津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■寄稿‐小川研次氏「岫雲院春日寺」

2023-06-18 06:06:50 | 小川研次氏論考

      かっての岫雲院春日寺

 ご厚誼をいただいている小倉在住の小川研次氏から寄稿いただいたのは6月10日のことである。
引っ越しを前にして些か多忙を極め、心ならずもご紹介が遅れてしまった。
お詫びを申し上げるとともにいつもながらの氏の健筆に敬意を表しここにご紹介を申し上げる。 津々堂

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            岫雲院春日寺                       
                                      小川研次


        熊本県熊本市西区春日にある臨済宗大徳寺派の寺であるが、熊本市観光政策課による案内板
       にこのように記されている。
       「寛永九年(一六三二)に肥後の国主となった細川忠利は春日寺を再興して岫雲院の名を与え
       たので、以後は岫雲院が正式な名称となった。忠利の死後、遺言によって遺骸をこの寺で荼毘
       に付した。そのとき放たれた愛養の二羽の鷹の
うち「有明」は火葬の焔の中に飛び込み、「明
       石」は傍の井戸の中に飛び込んでともに殉死し
たという哀れな物語が伝えられている。森鷗外
       の「阿部一族」で知られている忠利の殉死者十
九名の位牌も、この寺に安置されている。」
       「鷹の殉死」から、この説明文は森鴎外『阿部一族』の種本である『阿部茶事談』に拠ってい
       ると考えられる。
       さて、鷹のエピソードは別として、この寺には興味深い二つの墓碑が建っている。
       大友宗麟次男の親家(利根川道孝)と三男親盛(松野半斉)の墓である。
       親家は慶長十四年(一六〇九)、客分格として招かれ、親盛は慶長十一年(一六〇六)、小倉
       藩細川家より千石で召し出されてた。(「於豊前小倉御侍帳」)
       敬虔なキリシタンであった兄弟の墓がなぜ、「岫雲院」に建てられたのであろうか。
       忠利の「火葬場」との関連とは何であろう。
       まず、忠利は遺言により自身の火葬場としていたことから、岫雲院の和尚と親しかったことは
       間違いないだろう。この時の和尚は中興の祖とされる「涓雲」である。(「岫雲院資料」)
       涓雲は文禄・慶長の役(一五九二~)に加藤清正に伴い朝鮮に渡っている。帰国の時、王城の
       庭にあった石を袂に入れ、持ち帰って庭に置いていたら、一尺半の大きさになったという「袂
       石」の伝承を残す。(『肥後国志』)
       寛永十八年(一六四一)三月十七日、忠利が逝去、遺体は五月十三日に荼毘とされる。翌年十
       一月に嫡子光尚により岫雲院の西側に菩提寺の妙解寺が建立された。(『肥後国史志略』)
       しかし、忠利は遺言で菩提寺を岫雲院にしていたのではなかろうか。
       「真源院様御意に、春日寺所柄く、御参詣も御道筋宜しからず候間、寺地を外に見立て候て、
       御菩提所御建立成さるべき旨、奥田権左衛門へ仰せつけられ、方々寺地御吟味にて、鳶尾、嶋
       崎、石神辺など然るべきやと権左衛門申上げらえ候ば、是も所柄御意に叶はせれず、只今の妙
       解院の所に相究まり候。夫より当院に御影堂建立遊ばされ、山林共本高五拾石御茶湯料を御寄
       附遊ばされ、唯今に至り御霊供日日懈怠なく相備え、御廻向相勤申候事」(「春日寺記」『津
       々堂のたわごと日録』)
       また、『肥後国史』に「寺領五拾石幷山林共寄附アリ即チ妙解寺領ノ證判一紙ニ有之其時末寺
       ニ属ス」とあり、岫雲院が地続きの妙解寺の末寺となった。
       光尚から寺地吟味の命を受けた奥田権左衛門は豊前小倉藩のキリシタンの柱石であった加賀山
       隼人(一六一五年小倉で処刑)の甥であり、聟であった。隼人亡き後のキリシタン後継者と目
       された人物である。
       また、忠利に殉じた阿部弥一右衛門の相役であった。(「真説・阿部一族の叛」)権左衛門は
       大友兄弟と共に寛永十三年(一六三六)七月十三日に転宗の証文(「勤談跡覧」『肥後切支丹
       史』)を出しているが、果たしてキリスト教を棄教したのだろうか。
       時代は下り、慶安四年(一六五一)、権左衛門の実兄加賀山休悦が江戸の訴人によりキリシタ
       ンとして訴えられたのである。この時、他に四名いたが、捕縛され長崎へ送られた。
       しかし、長崎奉行所の穿鑿があったが、「別条無し」とのことだった。休悦は明暦三年(一六
       五七)に病死している。(『肥後切支丹史』)
       訴人は何らかの根拠があったと思われる。前年は光尚急逝により、嫡子六丸(綱利)が相続し
       た年である。また、大目付林外記一家が討ち果たされた年でもある。阿部一族誅伐と同様に藩
       主死後に起きている事件であり、政治的背景があったと考えざるを得ない。光尚はあえてキリ
       シタン権左衛門に「神聖なる地」を求めさせたのか。
       さて、大友兄弟の墓であるが、親家の命日は寛永十八年三月二十五日となっており、忠利逝去
       の八日後である。享年八十一歳。戒名は「○万里一条銕本地院殿小菴道孝大禅定門」とある。
       (『戦国人名辞典』)
       親盛は寛永二十年一月十四日で、二年後となる。「阿部一族誅伐事件」のおよそ一月前である。
       戒名は「卍梅林院殿元参道悦居士」とあり、享年七十七歳。
       二人の墓には妻と思われる墓が添うように並んでいる。兄弟は忠利と共に岫雲院を菩提所と決
       めていたのであろう。
       ちなみに阿部事件の日に光尚は「松野右京」邸にいた。(『阿部一族』『阿部茶事談』)この右
       京は大友宗麟嫡子義統の三男である正照で、親盛の養子となっていたが、独立し知行を得てい
       る。(「於豊前小倉御侍帳」) 右京もキリシタンであった。(『肥後切支丹史』)
       寛永十一年(一六三四)、細川家家臣志賀左門(大友一族)の家に志賀休也という筑後の浪人
       が寄宿していた。この時、春日寺(岫雲院)の書物(仏教徒である証文)を持っていたという。
       しかし、寛永十二年(一六三五)十二月二十三日、キリシタン容疑で小笠原玄也一家(妻は加
       賀山隼人の娘)と共に禅定院で処刑されたのである。左門はこの翌年、大友兄弟、右京、権左
       衛門、休悦らと七月に転宗している。(『肥後切支丹史』)
       ここで考えられるのが、岫雲院が書物を出すということは、キリシタンに協力的だった証では
       なかろうか。
       岫雲院には大友兄弟、奥田権左衛門、志賀休也という敬虔なキリシタンが関わっていた。
       また、当時は忠利の御影堂もあり、阿部弥一右衛門を含む十九人の殉死者の位牌も安置してい
       ることからして重要な場であったに違いない。
       寛永元年(一六二四)十月の忠利達書に「はうほらのたね」を長崎に求めている記述がある。
       (『永青文庫叢書細川家文書近世初期編』)
       「はうほら」はポルトガル語の「Abobora」(ボウボラ)であり、カボチャの意である。
       かつて、春日寺の周辺には「春日ぼうぶら」として、この一帯に畑が広がっていたという。
       現在、「春日三丁目ぼうぶら公園」と名付けられ、忠利の想いが伝えられているのではなかろ
       うか。

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■森鴎外『阿部一族』の一考察

2022-08-23 08:30:50 | 小川研次氏論考

  ご厚誼いただいている小倉在住で「小倉藩葡萄酒研究会」の小川研次さまには、過去に於いても細川家にかかわる数々の論考をお寄せいただいた。
この度は【森鴎外『阿部一族』の一考察】をご紹介申し上げる。光尚の側近であった林外記は、光尚の死後、佐藤傳三郎一族に屋敷に踏み込まれて死亡している。
この原因については私も色々調べているがよく判らない、不可解な事件である。
林家においては一人妻女が隣家の医師・明石某の屋敷に逃げ込んで助かったが、この明石氏を含めての考察である。

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         森鴎外『阿部一族』の一考察       小川研次


     大正2年(1913)に発表された『阿部一族』だが、主人公阿部弥一右衛門の殉死と一族の上意討ちによる滅
    亡を描いた歴史短編小説である。

    弥一右衛門の隣人栖本又七郎の証言に基づいて書かれたという『阿部茶事談』(以下茶事談)を底本としている。
    現在、『茶事談』は史実と異なっていることは知られている。そもそも『茶事談』成立の意図はなんだろう。
    細川家が史実を歪曲してまでも成立させなければならなかった理由である。それは、当時の時代を反映した事
    件簿と考えられる。
事件は寛永20年(1643)2月17日の妙解院(細川忠利)三回忌の折に起きる。 
    発端は弥一右衛門嫡子権兵衛が、焼香の際に髻を切り、位牌の前に置いたことにより、捕縛されたのである。
    このわずか四日後に権兵衛の四人の弟とその家族全員は上意討ちにより殺害、そ
して権兵衛は縛首となった事
    件である。
さて、『茶事談』は、この事件を正当化するために書かれたとみる。

    細川家において、既に阿部一族滅亡のシナリオができていたと思える。妙解院に殉じた弥一右衛門は己の因縁
    を断ち切る覚悟と子らへの跡式相続を願うものであったのではなかろ
うか。それは阿部家の安泰を意味する。
    しかし、それは細川家にとって許されることでは
なかった。では、その因縁とは何であろう。

    『茶事談』の登場人物である阿部弥一右衛門と大目付林外記の共通点であるが、殉死に遅れた弥一右衛門と阿
    部一族滅亡を画作した外記も追腹をしないという悪評の的になってい
る。さらに二人を相反させている。実に
    巧妙に作為的である。
また、この二人の共通点は藩主没後に起きている事件である。妙解院の場合は阿部一族
    上
意討ち、真源院(光尚)は外記父子殺害(鴎外本では不記載)である。それは各々に藩主の擁護という意志が働い
    ていたことに他ならない。

    『茶事談』は弥一右衛門殉死に始まり、一族上意討ち、そして外記殺害で幕を閉じるのである。
    江戸幕府が編修した『寛政重修諸家譜』に事件の真相に迫る記録が記されている。
    それは「細川肥後守家臣林外記某が妻」であり、その妻の母は「豊臣家の臣明石掃部助全登が女」であったこ
    とだ。敬虔なキリシタンであった明石掃部の孫が外記の妻であり、そ
の母は掃部の娘レジイナであったのであ
    る。
また、「弥一右衛門初ハ明石猪之助と云」(「綿考輯録・巻五十二」)とあり、明石姓であった。

    慶長20年(1615)の大阪夏の陣で敗北した豊臣勢であったヨハネ明石掃部と男子パウロ内記の生存説がある。
    事実、内記は生き延びていた。(「イエズス会日本年報」)

    もし、内記が弥一右衛門であったならば、妹レジイナが幼子と共に兄を頼って豊前国に入ったと考えられる。
    推定だが、内記は宇佐郡山村の惣庄屋与右衛門の養子となる。もちろん、中津にいた忠利の計らいである。

  寛永9年(1632)、肥後国へ転封となった忠利が農民身分であった弥一右衛門を侍身分としてまでも連れてたかっ
  たことの理由はその出自もあるがキリシタンであったことだろう

  忠利は母ガラシャの追悼ミサを行なっていた。寛永13年(1636)に側近二十七名がキリシ
タンから仏教徒に改宗
  したことが物語っている。(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』)

  しかし、忠利は阿部一族を守った。当然、嫡子光尚にも申し送りをしていたと思われる。
  明石一族という因縁を背負った弥一右衛門は忠利に殉じた。その二年後の惨劇を予想できただろうか。また、
  権兵衛が髻を切るという行動は一族に忍び寄る危機を回避するために
嫡子としての侍身分を返上し、宇佐郡山
  村で帰農する覚悟であったのではなかろうか。

  忠利の義兄小笠原忠真の父秀政と兄忠脩は大阪夏の陣で討死している。忠真自身も瀕死の重症であった。
  徳川家康の鬼孫と言われた忠真は決して明石一族を許すことはできなかっ
た。

  明石一族は敵将一族であり、敵討ちの相手であったのだ。忠利が生きている間は手出しをしなかったが、忠真
  は忠興の許しを得て細川家により上意討ちを果たしたのである。

  光尚は阿部一族を守ろうとしたが、祖父忠興の存在は絶対であった。
  「明石一族」である林外記を討たないとの条件があったかもしれない。
  阿部一族上意討ちの時、光尚は松野右京邸にいた。右京の父は大友宗麟嫡男義統である。
 「施薬院全宗養女伊藤甲斐守娘、義統妻少納言ノ局ナリ」(「大友家文書録四」)その子が右京(正照)である。
  右京は細川家家臣であった大友宗麟の三男親盛の養子となる。特に親盛は加賀山隼人亡き後、豊前国のキリシ
  タン柱石と目されていた。当然、右京もキリシタンであった。(共に寛
永13年転宗)

  実は、阿部一族上意討ちの同年一月に親盛は没している。その後の上意討ちを考えると親盛の何らかの力が作
  用していたのかも知れない。
光尚が右京邸に身を寄せていたのは、恐怖心と懺悔の念からだろうか。

  その六年後の慶安2年(1649)12月、光尚は三十一歳の若さで急逝する。嫡子六丸(綱利)はわずか七歳であったた
  めに、領地返上の遺言を遺していた。しかし、家
老らの働きにより、翌年の四月に幕府は相続を認めた。
  その条件は小笠原忠真の監督だっ
た。細川家存続の黒幕となった忠真の宿願は明白である。

 
 六月二十八日、忠真と幕府目付が肥後国に入る。細川家家臣佐藤伝三郎は目付にお供した。
 そして三日後の七月一日、伝三郎は林外記邸に討ち入る。(『熊本藩年稿』) 外記と二人の息子は殺害されたが、
 妻は隣人の医師明石玄碩邸に逃れ、八月八日には熊本を去ったと
ある。「(細川家日帳)」

 ここで明石一族は全滅となったのである。伝三郎は当然の如く無罪放免であった。
 キリシタンと徳川家の宿敵という運命を背負った明石一族は歴史の闇に葬られたのである
 しかし、事件から三百六十年後、鴎外はいみじくも『阿部茶事談』というパンドラの箱を開けたのである。

                   (了)

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■小川研次氏の「細川興秋生存説」

2022-03-06 14:46:11 | 小川研次氏論考

 今年に入り当ブログでは、高田重孝氏の私家版「細川興秋の真実」について、いろいろコメントをしてきた。
「与五郎宛内記(忠利)」書状の内容については、人物の比定に少々の疑問を感じていた。
今般ご厚誼をいただいている小倉在住の小川研次さまから、貴重なご指摘をたまわった。
私はこの人物比定により、より確かに忠利書状が確かなものとして補強されたと確信をした。
「伊喜助」は「伊丹康勝」、半左衛門は旧姓長束氏の田中半左衛門、忠興の妹伊也娘を迎えて居り細川家に極近い一族である。与安法印についてはかって私のブログで私見■片山宗哲がやってきたを申し上げた。
まことに有難いご指摘であり、ご厚誼を大変うれしく感じている。
今回も当ブログに掲載する旨の御承引をいただき、ここに取り上げるものである。感謝。


細川興秋生存説     (3月9日修正の文章が届きましたので全文差し替えました)

弟忠利の嗣子決定に不満を持ち出奔した興秋は大坂の陣に豊臣方として戦い、敗走した。しかし、訴人により伏見稲荷の東林院に潜伏していたことが発覚したのである。
父忠興の処断は切腹であった。慶長二十年(一六一五)六月六日、家臣松井右近昌永の介錯で自決したのである。「人々落涙に及ひ候と也、御年三十三、法名黄梅院真月宗心」(『綿考輯録巻十九』)

ところが、天草で生存していたとの伝承があり、本渡市御領城内城の芳証寺に墓が存在する。墓石には「細川与五郎源興秋入道宗専之墓、寛永十九年(一六四二)六月十五日薨」とある。代々、大庄屋と続き、享和二年(一八〇二)に九代目の長岡興道の時、墓碑を建て家伝を残した。(戸田敏夫『戦国細川一族―細川忠興と長岡与五郎興秋』)
この生存説を史実に近づけたのが、元和七年(一六二一)五月二十日付の長岡与五郎(興秋)宛忠利書状である。(熊本県立美術館所蔵「後藤是山コレクション」)

内容は与五郎が手足の病を「与安法印」に治療してもらい、平癒したことを忠利は喜んでおり、また湯治を勧めているが、「与安法院」もそう申されているとある。しかし、「人質」の身なのでなかなか湯治は難しいから、「半左衛門」と申し合わせて、「伊喜助殿」と相談するようにと忠告しているが、「喜助殿之次第」としている。
さて、三人の名前が登場しているが、重要な情報を含んでおり、推考してみよう。

「与安法印」は将軍家の侍医片山宗哲を指していると思われる。実は、この年元和七年は細川家にとって大変化の年だった。
元和六年(一六二〇)十月四日、小倉を発した忠興は京都経由で十一月七日に江戸に入った。『綿考輯録巻二十』)
しかし、閏十二月、代わりに帰国したばかりの忠利のもとに幕府老中から忠興病の一報が届いたのである。
「この度の御煩ひは、いつもに相替はり候由、付け置かる衆も申され候事候間、御越し候てお見舞ひ然るべく存じ候」(「熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状」山本博文『江戸城の宮廷政治』)(この度の病気はいつもと違うと江戸の家臣も言っているのでお越しになりお見舞いをすべきでしょう)
この時、治療に当たった「御医師ハ延寿院なと」とあり、『綿考輯録巻二十』) 「延寿院」は当代名医の曲直瀬玄朔(まなせげんさく)のことである。おそらく宗哲も立ち会ったと思われる。
忠興はこの時、隠居を決め、剃髪し三斎宗立と改名したのである。(同上)
忠興の病は癪(胸部や腹部に激痛)であった。大御所家康お気に入りの万病円を服したか。間も無く快復した。

帰国早々の忠利は江戸に向かったが、着いたのは元和七年正月二日であった。
そして、正月七日には幕府により家督相続が決まり、登城したのである。
二月には二人に帰国許可が出て、洛外吉田には四月十日着、豊前には四月末から五月初めに着いたと思われる。(同上)
忠利は与五郎に上述の書状を出したのは帰国間もない頃だったのだろう。江戸にいた忠興・忠利の計らいで宗哲を与五郎の治療にあたらせ、宗哲から平癒の話を聞いたと思われる。尚、忠利は小倉城に入ったのは六月二十三日である。(同上)

「半左衛門」は田中半左衛門と思われ、旧姓長束助信(なつかすけのぶ)である。室は忠興の妹伊也の娘である。忠利は信頼できる「身内」を与五郎のそばに置いたのだろうか。
「江戸江相詰御奉公相勤居候處元和九年四月病死仕候」(「先祖附」)とあり、江戸在勤であったが、元和九年(一六二三)に病死している。

「伊喜助殿」は幕府勘定奉行の伊丹康勝と思われ、通称「喜助」(きのすけ)である。

さて、忠利は六月に小倉へ入った後、十二月には初参府で江戸に向かう。この時、三歳の嫡男六丸(光尚)も同行していて、将軍秀忠に拝謁している。
そのまま、六丸は「人質」となり、江戸に留まったのである。この時点で与五郎は忠興の「人質」の役目を終えたのではなかろうか。
人質は室までとなり、二年後の元和九年(一六二三)十月、千代姫は江戸へ向かうことになるが、忠利は忠興に書状を送っている。
「我等は、喜助殿次第と申す筈にて罷り下り候故、留め申す儀もござなく候、多分十四日に罷り上がるべきかと存じ奉り候」
(私は、奥の参府については伊丹殿の考え次第というつもりですので、止めるわけにもいきません。多分、十四日にでることになると存じます。)
(元和九年九月四日忠利披露状)(山本博文『江戸城の宮廷政治』)

