津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■中嶋林右衛門家先祖附

2019-08-31 10:22:43 | オークション

                                                       è‚¥å¾Œç†Šæœ¬è—©å£«â—†ä¸­å³¶æž—右衛門先祖附并御奉公附◆文化8肉筆墨書◆戦国武将加藤清正細川忠利阿部一族森鴎外江戸和本古書_画像2

 もうずいぶん以前から、文化四年と八年の二点の中嶋林右衛門家の「先祖附・御奉公附」が、ヤフオクに出品されていた。
この人物については「細川家家臣略歴」には名前が見えない。つまり永青文庫には「先祖附」が存在しないという事になる。
少々興味があって今回落札したのだが、それはこの人物のご先祖様の来歴である。
柳川の立花宗茂に仕えたが、立花家改易(慶長5年)となり300人が加藤清正に預けられている。有名な誾千代姫も同様の運命であったが慶長7年に肥後の腹赤(現・長洲)で死去した。
のちに立花宗茂は細川忠興の助言などにより、元和6年奇跡の返り咲きをして柳川に戻った。
加藤家に預けられた家臣たちは熊本城下に住む人もあって、京町に柳川丁の名前も残る。
宗茂の柳川帰還に伴い復帰した人もあったろうが、この中嶋氏は加藤家改易(寛永9年)後、細川家に仕えたらしい。
そんな来歴を持つ人物について興味を以て、少々高値ではあったが落札してしまった。

我慢より興味には勝てなかったという話である。あと三四日待たねばならない。

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■英文にレ点を入れたという話

2019-08-31 08:21:51 | 徒然

 最近「漢文のルール」という本を買って、勉強をしているのだが、本を読んだくらいではなかなか理解できない。
いつも日本人というものは凄いなーと思うのは、「おこと点」や「返り点」を考え出して、漢文を訓読することを考え出したことだ。

                                                                              「オコト点」の画像検索結果                    
同じ文章を「音読」する中国系の人々は、日本人の「訓読」のようにその文章を正確に理解できるのかと考え込んでしまう。
文字の持つ意味も多様であり、国家間の難しい文書など、通訳がさぞ大変な事だろうと思ってしまう。
訓読に当たっての読み方についても、「返読文字」とか「再読文字」とかが存在し、訓読漢文の格調の高さにつながっていて、よくぞこのような事が考え出されたと、先人の知恵に驚嘆させられる。
山本夏彦は「口語体」の文章になって、「文語体」の文章のような格調の高さが亡くなってしまったと慨嘆するが、これはまさしくそうであろう。
 随分以前の事だが、日本における英語の草創期には、漢文同様レ点を入れたという話を聞いたことが有る。
おもわず笑いが込み上げてくるが、発想がなかなかユニークである。いつの時代にも優れたアイディアマンが存在するものだ。
なんとか異国の文章を読み解こうとする先人の知恵に、ただただ感嘆を覚えずにはいられない。

 

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■左足痛の原因

2019-08-30 11:41:53 | 徒然

 左足、臀部、背中に痛みがあってなんとも不愉快、散歩もお休みしてしまった。
臀部と背中は椅子に座りっぱなしが原因だろうと思うが、左足の脛の外側部分の痛みはSIXPADのせいらしい。

                   
足が弱らないようにと奥方が購入してきた。
あの三浦雄一郎さんがCMに出演して使っている機械だ。
微弱電流が流れてふくらはぎを鍛えようという訳だが、8位のレベルから開始、だんだん慣れてくるもので、12・13くらいにしても気にならなくなった。ここ三日ほどは15くらいのレベルでやってみたが、機会の上で足のあどが躍るような感じがする。
そして今朝ほどから、左足の脛の部分に痛みが気て何が原因だろうと思っていたが、どうやらこの機械の所為のように思える。
奥方曰く「三浦雄一郎さんも8でやってらっしゃるのに・・やりすぎよ」

そうかもしれないと思っているから口へんぱくも出来ない。只今湿布のシートをはって養生中である。
心臓が脈を打つタイミングで痛みがきて、今晩は寝れるだろうかと思っている。アルコール麻痺させようと思っているがまた怒られそうでもある。

