田夫人の娘と結婚することから、この娘は宗麟の外孫となる。そして統尚夫妻の早死により、久留米藩主毛利秀包と妻桂姫の養女となるが、桂姫は宗麟の娘でマセンシアという洗礼名を持ち、夫婦共に敬虔なキリシタンであった。つまり、マセンシアは姉の子を引き取ったのである。

やがて、関ヶ原の戦い(一六〇〇年)で敗軍の将となった秀包は妻らと長門国へ向かった。そして景祥と出会うことになる。「イエズス会日本年報」の一五八一年の項に「臼杵殿」の記述がある。
「本年洗礼を受けた貴族の中に臼杵殿Vsuquindonoと称する臼杵の領主がある。この人は異教徒なる一子に国を譲ったが、彼の如き人物であり、また大いに智慮あり且富んでおり、多年当国を治めている故、彼の帰依は大いに評判となった。彼と共に家臣が多数洗礼を受け、その子は我等の友となったので、臼杵全体が帰依することも近かろうと思われる。フランシスコ王(宗麟)は長き前よりこの大身に勧めてデウスの教を聴かせんとしたが、遂に聴聞して奉ずるに至ったのである。」(ガスパル・コエリョ『イエズス会日本年報上』)
「臼杵殿」は誰だろう。臼杵氏は歴代、水賀城(臼杵市末広)城主をつとめていた。七代目の鑑速は一五七五年に没しており、嫡子統景(むねかげ)は叔父鎮続(しけつぐ)と共に一五七八年の耳川の戦いで戦死している。鑑速の弟に鑑続(あきつぐ)がいるが、一五六一年に没しており、残るは末弟鎮順(しげのぶ)である。事実、統景の後を継いだのは鎮順の息鎮尚である。つまり、イエズス会の記録はこの父子のことである可能性が高い。しかし、益田景祥に嫁いだ娘の父は「統尚」であり、「鎮尚」ではないが、同一人物にもみえる。いずれにしても、統尚の娘はマセンシア桂姫に育てられたことから、キリシタンであったことは容易に想像できる。このような家族関係から景祥はキリシタンに理解していたのであろう。

さて、小早川秀秋家臣の市川与七郎は長州から来た氏貞の後室(景祥養母)の三女と結婚となる。ところが、慶長七年(一六〇二)、秀秋の急死に伴い小早川家は無子断絶となり、これ以降、与七郎こと宗像清兵衛は小倉藩細川家に仕えるために妻と共に小倉へ入った。秀秋の実兄は木下延俊で豊後日出藩藩主であり、細川忠興とは義兄弟であった。また、この頃、大大名になった細川家は少なからず毛利家家臣を召し抱えた。村上水軍の村上八郎左衛門景広、二保惣兵衛がいた。(共にキリシタン) また「二保太兵衛ハ宗像兄弟縁者之者」(『綿考輯録・巻五十二』)とあり、身内もいたのである。

清兵衛妻の母は臼杵鑑速の娘で大友宗麟の養女であることから、小倉藩に仕えた宗麟二男親家(客分)、三男親盛、長女ジュスタの系列清田家、長男義統の三男正照など多くの「身内」と親密になったことだろう。つまり、彼らはオールキリシタンであり、清兵衛や妻への影響があったと考えられる。
転宗したキリシタンは「類族」とされ、家族や子孫も監視対象となるが、松野正照(右京)の陪臣に「転切支丹臼杵内蔵助」(『肥後切支丹史』)がいた。臼杵一族だろう。ちなみに清兵衛も肥後では「松野右京組」に属していた。(「新・肥後細川藩侍帳」) 右京は豊前キリシタンの柱石だった加賀山隼人の後継者と目された宗麟三男親盛の養子となっていた。

時代は下り、寛永十三年(一六三六)七月八日、清兵衛は忠利より切腹を命ぜられたのである。理由は「御咎之筋有之」(『綿考輯録・巻五十二』) とあるが不明である。
しかし、その後、継続して四人の子らは召し抱えられた。(同上)

同年七月十三日、忠利は家中のキリシタン家臣らに「切支丹転宗書物」に署名させている。キリシタンから仏教徒への転宗したという証文だが、上述の大友ファミリーを中心に二十七名に上る。(『肥後切支丹史』) 母ガラシャの命日は七月十七日だが、四日前である。
前年十月十八日付の江戸幕府老中酒井讃岐守忠勝宛の忠利書状に切支丹取締りに関する項目があり、経験からか、事細かに記されている。
「きりしたんにて御座無しとの儀の宗躰の証拠を書物に仕らせ、一人ひとり右の通堅め置申候」(同上) とあり、翌年、家中で実行したことになる。
特にガラシャの命日前とは、幕府から厳しい目を向けられていたに違いない。
推測だが、大友ファミリーの清兵衛は夫婦共にキリシタンであったが、署名を拒否したための忠利の処断ではなかろうか。証文の日付の五日前というのも納得できる。また、罪人ならば、そのまま子供らを召し抱えることはできない。
この忠利の恩義があるが故に宗像兄弟全員は殉死を決めたのである。(『綿考輯録・巻五十二』)