この「喜助殿次第」は上述の与五郎宛の書状にもみられることから、伊丹康勝で間違いないだろう。

これらのことから、与五郎は忠興の「人質」として江戸にいたと考えるのが妥当であろう。

元和四年(一六一八)七月、人質だった忠興母光寿院が没したため、代わりに翌年、忠利末弟のわずか三歳の天千代が江戸に入ることになる。後の細川刑部家の祖となる興孝である。このように細川家は忠利妻子、弟までも人質としたのである。
しかし、「人質」の役目を終えた与五郎は細川家に召し抱えられるのが当然だが、記録は皆無である。これが最大の謎である。
細川家の歴史から抹殺しなければならない理由として考えられるのが、信仰の問題である。与五郎は忠利とともにキリスト教の洗礼を受けていた。(『一五九五年十月二十日付、長崎発信、ルイス・フロイス師の年報』)

しかしながら、家中には多くのキリシタンがおり、寛永十三年(一六三六)七月に「切支丹転宗書物」により仏教徒に転宗している。(上妻博之編著 花岡興輝校訂『肥後切支丹史』)
忠利の擁護のもとに与五郎は信仰を守ることが可能であったのではなかろうか。

推測だが、キリシタンとして生きることに決した与五郎は江戸を離れ、長崎方面で潜伏し天草へ行きついたとも考えられるが、新史料を期待するところである。

 


参考:与五郎宛内記(忠利)書状 
        (原文・熊本美術館藏)            (高田重孝氏読み下し)

       一筆申候。                   一筆申し上げます。
       然者其方 肢煩候処、                あなたが、手足を患っていたところ、
       与安法印 療治候て 本復之由、             与安法印が療治して 回復したことは、
       一段之事候。                  一段と喜ばしいことです。
       然者 湯治候て、可整之由、             さらに 湯治をして、体を整えてください。
       法印も御申候。 通尤候。              法印も そう申しており、もっとものことと思います。 
       更に、三斎様 我等も 在国にて、              更に、三斎様 も私も、在国 ( 豊前 ) にいて、
       其元 人質ニ有之者候と                       あなたは人質で有る者として、
       心侭ニ 湯治させ申度とハ 難成事候間、       心易く湯治をさせてあげることは 難しい事ですので、
       半左衛門尉と申合、                         半左衛門と申し合わせて、
       伊喜助殿へ相談候而、                        伊喜助殿 へ相談してください。
       兎角、喜助殿之次第ニ仕 可然候。            とにかく、喜助殿の考え次第です。
         此方、相易、事も無之候間、可心易候。      私の方は何事もないので、ご安心ください。
       我等も 六月廿一日ニ 小倉へ移り申筈候。    私も、六月二十一日に、小倉へ移る予定です。
       尚、近日 可期申候。 謹厳。                  尚、近日、書いてお知らせします。  謹言。
       己上。                                           以上。
 
       又 申候。                                     追伸ですが、
       法印へも、其方 煩候様を 被入候事、          法印へも、あなたの煩いを治療して頂いたことに
       於礼にて、書状遣申候。  以上。            御礼状を遣わします。  以上。
 
                    内記 
           五月廿一日    ( 花押 ) 
        長岡与五郎殿

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■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・4

2021-12-17 06:54:47 | 小川研次氏論考

     第六章 林外記

    一、林外記の出自

寛永二十年(一六四三)二月二十一日(鴎外・四月二十一日)、阿部一族は誅伐されるのだが、外記は新藩主光尚の寵臣とされ、この年の四月二十七日、「一月に一度宛人を派遣し、隣国の様子を見ることを林外記に命ず」(『熊本藩年表稿』)とあり、千五百石の大目付役であった。(「真源院様御代御侍免撫帳」*真源院は光尚)

大目付は家老・中老・惣奉行に次ぐ重職であるが、この頃の細川家では奉行と同格であったようである。
外記は細川家文書に散見されるが、出自は不明である。その系図は当然だが、阿部一族と同じく抹消されている。
「於豊前小倉御侍帳」、「真源院様御代御侍免撫帳」に「林」姓の家臣は多く見られるが、千石以上の者はいない。突然、召し出されたとも考え難い。推定生年を元和六年(一六二〇)生まれとしたら、父親が小倉藩時代から仕えていたと考えるのが妥当であろう。まず、可能性のある「林」なる人物探しをしてみよう。

一つ考えられるのが、「利根川道孝」(一五六一~一六四一年)である。外記からすれば、祖父の年齢であるが、養子も考慮してみよう。

豊後国主大友義鎮(宗麟)(一五三〇〜一五八七年)の二男親家のことであるが、慶長十四年(一六〇九)より百石三十人扶持で細川忠興に客分格で招かれている。(「於豊前小倉御侍帳」) 天正六年(一五七八)、親家は元服した時に、同門名跡「林家」の「林新九郎」と名乗る。(外山幹夫『大友宗麟』) 又、この頃に正室を迎えているが、宗麟の継室となった「ある高貴な女性」(ルイス・フロイス『日本史』)の娘であった。

天正六年(一五七八)早々、宗麟が奈田夫人と離縁し、臼杵城を出ていった時に連れ出して再婚するのが(八月二十八日)、夫人の侍女頭であった「高貴な女性」であるが、前夫との間に娘がいた。前夫は耳川の戦いで戦死する大友家重臣・吉弘鎮信(一五四四~七八)とされる。側室であったが、離縁して奈田夫人に仕えていたのだろう。

「国主(宗麟)がこの女性に愛情を寄せたのは、彼女はすでに四十歳(一五三八年生か)を数えていたから、その愛らしさによるのではなく、国主の意にかなった別の面を有していたからである。すなわちこの女性は、つねに病弱である国主にまるで奴隷のように奉仕していた。彼女はそのほか器用な才覚のす持主で、家事を司ることに秀で、しかも国主の次男(親家)は、この女性の娘と結婚していたから、実のところ息子の義母に当たっていた。」(ルイス・フロイス『日本史』)

「新たな奥方と、国主の次男の妻であるその娘が、キリシタンの教えについて話をすべて聞き終わると、国主はフランシスコ・カブラル師に、臼杵の教会は遠いから、妻は病身で、目下、自由に尊師らの司祭館まで出向いて受洗するわけにはいかぬので、彼女たちに洗礼を施すために来訪されたい、と伝えた。」(同上)

「カブラル師は、二、三名の日本人修道士を遣わして、奥方の部屋のなかに、運搬できる祭壇を設置させ、臼杵の司祭館にあった最良の祭具を彼女の洗礼の為に運ばせた。国主は満足そうに、天蓋を作ったり、祭壇を設けるように命令しながら活発に振舞った。このようにして奥方と娘両名は受洗し、奥方にはジュリア、娘にはコインタの教名が授けられた。」(同上)

実はこの時、宗麟はまだ洗礼を受けていなかったが、その年(一五七八)七月二十五日に受洗、洗礼名はフランシスコである。(同上)二男親家は本人の強い希望で天正三年(一五七五)の十四歳の年にすでに受洗しており、ドン・セバスチャンの洗礼名を持つ。受洗したコインタは十六歳だったと思われ、親家は十七歳となり若き夫婦であった。

さて、三年後の一五八一年のフロイス『日本史』に興味深い記録がある。もう一人の「林」である。
イエズス会巡察使アレッサンドロ・ヴァリニャーノが臼杵を訪問している時に、事件が起きる。

「夜明けの一時間に、林ゴンサロと称するキリシタンの貴人の家に火災が発生した。彼は国主フランシスコの娘婿、すなわち国主の二度目の奥方ジュリアの連れ子と結婚しており、臼杵の重だった人物の一人であった。(中略) 彼の妻はコインタと呼ばれていた。彼は二十五歳、彼女は十九歳を数えた。」(同上)

『イエズス会日本年報』(一五八二年二月十五日付、長崎発・ガスパル・コエリョ)によれば、「ゴンサロ林殿と称し、年齢は二十五歳で、夫人は十五、六歳に過ぎなかった」とあり、コインタの年齢が若干異なるが、母ジュリアの年齢(四十三歳)から考えると「十九歳」の可能性が高い。
親家の妻コインタと同一人物であろうか。そうであれば、親家は数年後には離縁していたことになる。

「林ゴンサロ」は志賀親成(ちかしげ・一五五六~一六二二)で林与左衛門宗頓(むねはや)とされ、豊後国のキリシタン柱石となる岡城城主志賀親次(ちかよし)の実兄とされる。また、細川家に仕えた清田鎮乗(寿閑・浄閑)も兄弟とされる。(『戦国武将出自辞典』)

親成は文禄二年(一五九三)の大友家改易後に立花宗茂、加藤清正らを頼り、その後は長崎へ行き、浦上村淵庄屋志賀家の始祖と伝わる。(長崎市指定史跡志賀家墓地墓碑より) 典拠は文政四年(一八二一)に編纂された『志賀家事歴』(長崎歴史文化博物館蔵)と考えられるが、親次の息・親勝を養子とし淵村庄屋初代としている。しかし、宝暦年間(一七五一〜六四)から明治まで編纂された細川家『先祖附』に親勝は「加藤忠広御代新知二百石」から浪人となり「細川入国時沢村大学方より御連召出二百石」とあり、細川家に仕え、志賀家は江戸末期まで続いている。(「新・肥後細川藩侍帳」『肥後細川藩拾遺』)

ここから考えられることは、親勝も叔父の親成と立花家、加藤家と同行していた可能性がある。加藤家改易の年寛永九年(一六三二)、同年、親勝は移封後の細川家に召し抱えられのだが、この時、親成は長崎に向かったのだろうか。

さて、親家がコインタと離縁していたと考えられるのは、宗麟の臨終の時のことである。

天正十五年(一五八七)五月六日(日本側史料によると五月二十三日『大友宗麟』)、イエズス会司祭フランシスコ・ラグーナは宗麟の死を悟り、「私は奥方のジュリア様と、その長女および息子のドン・セバスチャンをそっと呼んで彼らに事情を打ち明けました。すなわち私はその時からは、もうこれ以上、国主の生命を長引かせることでは祈らないことにしていました。それのみか国主はお亡くなりになるでしょうし、また多くの理由から、国主にとってはそのほうがむしろよいのだ、ふさわしいのだとの確信を抱くようになっていたのです。」(『日本史』)と打ち明けたのである。

「その長女および息子」は宗麟の長女ジュスタと次男親家である。

「国主の臨終に立ち会った子女は、ドン・セバスチャン(親家)、ジュスタ、レジイナ、モニカ、ルジイナ、それに久我殿に嫁いでいる異教徒の娘、および奥方ジュリア様でした。息子の嫡子(義統)とパンタリアン親盛(宗麟三男)は、当時、日向での戦いに参加していましたので、その場に居合わせませんでした。」(同上)

長女ジュスタは豊前小倉藩で仕えることになる清田鎮乗(寿閑・志賀家)の義父鎮忠に再嫁する。
レジイナは伊東義賢の妻だが、「モニカ、ルジイナ」は宗麟とジュリアとの間に生まれた娘とされる。(同上)

「国主は年老いてから生まれ、娘たちのうちではなくもっとも年下のモニカとルジイナという教名の二人の娘をこよなく可愛がっておられた」(同上)

つまり、親家の妻コインタは宗麟臨終の場にいなかったことになる。しかし、親家には、男子がいた。母はコインタなのか不明だが、慶長十七年(一六一二)、細川家に五百石(のち千石)で仕えた大友親英、のちの松野親英(織部・一六四七年没)である。

また、宗麟三男の親盛は慶長十一年(一六〇六)から細川家に千石で召抱えら、加賀山隼人亡き後の豊前キリシタンの柱石となる人物である。親盛は長兄義統の三男正照(右京)を養子に迎えている。

留意すべきは阿部一族上意討ちの時、藩主光尚が身を寄せていたのが右京邸であった。(『阿部一族』)

文禄二年(一五九三)、宗麟嫡子義統が秀吉により改易された時だが、フロイス『日本史』)によると、「国主の奥方であったジュリア、それに林殿の妻となっている娘コインタが、ごく少数の家来に伴われて、(中略) 毛利の国に旅立った。」とあるが、ゴンサロ林(志賀親成)の妻と考えられる。豊後国から、宗麟の娘マセンシアが嫁いでいた小早川秀包の領地筑後国へ入ったのである。この時、宗麟との間にできたとされる娘モニカとルジイナも同行したと考えられる。

多くの大友家重臣が細川家に仕えたが、オールキリシタンであった。このことが、後々に細川家へ重大な影響を及ぼすことになる。

    二、清田石見

大友宗麟の長女ジュスタ(前夫・一条兼定)の夫は清田鎮忠であるが、その娘(先妻の子とされる『大友の末葉・清田一族』)は涼泉院といい、慶長十四年(一六〇九)に細川家に仕えることになる清田鎮乗(寿閑、浄閑、志賀親成・親次兄弟)を婿養子として迎えていた。そして、二人の娘が幾知(きち)で、のちに忠興の側室となり、宇土藩初代藩主細川立孝と刑部家興孝の母となる。そして、宇土藩第六代立礼(たつひろ)の時、本家を継ぎ第八代熊本藩主細川斉茲となる。つまり、ガラシャ夫人の血筋は途絶え、大友・志賀家の血筋となるのである。

また、幾知の長兄の乗栄(のりひで・七助・石見)は大坂の陣で一番槍の功により、忠興より二千五百石の知行を得ている。(『綿考輯録・巻十九) 室は忠興の妹伊也の末娘である。(『綿考輯録・巻四十二』) つまり藤孝の孫であり、忠興の姪となる。

やがて三〇三五石の大身となり、島原の乱で胸に銃弾(矢)を受けたが、「寛文四年(一六六四)六月御侍帳」に「清田石見組」とみえることから、生存していたと考えられる。実は、『阿部茶事談』の作者(口述者)とされる栖本又七通次は「十挺頭二百石」として清田石見組に属していた。(同御侍帳)

ここで、この二人の不思議な縁についての記録がある。

栖本家は天草五人衆(志岐、天草、栖本、上津浦、大矢野)の一族であるが、天正十五年(一五八七)の豊臣秀吉九州平定の時、五人衆は島津に加担して一万田の小牟礼城(大分県豊後大野市)に籠城していた。その時に攻めてきたのが志賀親次である。

つまり、石見の父鎮乗の兄弟である。親次は城内にいる天草ドン・ジョアン(天草久種)をキリシタンのよしみで助命するが他の者は皆殺しになると伝えた。しかし、ジョアンは一人助かることを不名誉とし、「全員の命を助けて頂きたい」と返した。

「ドン・パウロ(親次)は、この願いを名誉ある良いものと認め、彼の願いをかなえてやり、ドン・ジョアンに対する愛から全員を許し招待して大いにもてなした。」(「一五八八年二月二十日付フロイス書簡」『十六・七世紀イエズス会日本報告集第三期第七巻』)

五人衆は親次に深く感謝し、島民とともにキリシタンに改宗することになる。天草は三万人を超えるキリシタン島となった。

翌年、栖本親高は父鎮通と家臣らと受洗し、領民ともに二千二百名以上が入信した。(『フロイス日本史11西九州篇Ⅲ』)

親高の曽孫が又七通次である。又七は加藤家改易後の寛永十年(一六三三)九月から細川家に仕えることになるが(『肥後国誌』)、石見が栖本家の恩人である志賀親次の甥と知り感慨深いものを感じたであろう。また、親次の息・親勝もいた。

このような関係から、又七もキリシタンに理解があったと考えられ、『阿部茶事談』は水平思考によるアプローチが肝要である。また五人衆の一族である天草十太夫、上津浦六左衛門も細川家に仕えた。両人は寛永十三年(一六三六)にキリシタンから仏教徒に転宗している。(「勤談跡覧」『肥後切支丹史』)

さて、宝暦年間(一七五一〜六四)から明治まで編纂されている『先祖附』に石見の嫡子「外記」が記されている。細川藤孝の曽孫にあたり、忠興にとっては姪の子で幾知の甥となる。この「外記」が「林外記」とは確定できないが、不可解な点がある。

石見の跡式相続は嫡子「外記」ではなく、二男の主馬(乗治)とあるが、「外記」は「病身ニ有之、御奉公難相勤候ニ付」とあり、主馬も相続を「御断申上、浪人仕」となり、病死している。帰農したとされる二人の兄弟に何が起きたのだろうか。

藩が元キリシタン(転びキリシタン)を監視するために作成した「私家来清田石見母転切支丹涼泉院系」(類族帳、『肥後切支丹史』)に石見は「寛永二十年(一六四三)死」と付記されているが、上述の「御侍帳」にみえること、また慶安四年(一六五一)以降に作成されたと考えられる「二ノ丸之絵図」(『新熊本市史、別編第一巻上』)に屋敷があることから、間違いであろう。

「類族帳」には石見、主馬、そして曽孫の宗也の名があるが、「外記」は記されていない。

宗也は主馬を相続したと考えられるが、不明である。宝永三年(一七〇六)に六十二歳で没している。菩提寺は流長院(現在中央区坪川)と記されているが、石見叔父の五郎大夫(五百石)も同寺に眠るとある。

主馬の室は重臣・沼田延之の娘であり、二男は延之の弟・延春の養子となっている。沼田家は忠興の母方(沼田麝香)となり、細川家重臣として中核を担っていた。

「外記」や主馬の母は細川家、弟は沼田家という名門「清田」家であったが、大身(三千三十五石)の石見の跡式相続はなされていない。つまり、事実上の御家断絶に等しいのではなかろうか。

「清田家」は寛永七年(一六三〇)から鎮乗(寿閑)の四男左近右衛門(石見弟)が三百石で仕え、主馬(石見二男)の息である源左衛門(養子)、そして甚右衛門(養子)と継ながる。この甚右衛門は松野親英(織部)の三男である。つまり、宗麟二男親家(林新九郎、妻コインタ)の孫となる。

左近右衛門は志賀親成(林与左衛門、宗頓、妻コインタ)の甥にあたる。先述の二つの「林」家が繋がっているのである。

推考として「外記」は清田家だが、小倉で生まれ(推定一六二〇年)、忠利により召し出され、江戸にいる光利(光尚)に付けられた。後に父・石見から分知し、同門名跡「林」姓を名乗った。肥後国へ転封後、島原の乱の功により知行加増し、忠利没後に光尚により千五百石の大目付の重職を担うとしたら、謬見だろうか。

    三、阿部一族と林外記

寛永十四年(一六三七)十月に勃発した島原の乱の様子である。二十六日、長岡監物(米田是季)が沼田勘解由(延之)を招き囲碁の会を催していた折に西南の方角から大砲の音を聞いた。翌日、飽田郡小嶋村より島原辺りから火が出ており鉄砲の音が聞こえてくると伝えたのが、郡奉行の阿部弥一右衛門と田中勘之助であった。(『綿考輯録巻・三十七』)

寛永十五年(一六三八)二月に幕府軍の総攻撃より反乱軍は壊滅した。終焉の地となった原城跡は二〇一八年七月に世界文化遺産登録となり、永遠にその悲劇を世界に伝えることになる。

さて、本丸一番乗りを果たした細川軍であるが、忠利は家臣らの功績を讃えている。

同年五月七日、花畠御殿(藩主邸)にて、忠利から三人が陣刀を賜っているのだが、「田中左兵衛」「林太郎四郎」「阿部市大夫」である。三人とも「光利君衆」、つまり、忠利の嫡子・光尚(光利)の初陣に伴ったのである。(『綿考輯録・巻四十九』)