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■元和拾年 萬覚書(8)

2019-08-30 06:02:10 | 細川小倉藩

                                 (元和十年三月)十六日
         |
国東郡惣庄屋扶持 | 
人ノ隠居願ニ肩書 | 一、国東郡惣庄や衆之内、御扶持方被遣候もの、隠居仕度と申上もの共ニ、 御肩書・御印被成候、  
御印ノ写ヲ郡奉行 |   写仕、御郡奉行衆へ相渡候事
ニ渡ス      |
井上宗和遣銀駄賃 | 一、井上宗和、遣銀・駄賃銀上下九人分、相渡申候、船中賄之儀ハ、当月中ノ扶持方渡切候間、不遣
銀        |   候、賄米ゟ過分之儀ニ候へ共、渡申ふち方にて候故、其分ニ仕候、長崎ニ用所候間、参候由申来
         |   候間、其方次第と返事申候事
         |    (政三)                    (小笠原長元)
薮政三ノ役儀   | 一、薮三左衛門役之儀ニ付、中津御奉行中ゟノ状来ル、本書民ア殿へ有之、則、御返叓ニ候間、三人
         |   共ニ加判仕候也
         | 一、中間市太夫、金山ゟ罷帰候事
古市村與三ノ詮索 | 一、国東郡ノ古市村與三左衛門穿鑿之御奉行、村上久大夫・遠坂関内ニ而候へ共、関内相煩申候由申
         |   間、瀬崎猪右衛門を替りニ申付、せんさく申付候事
                  (鷭)                        (長舟)
三斎鷭捉ノ鷹を求 | 一、三齋様ゟ、はん取ノ御鷹を居させ可進之由、 御意旨、十右衛門尉所ゟ、民ア殿へ被申越候事、
ム        |         バン          〃

         |
                                           

               三月十七日

         |                  (田川郡)
福知山権現社上宮 | 一、福知山権現御社上宮建立仕材木、上野村之清兵衛望申候ニ付、則、遣ス覚
建立材木     |
椎        |   一、椎ノ木拾五本、長サ弐間・大キサ四尺廻り、
梣        |   一、たもの木五本、長サ弐間・大キサ四尺廻り、但、葺板                         「たも」に対する頭注の「梣」????
         |                  (入)
小丸太      |   一、小丸た三拾本、長サ弐間・壱本持、但ねた道木也
         |      合、木数大小五拾本也
         |

              (  衍  )
               三月十七日

         | 一、田川郡下香春村、当根付不罷成ニ付而、御代官萱嶋作兵衛 梶原平兵衛 御惣庄屋上野清兵衛新          
         |   屋敷見立申 新百性仕付候ニ付而 屋敷ニ家跡 同こへ坪 稲置所 物干し所 道代御免シ被成
         |   候様ニと 望申ニ付而 右之分免シ申書付遣申候 同右三人之望之書物 此方ニ取置申候也
三斎へ隼ヲ居エ進 | 一、中津へ、はやふさ三もと居させ、進之候御鷹師ハ、中村源右衛門・福川少介・杉生杢左衛門、三
ム        |   人遣申候事
鷹師三人     |                                                                                          
                                                                                                                            
国東郡惣庄屋隠居 | 一、小林半左衛門ニ、国東郡御惣庄や隠居仕度と申上者共、又ハ御扶持方被遣候者共へ、成被遣候
願ウ者ニ扶持方ノ |   御肩書・御印ノ写相渡候事
肩書御印ノ写   |
田川郡中御諚ノ覚 | 一、林與兵衛ニ、田川郡中ノ儀ニ付、御諚被申覚書ニ、 御肩書・御印被成遣候写、相渡候事
書ニ肩書御印   |
嶋津家久米船難破 | 一、松平薩摩守様御米舟、当二月十二日ニ、国東郡安岐浦にて破損仕候、われ舟〇売立、幷ぬれ米を
ノ処理      |                       
家老添状     |   うり立、代銀を無滞取立、上船幷船頭ニ相渡〇、本国へ戻シ申候ニ付、年寄衆へ、状を壱つ添く 
       