しかし、母のことを考えると、夫が切腹、子供ら全員が殉死となると、どのように生きていくのか。二代目藩主光尚はせめて母のため、御家存続のためにも弟二人に生きることを願ったのである。

慶安二年(一六四九)十二月二十六日、光尚が没した。宗像家三男の少右衛門が二日後の二十八日に殉死したのである。末弟長五郎も望んだが、老母一人にはできないと兄少右衛門に説得されていた。(『綿考輯録』)
宗像大社大宮司宗像氏貞の孫である宗像三兄弟は藩主への追腹の道を選んだのだが、父の生き様と武士の恩義がそうさせたのであろうか。

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■小倉藩葡萄酒奉行・上田太郎右衛門

2021-11-07 14:02:31 | 論考

 九州で唯一の日本ソムリエ協会の名誉ソムリエで、小倉葡萄酒研究会の小川研次様とのご厚誼は2017年に遡る。
私がこのブログで、日本で最初と言われる細川藩の葡萄酒つくりについて取り上げたのは、平成15年(2003:11:08up)に細川小倉藩版ボジョレー・ヌーヴォーを書いたのが最初で、ちょうど18年になる。
その後、細川小倉藩に於ける「日本最初の葡萄酒作り」についての研究が一気に加速したように思う。
これがお付き合いの足掛かりである。過去にもいろいろ論考をお送りいただき、当ブログでご紹介してきたが、今回は私の高祖母の実方・上田家一族であり、葡萄酒つくりを奉行した上田太郎右衛門を取り上げた論考をお送りいただいた。

 太郎右衛門は、忠利公から「葡萄酒」や「あひん(阿片)」の製造を依頼されたり、長崎から「万力」を取り入れたり、また三齊公の依頼を受けて「黄飯」を作ったり、面白い活躍をしている。
そんな太郎右衛門個人をいろいろお調べいただき、私の全く承知していない知見をこの論考でご提供いただいた。
いつものことながら、ただただ感謝を申し上げるのみである。ここにご紹介申し上げる。


 

  ・・小倉藩葡萄酒奉行・上田太郎右衛門・・
                          小倉葡萄酒研究会・小川研次

 

 寛永三年(一六二六)、門司の大里で浪人だった上田太郎右衛門は小倉藩主細川忠利から召し抱えられた。
前年まで宇佐郡の郡奉行だった実兄上田忠左衛門の推挙もあったことだろう。
太郎右衛門は翌年から葡萄酒造りを行っており、既に醸造技術を有していたとみられる。
いつ、どこで習得したのだろう。まず、上田家の出自を探ってみよう。
時代は下り、享保二年(一八〇二)に天草郡高浜村の庄屋上田宜珍(よしうず)が自身のルーツを調べるために熊本藩士「上田家」を訪ねることから始まる。(「熊本行日記」東昇『十九世紀前期肥後国天草郡高浜村庄屋上田宜珍の家祖調査』)

上田弥兵衛(三百石)、上田十蔵(百五十石)、上田又之丞(二百石)、上田政之進(百石)であるが、初代上田忠左衛門又は実弟の太郎右衛門系であり、六、七代目の子孫にあたる。(「新・肥後細川藩侍帳」『肥後細川藩拾遺』)

太郎右衛門系の政之進によれば、上田四家は小倉藩に仕えた兄弟の子孫であり、元祖は忠右衛門としている。忠右衛門は福島正則の食客として大阪の陣後に細川忠興から千石の召し抱えの話があったが、老年のため息子四人が代わりに仕えた。実は兄弟は七人いて四人は細川家、一人は京都西本願寺、一人は江戸道中筋に居住、そして一人が行方不明となったが、この人物が天草上田家の先祖ではなかろうかと弥兵衛家に伝わっているという。

上田四家から「四人兄弟」としたと思われるが、忠左衛門、太郎右衛門の二家であろう。
父を「忠右衛門」又は「忠左衛門」、細川家に仕えた嫡子を同名「忠左衛門」として子孫の伝承を元に話を進める。