左兵衛は先述の田中兵庫の養子(佐久間忠助)とされ、島原の乱で本丸一番乗りを果たしたといわれる。(公儀は益田弥一右衛門)(同上) 

元和七年(一六二一)十二月十四日、忠利は三歳の六(光尚)を連れて江戸に向かった。小倉藩藩主として初めての参府であった。
この時、左兵衛は光尚付きの小姓として随行したと考えられ、やがて新知百石を受けた。(「於豊前小倉御侍帳」) このことから他の二人より七、八歳年上だったと思われる。太郎四郎と市大夫は光尚(一六一九年生)とほぼ同じ歳と考える。
山本博文氏著『江戸城の宮廷政治–熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書簡』が左兵衛の一番乗りを詳細に伝えている。

「幻の一番乗り」として、「光尚の歩頭(かちがしら)田中左兵衛は、光尚に命じられ、志水久馬らとともに益田(弥一右衛門)より先に本丸への乗り入りを敢行している。海手の隅脇から堀のない石垣を上がり、一番乗りと名乗って本丸に入った。」しかし、「同じく乗り込んだ志垣小伝次らは討たれ、左兵衛も負傷した。」ここで後退するのだが、「のちに一番乗りと認定された益田弥一右衛門はまだ石垣の下にいた。」左兵衛は益田に「我は先刻より城中にて相働き、かくのごとく手負いたる故むなしく帰るなり、働きて高名せよ」と言い放った。こうして、益田は上使により一番乗りと認定された。その後、気遣った忠利は左兵衛に「手ずから金熨斗つきの陣頭を賜い」、「益田に倍々し御取り立てなさるべく候間、遺念あるべからず」との誓文を添えたという。知行五百石から千五百石に加増され小姓頭を拝命された。左兵衛は生涯「一番乗り」を口にしなかったという。

さて、陣刀を賜ったのは左兵衛一人ではなく、上述の三人である。つまり、他の二人は左兵衛に随い一番乗りを果たしている可能性がある。

「林太郎四郎」は林外記である。興味深いのは「市大夫」で、阿部弥一右衛門の三男である。(『阿部一族』) 三人の原城での様子が伝わる。

「田中左兵衛・林太郎四郎・阿部一(市)大夫三人共ニ堀ニ着働候と被遊、」(『綿考輯録・巻四十九』)とあることから、三人が一番乗りだったことは大過ないだろう。また、「馬乗手負」(『綿考輯録巻・四十八』)に「近習田中左兵衛」と「浪人分阿部市大夫」とあり、この時、二人は負傷したのは間違いないが、市大夫は浪人であった。

次に八月一日だが、島原の乱の武功により阿部弥一右衛門の四男「阿部五大夫」、九月一日は二男「阿部弥(五)兵衛」、十一月二十四日に三男・市大夫もそれぞれ新知二百石を拝領している。(同上) つまり、四男は年齢不詳だが少なくとも二男、三男は浪人であった可能性がある。

外記の加増の記録はないが、当然加増されたとみるべきであろう。

一方、弥一右衛門の長男権十郎(権兵衛)は藪図書組にいたが、「手負」(『綿考輯録・巻五十五』)で、「小姓組頭道家左近右衛門の組下で左手の指四本を打ちひしがれ、忠利・光尚の命令により小屋へ引き返して養生した。」(『真説・阿部一族の叛』)とあり、投石で負傷し功を立てることができなかった。同じく投石で脛を怪我し離脱した剣豪がいた。小笠原勢として参戦していた宮本武蔵である。(『宮本武蔵有馬直純宛書状』青梅市蔵)

また父・阿部弥一右衛門は知行方奉行沖津作大夫と共に、軍需物資の徴収と輸送を担当していて、戦線にはいなかったとされる。(「新撰御家譜原本真一」『真説・阿部一族の叛』)

さらに、「金子一枚御小袖二羽織一」が「従光尚」の田中左兵衛、林外記、和氣久右衛門に与えられている。「十一月二十四日従肥後守様御褒美御拝領御衆」(「拾集記」『肥後文献叢書第四巻』) 市大夫は浪人だったから外されていたのだろう。
「和氣久右衛門」は改名前は明石源左衛門であった。(『綿考輯録・巻四十九』)その姓から、宇喜多秀家・明石掃部の旧家臣であったと考えられる。
ちなみに、「清田石見」は「後御吟味役」として家老たちと並んでいるが、被弾したことは先述した。(『綿考輯録・巻四十八』)

また、「原之城御吟味之御奉行」に、忠利に殉死する寺本八左衛門、元キリシタンの奥田権左衛門(加賀山隼人甥)、須佐美権之丞も連なっている。権左右衛門と権之丞は島原の乱の前年に転宗していたのである。(『肥後切支丹史』) 

    四、大目付林外記

外記は大目付だが、家老らから外記宛の書状があり、あたかも藩主光尚の代理者の如くである。
外記に関する史料「覚書」を見てみよう。
まず、正保三年(一六四六)九月二十六日付けの細川行孝の書状である。
宛先は田中左兵衛と林外記であるが、連名されていることから、その重責を知ることができる。(「新・肥後細川藩侍帳」)

正保二年(一六四五)五月十一日、三斎(忠興)と幾知(石見妹)の子・立孝(立允)が三十歳で急逝する。八代藩の独立を夢見ていた父三斎(忠興)は愛息子の死が祟ったのか、追いかけるように、その年の十二月二日に逝去した。

立孝の遺児宮松丸(帯刀・行孝)は八歳であったが、藩主光尚は宇土藩立藩を江戸幕府に働きかける。やがて正保三年(一六四六)六月、行孝は宇土、益城郡に三万石の知行を領し、宇土藩が成立する。

そして、行孝は八月に将軍徳川家光の御目見となるのだが、この宇土藩立藩に関する報告を感謝を込めて光尚にしている。同日、外記らにも同一内容の書状を送っている。

次は井門文三郎・興津弥五右衛門・福知平右衛門の外記宛書状である。興津は森鴎外『興津弥五右衛門の遺書』でその名は知れるが、翌年の正保四年(一六四七)、三斎(忠興)に殉じるために命日十二月二日に自害する。弥五右衛門の二男・小才次は清田五大夫(石見叔父)の曽孫・惣右衛門の養子となる。

書状には立藩のために尽力した三斎寵臣の長岡河内や立孝家老の志方半兵衛門の離職についても言及している。
長岡河内は村上景則のことで、父は慶長六年(一六〇一)に一万石で細川家に仕えた村上水軍備中笠岡城主景広である。景広はキリシタンであったことは先述した。
景則は大阪の陣において清田七助(石見)に次ぐ、功を挙げた。(『綿考輯録・巻十九』) 慶安二年(一六四九)、景則は離藩し長崎で浪人となったが、時の老中堀田正盛に召し出されている。

次は、松野親英は正保四年(一六四七)に没し、その相続に関する覚書が存在するのだが、宛先が林外記である。(『熊本縣資料近世編二』)
親英の知行千石を松野縫殿助(亀右衛門)と善右衛門で相続することの覚書である。三男は先述の甚右衛門で清田家に養子に入っている。

    五、光尚と外記の死

慶安二年(一六四九)十二月二十六日、光尚は三十一歳で急逝するのだが、嫡子六丸はわずか六歳であったことから幕府への封地返上を遺言していた。しかし、翌年の慶安三年(一六五〇)、国元家老らは六丸の跡目相続に尽くすことになる。

『熊本藩年表稿』から時系列に見てみよう。
「同年二月三日、稲葉能登守、跡目相続について幕府の動向の趣を林外記に伝う。是日、林外記、細川家の家老に伝言す(家譜続)」とあり、江戸にいた外記も相続に関して尽力していた。やがて、「四月十八日、幕府、遺領相続を命ず。長岡式部、同勘解由これをうく。光尚、遺言により封地返上を願うも特に許可さる。また政治は家老にて行わせ、幕府目付及び六丸の親戚小倉城主小笠原忠真をして監督させる旨を命ず。」
ついに、六丸(綱利)相続がなされたのである。伝えられたのは、松井興長と沼田延之であるが、幕府目付と忠利の義兄小笠原忠真の監督という条件が付いた。幕府目付に能勢小十郎頼隆、藤田数馬之助長広が任ぜられた。

「六月二十八日、幕府目付並びに小笠原忠真、熊本着」
この時、細川家家臣の佐藤伝三郎は目付の能勢小十郎に「御附」している。(「林外記討果之節書置」『真説・阿部一族の叛』)
そして、三日後の「七月一日、佐藤伝三郎、意趣ありて林外記討ち果たす」(『熊本藩年表稿』) 事件が起きるのである。(家譜続・八月一日としている)

林外記の家臣による緊迫した事件現場の状況が伝わる。
後藤市右衛門と原武左衛門の「御尋ニ付而申上覚」(『津々堂のたわごと日録』)である。伝三郎が朝五つ(八時)過ぎに外記邸を訪ねてきたが、二人きりで内密の話があるとのことだった。やがて刀がぶつかる音が聞こえてきたので、部屋へ行くと外記と伝三郎が差し違えたとみえ、二人の子(男子)と共に果てていた。(実際は伝三郎は生存) 
やがて市右衛門らは「女房衆居申候所江参」、「奥之口」を打ち破り、「外記女房衆召連明石玄碩所江参申候」とある。

さて、外記の屋敷が突然襲われたのだが、妻らは隣家の医師明石玄碩邸に逃げて助かった。八月八日に熊本を去ったとある。(「細川家日帳」同上) 母レジイナも一緒だったのだろうか。将軍家光に仕えていた兄弟政盛を頼ったのであろうか。いずれも悲傷の旅路に違いなかった。

また玄碩は万治二年(一六五九)に 「知行被差上候」とあり、六百石の禄を失っている。いずれにせよ、隣人外記家族とは何らかの関係があると考えられる。もし、南蛮医学を身につけた明石小三郎だったとしたら、そしてレジイナも一緒だったら隣家に妹と姪がいたことになる。
外記一家殺害の理由も明らかでなく、伝三郎は無罪という不可解な事件である。
光尚の死が契機であることは間違いないが、明らかに何らかの強い意志が働いていることを感じざるを得ない。

伝三郎「書置」(七月一日)によれば「病気で死ぬより、いっそ国家の大患である外記を殺して死ぬのが奉公である」と言い、家老の暗黙の了解と援助の下に行われ、家老米田監物、六丸の後見役小笠原備前の計らいで、お構いなしとされたという。(『真説・阿部一族の叛』) 
このことから、伝三郎個人の動機でないことはわかるが、家老らによる横暴な外記排除とも考えにくい。やはり、光尚の死と六丸相続に関係することであろう。
六丸相続の条件の一つに「明石狩り」があったのでなかろうか。そうすれば、黒幕は六丸相続のキーマン小倉藩藩主小笠原忠真が浮かんでくる。徳川家康の鬼孫と言われた人物である。

大坂夏の陣の折、忠真の父・秀政と長兄・忠脩は戦死している。つまり、豊臣方明石一族は敵となり、敵討ちの相手である。細川家中から排除しなければならない。
忠真は掃部の旧臣・島村十左衛門を召し抱えた時(一六三二年以降)から、明石一族のことは知っていたと思われる。
しかし、明石玄碩が小三郎としたら何故殺されなかったのか。それは独り身の高齢な医師であり、弟子らがいたからと考えられるが、消息不明となる。

『阿部一族』の結幕は一族上意討ちではなく、林外記一家の死を以って迎えたのである。ここに、『阿部一族』事件の真相の鍵がある。しかし、森鴎外『阿部一族』には林外記の討死についての記述がない。それは、依拠した資料に記載がなかったと思われる。長年、『阿部茶事談』は加筆修正されているからである。(藤本千鶴子「校本阿部茶事談」)

林外記の妻は明石掃部の孫である。それは、明石掃部一族との関係を意味する。

『阿部茶事談』の成立要因は「「阿部一族は明石一族」という史実を隠蔽するために物語化したことでなかろうか。しかし、忠利の死により「明石狩り」が行われ、光尚の死により完結されたと考えるならば、阿部弥一右衛門こそ、明石一族でなければならない。弥一右衛門は「初めは明石猪之助」であった。(『綿考輯録・巻五十二) 

    六、仮説

「此内明石掃部ハにけたると云説も有之」(『綿考輯録巻十九』)とあるが、同じく大野治長の次弟主馬(治房)にも伝わる。

大坂夏の陣直後の五月二十七日の細川忠興書状に「大野主馬舟にて西国表へ罷退候由」(同上)とあり、主馬が逃亡したということで、豊前領内で徹底捜査をし、主馬を捕縛するようにと命じている。

さて、三十四年後の慶安二年(一六四九)二月八日付の京都所司代板倉重宗の触書(「森家文書」『大和下市史』)により、大野主馬一族の存在が明らかになった。

近江にいた主馬の嫡子宗室と母いんせい(主馬の妻)が捕縛されたのである。主馬の行方についてキリシタンと同時に厳しい穿鑿が行われたが、主馬は見つからなかったようである。

「箕浦誓願寺記」(『大阪落城異聞』)に詳細に記されている。

近江国坂田郡箕浦村の誓願寺の住職の妻が主馬の長女であったことから、主馬妻子の捕縛に繋がったとある。また主馬の二男三男もいたことが判明した。

板倉重宗の取り調べによると主馬は大阪城中で家族らと五月六日に今生の別れの盃を交わしたとあり、「定て主馬のこの世には有まし」と宗室は父の死を伝えた。落城の折、長女十歳、宗室八歳、二男六歳、三男二歳とあり、母が子供らに女性の衣装を着せて逃げたという。

幕府の沙汰は「男子皆打首、女子ハ助命」となった。三条川原での処刑には板倉重宗も立ち会ったという。

大野一件を阿部一族事件と重ねると奇妙な一致をみる。
ここからは大胆な推測による私見だが、被弾した明石掃部は大阪城で二男内記と水盃を交わした。そして内記は西国へ逃れた。

内記こと明石猪之助は宇佐郡山村惣庄屋与右衛門の養子となり弥一右衛門と改名した。中津にいた忠利の段取りである。元和二年(一六一六)の春頃であろう。宇佐郡の郡奉行だった宗像清兵衛景延は秘密裏に事を進めた。清兵衛は旧小早川秀秋の家臣であったが、小早川家改易後に細川家に仕えた。室は宗像大社大宮司宗像氏貞と大友氏系の臼杵鑑速の娘(大友宗麟養女)の末女である。

妹レジイナが娘と共に兄を頼って豊前へ入ったことや山村惣庄屋の「身内」が百人近いのも、旧臣や使用人がいたことを考えると納得できる。オールキリシタンである。
豊後との国境に位置する村々を管轄した与右衛門はキリシタン組頭であり、宣教師らを保護していた。また身体が不自由になった中浦ジュリアンも匿っていた。
隣接する日出藩主木下延俊の家老加賀山半左衛門は敬虔なキリシタンであり、小倉藩重臣加賀山隼人の従兄弟であった。中浦が籠で行き来していたことだろう。
特に延俊は豊臣方として戦った弥一右衛門と親交を深めた。

元和四年(一六一八)、忠興は忠利の家老久芳又左衛門を筆頭に多くのキリシタン家臣らを処刑した。また、翌年には加賀山隼人や日出藩の半左衛門父子らも斬首された。
しかし、忠利は棄教しなかった。元和七年(一六二一)、小倉城に入った忠利はキリシタン家臣を要所に配し、宇佐郡には側近の上田忠左衛門や河喜多五郎右衛門に当たらせた。
母ガラシャの菩提寺秀林院を建立し、毎年、司祭を潜伏させて追悼ミサを挙行し、忠左衛門の弟太郎右衛門に必要な葡萄酒も造らせた。

寛永九年(一六三二)、肥後国転封が決まった時に忠利は弥一右衛門を侍身分にし、同行させたのである。
妹レジイナと林外記の妻となる娘も従った。

翌年の春には小西行長の孫である司祭マンショ小西が熊本へ潜伏した。ガラシャの追悼ミサが行われたのは言うまでもない。

寛永十一年(一六三四)には、弥一右衛門の長兄小三郎が熊本へ入ってきた。兄弟の再会は三十数年ぶりであった。また、そこにはマンショ小西がおり再会を喜んだ。
南蛮医術を学んだ小三郎は明石玄碩と名乗る。やがてレジイナの娘と結婚した林外記と玄碩は塩屋町で隣人となる。

ここで、細川家家臣の屋敷地図「山﨑之絵図但二ノ丸塩屋町之内茂有之」(『新熊本市史』別編第一巻上)で、登場人物の屋敷を見てみよう。
絵図の成立は付箋で「明暦前後」(一六五五〜五八)とあるが、慶安三年(一六五〇)七月に討たれた「林外記」の名があることから、それ以前に成立と考えられる。おそらく正保年間(一六四五〜四八)あたりからだろう。
旧阿部弥一右衛門邸は斉藤文大夫となっているが、隣人は栖本又七である。忠利時代から大差はないだろう。

さて、寛永十二年(一六三五)七月十二日付の乃美主水と河喜多五郎右衛門への忠利書状に「竹の丸之広間秀林院ニ引候ニ付きて書中見候、こけらふきに申し付くべき候事」(「綿考輯録・巻三十六」)とあり、この塩屋町に最も近い「竹の丸」に母ガラシャの菩提寺を移すことにしたのである。命日の五日前であるが、柿吹きにしてほしいと命じている。

実は忠利は熊本入封間もない寛永十年(一六三三)二月、本丸修復のために花畑御殿に移っている。(『熊本藩年表稿』)
これは寛永二年(一六二五)六月十七日に起きた熊本大地震の影響で石垣などが崩れており、危険であったためである。余震も長く続いており、大雨でさらに被害が広がった。
しかし、翌年寛永十一(一六三四)八月、京都での将軍謁見から帰国して、すぐに「花畑館より熊本城(本丸)へ帰る」(『熊本藩年表稿』)とあり、修復したのであろう。

また、(加藤)忠広の時には花畑御殿は竹の丸と坪井川の上で廊下続きになっており、「それゆえ妙解院様(忠利)御本丸御住居内も」(『綿考輯録・巻三十六』)花畑御殿を行き来することができたとある。
その竹の丸に母ガラシャの菩提寺を建立したのである。花畑御殿にいる時にインスピレーションを得たのだろうか。

さて、この竹の丸に最短距離と言うよりも、ほぼ隣接しているのが林外記邸である。先述したが、隣人は医者明石玄碩であり、目の前が小笠原備前(小笠原玄也の兄、清田石見と義兄弟)、近くに清田石見と田中兵庫、阿部弥一右衛門と栖本又七は隣人同士である。
また、小倉藩で葡萄酒造りに関わった上田太郎右衛門の甥とされる忠蔵、『阿部一族』の竹内数馬も塩屋町である。
花畠御殿を囲むように配置されているこれらの屋敷位置は忠利の意向によるものだったと考えられる。
これは偶然ではなく、その深い繋がりがあるが故に「隣人」なのである。

阿部弥一右衛門の「隣人」栖本又七による『阿部茶事談』を成立させることにより、阿部一族上意討ちを正当化したのである。それは抹消しなければならない真実があったことに他ならない。