         |                (小笠原長元)(村上景元)     (小林)  
         |   れ候へと、上乗衆ゟ申来候間、民ア殿・八郎左衛門殿へ、半左衛門尉被参、状を取り、可被遣由、       |   
         |   申渡候事
                          松平薩摩守に関するこの頭注は紛らわしい。嶋津忠恒の事であり、後に家久と名乗ったが、同名の叔父が居り注意が必要である。
         |         (太)                                      十三日ニ  
  
         | 一、御船頭明石大郎右衛門、大坂十一日ニ出船候様仕候而、罷下候、御舟ニハ京ノ上らうにて候、〇
         |   相申由候事
五百石已下ノ給人 | 一、知行高五百石ゟ内ノ衆、知行所へ妻子を引越、内作仕度と申衆候ハヽ、可遣旨、被仰置ニ付、
妻子ヲ在所ニ移シ |   請人を立させ、参度と申衆候ハヽ、可被遣とのさしかミ、民ア殿・八郎左衛門殿へ進候事
内作ヲ願ハヽ許ス |
         |             (河喜多正直)(仁保慰英)
郡奉行へ増借ノ指 | 一、杉無兵衛増借ノ儀ニ付、五郎右・太兵衛指かミ遣候事
紙        |
         | 一、荒瀬八右衛門儀ニ付、伊藤金左衛門所ゟ、返事参候事
         |
         |  (規矩郡)                        (九右衛門)
鞍ノ蒔絵用ノ砂金 | 一、呼野ゟ、御鞍まきゑの御用ニ、砂金三匁参候、坂根・波加ニ相■請取せ、則、御まきへ奉行ニ渡
呼野ヨリ来ル   |                           (弥左衛門)
         |   させ候事      

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■オークションから平野家歴代の宛行状

2019-08-29 17:25:06 | オークション

 平野太郎左衛門を祖とする平野家は六家が存在する。平野 大家はその嫡流である。
太左衛門を名乗る人が多くあり、人物の特定が中々むつかしいお宅の一つである。オークションに重賢・治年・齊茲・齊樹・齊護五代の宛行状が出品されているが、これとて人物の特定は難しいものがある。そろそろ先祖附を取得してみようかと思っている。

 ■ 平野 大  (南東53-13)
     太郎左衛門・勝行
    1、次部左衛門
          供之者・御扈従与也 二百石 (於豊前小倉御侍帳)・・治部右衛門
          御小姓組衆 二百石 (肥後御入国宿割帳)
          御鉄炮頭衆 五百石 (真源院様御代御侍名附)・・治部左衛門
          五百石 (真源院様御代御侍免撫帳)・・治部左衛門
       原城にて武功被賞 御鉄炮三十挺頭被仰付 (綿考輯録・巻五十)

    2、太郎左衛門
          御鉄炮頭衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
          有吉頼母允組 三十挺(頭)五百石 (寛文四年六月・御侍帳)
    3、次部左衛門(弥太右衛門)
    4、太郎左衛門・勝行(初・治部左衛門・勝信)
    5、太郎左衛門(満五郎・勝輝) 五百石 御長柄頭御鉄炮頭御中小姓 屋敷・高田原
    6、十之進(太郎左衛門)
    7、駒吉
    8、松之允(治部左衛門)
    9、角左衛門(太郎左衛門)
    10、武五郎(太郎左衛門)
    11、亀太郎(太郎左衛門・大) 五百石

         

                       

 

                              

                                            

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■ヤクルトスワローズ・村上宗隆

2019-08-29 10:21:21 | 熊本

 熊本の九州学院出身、プロ野球・ヤクルトスワローズの高校卒二年目の村上がとんでもない活躍をしている。
初打席でホームランを打ち、本塁打で清原の記録に並び、打点でも中西太の記録を抜こうとしている。
熊本はプロ野球においては川上哲治をはじめ、秋山・伊東・村中などそうそうたる打者が誕生しているが、この村上にも故障なく成長してほしいと望むばかりである。
出身も長嶺中だというから隣保組みたいなもので、おおいに親近感がある。