慶長六年(一六〇一)に安芸・備後に入封した福島正則は早速、検地を行った。「慶長六年安芸国佐西郡五日市之内皆賀村検地帳」(広島城所蔵)に牧主馬と「上田忠左衛門」の名が記されていることから、関ヶ原の戦い前後から仕えていたと思われる。
また、この年に正則は豊後国のキリシタン柱石である志賀親次を召抱え(レオン・パジェス『日本切支丹宗門史』) 、家中に多くのキリシタンが生まれることになる。真鍋五郎右衛門貞成(四千石)や大阪の陣後に明石掃部の二男内記やアントニオ石田司祭を匿って処刑された佃又右衛門(二千三百二石余)がいた。(ペドロ・モレホン『続日本殉教録』)

「福島正則家中分限帳」(『続群書類従第七百十四』)に長尾隼人一勝組に与力として「三百六石四斗、上田忠左衛門」とある。他に「上田」姓は六名いるが、兄弟関係は不明である。但し「太郎右衛門」の名はない。この分限帳の成立は慶長十七年(一六一二)から元和二年(一六一六)とされる。(『広島県史』近世資料編II) 

この頃、忠左衛門は五品嶽城(庄原市東城町)の在番衆であった。
大阪の陣は慶長十九年(一六一四)十一月から翌年(一六一五)の五月となるが、小倉藩細川家の「大阪御陣御武具并御人数下しらへ」(『綿考輯録巻二十七』)の「志水主人」組に「上田忠左衛門」が記されている。つまり、慶長十九年十一月以前に(冬の陣として) 忠左衛門は福島家を離れ、細川家に仕えていたことになる。この人物は上述の同一ともみられるが、子孫の伝承に従い嫡子とする。
ちなみに正則重臣の黒田蔵人や高月(上月)文右衛門らが細川家に仕えるのは元和五年(一六一九)の福島家改易後である。

忠左衛門の直系とされる又之丞の「先祖附」によると、忠左衛門は「三斎様(忠興)御代於豊前国被召出、御知行二百石被為拝領、妙解院様(忠利)御部屋住之節、仲津ニ而御奉公仕候」とあり、中津にいた忠利に仕えた。
上田兄弟四人が豊前国に来て、仕えたとあるが、「大阪御陣御人数下しらへ」には忠左衛門以外の上田姓は見られない。太郎右衛門も召し出されたのは寛永三年(一六二六)である。

元和九年(一六二三)四月九日付忠利書状に「上田忠左衛門せかれ忠蔵事、ひらどへ遣し、石なとひき候色々のてだて忠蔵おぢ(叔父)存候由ニ候間、ひらどへ忠蔵を遣し習はせ可申候」(『永青文庫研究創刊号』)とあり、忠左衛門の息子忠蔵を平戸にいる叔父から石などを引く色んな技術を習うように命じている。

天分十九年(一五五〇)、フランシスコ・ザビエルが信仰の種を蒔き、キリシタン聖地となっていた平戸であるが、忠蔵が入った頃の七十年後の風景は一変していた。
昨年一六二二年、二人の宣教師を船に乗せ密入国を企てた平山常陳らが処刑され、この事件を起因とされる五十五人が処刑された「元和の大殉教」が起きていた。また小倉で活動していたこともあるカミロ・コンスタンツォも平戸の田平で処刑された。
忠蔵の入った年はイギリス商館も撤退するという混沌とした様相であった。このような時に忠蔵の「叔父」は何故、平戸にいたのだろう。この謎に「上田家」の真相が潜んでいる。

忠左衛門は上述の通り大阪の陣以前に芸備を離れている。
政之進の伝承によれば大阪の陣以降だが、細川家に仕える四人の兄弟が同時に離国したとなる。(他の兄弟も可能性あり)その時期だが、推測されるのは慶長十八年十二月(一六一四年二月)の幕府の禁教令発布により宣教師を長崎に追放し、教会を閉鎖した時ではなかろうか。

広島にいたイエズス会日本人司祭アントニオ石田だが、一六〇三年に天正遣欧少年使節の伊東マンショ、中浦ジュリアンと共にマカオの聖パウロ学院で学んでいる。一六〇八年に司祭となった伊東は小倉、中浦は博多、石田は広島の教会に就くことになる。(高瀬弘一郎『キリシタン時代の文化と諸相』) 
一六一四年、石田は国外追放のために長崎に向かうが、翌年、再び広島へ戻り潜伏することになる。この時、明石掃部の二男内記が同行したと思われる。
正則はキリシタンを保護していたが、四人兄弟が離国するのは信仰上の問題だったかも知れない。石田と共に長崎へ向かったのだろうか。
彼らがキリシタンという内外の史料は現在のところ見出さないが、可能性も否定できない。忠左衛門が忠利に仕えたことも必然性を感じる。二人を繋ぐ接点は上述の司祭であるからだ。