寛永十八年(一六四一)三月十七日、細川忠利は没する。十九人の殉死者がでる。
いわゆる「追腹」であるが、キリシタンは自死が最大の罪とされている。しかし、阿部弥一右衛門ことパウロ明石内記はその罪を越えても武士の義を通した。
黄泉の国でも藩主に仕えたいという「情腹」である。(藤本千鶴子『真説・阿部一族の叛』)
そして、忠利の三回忌の後に阿部一族は上意討ちとなる。徳川家による「明石狩り」である。
忠利の義兄小笠原忠真から忖度された忠興の命令により実行されたとみる。藩主光尚が逆らうことができない人物はただ一人祖父の忠興である。光尚はこの時、松野右京邸にいた。大友宗麟の嫡子義統の三男である。義統の弟である親盛(半斎)の養子となっていた。右京は寛永十三年(一六三六)、キリシタンから禅宗に転宗していたが、信仰は続けていたと思われる。しかし、なぜ光尚はここにいたのか。父忠利との約束があったのではないか。阿部一族を守ることである。それが不可能になり、絶望したのである。

先述の「第二章・阿部弥一右衛門」にて宇佐郡山村の弥一右衛門の墓の建碑時期を寛文九年(一六六九)以降としたのは杵築藩主松平英親がこの地を放した時であり、また英親は小笠原秀政の孫であるからだ。つまり忠真の甥である。
ところが、明石家の血は絶えなかった。掃部の孫と結婚していた林外記と子供らがいた。しかし、光尚の死により抹殺されたのである。
小笠原忠真から忖度され、家老政治となった細川藩は「阿部一族事件」の正当化のために『阿部茶事談』を成立させた。

阿部弥一右衛門と一族、栖本又七、林外記らを相反させ、歴史から「明石一族」と「キリシタン」を抹殺したのである。細川家存続のために当然のことである。
しかし、忠利と光尚は禁教令下であったが、キリシタン明石一族を守ったのである。ガラシャの御霊がなす業であったのか。
『阿部茶事談』の登場人物の魂救済のために隠れた真実を伝えることが、泉下の忠利と光尚の願いではなかろうか。

                      (了)

 

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■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・2

2021-12-15 06:55:48 | 小川研次氏論考

■第四章 明石掃部

          五、田中氏

田中氏の出自は近江国高嶋郡田中村(高島郡安曇町)という説(『寛政重修諸家譜』巻第一三六七)や、浅井郡三川(東浅井郡虎姫町三川)とする説がある。
「三川」説は慶長九年(一六〇四)に吉政が三潴郡の大善寺玉垂宮(久留米市大善寺宮本)に寄進した梵鐘の銘文に「生国江州浅井郡宮部縣子也」とあり、出生地は宮部縣に隣接する三川村とされている。(『筑後国主田中吉政・忠政』)

さて、『武家事紀』に登場する「掃部聟田中長門守」は一体何者であろう。

一万石の知行から家老格の重臣と考えられるが、「田中家臣知行割帳」(『筑後将士軍談』)にも見えない。現在のところ、史料を見出していないが、関ヶ原の戦い後の明石掃部の行動から、田中家との関わりを推考してみよう。

秋月領の布教は一五六九年にイエズス会修道士ルイス・アルメイダにより始まった。藩主秋月種実はキリスト教に対して理解を示していた。一五八二年、念願の教会が建てられることになるのだが、「殿は聖堂を城の下に築くことを望み」、身内から土地や建材を提供させた。(ルイス・フロイス『一五八二年の日本年報』) 

この様なことから、秋月には多くのキリシタンがいた。
一六〇〇年、黒田官兵衛の弟直之がキリシタン家臣と共に秋月に入部するが、一六〇四年にレジデンシア(司祭館)、一六〇七年に聖堂を建立し、「新築は惣右衛門(直之)ミゲルが費用を負担して」いた。(『一六〇七年度イエズス会日本年報』) 

二年間で五、六千人も受洗者がいたという。(『日本切支丹宗門史』一六一四年の項)

禁教令前なので、掃部は下座郡小田村(朝倉市)から堂々と家族らと教会に通っていたことであろう。
秋月で庇護者であった黒田直之は慶長十四年(一六〇九)二月に没する。同じくキリシタンの嫡子直基も二年後に没している。
掃部が筑前国から筑後国へ移ったのは、直之没後直後と見る。
筑後国藩主田中吉政はイエズス会の宣教師に「私は仏教徒であるが、キリシタンの親しい友であり、多くのキリシタンを召抱えてきており、伴天連方と懇意になりたい。」と柳川に修道院と教会建築のための地所を提供していた。(一六〇一、一六〇二年日本の諸事『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

また、自ら家臣とともに教会に出向いて、ミサと説教を聞いて、司祭のキリシタンへの優遇希望に対して「そのようにしよう。その点についてご安心ください。私、ならびに私の領国にお望みのことはいかなることでもします。私は教会と堅い親交を結びたい」と返事した。(一六〇六、一六〇七年日本の諸事『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

しかし、キリスト教に理解を示した吉政であったが、洗礼を受けることはなかった。(『キリシタン研究』第二十四輯)

小田村にいた掃部は当然、柳川の田中吉政父子と交流があったことだろう。
この時期、掃部の行動範囲はキリシタンが多くいたとされる小田、秋月から田中藩領の柳川、竹野郡田主丸、太刀洗、山本郡木塚(久留米市善導寺)と考えられる。潜伏先は山本郡と推定され、詳しくは後述する。

吉政も黒田直之と同じ慶長十四年(一六〇九)二月に没し、柳川の真教寺(現在の真勝寺)に眠る。墓は本堂の床下にあり、あたかも聖職者を弔うキリスト教会のようである。
父の遺志を継いだ忠政はキリシタンを擁護した。禁教令後の一六一二年に「筑後の柳河には、司祭と修士が各々一人いて、伝道に当たっていたが、この年二百人の洗礼があった。奉行達は捜索をしそうに思われたが、間もなく目をつぶった。」(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)

キリシタンを擁護する忠政は掃部と急接近することになる。
さて、「田中長門守」の出自は不明であるが、細川家中に「田中家」所縁のミステリアスな人物がいる。
「田中氏次:兵庫助。江浦城主。のち兄吉政との不和により退去、豊前で細川忠興に千石で仕える。」(『日本版ウィキペディア』)
信憑性に疑問があるが、他にも散見していることから通説となっているのだろうか。しかし、「田中吉政・忠政」の先行研究は多々あるが、依拠する史料が少ないのか、「氏次」に関しては、ほぼ皆無である。
細川家において氏次は田中与左衛門(兵庫、一六四九年没)とされ鉄砲頭千石で仕え(「於豊前小倉御侍帳」)、加増千石となり二千石番頭となった。忠利時代には国惣奉行となる重臣である。
「兵庫」は寛永四年(一六二七)正月元旦「細川日帳」に藩主忠利が「(浅山)清右衛門・與左衛門も、明日名をかはり可申旨、」と「清右衛門ハ修理亮、與左衛門ハ兵庫ニ可罷成」(『福岡県史・近世編・細川小倉藩(一)』)と命じたことから、與左衛門は「田中兵庫」と名乗ることになった。

さて、「田中氏次」なる人物を次の三点から見てみよう。「兵庫助」「江浦城主」「兄吉政との不和」である。
まず、筑後の「兵庫助」について、「田中家臣知行割帳」(『筑後将士軍談』)に「三千百二十石・田中兵庫」とある。
「割帳」の成立は、大坂夏の陣直前に殺害された宮川大炊や田中長門守の名がないことから陣の後(元和元年五月)と考えられ、また、「(知行割帳に)支城に関する言及も見られず、一国一城令の出された大阪の陣以降のものである可能性が高い。」(中野等『筑後国主田中吉政・忠政』)と論考されている。
小倉藩の「兵庫」こと「田中与左衛門」であるが、慶長十九年(一六一四)九月、台風により細川藩江戸屋敷が破損した時に、修理を「田中与左衛門ニ申付」(「部分御旧記」『細川家文書による近世初期江戸屋敷の研究』))とあり、作事奉行だったのか。また、同年十一月の大阪冬の陣前だが、小倉藩の「大阪御陣御武具并御人数下しらへ(調べ)」(『綿考輯録巻二十七』)の「三番、藪内匠、加賀山隼人組」に「田仲与左衛門(兵庫亮)」とある。同組にはともに惣奉行となる「浅山清右衛門(修理亮)」がおり、「初め二百石」(新・肥後細川藩侍帳)とあり、与左衛門も同格とみる。
つまり、与左衛門は大阪冬の陣前から細川藩に仕えていたことから筑後の「割帳」にある「兵庫」は別人となる。(あくまで「割帳」を陣後成立として)

次は「江浦城主」についてだが、柳川城支城江浦城(みやま市高田町江浦町)は「田中吉政の代其の臣田中河内守城番たり」(『旧柳川藩志』)とあり、家臣で七千石を拝領している。(『筑後将士軍談』)

では、「田中氏次兵庫助」と「河内守」は同一人物であろうか。
参考になるのは同じく赤司城(久留米市北野町赤司)を預かった田中左馬尉清政(一万三千石)だが、吉政の実弟(庶兄の説あり)とされる。(『筑後国主田中吉政・忠政』) しかし、河内守の知行高(七千石)と「家臣」とされることから「河内守」は弟ではない。この時代、藩主が家臣に苗字を与えることは常であった。
また、「兄吉政との不和」についても、慶長九年(一六〇九)十月二十五日付けの寄進状(三潴郡東照寺宛)に「田中河内守」の名があるが、(『筑後国主田中吉政・忠政』) 吉政は同年二月十八日(『寛政重修諸家譜』)に既に没していることから、「不和」は成立せず、「兵庫助」と「河内守」は同一人物ではないとなる。
つまり、小倉藩で仕えた「兵庫」は「江浦城主田中河内守」と別人と考えた方がよさそうだ。

「通説」に従えば一六〇九年以前に「田中氏次(与左衛門)」は親子ほど歳の差のある「兄吉政」と不和になり、浪人後に細川家に仕えたとなるが、しかし、いきなり千石の鉄砲頭とは考え難く、大阪冬の陣直以前(一六一四年)に二百石(推測)で召し出されたと考えるのが妥当であろう。江戸屋敷の作事を仰せ付けられていることから、江戸詰めとも考えられる。

時代は下り、寛永九年(一六三二)十二月、熊本城に入った忠利は田中兵庫・宗像清兵衛・牧丞太夫に国惣奉行を任命しているが、二年後(一六三四)には宗像と牧を罷免してキリシタン河喜多五郎右衛門を当てた。(『熊本藩年表稿』) 
寛永十二年(一六三五)十一月四日、小笠原玄也一家(玄也の父少斎はガラシャ介錯後自害、兄は細川家重臣小笠原備前、小笠原宮内少輔)がキリシタン容疑で捕縛される。これは報奨金欲しさによる農民が長崎奉行に訴えたことによる。忠利が小倉時代から擁護していた玄也らのことが幕府に知れたのである。忠利は何度も玄也に改宗を懇願するが、頑なに拒否する玄也になす術がなかった。親友である長崎奉行榊原職直の働きも虚しく、幕府から極刑の通達が届いた。
玄也らは処刑命令が出るまでの五十日間、座敷牢にいたのだが、田中兵庫の屋敷であった。忠利の配慮としか考えられない。玄也らは形見送りと十五通の遺書を残す。(『新熊本市史史料編第三巻』)
しかし、五十日間の猶予は忠利、職直の意を汲んだ幕府側の配慮でもあったともいえよう。

ここからは推考となるが、一六一七年のイエズス会コーロス徴収文書(小倉編・一六一七年)の信徒代表に松野半斎、小笠原玄也、加賀山隼人、清田志門らと並んで「アンドレ田中」とある。田中兵庫である確証はないのだが、可能性はある。
二ノ丸塩屋町の兵庫邸(現・熊本中央郵便局)に隣接しているのは、後述する大友氏系の清田石見邸(現・熊本県立第一高校)であることも気になる。(『新熊本市史』地図編二十) 

玄也の妻みや(加賀山隼人長女)の遺言の行に歌がある。
「いつもきく物とや人の思ふらん、命つつむる入あいのかね」(『新熊本市史』史料編第三巻、近世』)
(いつも聞けるものと人は思っているが、限りある命を数えている入相の鐘)
夕刻、牢座敷に聞こえて来る鐘の音は近くにある玄学寺・正法院(上鍛冶屋町)であろう。

玄也一家は十二月二十三日に禅定院(現禅定寺・中央区横手)で処刑されるのだが、この寺が田中家の菩提寺になっていることも縁を感じる。
兵庫は嗣子がいなくて、佐久間家から忠助を養子とし、島原の乱で一番乗りの武功を挙げる田中左兵衛とされる。
しかし、上述の「ウィキペディア」に「田中一族には吉政の弟に田中兵庫助氏次がおり、この系統が肥後細川藩士として続いていたが、吉政とは不和だったためか、柳川の田中本家断絶の折にも吉興に嗣子がない折にも養子を送ることはしていない。」とあるが、兵庫には嗣子がいないので齟齬がある。やはり疑念が残るが、ここで止まるわけにはいかないので、ミステリアスな人物として先に進むことにする。
しかし、著者は「掃部の聟」である「田中長門守」と「田中兵庫」が深い関係があるようにみえる。

           六、坂井太郎兵衛

坂井太郎兵衛は筑後の山本郡木塚(きづか・現在の久留米市善導寺木塚)の富裕な庄屋であり、ドミニコ会士の十二年間(一六〇五〜十七)もの宿主であった。屋敷内に教会を建てていたが、禁教令後に破却された後は一部屋を礼拝堂とし「ロザリオの聖母」と命名していた。(『日本キリシタン教会史』) 

「田中長門守」発覚から、さらに幕府による捜査が進み掃部潜伏先が判明することになる。
『日本切支丹宗門史』の一六一七年の項に記されている。

「筑後では、よく信仰の中に育ち、熱烈なキリシタンのパウロ・サカイ・タロビョーエ(坂井太郎兵衛)が、家にヨハネ明石掃部を宿したことを弁明するために江戸の政庁に呼び出された。彼は、その理由を述べて柳河に帰ったが、着早々、同国の奉行の一人イシザキ・ワカサドノ(石崎若狭殿)の前に呼び出された。イシザキは彼に棄教せよと厳命した。彼はこれを拒絶して投獄され、財産は没収された。」
太郎兵衛は一六一七年七月頃に江戸に行き、八月に投獄されたと考えられる。しかし、「宿主パウロ・サカイ」の掃部隠匿について若干異なる二つのイエズス会の報告書の一部を紹介する。

「パウロ・サカイ太郎兵衛という名の一人のキリシタンがいた。この人は、この国に吹き荒れていた迫害の嵐に追われ、彼が命じられていた江戸勤番を解かれ国へと戻った。この国奉行の一人であるイシザキ若狭殿は改めてこの人を呼び、日本国の将軍と筑後の国の領主が定めた掟に従い、イエズスの教えを棄てる様に促した。」(「カミロ・コンスタンツォのイエズス会総長宛、一六一八年・日本年報」)

「そのころ彼は、明石掃部ジョアンというキリシタン武士を自分の家に匿ったということで、国王(将軍)から訴えられた。内府(家康)はこの明石掃部を死刑に処するために、捕らえようとしていたのである。というのは、内府が先年、秀頼に対して起こした二度の戦争(大阪冬、夏の陣)、また、以前、秀頼がまだ幼かったとき、その後見人たちが内府に対して行った戦争(関ヶ原の戦い)のとき、この武士は、名望のある武将として、常に内府に反対の立場をとったからである。しかし、この訴えは偽りで、実際には明石掃部を自分の家に泊めたことはなかったので、彼は筑後の国から江戸へ連行されたとき、たいへん軽い気持ちで出掛けていった。そして、前記の理由で無実なので、その訴えから逃れることはできるだろうが、キリシタンであるという訴えからは逃れ得ないだろうと思っていた。そうなれば、自分の逮捕は彼の非常に望んでいた殉教に道を開くだろう。と考えていた。だが、彼は両方の訴えについて、無罪の判決を受けた。」(「クリストヴァン・フェレイラのイエズス会総長宛、一六一九年一月三〇日・日本年報」

なぜ、カミロ・コンスタンツォは掃部の件を記さなかったのだろうか。カミロは禁教令による日本追放の一六一四年から二十一年の再入国までマカオにいた。つまり、この報告書はマカオで書かれていたことになる。長崎からの情報はフェレイラと同じはずである。
日本語の誤訳も考えられるが、太郎兵衛の捕縛命令をした石崎若狭守の名もあることから考えにくい。

カミロは一六一一年の末まで、細川忠興から追放されるまで四年間、小倉で活動していたこともあった。
また、後述するが一六一四年の日本追放の時、明石掃部の長男小三郎が同船し、マカオに一緒にいたと考えられる。
敢えて掃部の名を消し、太郎兵衛を「江戸勤番」としたのかも知れない。

一方、長崎で殉教調査を終えたフェレイラは「明石掃部を泊めていない」とし、詳細に報告している。
中立であった外交官レオン・パジェスは『日本切支丹宗門史』に詳細な記録の方を記したと思われる。しかし、当事者であるドミニコ会の坂井太郎兵衛と明石掃部に関する報告は見当たらない。当時、対立していたイエズス会の太郎兵衛隠匿否定説に意図を感じる。つまり、ドミニコ会があえて隠した真実である証拠ではなかろうか。しかし、それは「明石掃部」ではなく「明石内記」の可能性がある。

太郎兵衛は掃部を匿っていたとの疑義から、弁明するために江戸に向かう。
これも推考だが、訴人吉興の情報かも知れない。久留米は吉政の次男吉信が支城城主として入っていたが、慶長十一年(一六〇六)に死去し、吉興が移ったとしている。(「筑後之国やなかわにて世間とりさた申事」『秀吉を支えた武将田中吉政』) また、元和三年(一六一七)頃、公事沙汰の結果か不明だが、吉興は幕命により生葉・竹野と山本半郡(三万石)を分知されたとある。(『久留米市史』)

吉興が領地内での掃部や太郎兵衛らの動向を把握することは容易であったことだろう。

さて、太郎兵衛はいつからキリシタンだろう。まず考えられるのは、かつての藩主小早川秀包(ひでかね)時代である。毛利元就の九男であるが、兄である小早川隆景の養子であった。天正十五年(一五八七)、豊臣秀吉の九州国分により筑後三郡を領することになった秀包は妻マセンシア(大友宗麟の娘桂姫)と共に敬虔なキリシタンであった。

「坂井太郎兵衛パウロは筑前の旧家坂井氏の出である。」(チースリク『秋月のキリシタン』)とあるが、萩出身の毛利家臣であったという説もある。(『長防切支丹誌』) そうであれば、秀包の家臣だったと考えられ、慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦い後に西軍だった秀包が去った後に残り、庄屋となったことになる。

この時、久留米城にいた秀包の妻マセンシアと子どもらと宣教師達を助けたのが、シメオン黒田官兵衛である。(『日本切支丹宗門史』) 子どもらには養女がいた。マセンシアの姉の子である。後の宗像大社大宮司宗像氏貞の養子となる益田景祥(かげよし)の後室となる。(「新発見の豊臣秀吉文書と肥後宗像家」『沖ノ島研究』第六号)

関ヶ原の戦い直前のことである。

「シモン(秀包)とマセンシアは当初、寄付したこと以外に、数々の恩恵をかの修道院に与え、司祭居住用の家屋を新たに設け、司祭には荷重であった教会を建てた。」(フェルナン・ゲレイロ編『イエズス会年報集』一五九九―一六〇一年、日本諸国記)

一六〇〇年当初、久留米城下に教会が建てられたが、現在の久留米市役所に位置し「両替町遺跡」として十字架紋瓦や遺構が見つかっている。
また、「領内のキリシタンは別に教会を建てた。」(同上)とあり、この教会は善道寺木塚に居していた坂井太郎兵衛が敷地に建てた教会と考えられる。