 今一つの興味はその名前である。細川家には能島村上氏の一族である、村上隆重(笠岡城主)・景広父子をはじめその子孫が代々枝葉を広げている。
「宗隆」という名前に、曰く因縁がありそうに感じているのだが、そのうちに、「村上宗隆は村上水軍の末裔」などという話が誕生するかもしれない。
単なる歴史狂いの老人の戯言である。

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■仕寄十四度

2019-08-29 08:25:14 | 史料

            

 この書状については「上天草市史・大矢野町編3 天草島原の乱とその前後」でも紹介されている。
編著者の鶴田倉造氏は、この書状をして「大矢野次郎八は原城戦に十四回も出陣しているが・・」と説明しておられるが(p216)が、この説明は適格性を欠いている。

 大矢野次郎八は筆頭家老・長岡佐渡(松井興長)の備えに加わっている。佐渡の陣所の前に空堀が横たわって居り、これを埋めるかどうかを忠利の着陣を待ち裁可を得たという。そこから空堀の埋め立て(仕寄)作業が始まって居り、二月廿七日の総攻めの朝までこれが続けられていることがわかる。綿考輯録ではこれは城中からの攻撃を避ける為に夜間に行われたと記している。つまり「半夜詰」で数日の雨の中でも作業が行われたのである。
大矢野次郎八はかっての天草五人衆の一族である。近世大矢野本家の初代・五郎左衛門の次弟であり、この時十八歳、総攻めにあたり大手負をして四月四日に死去している。分家・大矢野次郎八家の初代であり、跡式は次弟が継いで現在に至っている。

半夜詰の作業を14日に渡りがんばり、そのまま総攻めに参加していることが判る。
大矢野家からコピーを頂戴した貴重な資料であるが、次郎八の働きの証拠状の一つであろうか。

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■「カバレッジ」の問題が新たに 検出されました というコメント

2019-08-28 17:56:32 | 徒然

 以前Googleから当ブログに対し「アフィリエイト、商用利用、公序良俗等の規約違反により、又は、法令上規定されにより現在、1件の記事を公開停止」とういう連絡が入った。
「伊丹三樹彦 vs 荒井(松任谷)由美」という記事を書いて、伊丹三樹彦の俳句と、荒井由実の「海を見ていた午後」の歌詞をご紹介したのだが、これが商用利用、公序良俗等の規約違反という取り扱いになったのだろう。

         
シェーカー振る 角瓶越しにタンカー浮き   (神戸編・煉瓦煙突から)
         これを読んだとたん、荒井由美の「海を見ていた午後」を思い出した。
         一番の歌詞の5行目の「ソーダ水の中を 貨物船がとおる」とある。
                                 
                 (この後で歌詞全文をご紹介した)


ただシュチュエーションが良く似ているなーと思って書いたのだが・・・
修正はしたので、連絡をすれば又UPになると思うのだが、面倒くさいからそのままにしている。

 今日はまた当ブログに対して「『カバレッジ』の問題が新たに 検出されました」と来た。
爺さまは混乱して「それ何よ・・」という感じである。カバレッジなんぞという単語自体承知していないから、混乱している。
別段Blogを動かすには支障をきたしていないのだが、わざわざ連絡が入ったからには対応しなくちゃいかんだろうとは思っている。

 もう少し細やかな説明をしてくれないと、77爺は血圧が上がりますよ。よろしく・・・

                          

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■元和拾年 萬覚書(7)

2019-08-28 06:34:39 | 細川小倉藩

           (元和十年三月)十三日

         | 一、中津ゟ、昨晩参候状之返事、仕候事
         | 一、熊谷平左衛門尉所への、御書、宇野七右衛門ニ相渡候事
         | 一、平左衛門尉所ゟ言上之文箱ハ、御前へ上ケ、則、 御前ニ留り申ニ付、此方ニ在之文箱を壱つ、
         |   宇野七右衛門ニ言伝相渡候事
川口鎖ノ番船   | 一、川口くさりノ番船之事
         | 一、有間七左衛門、大坂ゟ罷下候
         |