   利が忠蔵に平戸行きを命じた翌年には日本人司祭が豊前に入る。
「中浦ジュリアンは当時、筑前と豊前を訪問中であった。彼は艱難辛苦のためにすっかり衰え、身動きも不自由で、たびたび場所を変えるのに人の腕を借りる有様であった。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)
「豊前の領主は長岡越中殿(忠興)の子細川越中殿(忠利)で、その父とは大いに違い、宣教師に心を寄せ、母ガラシャの思い出を忘れないでいることを示した。」(同上)
忠利は中浦を匿い、母ガラシャの追悼ミサを挙行していたのである。ミサには「キリストの御血」である葡萄酒が必要だった。
太郎右衛門の葡萄酒造りは一六三二年まで細川家転封直前まで行われていた。しかし、中浦はその年末、天草出身の同宿トマス良寛と共に小倉城下で捕縛される。

寛永二年(一六二五)の細川家惣奉行書状に「忠左衛門尉二番めのせかれ加左衛門と申者、平戸ニ忠左衛門弟居申候ニ養子ニ遣置申候」(『永青文庫研究創刊号』)とあり、忠左衛門の二男が平戸にいる弟の養子になっていたのである。
さらに「拾五六ニ成申せかれも壱人御座候」とあり、十五、六歳の息子がいたが、寛永九年(一六三二)に召し出された久兵衛とみられ(系図では二男とされている)、七代目が上述の又之丞である。
この三男の年齢から父忠左衛門の年齢を推測してみよう。
この年(一六二五)に長男忠蔵を満十八歳、二男加左衛門十六歳、三男十四歳としたら父親が三十八歳ぐらいであろう。つまり一五八七年生まれとなる。関ヶ原の戦いの時は十四歳、大阪冬の陣では二十七歳である。「寛文四年(一六六四) 六月御侍帳」にも名があり、御年七十七歳となるが、十歳若くすれば、十歳の時に長男が生まれたことになるので、ギリギリの線である。太郎右衛門はおよそ十歳程離れた弟とみる。

ここで「叔父」の正体を推考してみよう。
まず考えられるのは南蛮技術を有する太郎右衛門である。しかし、二代目は「弥兵衛」(「真源院様御代御侍名附」)という嫡子がいたので養子を迎えるのは考え難い。
では何故、太郎右衛門は南蛮技術を有していたのか。いつ、どこで誰から学んだのかである。
広島を離れたのが禁教令以降(一六一四年)として、長崎や平戸で宣教師に学ぶことは至難の業である。命の危険に晒されながら潜伏しなければならなかったからである。では、禁教令前としたら、広島時代であり、石田司祭もいたから充分に考えられる。
次は小倉時代である。太郎右衛門が寛永三年(一六二六)に召し抱えられるまでの浪人時代である。その時の司祭は潜伏していた中浦ジュリアンをおいて他にはいない。天正遣欧少年使節としてヨーロッパへ行き、スペイン国王フェリペ二世やローマ教皇と謁見した中浦は本物の「葡萄酒」に触れている。半世紀にも及ぶ信仰生活から得た南蛮文化、学問の知識や技術は日本人としては当代随一である。
太郎右衛門が中浦から学んだとしたら、忠利の指示以外は考えられない。つまり仕官の条件として南蛮技術を身につけたのである。広島説よりも小倉説の方が真実味を帯びる。

では、平戸の「叔父」は誰だろう。
宜珍によれば初代は「助右衛門正信」(一五七五〜一六四七年)とし、大阪の陣の後の元和三年(一六一七)、息子の定正と共に家臣田中清兵衛、清水安左衛門、僧志白を引き連れ、天草郡高浜村へ移住とある。(「正信墓碑」『十九世紀前期肥後国天草郡高浜村庄屋上田宜珍の家祖調査』)
しかし、上述のように忠左衛門の推定出生年は一五八七年である。正信は弟どころか一回り上の兄となる。正信の出生年に信を置くならば別人となり、平戸ではなく天草に直に入ったことになる。

この初代上田正信墓碑は文政元年(一八一八)に宜珍が建立したものである。(同上) 「福島正則」「大阪陣の後」「七人の兄弟」ともあり、上田家子孫の伝承を盛り込んでいることから、正信出生についても不確実である。
出生年が一五八七年以降であれば、忠左衛門弟の可能性がある。
そうすれば、正信を平戸の「叔父」で上田助右衛門正信、息子(養子)が兄忠左衛門の二男加左衛門こと「定正」となる。天草上田家では「勘右衛門定正」としている。(「天草陶石と上田家の歴史」〜天草高浜焼寿芳堂HP)
しかし、ここでまた何故に天草なのかと疑問が起きる。島ごとキリシタンである天草である。