「パウロ・サカイ太郎兵衛と言う名の一人のキリシタンがいた。この人は非常に熱心なキリシタンで、彼がキリシタンである事は異教徒の間でも良く知られていた。」(カミロ・コンスタンツォ『一六一八年度イエズス会日本年報』)

しかし、「マトス神父の回想録」に「久留米において秀包が去ってのち、新左衛門ディオゴというキリシタンが家の裏に神父が泊まるための藁葺きの家を建てた。神父はキリシタンの告解を聴くためにそこへ行った時、毎年一ヶ月前後そこに泊まった。」(『キリシタン研究』第二十四輯) とあることも留意したい。

太郎兵衛は筑後キリシタンの柱石的存在であった。イエズス会により受洗したが、後に『ロザリヨ記録』の著者であるドミニコ会士ユアン・デ・ルエダを教会に招き、親交を深め、会士の宿主となり、ロザリオ会の組親となっていた。(『日本キリシタン教会史』) 

慶長十八年十二月二十二日(一六一四年一月三十一日)に江戸幕府による禁教令が発令され、宣教師らは一六一四年十一月七日、八日に長崎の福田湊からマニラ、マカオへ追放された。

「内府(家康)がすべての神父を国外追放に命じた迫害が起こって数ヶ月後、パウロ(太郎兵衛)はルエダ神父の宿主をしていた。五人(家族)とも聖ロザリオ会員であった。」(『日本切支丹宗門史』)

また、ルエダは禁教令下の一六一五年から一六一六年七月までの間に小倉に入ったと思われる。(『ロザリヨ記録』) 

そして宿主になった聖ロザリオ会員のシモン清田朴斎(正成・鎮忠弟)は一六二〇年、家族と共に忠興の命令により処刑された。(『日本切支丹宗門史』)

元和三年(一六一七)の『コーロス徴収文書』の筑後国の段に「坂井右衛門三郎」の名があり、太郎兵衛の身内と考えられる。太郎兵衛は翌年の一六一八年に処刑されるが、この年は獄中にいたと考えられる。信仰を固守するために、太郎兵衛に代わり右衛門三郎が署名したのだろう。
前述のように、信仰に生きる掃部らは当然、筑後国でドミニコ会士司祭のルエダやオルファネルと出会っていることは容易に想像できる。
最後の証人である太郎兵衛は江戸で尋問を受けるが、無罪となり国に戻る。しかし、幕府の監視は続いていたと思われる。つまり、泳がせて「明石狩り」である。

田中忠政は帰国直後の太郎兵衛捕縛を石崎若狭介秀清に命じる。若狭は三六五〇石を拝していた家老である。(「田中家臣知行割帳」)
幕府の監視もあったが、明石一族と領内のキリシタンを保護するための策だったかも知れない。

「殿(忠政)がいかに転宗を命じても、我々の敵、よそ者ともいうべき友人、親戚が説得しても、それは霊魂を亡ぼそうとしたがゆえに、彼は転ぶことも信仰を棄てることもよくしなかったからである。このパウロ(太郎兵衛)は立派なキリシタンであった。それゆえ、殿は転宗させるために彼の逮捕を命じたのである。」(『日本キリシタン教会史』)

信仰を固守した太郎兵衛は八ヶ月間、牢獄にいたが、一六一八年四月十三日に柳川の刑場「斬られ場」(柳川市水橋町)で処刑されたのである。(『日本キリシタン教会史』)

キリシタンを擁護していた忠政であったが、幕府の監視もあることから苦渋の決断であっただろう。しかし、元和六年(一六二〇)八月七日(新九月三日)に忠政は嗣子の無いまま没し、田中家は改易となった。豊臣恩顧の忠政だったが、キリシタン政策に危機感を持った徳川方の処断とも言えよう。
実はオルファネルと小倉藩の人物が繋がることにより、奇妙な相関図が浮かび上がる。

           七、久芳又左衛門(くばまたざえもん)

一六一八年二月二十五日(旧元和四年二月一日)、「ヨハネ・クバ・マタザエモン」は細川忠興により小倉で斬首された。中津城にいた忠利の家老であった。処刑された者は二月二十五日から三月一日までの五日間で二十五人、二歳と六歳の子供もいた。七月には十二人と、この年だけでも三十七人(別に一人牢獄にて衰弱死)もキリシタンという名目で処刑された。(『日本切支丹宗門史』、バルトリ「イエズス会史」抜粋一六一八年補遣『一六.七世紀イエズス会日本報告集第二期第二集』) 

まさに「小倉の大殉教」である。同日、又左衛門と共に処刑された「トマス・クチハシ・ゼンエモン」(櫛橋善右衛門)も忠利の家臣と思われる。
翌日、両者の子が中津で斬首され、三月一日には志賀ビンセンテ(市左衛門)も含む七人が倒磔(さかさはりつけ)にされた。中津で処刑された者は三日間で十二人にも上る。忠利の側近を中心に処刑していることから、まさに忠興の忠利への強い意図を感じる。

「殺害の理由を告げずに謀殺される者もいた。」(オルファネル『日本キリシタン教会史』) 

忠興は何故、この年に大量殺戮を行なったのだろうか。
死刑執行は前年の元和三年(一六一七)に決定されたと考えられることから、まず、イエズス会日本管区長マテウス・コーロスの信徒宣誓書である『コーロス徴収文書』が、この年の八月(旧七月)に成立していたことに注目する。
この秘密文書の忠興側への漏洩の可能性である。

署名した四十八名に、小倉には重臣・加賀山隼人、松野半斎(親盛・大友宗麟三男)、松野右京(正照・大友義統三男、半斎の養子)、清田志門(朴斎)、加賀山主馬、小笠原玄也などがおり(隼人は一六一九年、志門は一六二〇年、玄也は一六三六年に殉教)、 中津には処刑された「久芳寿庵」「櫛橋理庵」(トマスではないが同一人物とみえる)「志賀ビセンテ」もいる。これらの多くの家臣は慶長十九年(一六一四)に忠興による転宗命令に従い、転び証文を出していたが、忠興にとっては驚愕の事実であったことだろう。しかし、多くの重臣側近らは処刑から外されていることから、忠利との関係者を狙い撃ちした可能性がある。

次に忠興は先述した筑後国の田中家公事沙汰騒動に非常に関心を持っており、その後も元和三年(一六一七)十一月十八日に「田中筑後身上の儀、さのミ替事有間敷候事」、また、元和四年(一六一八)六月二日にも「肥後の事、田中事、さしたる儀も之在る間敷と存じ候事」と田中忠政の身上について忠利に警告文の如く執拗に書状を送っている。「肥後の事」は後年改易される加藤忠広を指している。(『秀吉を支えた武将田中吉政』)
これはまるで「お前も田中のようなことをしたら同じ目にあうぞ」とも取れる。
つまり、忠利のキリシタンの擁護への警告である。
コーロス文書の漏洩、キリシタンに関する情報は忠興の内通者からもたらされていたのだろう。

「小倉の大殉教」は嫡子忠利の改心(改宗)への警告でもある。忠利は文禄四年(一五九五)に母ガラシャにより、忠興に秘して兄興秋と共に洗礼を受けていた。(ルイス・フロイス「イエズス会一五九五年度年報」)

忠興にとっては御家存続に関わる重大なことであり、当然の決断である。しかし、キリシタン忠利の心中如何に、親子の確執はここから始まったのかも知れない。さて、忠利の家老久芳又左衛門であるが、『日本切支丹宗門史』の「クバ」は「久保」でなく「久芳」である。

細川家『切支丹類族帳』に「故越中守召仕古切支丹久芳又左衛門系」とあり、子孫四代までも監視体制の対象となっていた。(『肥後切支丹史』)

『萩藩閥閲録』によると、久芳氏は毛利氏の家臣団に見られるが、安芸国賀茂郡久芳(東広島市福富町久芳)を本拠地としていた。又左衛門はこの一族であろうか。
先述の坂井太郎兵衛も毛利家臣であったとあり、坂井氏は「戸野郷」を知行としていた。現在の広島市河内町戸野で、久芳村と隣接していたのである。
二人は繋がっていた可能性はある。では、いつから又左衛門は細川家家臣となったのだろうか。

慶長五年(一六〇〇)、関ヶ原の戦い後、敗軍の将となった西軍の総大将毛利輝元は周防・長門二国への減封となった。この時、加増され豊前に入った細川家に毛利・小早川旧家臣が召抱えられた。乃美(のみ)新四郎景尚(浦主水正景嘉)、包久内蔵丞(景真)、椋梨半兵衛らがいる。又、村上水軍庶流の能島村上系の八郎左衛門(景広)、次郎兵衛、来島村上系の景房、少左衛門が細川家水軍充実のために仕えた。(光成準治著『小早川隆景・秀秋』)

乃美四郎景尚(浦主水正景嘉)は小早川隆景の率いる小早川水軍の舟大将乃美宗勝(浦宗勝)の子である。ちなみに妻は村上景広の娘である。(『萩藩諸家系譜』)

また、他に「東右近介」というものが「卒然として豊前に趣、細川忠興に仕えた。」とあり、「右近介は村上隆重(景広の父)の長男で吉種といった。彼は妾腹の子であったので、弟の景広が正嫡として、芸州笹岡城主を継ぎ、吉種は東家を継いだ。」(『村上水軍史考』)とある。つまり、兄弟ともに細川家に仕えたことになる。
興味深い事に忠興寵臣の「村上八郎左衛門(景広)」がキリシタンであったことだ。『花岡興輝著作選集』)
天正十四年(一五八六)、羽柴秀吉の九州平定が始まるが、この時の軍監がキリシタン黒田官兵衛であった。毛利輝元や小早川隆景らにキリスト教布教の協力を取り付け、下関に教会を建てるに至ることになる。
官兵衛と共に下関にいたのが、日本イエズス会副管区長ガスパル・コエリョとルイス・フロイスである(『日本史』十一・下関で第一巻を書き上げている)

「官兵衛殿は、下関から二里距たったところにある小倉という、敵の城を包囲するために同所を出発した。彼は通常、戦場においては日本人で説教ができる修道士を一、二名手元に留め、昼夜、機会あるごとに兵士たちに説教を聴聞させ、十分に教理を理解し準備された者は、我らがいる下関に遣わして洗礼を受けさせた。」(同上)

この戦場にて「日本には、往昔の国主たちの特許状によって、当初から、全海賊の最高指揮官をもって任ずる二人の貴人がいる。(中略) 彼らの一人は能島殿であり、他の一人は来島殿と称し、官兵衛殿に伴ってこの戦に従っている。官兵衛殿はこの人にキリシタンの教義をすべて聴聞させた。彼は教えを理解すると、洗礼を受けるため、彼とともに聴聞した幾人かの家臣とともに戦場から下関に向かった。」(同上)とあり、「受洗した来島殿」が司祭を安全に航海させたのである。この時の能島村上当主だった村上元吉は関ヶ原の戦いで戦死したので、受洗の確認はできないが、景広らと共にキリシタンになっていたことだろう。
小早川秀包(ひでかね)や熊谷元直も受洗していて、久芳又左衛門も同時期にキリシタンとなったと考えられる。
しかし、慶長十九年(一六一四)の忠興転宗命令に従い、景広と又左衛門は棄教していた。(『花岡興輝著作選集』) 
忠利が江戸から中津城に入ったのは慶長十一年(一六〇六)十二月である。又左衛門はそこから家老職についたのだろう。

余談だが、毛利旧臣から細川藩に仕えたキリシタンがいる。「仁保惣兵衛」である。惣兵衛も景広と又左衛門と同時に棄教している。「輝元公御代分限帳」(『下関市史 資料編一』))の「御馬廻衆」に「仁保惣兵衛 百九十八石九斗八升一合」とあり、同一人物であろう。惣兵衛は寛永元年(一六二四)八月十日『細川日帳』に代官に関する記録がある。
仁保本家筋にあたる仁保隆慰(たかやす)や元豊の系図には見えないが庶家と思われる。
また一族と見られるが「仁保太兵衛」という変わった経歴の家臣がいる。
太兵衛は幼少期には彦山座主忠宥のもとで育てられ、元和二年(一六一六)に二十七歳の時に召抱えられた。元和九年(一六二三)には惣奉行となっている。(『肥後細川藩拾遺』)
出自は『細川家家臣略系譜』には毛利期の門司城番だった隆慰(常陸介)の嫡男元豊(右衛門大夫)の系列とされているが、『萩藩諸家系譜』には、元豊の男子は元智一人だけである。しかしながら、忠興から重用されていることから、一角の人物であったのだろう。縁者に細川忠利に殉死する宗像加兵衛・吉大夫兄弟がいる。(『綿考輯録・巻五十二』)
現在、英彦山神宮の宝物として「華鬘(けまん)仁保太兵衛所納」が現存する。

さて、久芳又左衛門だが、ドミニコ会士ハシント・オルファネル神父の貴重な記録が伝わる。

「ヨハネ(久芳)は既に、一六一四年に不幸にも棄教していた。一六一五年、彼がオルファネル神父を厚遇するや、神父は再び彼を天主に導いた。」(『日本切支丹宗門史』) 

前述の通り、忠興の命により又左衛門は棄教していたのだが、翌年にオルファネル神父によりキリシタンに立ち返ったのである。神父自身による報告書によると「又左衛門は(私)が豊前国を通過したときに(私を)中津の市(まち)の邸に泊めた人物であった。」(『日本キリシタン教会史』)とあり、神父が又左衛門の家に泊まっていたのは一六一五年の初夏と考えられる。

慶長二十年(一六一五)五月七日(新六月三日)は大阪の夏の陣の終結した日であるが、陣の後と考える。
一六一五年四月初旬、長崎にいたオルファネルはその年の十二月初旬まで筑後、豊前、豊後、日向に長途の巡歴をしていたのだ。(『日本キリシタン教会史』)

ドミニコ会は一六〇九年に長崎で信徒組織ロザリオ(聖マリアに起因)の組を結成し、禁教令後に顕著に飛躍した。(五野井隆史『イエズス会士によるキリスト教の宣教と慈悲の組』) 特に棄教した多くの信徒がキリシタンに立ち返ったのである。このことにより聖マリア信仰が育んでいくことになる。
一六二二年の「元和の大殉教」では、五十五人処刑されたが、宣教師二十一人(オルファネル含)を除いた三十四人の内二十一人がロザリオの組員であったことが物語っている。

オルファネルは筑後のロザリオ組頭坂井太郎兵衛邸に滞在した後に秋月街道の八丁峠を越え田川郡から企救郡小倉を目指したと思われる。しかし、中津に宿泊することになるが、その時の状況を詳細に伝えている。

「特に豊前国では殿(細川忠興)が悪魔、キリスト教に対する心底からの敵、怒りっぽい狂人じみた人物であったので、キリシタンたちは怯え慄いていた。したがって、キリシタンはパードレ(神父・オルファネル)に会いに行くのが至難の業だと感じていた。しかし、それにもかかわらず、ごく密かに、時ならぬ頃であったが、会いに行った。このような障害があったにせよ、同パードレは多数のキリシタンがいることを知ったので、殿の居住地・小倉の市(まち)へ辿り着きたいと思った。
このためにパードレは小倉の地にいる旨をキリシタンに知らせるため一人の男を派遣したが、小倉の情勢は極めて厳しかった。とくに前述したドン・ディエゴ隼人(加賀山隼人)は、今は来るべき時期ではないと知らせてきたので、パードレは他の地を通って同豊前国の中津の市へ行った。しかし、市のキリシタンは物凄い恐怖を感じていたので、敢えて泊めてくれる者は居ないのではないかと懸念したが、市に住んでいた殿の長男(三男忠利だが、嫡男の意味)の代理者(家老)たる一人の武士が、喜んで大胆にも宿を提供した。彼はパードレが既に到着し、市の外れで待っていることを知ると、「ようこそお越し下された。夜になったらパードレ様をご案内するこの者と共に市にお入り下さい」と告げる使者を送った。

この武士の名はユアン(ジョアン)又左衛門といい、パードレが彼の屋敷に数日滞在した時、告解のためにごく密かに何人かのキリシタンを招くと共に、彼自身も妻も告解をし、パードレとの別れに際しては一日の旅程に伴をつけた。」(同上)

この時、加賀山隼人が小倉におり、忠利も中津にいたと考えられる。実際、忠利の軍勢は大阪夏の陣には参戦していない。下関で陣を備えて大阪に向かったが、間に合わなかったのである。(忠興は側近とともに先に発ち、家康の警護)

忠興により棄教させられた又左衛門は、再びキリシタンとなっていた。この一連の行動は当然、忠利の知りうるところとみる。
オルファネルはその後、豊後、日向を目指すことになるが、日出藩家老加賀山半左衛門(隼人の従兄弟・一六二〇年殉教)にも会ったと思われ、日向では縣(あがた、後の延岡)藩領に入った。

「日向では、ドン・ミカエル(有馬直純)の叔父ヨハネ・トクエンと、古賀のダミアンによって歓待された。」(『日本切支丹宗門史』) とあるが、藩主直純とも会った可能性はある。

 

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■『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」・1

2021-12-13 06:39:06 | 小川研次氏論考

 先に小倉葡萄酒研究会の小川研次氏からの論考「阿部一族の一考察」を当ブログでご紹介したが、このたびその加筆分として『明石掃部』をお送りいただいたのでご紹介申し上げる。「かなり妄想的ですが・・」と仰っているが、いつもながらのご勉強ぶりには畏れ入るばかりである。
何故「阿部一族」に「明石掃部」がと不思議に思ったが、掃部の娘が「細川肥後守家臣林外記某が妻」(『寛永重修諸家譜』巻第七四〇)とあるとされる。又林外記の室が事件後、隣家の明石家に逃げ込んだことは事実である。
小川氏のこの論考は、私にとってはかなりショックなものであった。
大変興味深いこの論考を4回に亘りご紹介する。

    ■まえがき

 ■第四章 明石掃部
    一 掃部の死
    二 生存説
    三 訴人
    四 家老の死
    五 田中氏
    六 坂井太郎兵衛
    七 久芳又左衛門

 ■第五章 掃部の子
    一 小三郎とマンショ小西
    二 矢野主膳と永俊尼
    三 有馬
    四 細川忠利と小三郎
    五 小三郎の行方
    六 末子ヨセフと姉
    七 明石内記
    八 内記と有馬
    九 レジィナ

 ■第六章 林外記
    一 林外記の出自
    二 清田石見
    三 阿部一族と林外記
    四 大目付林外記
    五 光尚と外記の死
    六 仮説

       (了)


   『阿部一族の一考察』の加筆として「明石掃部」      小倉葡萄酒研究会 小川研次著

 ■まえがき

 初期細川家において藩主に関わる不可解な未解決事件が二件起きている。
一つは初代熊本藩主細川忠利、二つ目は二代藩主光尚の時代であり、共通点はともに藩主死後直後に起きていることである。
まず、「阿部一族事件」は、上意討ちで一族全員犠牲となるのだが、森鴎外『阿部一族』に詳しい。もう一つは「林外記事件」である。光尚没後、大目付だった外記家族が細川家家臣から殺害される事件である。そして、その実行犯は無罪放免となる。
そこには藩主死後に抹殺しなければならなかった理由がある。そして「真犯人」の存在である。
私は当初、「阿部一族」はキリシタン根絶やし故の上意討ちと考えていたが、「林外記」に触れることにより、その「理由」への疑惑が湧いた。
「阿部一族事件」は「林外記事件」で終結することを知ったのである。それは細川家存亡に関わる大事件であった。
事件の種は小倉藩時代から植えられ、芽が出てくるのである。

  第四章 明石掃部(あかしかもん)  (拙稿『阿部一族の一考察』への加筆)