               十四日

         | 一、中津ゟ之返事来、
呼野金山口屋ノ番 | 一、呼野口屋之御番、遠藤仁兵衛罷帰候事
大坂城普請ノ者出 | 一、大坂御普請ニ被罷上衆、廿日ニ出船候へと、申触候事
船        |
         |   (山路村、規矩郡)
人留番人ノ家ノ処 | 一、筑前境ノ人留、今安少九郎家之儀、如何可仕やと申来候間、御用ニ立申儀候条、せかれニ遣候へ
分        |   と、申渡候事
         |

               十五日
大橋橋柱ノ補修  |               (柞)いす  (柴藤)
柴藤ニテ柱ヲ包マ | 一、大橋ノはし柱を、去年松と、ゆすと、しとゝ、此三色にて包候処ニ、ゆすも松も虫くいとをし、
シム       |   しとまでを少もくい不申候由、申来、則、見届申候、当年ハ、しとにて包せ候へと、申渡候事、
中間某女ヲ中津御 | 一、中間市太夫所ゟ、中津御蔵納へ戻申女ノ儀ヲ付申遣ス返事、赤尾甚右衛門持来られ候事

蔵納へ戻ス    |                       
         |        (津山)                   (森忠政)           (沼隈郡)  十二日朝     
森忠政へ金堀ヲ送 | 一、田坂格助、美作へ、かねほり召連上り、下着候、美作殿御返書ハ、備後ノともにて、〇上ケ申候
ル        |   由候、御小袖弐つ被為拝領候事
宇佐郡奉行へ指令 | 一、宇佐郡御郡代、野間次左衛門・杉無兵衛・吉川九太夫、三人ニ様子申渡候、則、先郡奉行衆への
         |   状、御惣庄や中へ遣ス状をも、次左衛門ニ相渡候事
速見郡へ遣ス五十 | 一、杉本左助ニ、速見郡へ被遣五拾ヶ條之の御法度書、かゝせ申候事
箇條ノ法度書   |
宇佐郡奉行等手前 | 一、野間次左衛門・吉川九太夫、手前不罷成子細、承届申ニ付、余米有之由候間、請人立させ、まし
ナラズ増貸シセシ |             (河喜多正直) (仁保慰英)
ム        |   かし可被仕との、さし五郎右衛門・太兵へさしかミ遣候事
         |           〃〃
         |
         | 一、上林甚助与之内、去年拾年人御扶持持被放候者之他借米之儀ニ付、書物上ケ申候事
         |              〃
         |
御広間口ノ番人ノ | 一、御広間口ノ御番衆、めし被給候儀ニ付、宗像山三郎、惣中ゟ之使ニ被参候事 
給食       |
         |                         うさ郡ニ在之ニ付
江戸ノ台所人走ル | 一、御台所之清助、江戸にて走申ニ付、彼請人之儀、野間次左衛門ニ申渡候事
         |                                      に立申候せいさつハ
湯川町牛馬ノ新市 | 一、規矩郡湯川町、牛馬ノ新市立申候ニ付、所々ニせいさつ立申候内、小倉ノ大橋〇但、與右衛門殿
ニツキ制札ヲ七ケ |                                         (米田是門)
所ニ立ツ     |      (吉田)                                                 
         |   ・■■■■少右衛門尉・我等とも三人、以上五人ノ判形、湯川町ニ壱つ・金山ニ壱つかん田ニ壱
         |                                       刈田・京都郡
         |     (規矩郡)   (田川郡)        (大橋村)
         |   つ・大里ニ壱つ・香春ニ壱つ・中津郡大はしニ壱つ、以上七つ立申候也
         |
                  参考中津街道


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■加う徒ら

2019-08-27 10:29:11 | 史料

                                                             
「志方半兵衛言上之覚」を読んでいる。最終的には「かうつら」と読んだのだが、「加う徒ら」という表記に何と読むのか大いに苦労した。
細川三齋の陣代として、天草島原の乱に出陣した愛息・細川立允は、寛永14年12月7日に天草の寸本(栖本)に着舟して上陸している。
山越えをして島原湾に面した上津浦に陣を進めようとの考えである。そんな状況の中での記述にこの文言が出てきた。
文書を見ると三行目に「上津浦」の表記があり、五行目に「加う徒ら」の表記がある。
当初は読みも意味も解らず、「加う徒う」とか「加ら徒ら」とか、いろいろ考えるが、何ともしっくりこない。
文脈からすると地名であるようだ。
読み進める中で後段(別紙)に、この文言が二つ三つ登場しており、三つ目の表記で「加う徒ら」であるとの確信を得た。
「加」の読みは「か」ではなく「こ」であり、「こうつら」と読んだがこれでも何とも合点がいかない。
「栖本」周辺の地図を眺めると、上津浦に抜ける天草街道の表記があった。道筋をたどり「こうつら」に該当する地名はないかと探すが見当たらない。とうとう上津浦についてしまった。