イエズス会日本管区長マテウス・デ・コーロスの「コーロス徴収文書」(一六一七年)に天草下島キリシタン三十四名が代表として署名している。高浜村は崎之津と同じ三名であり、大江村は五名である。(松田毅一『近世初期日本関係南蛮史料の研究』)
この数字は二百年後の文化二年(一八〇五)、崎津村、大江村、今富村、高浜村でキリシタン暴露事件で理解できる。四ヵ村で総数五千名以上という驚異の数である。世に言う「天草崩れ」である。崎津村は約千七百人、大江村は二千百人で村民の約七割がキリシタンであった。今富村は千名で六割だが、高浜村は三百名とおよそ一割だった。
この時、今富村庄屋は上田演五右衛門と高浜村庄屋は実兄上田宜珍であった。(大橋幸泰『潜伏キリシタン』)
高浜村の減少は島原藩から忖度された上田家が転宗させた結果と考えられるが、当時は相応のキリシタンがいたはずである。
このような状況下で上田家がキリシタンと無縁とは考え難い。初代上田正信が天草郡高浜村へ移った理由は平戸での迫害ではなかろうか。

寛永元年(一六二四)には、平戸藩主松浦隆信は三十八人のキリシタンを処刑したとあり(『日本切支丹宗門史』) 、ますます迫害が激化していた。
寛永三年(一六二六)二月九日付けの書状に平戸の「叔父」の養子になった弟加左衛門が小倉に戻っていた。父忠左衛門が惣庄屋と出入り事件を起こし入牢され、裁判があったためである。忠利は「平戸のハ他国之者」だから人に預けてはならないと申し付けている。(『永青文庫研究創刊号』)
つまり、この時点では平戸に養父がいたことになる。
もし、この忠蔵「叔父」父子が天草へ渡ったとしたら、この年かも知れない。

「大矢野の島には、やはり肥後を訪問したフランシスコ・ボルドリーノがいた。この地方の領主は、キリシタンを虐めなかった。」(『日本切支丹宗門史』一六二四年の項)
また、イエズス会日本管区長のコーロスが潜伏したのも天草だった。(五野井隆史『島原之乱とキリシタン』) コンフラリア(信徒組織)がしっかりと機能していたことも、「天草崩れ」で理解できよう。
このような状況下で正信・正定父子は高浜村に潜伏したのである。
天草が司祭不在となるのは、寛永十年(一六三三)、日本人司祭斉藤小左衛門が捕縛された時である。(『日本切支丹宗門史』)

平戸藩御用窯である三川内焼の祖とされる朝鮮陶工巨関(こせき)の孫の代にあたる今村正名(弥治兵衛)は寛文二年(一六六二)、天草陶石を発見した。(上田家資料館) この陶石を採掘したのが高浜村の上田家である。その後、天草上田家は二代目定正から代々庄屋を務めることとなる。初代がキリシタンとしても、庄屋の立場から二代目以降に棄教・転宗したことも考えられる。

豊前、平戸、天草に残した上田家の足跡はキリシタンの歴史と重なる。
それは太郎右衛門が小倉藩で葡萄酒を造っていたことが物語っている。

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■『再考小倉藩葡萄酒事情』追加稿₋「有馬直純」

2021-09-19 06:49:59 | 論考

 今年の3月21日から10回に亘り、ご厚誼いただいている北九州市小倉在住のソムリエ・小川研二氏の論考「再考小倉藩葡萄酒事情」をご紹介してきた。
今般追加稿として「有馬直純」をお送りいただいた。ここにご紹介するとともに過去の稿についても再掲しておく。

   ・■再考小倉藩葡萄酒 (一)ミサ用葡萄酒
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (二)ガラシャの菩提
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (三)キリシタン忠利
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (四)忠興の仕打ち
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (五)藩主と葡萄酒
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (六)御薬酒
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (七)葡萄酒製造法
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (八)キリストの御血
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (九) 真田信之
   ・■再考小倉藩葡萄酒 (十)結び