一、掃部の死

明石掃部(守重、全登)は備前岡山城主宇喜多秀家の客分格の重臣であり、三万三千石余りを領する武将であった。(大西泰正『明石掃部』)
「備前には、又実に立派な人々がいた。この国の大名備前中納言殿(宇喜多秀家)は、三ヶ国を領有し、異教徒であった。しかし、彼に代わって領内を治めていた従兄弟のヨハネ明石掃部殿は、熱心なキリシタンであった。」(『日本切支丹宗門史』一六〇〇年の項)
慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦いで敗走した直後、明石掃部は「キリシタン家臣三百名とともに、親友の筑前国の領主である黒田甲斐守(長政)に仕えるために」筑前国に入った。(『十六・七世紀イエズス会日本報告集』) 
しかし、宇喜多秀家の生存が噂されると掃部と多くの家臣を召抱えた長政は「家康が悪意に解することを恐れ、彼から俸禄を没収することを命じた。」(同上)ところが、父官兵衛(母方は明石一族)は掃部を擁護するために「息子の命令を過酷と考え、その命令の執行を望まず、このことの補償を引き受けた。」(同上)のである。
そして、掃部は官兵衛の異母弟のキリシタンである惣右衛門(直之)の領地秋月に入った。その後、宇喜多秀家が薩摩の島津に押さえられていることが明らかになると、長政は掃部を隠居身分とし、明石少右衛門(次郎兵衛)、明石半左衛門、明石八兵衛、島村九兵衛(十左衛門の父) 澤原(そうのはら)善兵衛、澤原忠次郎(仁左衛門)、池太郎右衛門(信勝)、分(和気)五郎兵衛の八名の家臣に秋月領の知行を与えた。(『史伝明石掃部』)
島村九兵衛則貫は「宇喜多秀家ノ門葉ニ依テ備前ニ居シ、後ニ筑前三笠郡ニ来リ隠ル、」(『諸士由緒』三、北九州市立図書館蔵)とあり、明石掃部一族と共に筑前国に入り、御笠郡(現・筑紫野市、大野城市、太宰府市)にて隠遁していた。
やがて、上述の通り、掃部は隠居「明石道斎」となり、慶長七年(一六〇二)十二月二十三日、長政より知行一二五四石を家臣に与えられた。知行地は「下座郡」とあり、四ヶ村(頓田、中寒水、小田、片延)とあるが、筑後川右岸の秋月街道側(現・朝倉市)である。(「慶長分限帳」『福岡藩分限帳集成』) 

また、「元和分限帳」(一六一九年)にも、同じように記されているが、「道斎ハ明石掃部全誉、慶長五年関ヶ原陣ノ後御家へ来鳥村参居す、慶長ノ末大阪以前御家を立退罷越玉ふ、其節二人の家来ヲ御家に被成下候様願置、澤原氏、池氏也」とあり、掃部は関ヶ原の戦いの後に筑前国へ来たが、大坂冬の陣(一六一四)の前に立ち退いたとある。その時に家臣の澤原と池を黒田藩に召抱えることを願った。

さて、その家臣は澤原仁左衛門(忠次郎))と池太郎右衛門であるが、後述の記録により明石少右衛門(次郎兵衛)、島村九兵衛の嫡子十左衛門、澤原孫右衛門(忠次郎の弟)も黒田藩家臣だったことが判明する。『常山紀談』には、澤原と島村も筑後国を離れたとあるが、疑義がある。
つまり、明石半左衛門、明石八兵衛、分(和気)五郎兵衛は掃部と行動を共にした。
尚、島村十左衛門は黒田家二代に仕えた後に小倉藩小笠原忠真に仕えた。
やがて、慶長十九年(一六一四)、再び掃部は歴史の表舞台に現れた。大坂冬の陣の大阪牢人五人衆の一人として長宗我部元親、後藤又兵衛、真田信繁、毛利勝永と共に豊臣家のために奮戦した。
翌年の大坂夏の陣において敗北を喫することになるが、『徳川実紀』や『綿考輯録』は又兵衛らと共に掃部の戦死を伝えている。

「さなた・後藤又兵衛手から共古今無之次第ニ候、木村長門・明石掃部も手柄ニ而六日討死し、残頭々生死不知候事」(五月十一日細川忠興書状『綿考輯録』巻十九)
忠興は真田信繁、後藤又兵衛の働きを古今無しの手柄とし、木村長門と明石掃部も手柄ありとして褒め称えている。
しかし、「此内明石掃部ハにけたると云説も有之」(五月十八日同上)とあるが、「にけさるハまれニ候、笑止なる取沙汰」としている。

二、生存説

イエズス会士ペドロ・モレホンの『続日本殉教録』(一六二一年刊)の一六一六年の項に掃部の生存疑惑が上がる。
「(大阪夏の陣から)一年過ぎて、すでに内府様(家康)が死んだのち、掃部殿フアン(ジョアン・ヨハネ)及び第二子・内記殿が何処かに匿われていると将軍(秀忠)に告げる者がいた。フアンは著名なキリシタンであり、そのために内府(家康)がこれを殺そうとしたことがあったし、また戦いの敵側でもあったから、厳しい探索が行われた。しかし、息子の内記殿以外、掃部殿の消息は全く発見することができなかった。このために多数の人々が捕らえられた。レオナルド木村というイエズス会のイルマン(修道士)は、彼(内記)に会ったか或いは文通したと噂されたために公儀の牢にいれられ、今日まで長崎の牢にいる。」

この記述はイエズス会日本管区長マテウス・デ・コーロスの報告を根拠にしている。(一六一七年二月二十二日付、日本発)大坂夏の陣は元和元年五月七日(一六一五年六月三日)に終戦し、家康の死は元和二年四月十七日(一六一六年六月一日)である。この告発は一六一六年六月から七月と考えられる。イエズス会は掃部の消息に対しては絶望感を持って記しているが、確定的に掃部の死を伝えていない。しかし、負傷した可能性はある。現場にいたイエズス会宣教師の報告である。

「明石掃部は火縄銃の一撃をうけて戦場を離れた。」(ロレンゾ・デレ・ポッツェ訳、イエズス会総長宛『一六一五、一六一六年度日本年報』)

ドミニコ会士フライ・ディエゴ・コリャードの『イスパニア国王に対するコリャード陳述書』も伝えている。
「特に著名な明石掃部殿と称する武将とその二人の息子(その一人は内記と称する)と共に戦い、その後生死が判明しませんでした。新皇帝(秀忠)は、彼等が生存していて、他日芽を出し、彼や彼の息にたいして何らかの害を為すかも知れぬことを恐れて、彼等を捜索させました。広島地方で、人々がAntonio(石田)というイエズス会の宣教師と共に彼(内記)を見た形跡があったので、二人の追跡者が同じくイエズス会士であるレオナルド(木村)修道士を捕らえました。これは一六一六年十二月のことであります。」
「二人の息子」は次男内記と末子ヨセフであるが、詳しくは後述する。

レオナルド木村の家はフランシスコ・ザビエルが平戸に寄宿していた木村家である。掃部らの追跡捜査の最中に長崎(日本切支丹宗門史は広島)で捕縛され、三年後に長崎の西坂にて火炙りの刑で殉教している。天正遣欧少年使節の中浦ジュリアンと有馬のセミナリオの同期生だった。また、アントニオ・ピント石田も一六〇三年、中浦ジュリアンと伊東マンショらと共に、マカオの聖パウロ学院(サン・パウロ・コレジオ)で学んでいた。(『キリシタン時代の文化と諸相』)

「広島の領主・大夫殿(福島正則)は、(佃)又右衛門という彼の重要な武将であるキリシタンが内記を自分の家に泊まらせていたことを知り、甚だ遺憾に思った。又右衛門にキリシタンであることをやめさせ、皇帝(将軍)の命令に従わせるために、たびたび努力したが、信仰を棄てさせる方法などがないばかりか、大阪方の敗北(大坂夏の陣)のところで述べた様に、パードレ(司祭)・ファン・バウティスタ・ポーロを救い出し、捕らわれていたパードレ・アントニオ(石田)及び内記を自分の家に泊めていたことを知って、大夫殿は他のキリシタンと共に彼を焼き殺し妻子も殺すように命じた。」(『続日本殉教録』)

幕府による明石掃部追跡捜査線上に福島正則の重臣佃又右衛門の隠匿疑惑が発覚したのである。しかし、キリシタンを擁護していた正則であったが、幕府の処断に従わざるを得なかった。流石に関ヶ原で対峙した掃部の息子と聞いて驚いたことだろう。
内記はすでに逃げていたが、又右衛門と同居していたアントニオ石田も捕縛された。(『秋月のキリシタン』) ここで内記の足跡が消える。

三、訴人

イエズス会の記録は山鹿素行(一六二二~八五年)の『武家事紀』(巻第二十六)により具体的に裏付けされる。

「明石掃部ガ居所後ニ色々御穿鑿也、掃部カ領分ハ筑前ノ内小田ト云所也、(中略) 島村十左衛門・惣原孫右衛門ヲ駿府へ被召拷問也、両人不落ヲ父既ニ白状ノ由ヲ告テ終ニ間落ス、 田中筑後守内田中長門守(掃部聟)方へ送リタルノコト、其後筑前へ両人ヲ帰サル、即両人トモニ(黒田)長政家人タリ、長門守(一万石)ヲ拷問ニ及フトイヘトモ、終ニ不落シテ死、」(国立国会図書館デジタルコレクション)

(明石掃部の居所を後で色々と穿鑿した。掃部の領地は筑前の小田という所と分かり、島村十左衛門と惣原孫右衛門を駿府へ呼び、拷問にかけたが落ちなかった。父(島村と思われる)が既に白状したことを告げたら落ちた。田中筑後守(忠政)家中の田中長門守(掃部聟)の元へ送ったとのことであった。その後、二人を筑前に帰したが、二人とも黒田長政の家臣であった。そして長門守(一万石)を拷問にかけたが、ついに落ちず死亡した)

掃部の旧臣島村十左衛門と澤原孫右衛門が幕府の掃部穿鑿のために拷問にかけられ、ついに落ちて、筑後柳河藩主田中忠政の家臣田中長門守の元へ送ったと白状したが、「掃部の聟」である長門守は死を持って庇ったとある。
「田中長門守」は藩主の「同族同苗長門守は一万石を領し、全登(掃部)の女婿であった」(『大阪城の七将星』福本日南) 
さらに、前出の「コーロス報告」に重要な記述がある。一六一五年の大坂夏の陣後のことである。

「パウロ明石内記であるが、まだ二十歳ばかりの若者である。この人は戦乱を脱し、当て所なく各地を変装してさまよったが、遂に義理の兄弟のいる筑後国に落ち着いた。」(H・チースリク『秋月のキリシタン』)
『武家事紀』の「掃部聟」と「義理の兄弟」は一致する。掃部の娘婿が筑後にいて、その人物が「田中長門守」ということになる。
つまり、『武家事紀』は大阪夏の陣以降の事を語っているのである。
しかし、ここで新たな疑問がおきる。掃部の娘は誰だろう。掃部は二人の娘がいたとされ、カタリナとレジイナであるが、この件については後ほど詳述する。
さて、掃部と内記の隠匿を「将軍に告げる者」は誰だろう。
元和二年(一六一六)六月十五日(新七月二十八日)の豊前小倉藩主細川忠興の嫡子忠利への書状に注目する。
「田中の事、内之者祈状(訴状)を上げ申し候由に候、左様ニ之在るべき儀共多くの候、有様ニさへ御耳ニ入り候はば、身上果て申すべく候、筑後の国も身上果て候とて、以外さハぎ申し候由に相聞え候事」(「細川家史料」『秀吉を支えた武将田中吉政』)
(田中家の事だが、家中の者が訴状を幕府に上げたので、調べるといろんな事がわかり、筑後国改易の可能性もあり大事になっていると聞いている)
忠興は公事沙汰(くじさた・訴訟)により、忠政が改易される可能性を語っているのである。
書状の日付も前述のイエズス会の告発時期と重なる。

『田中興廃記』によれば、訴人は相続争いで不仲だった実兄の久兵衛康政(吉興)で、忠政が大阪方に内通していたと訴えたとある。(同上) 幕府からすれば大阪の陣不参と重なり、疑惑が深まったのである。
元和四年(一六一八)になっても公事沙汰の決着はつかなかったようであるが、忠政の勝ちとなり所領が加増されたとも伝わる。(同上)
しかし、矢野一貞著『筑後将士軍談』によると、「康政(吉興)」が「江戸へ訴状ヲ捧ゲ、忠政大阪ニ内通シテ出陣セザル由公聞ニ達ス」そして、「訴訟ノ賞トシテ江州ノ内一万石ノ地ヲ玉ハリヌ、然レドモ後年自ラ其非ヲ悔ヒ、禄ヲ辭シテ浪牢ノ身ト成リテ病卒」とあり、吉興は近江に褒賞一万石の地を拝領している。さらに後年、後悔して禄を辞し、浪人となって病死したという哀話を付記している。
いずれにせよ、忠政は幕府から不信感を持たれ、江戸の藩邸にいたが、閉門同様となり徹底捜査が始まったのである。

イエズス会の明石掃部隠匿告発の報告は一六一六年であるが、『武家事紀』の田中長門守捕縛拷問も同年と考えられ、以降数年間に渡り幕府の穿鑿は続くが、忠政の公事沙汰騒動と重なるのである。つまり、「将軍に告げる者」と「内之者」は同一人物であり、吉興と見て間違い無いだろう。

四、家老の死

吉興の訴えの原因の一つに考えられるのが、「田中筑後殿(忠政)は我が身に降りかかる危険を顧ず、教えを賞賛し、信者には絶対の平和を与えていた。彼は家老の一人がキリシタンを苦しめたといって、死刑に処した。彼は公然と好意を示した唯一の大名であった。」(『日本切支丹宗門史』)とあり、忠政のキリシタン擁護の姿勢にある。 さらに『一六一五、一六一六年度イエズス会日本年報』に具体的に記されている。

「筑後の国の領主、田中筑後(忠政)は、内府(家康)が発した脅迫的な激しい命令(キリシタン追放)により、それに従わない他の殿が所領を失う危険に曝されているにもかかわらず、キリシタンを苦悩させなかった。(中略) 彼は我らの修道院や教会に手をつけず、そのままにしておいた。誰か知らないが、ある人物が大胆にも彼にそれらに手をつけるよう求めたが、彼はただ、顔を曇らせ眼を伏せただけで、その男を面前から遠ざけた。彼は、奉行の一人をある過失を犯したという名目で処罰したが、実際には、この行が荒々しい方法でキリシタンを迫害したからであった。彼は、何人かにキリシタンとして公然と暮らすことを許した。」(「ロレンゾ・ポッツェ訳、イエズス会総長宛」)

忠政は一六一六年に「大阪内通」で忠政失脚を狙う吉興により告発されたとされるが、このようなキリシタン擁護の姿勢も要因の一つであろう。
「処罰された奉行」は城島の宮川大炊守正成と考えられる。(『筑前国史-筑後将士軍談』)

「領主(忠政)の従兄弟」は「殿中で他の武士と言い争い、分別を失くし、短気を起こして、主君の前で相手に対し刀に手をかけた。日本においては背信行為として許しえないので、主君は即刻死刑を命じた。」(『続日本殉教録』)
「宮川大炊守は主君忠政の兄で上妻郡福島城の城主だった田中久兵衛康政(吉興)と仲が善く、主君の忠政とは事ごとに衝突していたが、元和元年(一六一五)、大坂夏の陣の直前に、柳川城の御殿で、忠政に殺された。」(『城島むかし』城島文化協会郷土文化部編集)

『筑後将士軍談』に「処罰」の原因は二説あり、一つは宮川が忠政の大阪夏の陣遅参に諫言したこととし、もう一つは陣直前、酒席にて小競り合いで宮川が田中大膳に斬りかかろうとしたことから、忠政が斬ったという説である。この説は『続日本殉教録』に近い。

慶長二十年(一六一五)四月晦日付の「覚」は、筑後田中家と佐賀鍋島家との間での「人返し」についての約定だが、宮川大炊と辻勘兵衛尉の名が連なっている。(『筑後国主田中吉政・忠政』)

さて、夏の陣だが、細川家では四月十一日付の忠興から忠利への書状に「陣用意被申付由尤候事」(『綿考輯録巻十九』)とあり、この頃に各大名へ陣備えの通達があった。しかし、上述のように四月末には、宮川大炊はまだ殺害されていない。つまり、忠政は鼻から出陣する気がなかったのではなかろうか。そうすれば、宮川の陣参戦の諫言が殺害理由なのかもしれない。
いずれも反発した宮川の家臣らが城島城に籠ったために、忠政が軍勢を送り込み鎮めた。このことにより大阪出陣が遅れたという。(『田中興廃記』『筑後将士軍談』)しかし、イエズス会によれば、「奉行がある過失」で処罰されたのは、実はキリシタンを迫害したのが原因であったとしているが、会にとって都合のいい解釈であろう。
教会破却の諫言をした人物は吉興と考えられ、忠政のキリシタン擁護の姿勢に危機感を強く感じたからである。幕府の禁教令下に取った行動は御家を守るために当然の行動である。そしてついに、吉興の告発となるのではなかろうか。むしろ、陣不参の理由は城島出入よりも「大阪内通」説が真実に近いのではなかろうか。
因みに忠政は陣終結後の「元和元年(一六一五)七月二十八日、田中筑後守忠政、御目見」(『駿府記』)とあり、大御所徳川家康に謁見している。陣不参の弁明をしたと思われ、同年八月十六日の細川忠利宛の忠興の書状に「田中筑後今日当地をとをり候、御前済たる由候」(『綿考輯録』巻二十)とあり、この件については解決したとしている。しかし、翌年に吉興から「大阪内通」を訴えられるのである。
推考だが、吉興は忠政の「大阪内通」の相手を筑後に潜伏していたとされる明石掃部とした可能性がある。キリシタンを擁護していた忠政だが、掃部との大きな共通点は豊臣家恩顧であったことである。
やがて、幕府の捜索により、掃部潜伏先とみられる「田中長門守」の名が上がった。

 

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■再考小倉藩葡萄酒(十)結び

2021-03-30 09:31:12 | 小川研次氏論考

         結び

        小倉藩の葡萄酒製造は極めて限定的であった。
        その原因はキリシタン禁教の時代であったからである。細川忠利は敢えて挑戦
        していた。多くのキリシタン家臣を抱え、神父らを保護し、母ガラシャの御霊
        救済のためにミサを挙行していたのである。
        「彼女(ガラシャ)は洗礼を授かってから十一年(実は九年)になるが、この全期間
        中に一人の司祭に会ったこともなければ教会へ行ったこともなく、またミサに
        も説教にも与ったことがない。」(「1596年12月13日付け、長崎発信、ルイス
        ・フロイス」)
        ガラシャは生涯、キリスト教で最も重要とされるミサの「聖体の秘跡」を授か
        っていなかった。
        1587年に洗礼を受けたが、夫忠興により外出禁止を強いられていた。逆臣明智