「上津浦」の読みは「こうつうら」である。「加う徒ら(こうつら)」は「上津浦」の事だと気づくのに大いに時間を費やしてしまった。
三行目に「上津浦」と漢字表記をし、五行目以降三回ほどは「加つ徒ら」と表記してあるから、まったく振り回されてしまった。
古文書を読んでいるとこんなことは日常茶飯なのだが、解読した後の爽快感はこの上ないものである。

 

                                                          立允様ゟ御飛脚被進候ニ付謹而致言上候
                   一立允様御人数去ル七日ニ天草之内寸本へ被成御                 
                                           着船同八日ニきり志たん居申上津浦之近所       
                                           川内村へ御押詰被成候処ニ有吉頼母佐方ゟ        
                                           越候ハ加う徒らへ取詰申日限御注進仕候間そ連    
                                           まて被御待候得と申進候ニ付同九日も河内村ニ
                                           被成御座候処九日之四ツ時分ニきり志たん共恙船ニて
                                           落申候 肥後様頼母所へもきり志たん落申段
                                           立允様ゟ被注進候事

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■元和拾年 萬覚書(6)

2019-08-27 06:08:18 | 細川小倉藩

                                (元和十年三月)十日

祇園浜手門番ヨリ | 一、祇園浜手之御門番上田三右衛門、かぎを上ヶ申候間、請取申候事
鍵ヲ請取ル    |
         |    (箔)                                  (元五)
金箔一万枚銀箔一 | 一、金薄壱万枚・銀薄千枚ノ指帋・状を、志水伯耆もの、村上才十郎上候ニ、遣候事
千枚ノ指紙    |
規矩郡百姓ノ出入 | 一、規矩郡到津村之百姓善兵衛・九郎右衛門出入之書物、平井五郎兵衛方へ相渡、吟味の上、埒を明
         |                   (答)
         |   可被申旨、申渡候処ニ、それ/\の返益ノ書物させ申され候、前廉五郎兵衛・吉田茂左衛門両人
         |             ハ、先年ノ筋目ノ者ニ片付ケ可申旨、被仰付ニ付、其旨、
         |   ニ被 仰渡ル御諚之旨〇相済申由、五郎兵衛申来候事、何時成共、被成 御尋儀候ハヽ、罷出、
         |   右之段々可申上之由候間、前廉の 御諚の旨ニ仕候事
規矩郡内新浦新町 |        小森江
ニ諸牢人ノ有ツク | 一、規矩郡之内こもり江、いつかたニ而も、新浦・新町、諸牢人共参候ハヽ、有付加被申通、平井五
ヲ奨ム      |   郎兵衛ゟ申渡候事
中津へ居エ行キシ | 一、杉生杢左衛門・河井才蔵・山本三蔵、中津へ御鷹を居参由候、 三蔵ニハ御帷子一つ・銀子壱枚、
鷹師ニ給与    |   両人ニハ、料足壱貫文宛被為拝領、御扶持方をも、逗留中、被下候也
         |

                十一日

馬喰町後ノ門番鍵 | 一、東小倉八町目、ばくろう町うしろノ御門ノかぎ、野原善太郎指上申候事
ヲ上グ      |
上り屋敷ノ代銀  | 一、平岡新兵衛家屋敷、高橋九左衛門取扱申候、此代銀四十六匁九分也
         | 一、井上六右衛門尉家屋敷、小川五郎七取被申候、此代銀五拾五匁也
大工部屋ノ代銀  | 一、小谷又右衛門下屋敷之内ニ、又右衛門被立置候大工へ屋、入弐間ニ五間之板屋有之を、高橋五郎
         |   八取被申候、此代銀十五匁
         | 卯ノ刻                (繁)                      (ママ)
         | 一、江戸へ谷主膳殿御内儀、御磐昌之儀申遣由、飛脚両人、御小人新介
         |      (長元)       御加子
         | 一、小笠原民ア少殿、御舟頭〇御切米ノ目録参候事
         |