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 ■有馬直純

 有馬直純は細川忠利(1586〜1641)と出生と死亡の年が同じであり、二人は生涯の友であった。
先述(九)の真田信之の正室は本多忠勝の長女小松姫で弟が忠政である。
そして直純の継室は忠政の長女国姫(家康曽孫)であり、その妹亀姫が小笠原忠真の正室である。忠利の正室は忠真の妹千代姫という縁戚関係でもあった。
さて、直純の父晴信は著名なキリシタン大名であり、四万石の肥前日野江藩主であったが、慶長十七年(1612)、岡本大八事件により改易となる。
しかし、直純は国姫との関係からか、家康の処遇により父の領地を継承した。
父の改易には直純が関係していたといわれ、『日本切支丹宗門史』に「ドン・ミカエル(直純)は、かねて父の計画を訴え出ていた。そこで公方様(家康)は、顧問官に調査を命じた。陰謀と賄賂の事実は明るみに出された。」
晴信の旧領地奪回工作に岡本大八に賄賂を渡していたが、全くの詐欺であったことが判明した。大八は息子とともに死刑となった。しかし、晴信はこれで飽き足らず、さらに領地奪回工作を続けていた。

「ミカエルは之を知るや、その恐ろしい夫人、並びに左兵衛と共同して、新たに陰謀を企てているものとして、公方に訴え出た。」そして、「死刑の宣告を受けた」のである。 
「恐ろしい夫人」とは国姫であるが、祖父家康と同じく大のキリシタン嫌いであった。「左兵衛」は長崎奉行長谷川左兵衛のことで、直純の領地島原を狙っていたと伝わる。若き藩主に父のことも含めて絵を描いたのは間違いない。

 この年、将軍秀忠は「彼(直純)に棄教して御国に何か一宗を信仰し、家来にも棄教させよと命じた。そこでミカエルは、表面上は公方と同じ浄土宗を奉じ、新たに左衛門左と名乗った。」直純のキリシタン宗根絶の迫害が始まることになる。

「有馬殿は、公方に告発されまいとて目立ったキリシタンを若干犠牲にして、手本を示そうと思った。彼は有家のキリシタン二人を死刑に処し、幾程もなく又一人有馬のキリシタンを現場に処した。」
そして「最も残酷な迫害の舞台は有馬領であった。」(同上、1613年の項)
「聖堂は転覆され、宣教師達は或は追放され、或は逃走した。」(同上)
やがて、直純の異母兄弟になる「八歳になるフランシスコと六歳になるマテオの幼い弟二人を死刑にせよ」(同上)と命じた。

「左衛門佐殿は、やがて浄土宗の仏僧「幡随院」(ばんずいいん)を政庁から連れて来た。彼は、この仏僧に領内の全住民を堕落させる任に当たらせた。しかし、一人として地獄の手先の説教を聴きに来る者はなく、子供らは往来に来ると、彼を馬鹿にするのであった。」(同上、『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第二期第二巻)
イエズス会側の記録は迫害者や他宗を悪魔呼ばわりするのが常套手段である。

さて、日本側の『幡随意上人小伝』(文久二年、1862年)をみてみよう。
幕命(家康)により高齢(72歳)にも関わらず名僧であった幡随意上人がキリシタン教化のために江戸から島原へ派遣されたのである。
「怪術を現し巧に人を惑わして政を乱すものあり。吉利支丹耶蘇宗と称す。希くは邦家安寧の為赴いて教導に尽くされ」るために、江戸から直純と台風に遭遇しながらも、上人の「法力」により無事に「肥前国直純の館に到る。乃ち錫を同地の三福寺に掛け夢中感得の尊像を奉安し、四十八日の別行を修し」たのである。やがて、「国中上人の教化に服して正法を信仰するもの続出するに至る。直純その洪化に感じ新たに一道場を営建し上人を請じて創主となし満字山観山寺と称し寄するに荘園百戸を以てす。時に慶長十八年なり」

観山寺は延岡に転封後、二岸山白道寺となり、元禄八年(1695)、有馬清純が越前丸岡藩に移封とともに移る。(現福井県坂井市丸岡町)
慶長十八年とは1613年であることから一致するが、内容は違う。
実際は島原のキリシタン棄教はなかなか進まなかった。24年後の島原の乱からみても多くのキリシタンが潜伏していたことがわかる。

「罪の人であるこの不幸な大名(直純)は、公方様からは始終疑われ、左兵衛には虐待を受け、どうして良いのか分からなかった。」(『日本切支丹宗門史』1613年の項)

ついに有馬の領地を狙っていた長谷川左兵衛は江戸幕府に訴える。

「彼は九月政庁(幕府)に出かける前、ドン・ミカエルがキリシタンでありながら公表することを望まぬこと、また誰もそれを知っていること、並びに内府様(家康)は直ちにこの大名に対して、断然たる処置を執らるべきことを書き送った。」(同上)のである。直純はすべての教会を破却し、八名のキリシタンを処刑したが、効果もなく「家臣五十人の知行を取り上げるだけに止めた。」(同上、1614年の項) 極刑を覚悟しているキリシタンになす術はなかった。