        光秀の娘であることの警戒感に精神的に不安定であったことが原因と思われる。
        しかし、ガラシャの悲願は神父と会い、聖体拝領を授かることであった。
        一時は忠興との離婚を考え、九州へ向かうことを神父に相談している。
        また、最近判明したことだが、ガラシャの亡くなる3ヶ月前に友人へ送った手
        紙に「もうすぐ落ち着きますので、近いうちに豊後に参りますゆえ、あなたに
        も是非お越し下さいますようお待ちしております」と書かれていたという。
                           (NHK番組『歴史ヒストリア』)
        慶長三年(1598)、忠興は丹後国にいたが、豊前国杵築を飛び領地として拝領し
        ていた。ガラシャはこのことを夫から聞き及んでおり、九州に行くことを楽し
        みにしていたのである。しかし、叶わなかった。慶長五年(1600)7月17日、37
        歳の人生を閉じた。
        その母の無念を深く理解していたのが、忠利であった。
        慶長十五年(1610)七月七日付の家老宛忠利書状に、忠興が小倉の禅寺でガラシ
        ャの法要を行うとしたことに、「半天連にて御とむらい候へハ、申すに及ばす
        候」と神父による法要であれば問題ないとしている。(『細川ガラシャ』細川ガ
        ラシャ展実行委員会)
        忠利にとって母の魂の救済はキリスト教式でなければならなかったのである。
        ガラシャが没した年1600年から1632年までの32年間、その御霊を祈り続けた
        地は、豊前国小倉であった。その証が小倉藩葡萄酒である。(了)

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 今回をもって小川研次氏の論考「再考小倉藩葡萄酒」は終了いたしました。
ご提供いただきました、小倉藩葡萄酒研究会代表にして、九州唯一の名誉ソムリエであられる小川氏に深甚なる敬意を表します。有難うございました。

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■再考小倉藩葡萄酒(九) 真田信之

2021-03-29 08:31:40 | 小川研次氏論考

          九、 真田信之

         寛永十五年(1638)、信濃松代藩主真田信之の葡萄酒要請に対して忠利の返書で
         ある。(6日25日付)
         「信之殿は葡萄酒好きなので、長崎にも問い合わせてみましたが、葡萄酒はキ
         リシタンを勧める時に要する酒であるというので、それを心配して、周囲には
         一切売買がないとのことです。現在一艘の船が来ておりますが、まだ荷物の口
         開けをしていないので、葡萄酒はありません。二十年ばかり前に輸入したとい
         う葡萄酒を去年もらって私が飲んだ残りを壺に入れ江戸に置いていたと思いま
         すので、少ないかも知れませんが、壺のまま差し上げます。壺の見かけは悪い
         ですが…」(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』創刊号)
         「葡萄酒好き」の真田信之の「嗜好品」とみえるが、当時の松代藩の状況を考
         察してみよう。
         承応・明暦・万治(1652~61)に編集された『契利斯督記』(きりすとき)の「信濃
         国」の段に「真田伊豆守領分、松代ヨリ宗門中比二出申候、内侍二三人モ出申
         候」と「上野国」に「真田伊賀守領分、沼田ヨリ宗門多出申候、東庵ト申スイ
         ルマン同前ノ宗門御座候」(『続々群書類従』)とある。
         『契利斯督記』は転伴天連ジュゼッペ・キアラの調書を元に初代宗門改役井上

         政重(1585~1661)が記録したものであるが、その後も引き継ぎ編集されている。
         キアラは日本名「岡本三右衛門」を名乗るが、遠藤周作『沈黙』の主人公のモ
         デルである。
         真田家領地である松代と沼田にキリシタンが多数いたと記されている。
         信之の家臣にもいたということは、忠利の同じ様相である。
         さて、真田家本拠地上州沼田に関するイエズス会の記録「1606,1607年日本の
         諸事」を見てみよう。
         「もう一人の司祭は一人の修道士とともに江戸の市(まち)から北方三日路のと
         ころの司祭も修道士も一度も赴いたことのない上野の国にいる若干のキリシタ
         ンを訪問し慰めに行った。(中略) 同国に於ける中心的人物であり(本多)上野殿
         の舅であり、またかのキリシタンたちの要人であるその地の領主は、司祭を手
         厚く遇した。そして、他の好意に加えて、彼を自邸に食事に招き、その機会に
         我らの聖なる教えの本質と、その基となっている眼目を聴聞することを望んだ
         。(中略) 彼(領主)および居合わせたその家臣たちの多くは説教されたことにい
         たく満足し、(中略) それは、彼らにとっては初めてで、遙か彼方から夢のよう
         にしか聞いたことのないことだったので、彼らは満足した上に、そのような教
         義に感服し、もっとゆっくりとそれを聞くことを望み、教えている真実を少し
         ずつ理解するから、年に一度そこに来てくれと司祭に頼んだ。(中略) それらの
         キリシタンを慰安すると、かの司祭は信濃の国を経てその旅を続けた。」(『十
         六・七世紀イエズス会日本報告集』)
         「領主」は真田信之であり、妻は本多忠勝の娘の小松姫である。
         信之はキリシタンに対して寛容であった。その結果、沼田では家臣や民衆にも
         キリスト教が広がった。しかし、元和二年(1616)、信之は父昌幸の旧領地上田
         に移り、元和八年(1622)には松代藩へ移封する。
         寛永十五年(1638)2月28日に終結した島原の変後の5月、幕府はキリシタン取締
         の徹底化を図る。
         同年9月、訴人よる報償金も伴天連(司祭)は二百枚と元和八年(1622)の時よりも
         二倍になった。
         この年の6月に忠利は信之へ先述の書状を送っている。
         また、「幕府は、真田信之に対し、寛永十五年(1638)に領内や真田家中でのキ
         リシタン改めを厳しく実施するように命じた。これを受けて信之は松代の重臣
         に向けて、九月二十日付で書状を送り、松代領にキリシタン改めを五人組の責
         任で厳重に行うように指示し、また真田家中の改めも実施させ、摘発次第、本
         人はもちろん従類まで成敗すると厳命している。」(『真田信之 父の智略に勝
         った決断率』平山優)とある。

         この「五人組」の原因は「大奥」にあったという。
         この年(1638)、「皇帝の御殿(将軍の大奥)の中さへ、キリシタンが発見された
         。これが実に、厳重な禁令の動機となった。家族の者が、五人づつ、連座の中
         に組合されていた。五人の中の一人がキリシタンである場合には、四人の他の
         者は、彼と共に死なねばならぬのであった。」(『日本切支丹宗門史』)
         『契利斯督記』の松代藩のキリシタン発覚はこの時と思われる。沼田の件はか
         なり前の1610年代であろう。
         さて、信之は忠利から定期的に葡萄酒を嗜好品として受けていたのだろうか。
         その貴重な葡萄酒は忠利と同じく家臣と分かち合ったキリストの御血であった
         のではなかろうか。まさに「最後の晩餐」であった。
         翌年の1639年には、訴人報償制度が功を奏したのか、イエズス会の司祭ペドロ
         岐部、マルチノ式見、ヨハネ・バプチスタ・ポッロらが捕縛され処刑された。
         しかし、日本人司祭のマンショ小西は潜伏していた。マンショはキリシタン大
         名小西行長の孫である。正保元年(1644)に処刑されるまで、活動していたので
         ある。          (『キリシタン時代の日本人司祭』H.チースリク)
         私は1639年に仙台で捕縛された三人の司祭の一人が信濃国に入ったとし、マン
         ショは祖父の旧領地であった熊本(宇土、細川藩領)、天草を中心に潜伏活動し
         ていたと推考している。

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■再考小倉藩葡萄酒 (八)キリストの御血

2021-03-28 10:11:23 | 小川研次氏論考

          八、キリストの御血

         「ミサ用のワインはぶどうジュースから造られた天然の生産物でなければなら
         ず、純粋で腐敗していない、添加物のないものである。」(教皇庁典礼秘跡省)
         「腐敗していない」は酸敗していないことである。
         「キリストの御血」は純粋で変化をしない葡萄酒でなければならず、唯一認め
         られたのが、保存のためにヨーロッパ産の葡萄酒を混ぜることだった。
         寛永5年(1628)8月28日付けの『奉書』よれば、忠利は家臣となった上田太郎
         右衛門に葡萄酒造りを命じている。また、前年から製造していたことも判明し
         ている。9月15日に仲津郡(京都郡みやこ町)へ、ぶどうの収穫に行き、16日に
         は葡萄酒造りの「道具」を同郡の「製造所」に運び込んでいる。(『永青文庫研
         究』創刊号)
         原料は在来種「がらみ」(蘡薁・エビヅル)を使用するが、『和漢三才図会』
         (1712年成立)に俗名「吾由美」(あごみ)とあり、「吾→我 由→良」となり「我
         良美」(がらみ)となったのではないかと自己解釈している。
         仕込みに関しては、同年9月16日の「道具」だが、発酵桶、櫂、樽など、また
         平戸で求めた「万力」も含んでいるのだろうか。
         その後の同年10月の『日帳』が欠落しているが、翌年の寛永六年(1629)9月18
         日に記述がある。
         「ふたう酒作こミ樽弍つ、」と「黒大つ」(黒大豆)が用意されている。
         葡萄酒を造りこむ樽という意味だが、樽発酵なのか。
         10月1日には仕上がった葡萄酒を「ふたう酒弍樽仕上され候、」とあり、およ
         そ二週間で完成している。そして、その日の夜に小倉城へ運んでいる。
         小倉藩葡萄酒製造を推測してみよう。
         まず、収穫した(天日干しの?)「がらみ」を房ごと(全房)、小さめの四角い発酵
         桶に入れ、数人で足で潰し、さらに「万力」で吊り上げた石を板の上に置き、
         圧搾する。板を外し、蓋はしない。数日間発酵させ、色づいた汁だけを抜き取
         る。(血抜き、セニエ) そして、樽で完全発酵させる。正真正銘のワインである。
         さて、「黒大つ」(黒大豆)の使用内容が不明だが、煮詰めた少量の液体を色付
         けのためか。ベトナムのダラットワインに桑の実を使用するのと同じ手法であ
         る。ガラシャと縁のある丹波国の名物黒大豆だったらロマンを感じる。
         しかし、この葡萄酒はアルコール度数が低いため酸敗しやすく、腐敗するため
         、アルコール度数の高い輸入葡萄酒を混入した。
         「長崎買物ニ参候ものニ平蔵相談して申、葡萄酒を調候へと、あまきが能存候
         事」
         元和九年(1623)4月9日付けの忠利の書状に「あまき葡萄酒」をキリシタン棄教
         者の豪商末次平蔵政直に求めていたのである。(『藩貿易史の研究』武野要子)
         前述の高アルコールのスペイン・ポルトガル産の甘い葡萄酒である。この時の
         買物奉行は「飯胴上右衛門」と考えられ、寛永十三年(1636)に転宗するキリシ
         タンである。(「勧談跡覧」『肥後切支丹史』)
         忠利が葡萄酒を求めた記録には、この年から寛永二年(1625)に平戸、寛永八・
         九年(1631・1632)と寛永十四年(1637)に長崎からとある。(『藩貿易史の研究
         』)

         長崎で調達した輸入葡萄酒は、現在ミサで使用されている酒精強化ワインだっ
         たのだろうか。
         「17世紀から熟成途中の異なる段階で少量のブランデー添加が行われていた
         。」(『ポートワイン その歴史とワイン造り』)とあるが、今後の研究課題と
         し、ここでは先述のフォンディリョンのようなスティルワインとしておこう。
         「焼酎ではなく西洋から宣教師が持ち込んたワイン(無濾過、非熱処理)に収穫
         ・破砕した葡萄を投げ込んでいたら・・・瓶内では不活性化で休眠中の酵母は
         新鮮な葡萄の当分と窒素源で充分に発酵できる可能性がある。シャルドネなど
         でシュール・リー(滓の上)として、樽などの容器で沈んだら酵母の生菌性をみ
         ると驚くことにかなりの割合の酵母が生きている事を確認している。瓶に沈ん
         だらワインの滓の中に存在する生きた酵母を種とすることを経験的に知ってい
         た宣教師がいたら、全く別の展開になる。そうすると、日本で始まったワイン
         の酵母種は海外のテロワールに起因することになる。」(川邊久之・醸造家)

 

 

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■再考小倉藩葡萄酒 (七)葡萄酒製造法

2021-03-27 14:45:59 | 小川研次氏論考

         七、 葡萄酒製造法

        天正八年(1580)の『今古調味集』に葡萄酒の造り方が記されている。
        「葡萄酒はくわ酒の通りにて宜し 又ぶだうエビツルにて作りたるをチンタ酒と
        言うなり」
        「桑の実(葡萄)を潰して布で漉し一升五合の汁を一升になるまで煮詰める。冷
        ましたのちに瓶に入れ、そこに古酒一升と焼酎五合と氷砂糖二百五十匁を入れ
        三十日経てばよろしい。壺にてもいずれにせよ七分位に入れ置くこと。」
        これは天正時代とあるが江戸期と思われる。材料はぶどうの他に日本酒、焼酎
        そして氷砂糖である。当時、砂糖はたいへん貴重品であり、また薬であった。
        さらに江戸時代に入ると葡萄酒のレシピが現れてくるが、ほぼ同じ造り方であ
        る。主な文献から引用してみよう。

        『料理塩梅集』寛文八年(1668)
        「山ぶどう酒は上白餅米一升を蒸して中に白こうじ一斗を熱いうちによく混ぜ
        る。そしてよく冷ます。山ぶどう八升(茎は入れない)を壺に入れるが、先の米
        とぶどうを交互に重ねる。詰め込んだところに上々の焼酎八升を流し込む。そ
        こに細い竹を刺し通すれば焼酎が壺の中でよく浸透する。五十日程の内に三度
        程よくかき混ぜること。
        もう一つの方法
        山ぶどう一升をよく熱する。糀一升、餅米一升を酒めしにして冷ます。これら
        を桶に、酒めしを一重に置き、又山ぶどうを置き、糀をかけて、交互に重ねる
        。そこに上々の焼酎一升五合を口まで入れ、二十日ほど過ぎたら酒袋に入れる
        。そして、空気に触れないように桶に詰める。
        甘く仕上げたいならば、氷砂糖を粉にして加えること。
        桑酒に仕上げるには山ぶどうを桑の実一升に取り替える。
        又、他のぶどう酒に仕上げるには、本ぶどう一升に取り替える。」

        『本朝食鑑』元禄十年(1697)
        「蒲萄酒、腰腎を緩め、肺胃を潤す。造法は熟した紫色のぶどうの皮を取り搾
        った後に、搾り汁と皮とを漉し、磁器に入れ一晩置く。これを再び漉し、この
        汁一升を二回煮詰める。冷ました後に三年ものの諸白(清酒)一升と氷砂糖百銭
        を加えてかき混ぜる。陶甕に入れ十五日程で出来上がるが、一年以上置くとさ
        らに良い。年代ものは濃い紫で蜜の味がし、阿蘭陀(オランダ)の知牟多(チムタ
        =チンタ)に似ている。世間では、これを称賛してるが、この酒を造る葡萄の種
        類は、エビヅルが勝る。つまり山葡萄である。俗に黒葡萄も造酒に良い。」

        『手造酒法』 文化十年(1816)
        葡萄酒
        焼酎二升 、白砂糖三升 、ぶどうの汁三升 、生酒 、
        山ぶどう酒
        ぶどう八升、上白糯米八升、上焼酎一斗、糀八升
        本葡萄や黒葡萄が現在で言うヤマブドウであり、山葡萄はエビヅルのようであ
        る。
        葡萄酒は本葡萄により、また山ぶどう酒はエビヅルにより造られていたと思わ
        れる。エビヅルの葡萄酒は、その色からチンタ酒とも呼ばれていたことも判明
        した。それは江戸末期に味醂酒を南蛮酒と呼んでいたことと同じである。
        (のちにチンタ酒は蒸留酒ブランデーだったことがオランダ商務館館長により判
        明)

        このように江戸期末期までは葡萄酒は「混成酒」として造られていたのである。
        本格的なワインの登場は明治初期まで待たなければならなかった。
        山梨県甲府で山田宥教と詫間憲久によるワイン製造である。

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■再考小倉藩葡萄酒 (六)御薬酒

2021-03-26 06:59:31 | 小川研次氏論考

         六、御薬酒


        明の李時珍著『本草綱目』(1578年)は慶長十二年(1607)に長崎にいた林羅山の
        手に渡り、徳川家康に献上された。家康が御薬造りの名人となるきっかけとな
        る。
        そこに葡萄酒の造り方があるのだが、「二様あり、醸したものは味が良く、焼
        酎にしたものは大毒がある」という。醸造は麹と共に醸すのであるが、汁(ジュ
        ース)が無い場合は干しぶどうの粉を用いるとあり、葡萄粉末ジュースの様相で
        ある。
        「葡桃は、皮の薄いものは味が美く、皮の厚いものは味が苦い。」
        「葡萄を久しく貯えて置くとやはり自然に酒が出来て、芳香と甘味の酷烈であ
        る。それが真の葡萄酒だともいふ。」
        完全無欠の「ワイン」である。シルクロードから、また自生した多種の葡萄が
        ある中国ならでは可能だったのである。
        しかし、日本ではどうだろう。
        そもそも、江戸初期に日本人が葡萄酒を造るという発想があったのだろうか。
        1549年8月15日、キリスト教宣教師として初来日したフランシスコ・ザビエル
        は日本人の「酒」に関して報告している。
        「この国の人たちの食事は少量ですが、飲酒の節度はいくぶん緩やかです。こ
        の地方にはぶどう畑が有りませんので、米から取る酒を飲んでいます。」(『聖
        フランシスコ・ザビエル神父全書簡2』)
        また、徳川家康の通辞を務めたジョアン・ロドリゲスは1620〜22年に『日本教
        会史』を編集している。
        「果物の多くは、ヨーロッパにある我々の果物と同じである。様々の種類の梨
        や小さな林檎、上の地方(かみ=五畿内、豊後国を除く九州全域は下)における桃
        や杏がそれである。李と葡萄は少ない。それは葡萄の栽培に力を注いでないか
        らであって、あるのは葡萄酒に向かないものである。叢林には野生の葡萄の一
        種があるが、日本人はそれを食べていなかった。もし、それから葡萄酒を造る
        ならば、味にしても発酵の具合にしても、やはり真の野生の葡萄である。また
        、ローマにおいてこの地に関して認められた情報によれば、ヨーロッパから来
        る葡萄酒の不足から(これはすでに起こったことだが) 野生のものから造った葡
        萄酒でミサをあげてよいとの判断が下されたのである。」(「日本教会史」上
        、『大航海時代叢書』第一期、岩波書店)
        日本人は葡萄酒どころか、食してもいなかったのだ。その「野生の葡萄」から
        染料や籠などを作っていたが、ロドリゲスは「真の野生の葡萄」として葡萄酒
        に言及している。
        では、家康(1619年没)は葡萄酒を造ったのだろうか。
        『駿府御分物御道具帳』に家康の遺品の中に「葡萄酒二壺」とある。(『大日本
        資料』第十二編之二十四)
        慶長十年(1605)に家康がフィリピン諸島長官(スペイン領)に送った書簡の中に
        「予は閣下の書簡二通併びに覚書の通り贈物を領収せり。中に葡萄にて作りた
        る酒あり、之れを受取りて大いに喜べり。」(『異国往復書簡集、改訂復刻版』
        雄松堂書店) とあり、家康はスペイン王国からの葡萄酒を大いに気に入ったの
        であった。
        さらに慶長十八年(1613)にイギリス国王使節のジョン・セーリスから五壺の葡
        萄酒を贈られたが、セーリスは日記に「甘き葡萄酒」と記している。(『異国往
        復書簡集』「増訂異国日記抄」雄松堂書店)
        このことから、家康は甘口が好みであったことが理解できる。
        当時のイギリスはスペインから輸入しており、ともにヘレスのワインと考えら
        れ、ペドロ・ヒメネスの可能性がある。家康は三年間で三壺を消費して二壺を
        遺していたのではなかろうか。
        幕府薬園で葡萄酒を造ろうとしたのかも知れないが、全く記録がない。
        徳川家で国産葡萄酒の初見は正保元年(1644)まで待たなければならない。
        『事跡録』に「殿様御道中ニテ酒井讃岐守殿ヨリ日本制之葡萄酒被指上之」と
        あり、大老の酒井忠勝が尾張藩主徳川義直に参勤交代で名古屋に帰る途中に日
        本製葡萄酒を献上したのである。(『権力者と江戸のくすり』岩下哲典)
        将軍家光からなのか、忠勝なのか不明であるが、あえて国産としたのは日本の
        どこかで造られていたことになる。
        ただし、これがワイン(醸造酒)である確証はない。
        もし、家康が葡萄酒を造るとなると『本草綱目』のように「薬効」を意識した
        「御薬酒」としたであろう。しかし、日本の在来種は先述の通り弱いものであ
        った。「薬効」どころか酸敗、腐敗した葡萄酒は身体に悪い。そこで必然的に
        日本人は日本酒や焼酎を加えることにした。つまり、「醸造酒」ではなく「混
        成酒」なのである。「日本制之葡萄酒」は「混成酒」の可能性が高い。