                十二日

         | 一、御舟頭竹居喜兵衛、上方ゟ罷下候ニ、大坂御蔵本、の與兵衛状持参仕候事
         |             (平井)
家屋敷交換    | 一、住江武右衛門家屋敷、平五郎兵衛ニかへ/\ニ仕、被移候ヘと、申渡候事
筑城上毛村ノ算用 | 一、築城郡・上毛郡御算用、先御郡奉行郡へ被罷越、御算用被仕候へと、申渡候事
         | 一、杉武兵衛、大坂ゟ罷下被申候事
         |         (松井興長)
寛永改元二月晦日 | 一、年号替申言由、式ア殿ゟ被仰下候、寛永、二月朔晦日
         |                        〃
         | 一、井上宗和、金山ゟ罷帰、近日可罷上と申され候、則、宗和預り置候諸器具、可被請取〇置旨、佐
         |   藤安右衛門方へ申遣候事
         | 一、小谷又右衛門家、可請取旨、御家奉行衆へ申渡候事
まつかう     | 一、田川郡御郡奉行へ、まつかう、二月・三月、二ヶ月分不納候間、急度納させ候へと、申遣候事
本丸福満預リノ門 |       (吉山福満)               (海老錠)
ノ海老錠ヲ下ス  | 一、御本丸、福万預りノ御門、十二日之晩ニ、ゑびヲろし申候、かぎハ福万所ニ在之候
         |
物師二人ノ扶持ヲ |       (    ママ    ) ハ、惣談之上、ふちを
放ス       | 一、御者師之内       弐人御ふちをはなされはなし申候事
         |                 〃〃〃〃〃〃〃〃
         |    (政三)
薮政三借米懸銀  | 一、薮三左衛門、御扶持被放候ニ付、借米・懸り銀之儀事、被申候て、中津ゟ、日暮、状参候
         |

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■熊本藩関係古文書多数出品中

2019-08-26 12:51:41 | オークション
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■元和拾年 萬覚書(5)

2019-08-26 10:17:52 | 細川小倉藩

                                 (元和十年)三月七日

古市村百性與三ノ | 一、国東郡古市村之與三左衛門、召連参候、せんさくの御奉行、遠坂関内・村上久大夫申付也
詮索       |
         |        京都郡内
金堀       | 一、加嶋久左衛門〇うらかわちへ金堀ニ遣候事
         |           (浦河内)        
         |   (松井興長)                         へ
         | 一、式ア少輔殿者、籠ゟ出シ申候事、上原九郎右衛門□相渡申候事
松山権兵衛口ノ門 | 一、松山権兵衛口ノ御門かき、上ヶ申候事
ノ鍵       |
西小倉魚町ノ後ノ | 一、留野口御門ノかき、壱つ上ヶ被申事              留野富野
門ノ鍵      |          
下毛郡ノ他国走百 | 一、下毛郡へ、他国ゟ走り来ル百性之書付、上ヶ被申候
姓ノ書付     |
惣庄屋山口ノ奉行 | 一、同郡御惣庄や、山口奉行ニ、せいしを被申付候へと、申渡候事
へ誓紙ヲ取ラシム |
羅漢寺庫裡ノ作事 | 一、羅漢寺ノくり之作叓之事
         | 一、中津ゟ、京おく殿へ之 御書、午下刻ニ、御飛脚弐人ニ而持参申候へ共、御出舟被成る候故、 御
         |                           (長舟)
         |   書持テ帰申候、便無之候ハヽ、御文箱取帰りか申旨、十右衛門尉被申由候
呼野採銅所諸奉行 | 一、呼野・採銅所諸奉行付、佐藤安右衛門方へ相渡候事
付        |
         | 一、西川與助、被罷帰候事
         |