『有馬晴信記』の「慶長十九年七月十三日肥前之国高来郡日野江城ヨリ日向国縣ヘ所替之事」の項に「左衛門佐若輩ニ候條。幾久仕置難申付可有之候。日向国ハ葛木郡(高来郡)ヨリハ所柄能ク候。左衛門佐義御贔負ニ被思召候。一万三千石御加増。先知合五万三千石被下候」とある。
(左衛門佐は若輩である。ずっと難題を申し付けた。日向国高来郡より所替えした方がいいと贔負に思い、一万三千石加増し合計五万三千石となされた)
家康の温情である。直純がキリシタン対策に心労を重ねていたことが、国姫から家康の耳に届いたことは間違いないだろう。旧地は長谷川左兵衛の思惑通りに長崎と併合したことはある意味成功であろう。

「彼(直純)は八月同地に赴いた。彼の先祖は、二十六代連綿として有馬の地を領し、如何なる騒乱にも耐えて来たのであった。神の怒りが、全く情深い計算によりミカエルを改易した。要するに、この放埒な子を家庭の父の家に連れ戻すためであった。」(『日本切支丹宗門史』1614年の項)

慶長十九年七月十三日は西暦1614年8月18日であり、縣(あがた)は後の延岡である。
その後の直純のキリシタンに関する記録はないが、翌年1615年、大阪の陣の後に日向国に入った宣教師がいる。ドミニコ会の司祭ハシント・オルファネルである。
1609年に長崎で信徒組織ロザリオ(聖マリア起因)の組を結成し、特に禁教令後に大村や有馬で顕著に飛躍した。(五野井隆史『イエズス会士によるキリスト教の宣教と慈悲の組』) このことにより聖マリア信仰が育んでいくことになる。

1622年の「元和の大殉教」では、55人処刑されたが、宣教師21人を除いた34人の内21人がロザリオの組員であったことが物語っている。4月初旬に長崎にいたオルファネルは12月初旬まで筑後、豊前、豊後、日向への長途の巡歴をしていた。(『日本キリシタン教会史』)

日向入りの前に豊前中津にいたが、細川忠利の家老久芳又左衛門(くばまたざえもん)の屋敷に身を寄せていた。(同上、1618年忠興により処刑) 実は直純が幡随意上人を招いたり、改宗策を強行していた1613年に、オルファネルは有馬にいたのである。(『日本切支丹宗門史』) 小倉に潜伏することになるイエズス会司祭中浦ジュリアンも有馬にいたことも付記する。
日本人武士に変装したオルファネルは日向に向かった。もちろん、直純と会うためであることは間違いないだろう。忠利の伝言を持って。

時代は下り寛永十七年(1640)八月七日の有馬直純宛忠利書状に以下の文言がある。(『大日本近世史料 細川家史料二十六』)
   御気色しかと無之由二付而、ぶとう酒参度由、我等給あましハ江戸ニ置候而、此方へ持而参給かけ候入物共、
   此印判を口ニおし進之候、事之外薬とハ覚申候、

(顔色が全くないとのことで、ぶどう酒を飲まれたいとのこと。私共が差し上げる余分のぶどう酒は江戸に置いていますので、こちらへ急いで入物と共に持って来ます。この「印判」を口に押しつけるとさらに薬効が上がると思います。)

別の意味で「御気色…」の部分を(しっかりと表に出ないようにして)とも読めるが、肝心なところは「印判」と「口に押しつける」である。神社仏閣の病平癒の札に「キス」すれば、さらに御利益があると言っているのだろうか。残念ながら日本人にはそのような風習はない。

ルイス・フロイス『日本覚書』に「我々は抱擁するのが習わしであるが、日本人は全くせずに、我々を見て笑う」とある。そして、クルス(十字架)やメダイなどにもキスをする。特に被昇天の聖母マリア(像)の衣装へのキスなどは、日本人からみて異様に映っただろう。当時の日本人にも「口吸い」があったが、ニュアンスが違う。キリシタン教本には上品に「いただく」「拝む」「拝する」など使用していた。(米井力也『Predude to a kiss』

さて、南蛮仕込みの「拝む」としたら「印判」はキリシタン関連と考えら、紙、木製なのか分からないが「聖母マリアの御像」ではなかろうか。

  酒をとまり候て能者も御座候、悪者も御座候、如何と笑止ニ存候事、
(酒をやめることはいいことやら悪いことやら如何ですかと(遺憾に)思います) 「酒」が「祈り」とも取れる。