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■再考小倉藩葡萄酒 (五)藩主と葡萄酒

2021-03-25 06:30:20 | 小川研次氏論考

        五、藩主と葡萄酒

        元和六年(1620)、忠興から家督を譲られた忠利は翌年の元和七年(1621)、小倉
        城に入る。早速、母ガラシャの菩提寺秀林院の建立に着手する。
        さらに奇妙な行動を起こすことになる。
        元和八年(1622)五月五日、長崎の西坂で日本キリシタン迫害史最大の殉教事件
        があった。総数五十五人が火刑と斬首による「元和の大殉教」である。
        また五日後、小倉でセスペデスと働いていた司祭カミロ・コンスタンツィオは
        平戸の田平にて火炙りの刑にあった。
        このような連日迫害の嵐の状況下にあるにもかかわらず、忠利は家臣を平戸へ
        向かわせる。
        元和九年(1623)四月、忠利は宇佐郡の郡奉行上田忠左衛門の息子忠蔵を平戸へ
        向かわせ、石などを引く万力の購入を指示する。その技術を平戸にいる忠蔵の
        叔父から極秘に習うこと。そして他に奇特なものがあれば、それも習う事も命
        じていた。(「小倉藩細川家の葡萄酒造りとその背景」『永青文庫研究』)
        「万力」はこの頃、忠利が力を入れようとした鉱山開発に使用するためのもの
        か。また、葡萄圧搾のためか。
        『永青文庫研究』では「忠蔵の叔父」は上田忠左衛門の実弟太郎右衛門とした。
        三年後の寛永三年(1626)、小倉藩に召抱えられ、葡萄酒を造ることになる上田
        太郎右衛門である。平戸で葡萄酒造りなどの南蛮技術を習得していたのか。

        さて、太郎右衛門が葡萄酒造りに着手する以前の日本の葡萄酒事情を見てみよ
        う。
        17世紀初頭、ポルトガルはオランダ・イギリスによるアジアでの海賊行為によ
        る略奪に苦しんでいた。やがて、ゴアからマカオまでの航路が遮断されるに至
        り、資金供給と物流が困難になった。
        「葡萄酒がないためにあの司教区(日本)の司祭たちは主日と聖人の祝日にしか
        ミサを挙行しない旨を朕に述べ、(中略) 葡萄酒とオリーブ油を給付して頂きた
        いと要請してきた。」(「1618年4月3日付リスボン発、ポルトガル国王のイン
        ディア副王宛書簡」『モンスーン文書と日本』高瀬弘一郎)
        「オランダ人は、依然として(ポルトガルの)船を追撃していた。1618年に、マ
        カオに帰った(ポルトガルの)舟は、往復とも彼らを避けていた。同年、ポルト
        ガル人は、大船の代わりに6隻の小船を遣わした。」(『日本切支丹宗門史』)
        ポルトガルがリスクを軽減するために船荷を小船に分散したのである。
        元和三年(1617)、マカオから長崎へ向けての積荷目録がある。荷受人はイエズ
        ス会の財務責任者である司祭カルロ・スピラノである。(『投銀に関する特殊の
        資料』)
        キリスト教に関する物品だけをみると「ミサ用葡萄酒4瓶」「数珠、祈祷書そ
        の他のキリスト教用品1箱」とある。
        本国ポルトガルからインドのゴア経由でマカオまで樽を運ばれていた葡萄酒の
        ストックが少なくなり、マカオで小分けして瓶詰めされたのであろう。
        「ミサ用葡萄酒4瓶」が逼迫した状況を物語っている。
        瓶の容量は不明だが、ビードロ製であろう。「数珠」はロザリオで「コンタツ
        」と呼ばれていた。スピノラは信徒らの資金により危険を冒してまでも輸入し
        たのである。しかし、1618年12月13日に捕縛され、1622年に火刑となった。
        元和の大殉教である。その後任の財務責任者となったのが、クリスヴァン・フ
        ェレイラである。遠藤周作の『沈黙』の転伴天連(ころびばてれん)のモデルで
        ある。1633年、奇しくも長崎の西坂で中浦ジュリアンと共に穴吊りの刑に処さ
        れ棄教したが、ジュリアンは「私はローマへ行った中浦神父です」と叫び、殉
        教したのである。(『天正少年使節の中浦ジュリアン』結城了悟)
        フェレイラは財務だけでなく、日本中に散らばっている宣教師らの要求に応え
        なければならなかった。
        特に重要なことは、ミサ用葡萄酒であった。ところが2年後の1620年11月30日
        、長崎で大火があり、イエズス会の倉庫が焼け落ちた。長崎にいた巡察使マテ
        ウス・コーロスは「我々は多くのものを失った。薬、ミサ用葡萄酒、その他沢
        山のものだ。」(『キリシタン人物の研究』フーベルト・チースリク)と嘆いた。
        このような状況下で、1623年に将軍になった徳川家光は訴人報償制度を敷き、
        ポルトガル人やスペイン人の追放し、宣教師らを火炙りにした。また、船荷の
        徹底した検査によりキリシタン教関連用品があれば、船長や士官まで死罪とし
        た。(『日本切支丹宗門史』) ミサ用葡萄酒の調達は絶望的になったのである。
        「朕は、日本司教が望む葡萄酒とオリーブ油の給付に関する1618年4月3日付け
        朕の書簡への返信として、昨年(1619年)2月13日付けの貴下の書簡で朕に書き
        送ってきたことを披見した。その(インディア)領国の副王であったドン・ジェ
        ロニモ・デ・アゼヴェドが(日本)司教に与えた葡萄酒二樽の給付を、毎年、彼
        に与えるように命じること。そして日本に修道士たちが居る限り、彼にそれが
        欠乏することのないようにすること。しかし、彼らが日本に居なくなったら、
        前述の葡萄酒の給付は停止すること。」(「1620年3月28日付リスボン発、ポル
        トガル国王のインディア福岡宛書簡」『モンスーン文書と日本』)
        「葡萄酒の給付停止」はやがて現実化することになる。

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■再考小倉藩葡萄酒 (四)忠興の仕打ち

2021-03-24 06:43:53 | 小川研次氏論考

        四、忠興の仕打ち

        元和四年(1618)、忠興は領内のキリシタンを処刑する。
        「豊前の大名越中殿(細川忠興)は長い間、好意を示してきたが、今度、政治的
        利害と傲慢から、宗教とその宣教師の敵として名乗を上げた。この年の記録に
        は、六箇国(六郡)に三十七人の殉教者を数え、その中ある者は斬首され、他は
        逆さ吊るしにされた。」(『日本切支丹宗門史』)
        1618年2月25日、小倉で処刑されたヨハネ久芳又左衛門(くばまたざえもん)は
        、中津城にいた忠利の家老であった。
        1614年に忠興の命により棄教していたが、翌年、ドミニコ会のハシント・オル
        ファネル神父を自宅に泊めたところ、説得されキリシタンに立ち返ったのであ
        る。(同上)
        神父自身による報告集によると「又左衛門は(私)が豊前国を通過したときに(私
        を)中津の市(まち)の邸に泊めた人物であった。」(オルファネル『日本キリシタ
        ン教会史』) とあり、当時の状況を詳細に記している。
        「特に豊前国では殿(細川忠興)が悪魔、キリスト教に対する心底からの敵、怒
        りっぽい狂人じみた人物であったので、キリシタンたちは怯え慄いていた。し
        たがって、キリシタンはパードレ(神父)に会いに行くのが至難の業だと感じ
        ていた。
        しかし、それにもかかわらず、ごく密かに、時ならぬ頃であったが、会いに行
        った。このような障害があったにせよ、同パードレは多数のキリシタンがいる
        ことを知ったので、殿の居住地・小倉Coduraの市へ辿り着きたいと思った。
        このためにパードレは小倉の地にいる旨をキリシタンに知らせるため一人の男
        を派遣したが、小倉の情勢は極めて厳しかった。とくに前述したドン・ディエ
        ゴ隼人(加賀山隼人)は、今は来るべき時期ではないと知らせてきたので、パー
        ドレは他の地を通って同豊前国の中津の市へ行った。しかし、市のキリシタン
        は物凄い恐怖を感じていたので、敢えて泊めてくれる者は居ないのではないか
        と懸念したが、市に住んでいた殿の長男(三男忠利だが、嫡男の意味)の代理者(
        家老)たる一人の武士が、喜んで大胆にも宿を提供した。彼はパードレが既に到
        着し、市の外れで待っていることを知ると、「ようこそお越し下された。夜に
        なったらパードレ様をご案内するこの者と共に市にお入り下さい」と告げる使
        者を送った。
        この武士の名はユアン(ジョアン)又左衛門といい、パードレが彼の屋敷に数日
        滞在した時、告解のためにごく密かに何人かのキリシタンを招くと共に、彼自
        身も妻も告解をし、パードレとの別れに際しては一日の旅程に伴をつけた。」(
        同)
        1615年の初夏と思われ、昨年から続いた大阪の陣が終局を向かえた直後であろ
        う。
        元和三年(1617)の『コーロス徴収文書』に豊前国中津の代表者の一人に「久芳
        寿庵」の名がある。寿庵はジョアンで、ヨハネである。キリシタンに立ち返っ
        た又左衛門はコンフラリア(信徒組織)の組頭として、イエズス会への文書に署
        名していたのだ。
        しかし、忠興は狙い撃ちしたように又左衛門を処刑したのである。
        「殺害の理由を告げずに謀殺される者もいた。」(同)
        忠利の怒りが伝わる。親子の確執はここから始まったのか。
        あくまで「家」を守る父と「母の魂の救済」とともにキリシタンを守る息子と
        の対立である。

        又左衛門の処刑の翌日、中津で息子のトマスも斬首された。(『日本切支丹宗門
        史』)
        中津関連の処刑されたキリシタンは13名に上る。忠利の家臣もいることから、
        忠興への情報提供者がいたと考える。 
        細川家『切支丹類族帳』に「故越中守召仕古切支丹久芳又左衛門系」とあり、
        子孫四代までも監視体制の対象となっていた。(『肥後切支丹史』)
        翌年の1619年、豊前国キリシタンの柱石である重臣加賀山隼人は小倉で処刑さ
        れるが、この年の処刑は棄教に応じない隼人への見せしめともいえる。
        中津は下毛郡にあり、慶長五年(1600)に入封後、隼人は郡奉行であった。
        隼人の布教活動により中津を中心に宇佐郡、速水郡と並び多くのキリシタンが
        いた。

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■再考小倉藩葡萄酒 (三)キリシタン忠利

2021-03-22 16:50:46 | 小川研次氏論考

        三、キリシタン忠利

        何故、忠利はキリシタンを擁護するのだろうか。
        母ガラシャは生前、大阪教会にてセスペデス神父と会っている。生涯唯一の宣
        教師との出会いだった。
        天正15年(1587)、神父の指導により洗礼を授かったガラシャは、同年に豊臣秀
        吉の伴天連追放令により平戸に追放されたセスペデスへ手紙を送っている。
        その一部を抜粋する。
        「私の三歳になる第二子が危篤状態に瀕し、すでに治癒の見込みがなく、アニ
        マ(魂)を失うことに深く悲しんでおりました。マリア(侍女清原マリア)と相談し
        、創造主であるデウス(神)に委ねることを最良の道とし、マリアは密かに洗礼
        を授けてジョアンと名付けました。子供の病はその日から癒え始め、今では殆
        ど健康です。」(『イエズス会日本年報(下)』)
        この時は夫忠興は玉子が洗礼を受けたことも知らなかった。
        さて、「三歳になる第二子」は誰を指しているのだろうか。
        第二子は興秋だが、五歳であり、第三子の忠利は二歳である。原文の手紙を読
        むことは不可能だが、ルイス・フロイスによる編集、また各国へ訳されている
        ことから誤訳もあり得る。年齢から判断すれば、忠利に近い。
        この洗礼は愛息子の死を覚悟した母ガラシャがその魂をデウス(神)に委ねるこ
        とにしたのである。洗礼は信徒も行うこともでき、ガラシャに洗礼を授けた清
        原マリアが再び、その子にも施したのである。この時、使用したのは「ばうち
        いすもの水」(洗礼の水)であり、「ぜすきりしとくるすよりながしたまへる血
        」(イエス・キリストが十字架より流す血)とされていた。(『伴天連記』)
        そして、奇跡的に助かったのである。忠利はこのことを母から当然聞かされて
        いたことだろう。
        1595年にガラシャは大胆な行動を起こす。
        「1595年10月21日付、長崎発信、ルイス・フロイスの1595年度、年報」より
        一部を紹介する。
        「彼女はキリシタンの諸徳の道においては、いつも驚くばかりの進歩を見せて
        おり、己が邸にはキリシタンの婦人以外の婦人はほとんどおいていない。彼女
        はまた、夫の越中(忠興)殿に隠して二人の小さな息子に洗礼を授け、」(『十六
        ・七世紀イエズス会日本報告集』)

        この「二人の小さな息子」は興秋(12)と忠利(10)と考えられる。長男忠隆はす
        でに15歳である。さて、二人の息子はキリシタンとしての自覚はある年齢であ
        るが、父忠興には隠しているために、母との約束で一切封印したのであろう。
        さらに、1597年に2人の娘が洗礼を受けたことが判明してる。
        「本年、またデウス(神)の慈悲に気にいることとなったことは、国主越中殿(忠
        興)夫人ガラシアの二人の娘がキリシタンとなって喜んだことである
        。」(「1597年ゴーメス書簡」『十六・七世紀イエズス会日本報告集』)
        「二人の娘」は長女お長と多羅(たら)である。多羅が先に受洗していたが、こ
        の年にお長が「二人(ガラシャと多羅)のこの上ない喜びのうちに洗礼を授かっ
        た。」
        お長の夫は前野景定であったが、文禄四年(1595)の秀次事件に連座し、秀吉か
        ら切腹させられていた。また、多羅は臼杵藩主稲葉一通に嫁ぐことになる。現
        在の天皇家に繋がる。
        しかし、三年後にガラシャは大阪玉造の屋敷で生涯を閉じた。子供らは最後ま
        でキリシタンとしての母の姿を思い浮かべたことであろう。そして、彼らは「
        キリシタン」であることを生涯、口にすることはなかった。
        「私の魂は聖なる信仰の同じ流れの中にあり、それが報いられないのは遺憾で
        ある。」(「1611年度日本年報」)
        忠利の言葉である。

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■再考小倉藩葡萄酒 (二)ガラシャの菩提

2021-03-21 06:43:06 | 小川研次氏論考

        二、ガラシャの菩提

        ガラシャの霊的指導者であったグレゴリオ・デ・セスペデス神父が没する1611
        年を最後に忠興はその姿勢を一変させる。江戸幕府の禁教令に従い、領内のキ
        リシタンに棄教・転宗を迫ることになる。
        「予の国には伴天連もキリシタンもいらない。伴天連グレゴリオ・デ・セスペ
        デスが生きている間は我慢もしよう。彼への愛があるから、すべてを破壊せず
        にいるのだ」(「1611年度日本年報」ジョアン・ロドリゲス・ジランのイエズ
        ス会総長宛、1612年3月10日付、長崎発信)
        慶長十四年(1614)の『御国中伴天連門徒御改之一紙目録』(松井家文書)によれ
        ば、転宗者は藩内全体で2047人(奉公人105人、農民・町人1942人) である。(『
        大分県史近世篇II』) 
        これは、「小倉の市(まち)」だけでも三千人以上いたとされるから(「1605年日
        本の諸事」『イエズス会日本報告集』)、多くのキリシタンが転宗しなかったと
        みられる。
        1612年に教会も破却され、ガラシャの御霊への祈りの場が無くなったのである。
        細川家記『綿考輯録』に「伽羅舎様」(がらしゃさま)に関する記述がある。
        「豊前小倉の切支丹寺にて(ガラシャの)絵像に御書かせなされけるに、切支丹
        は死を潔くする事をたっとぶにより、火煙の内に焼させ給う半身を書きたりけ
        れば、この様にむさとしたる像を書くものがとて、宗門を改め浄土宗になされ
        、極楽寺へ御位牌を遣わされ候、」(巻十三)
        忠興が宣教師にガラシャの肖像画の作成依頼したが、火煙の中に描かれた姿に
        激怒したのである。結果、キリスト教の教会で祈っていたガラシャの位牌を浄
        土宗極楽寺(米町)へ移したという。ここで重要なことは玉子の洗礼名と小倉に
        教会が存在していたことが、日本側の史料に記録されていることである。
        現在の極楽寺は富野地区へ移転し、廃寺となり墓地を残すのみとなっている。
        残念ながら、玉子の法要の記録は皆無である。
        元和年間(1615~1624)に菩提寺秀林院が建立される。現在の北九州市立医療セ
        ンター辺りである。
        「豊前に秀林院御建立は元和年中と相見え、同十年の正月寺社御建立札の書付
        に秀林院も見え申す候、」(『綿考輯録』)とあり、元和七年(1621)より九年
        (1623)としている。
        つまり、忠利が忠興隠居後に中津から小倉に入った元和七年(1621)以降となる。
        それでは、教会破却後の1612年から1620年までの9年間は、どこで弔ってい
        たのだろうか。
        1611年末に忠興により小倉から追放された伊東マンショは、忠利のいる中津に
        向かった。そして、クリスマスの様子を伝えている。
        「当地の城には領主の長子(三男だが嫡子)で国の世継ぎである内記殿が居住し
        ていた。このことについてはこれまでなんども、どれほどの恩寵を被り、信仰
        を擁護してくださったか記した。その父君のように心変わりは決してせず、そ
        ればかりか、あのような酷い仕打ちは好まないと公然と言い、司祭及びキリシ
        タン達に、主(キリスト)の降誕を、内も外も凡ゆる装飾で荘厳に祝うことを許
        した。」(「1611年度日本年報」)
        忠利はマンショが長崎へ去る時に「自らの判断で、来たい時にはいつでもキリ
        シタンを訪ねられるよう許可し、将来についても大きな希望を与える」と伝え
        た。(同上) しかし、マンショは翌年、長崎で病没する。
        忠興の重臣であり豊前国のキリシタンの柱石加賀山隼人の妹(姉)ルイザがイエ
        ズス会日本副管区長に宛てた書簡に「忠興殿が私どもが我が家に匿っている伴
        天連様を長崎に送り返す様にお求めになりました。」(「1615,1616年度日本年
        報」)とあり、司祭が潜伏していたのである。
        また、天正遣欧少年使節の中浦ジュリアン神父も豊前に入っていた。(1620年
        『日本切支丹宗門史』) ジュリアンは小倉で捕縛される1632年まで豊前国に潜
        伏していたのである。
        この様な状況下で、神父らは潜伏し、キリシタンへの奉仕を継続していたのだ。
        忠利は中津にて、母ガラシャへのミサを挙行していたと推考できる。

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