                八日
         |
         | 一、山田加左衛門ゟ之状壱つ、山田加左衛門・桑原主殿ゟ之状一つ、金子・寺嶋ゟ之状一つ、合三つ
         |   御船頭中屋吉右衛門下候事、右三つノ書状、返事可申也
         |                    (松本)(栗野)

         | 一、吉永甚兵衛ニ、十人扶持被遣候指帋、彦市・伝介方へ遣候事
長谷部文左小者ヲ | 一、長谷部文左衛門小者角助、被差下候を、籠者申付候
入籠セシム    |
庄屋内者を誅伐  | 一、きく郡徳力村野庄屋内久二郎と申者、誅伐申被付仕候
         |                      〃 〃
         |

                九日

新堤ノ奉行任命  | 一、小野喜三郎、宇佐郡佐野村之新堤之御奉行ニ申付候
山奉行ニ命令   | 一、御山奉行須崎久左衛門・中西善助・原田安右衛門、此三人ニ様子申渡候
中津村ヨリ戻リシ |            各永
物へ永扶持方ノ差 | 一、中津ゟ被成御戻候衆之御扶持方被遣候さしかミ遣候事
紙        |            〃
         |

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■お安く読む・中公新書「太閤検地―秀吉が目指した国のかたち」

2019-08-26 05:59:44 | 書籍・読書

                           中公新書<br> 太閤検地―秀吉が目指した国のかたち

内容説明

豊臣(羽柴)秀吉が実施した政策、太閤検地。その革新性はどこにあるのか―。秀吉は、各地を征服するたび奉行を派遣し、検地を断行。全国の石高を数値で把握し、加増や減封、国替えを容易にすることで、統治権力を天下人に集約した。中央集権の成果は、のちに江戸幕府の支配基盤ともなる。本書は、太閤検地の実態を描き、単なる土地制度上の政策にとどまらず、日本の社会構造を大きく変えた意義を示す。

目次

序章 太閤検地と日本近世社会
第1章 織田政権下の羽柴領検地
第2章 「政権」としての基盤整備
第3章 国内統一と検地
第4章 大名領検地の諸相
第5章 「御前帳」「郡図」の調製
第6章 政権下の「在所」と「唐入り」
第7章 文禄検地の諸相
第8章 政権末期の慶長検地
終章 太閤検地の歴史的意義

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■天草切支丹一揆残照・富岡城

2019-08-25 17:32:59 | 歴史

                    

 熊本県内で熊本市から一番遠距離の一つになるのが、天草苓北町である。その最北端の富岡半島に富岡城がある。
天草切支丹が攻め入った御城だが、二回の猛攻に耐えた。
富岡城は唐津藩・寺沢氏が関ヶ原戦後拝領した飛び地である。城代を置いて統治せしめたが、実質21,000石とされる地を40,000石を実高となして住民を苦しめた。
城代を勤めたのがガラシャ夫人の甥にあたる三宅藤兵衛であった。三宅自身が切支丹であったが、一万数千の天草切支丹を苦しめる結果となり、一揆を誘発せしめた。
唐津から富岡はさすがに遠い。富岡に駐屯するわずかな手勢で、切支丹の反乱を鎮めんと奔走する中で戦死することになる。
無念の思いであったろうと察せられる。細川家も忠利の従兄にあたる藤兵衛の動向については随分気にしているし、隣藩の事ゆえ手出しできぬいら立ちが見て取れる。
藤兵衛戦死後、天草四郎を首領とする切支丹は、勢いを得て富岡城を二度にわたり攻撃するが、これは失敗に終わった。
一万数千の天草切支丹は、海に逃れ有馬一揆に合流していく。有馬一揆が切支丹一揆へと様相を変えていく。

                
                                          ウィキペディアから引用

 原城から富岡までは24キロほどの距離だが、原城に籠城した天草の人々からも、遠く富岡の城が望めたかもしれない。
苛政に対して立ち上がった切支丹の人々は、まさに異郷の地で命を落としていくのだが、如何なる思いであったろうか。

寛永15年2月27日、夕刻には大方の決着がついたという。残照の中闘うすべもない多くの天草切支丹の人々が命を絶たれた。
天草の地は歴史に翻弄された哀史にあふれている。

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