忠利は翌年、寛永十八年(1641)三月十七日に、直純は四月二十五日に没している。
私は死を予感した直純が「痛悔の祈り」を捧げたのでなかろうかと思う。
イエズス会日本司教ルイス・デ・セルケイラの認可の元に配布された『こんちりさんのりやく』(contriçãoポルトガル語=痛悔、1603年印刷) が広く日本人キリシタンに読まれていた。島原発といわれ当然、晴信・直純父子の手元にあったことだろう。
「キリシタン禁制において、270年間潜伏し続けた信徒たちの心の拠り所になったという事実である。」(川村信三『「こんちりさんのりやく」の成立背景と意義』)
同時に神の母とされるマリア信仰も平行していった。

さて、『こんちりさんの利益』は「ゆるしの秘蹟」のマニュアル本であるが、重要な条は「緊急の場合、あるいは戦場に赴くなどして告白を聴く司祭がいない場合は、いづれその機会があれば告白するという覚悟を条件に罪(大罪)をらゆるされる。」とあり、司祭への「告白」がなくても「真の痛悔」があれば「霊魂の救済」が成し遂げらるという。
絵踏、表向きの転宗などは「真の痛悔」があれば、赦されるのである。

父晴信への仕打ち、義理の弟らや家臣の処刑や追放など、キリシタンとしての大罪を心から「痛悔」することにより、人生最後にキリシタンとしてデウス(神)の赦しを求めたのではなかろうか。

「われかつておかせし科(とが)をも陳ぢ奉らじ。ただ罪科のはなはだ重く、しかも数かぎりなき事を白状し奉らせ。しかるといへども、御慈悲わわが科よりも深き御子(おんこ)ぜすす−きりしとの流したもふ御血(おんち)の御奇特わ、わが罪科よりもなを広大にましますとわきまへ奉る也」(「おらしょ」(祈り)『こんちりさんのりやく』)

現代では「御子(おんこ)イエズス・キリストの流し給える御血(おんち)の功徳において、わが罪を赦し給え」となる。
忠利も洗礼を受けているが、直純にとっても「キリストの御血である葡萄酒」は貴重なものであった。

「キリストを信じる者にとって、葡萄酒を飲むことは、感謝を呼び起こすばかりでなく、救いと永遠の喜びの源である主のいけにえを想起させる機会ともなる。」(ブリジット・アン・ヘニッショ『中世の食生活−断食と宴』)

1865年、長崎の大浦天主堂に15名のキリシタン信徒が現れた。応対したフランス人神父ベルナール・プティジャンに、一人の女性信徒が「わたしのむね、あなたのむね同じ」と尋ねた。これは同じキリスト教ですかとの意味で、神父は大きく頷いた。そして彼女は安心したのか。

「さんたまりあさまの御像はどこ」神父はすぐに彼らをマリア像の前に導いたのである。(現在も同じ像)
世に言う「信徒発見」「神父発見」である。
彼らは浦上のキリシタンであった。

奇しくも281年前、その土地をイエズス会に贈ったのが、直純の父・有馬晴信であった。

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■熊本大学文学部論叢から

2021-05-18 14:11:06 | 論考

 外は早い梅雨入りで大雨だし、図書館も閉館中だし、コロナ禍で時間をもてあましていると頼みはWEBで史料をあさる事である。
今日は、熊本大学の学術リポジトリから「文学部論叢」の一覧を、総チェックしている。
その内に細川家の歴史に関するものをとりだして、ご紹介しようと思っているが・・・

 2018年の109号の三澤 純准教授の「熊本藩明治三年藩政改革の再検討ー新出の道家家文書を手がかりにー」を見付け、これが大変面白く、プリントアウトして精読している。
道家家から大学図書館に寄贈された膨大な資料は、平成27年「貴重資料展」で一部公開された。
この史料がもたらした成果は、今後明らかにされていくものと思われるが、いわゆる徳富蘆花の「肥後の維新は明治三年に来た」という文言の呪縛から解放されそうである。
蘆花のこの表現も約半年間のタイムラグがあることを、三澤准教授は指摘されている。

随分以前、「平成肥後国誌」の編者・高田Drと、史談会の若い友人N君と三人、金峰山山中の民家の敷地内にある「道家之山」のお墓を訪ねたことが在る。
なぜこんな処にと思わせる場所だが、道家家の在宅ででもあったのだろうか?
峠の茶屋から下る道筋で漱石の句碑なども拝見した。木瓜咲くや 漱石拙を守るべく とあった。

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■申し込みはされましたか?

2021-04-25 07:36:19 | 論考

                                             

 熊本大学永青文庫研究センターの、この二冊の貴重な資料の無償配布につきましては先にご紹介したところですが、昨日私方には送られてきました。
皆様にもぜひお取り寄せになりまして、ご活用下さいませ。

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