津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

■桑子アナ、最後のブラタモリは・・熊本

2016-02-29 14:23:19 | 熊本

                                                            写真は NHKサイトから 

 ブラタモリでブレークした桑子アナ、3月いっぱいででこの番組を卒業だそうだが、19日・26日の二回にわたって熊本が登場するようだ。
ブログ「徒然なかはなし」では、「ブラタモリは熊本で何を見るのか?」と、行く先の予想をして居られるがこれが大変的を得ているように思われる。
そして私は、多分案内役は富田紘一先生あたりではなかろうかと推測している。

熊本では2月9日にタモリ氏が目撃されていて、あらかたの予想もされているのだが・・・(ブラタモリ熊本編 北熊本や2/9撮影ロケ)

二週にわたっての放送ということに成ると、阿蘇のカルデラの雄大な景色もタモリ氏を喜ばせることに成るのではないかと思うのだが、時間的に如何だろうか。
いずれにしても19・26日の土曜日は必見である。
 

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■袖引き九兵衛の死

2016-02-29 11:26:20 | 史料

先にご紹介したオークション「熊本藩三代 細川綱利 柳生宗冬宛消息」で判るように、細川家と柳生家は大変親しい関係が見て取れる。
宗冬は柳生藩主初代宗矩の三男で三代藩主(寛文8年~延宝3年)である。 

扨、ここでご紹介するのは「細川家記・続編」にある梅原九兵衛の死についての記述である。(東大史料編纂所デジタルライブラリーの同史料を加工)
梅原九兵衛はかって柳生宗矩の高弟であったのを、細川忠利が宗矩に乞うて細川家の家臣と成り息・光尚附となった。
              http://blog.goo.ne.jp/shinshindoh/e/8a83cc551c78f0ac4e6dd4e538c1ac18
光尚が亡くなり肥後五十四万石の行く末が案じられた時、松井寄之らと共に九兵衛も江戸へ上った。それは九兵衛が大老・酒井雅楽頭と懇意の間柄で有ったからであろう。懐中に短刀を忍ばせ必死に雅楽頭に懇願した様子は、先に「秘書」(梅原丹七・福地平左兵衛 一件略記) その三でご紹介した。
まさに九兵衛の努力が大きな成果と成った瞬間である。

このような誉ある九兵衛には、狂人となった息子が在った。あるとき家人が食事を運んだ折逃亡を図り鑓をもち暴れた為、九兵衛は三刀にて切り倒したという。九兵衛も鑓で突かれ、二人共に死亡した。その顛末がここに記されている。
当時長男が別禄を拝領していたが、何の故か謹慎の身であり、その禄を嫡男が継ぎ梅原家は明治に至っている。 

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■熊本藩三代 細川綱利 柳生宗冬宛消息 文書 剣豪 掛軸 書

2016-02-29 07:28:31 | オークション

熊本藩三代 細川綱利 柳生宗冬宛消息 文書 剣豪 掛軸 書  熊本藩三代 細川綱利 柳生宗冬宛消息 文書 剣豪 掛軸 書 Yahoo!かんたん決済

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■「時雨かわら版」から「助さん」三題 その3

2016-02-28 09:32:44 | 熊本

                   菊池・正観寺(しょうかんじ) http://www.pref.kumamoto.jp/kiji_8209.html

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■寛永15年2月27日

2016-02-27 09:37:04 | 歴史

 云わずと知れた天草島原の乱の「原城落城の日」である。378年前の事に成る。
「熊本藩年表稿」から引用すると、「島原城の総攻撃、落城す。家臣陣佐左衛門、益田四郎を討取る。本藩戦死者 285人、負傷者 1,826人、その他12月20日から1月1日までの死傷者 207人、出征総人数 28,600人、一揆の首 3,600人なり」とある。

28日に予定されていた総攻撃は、鍋島勢の抜け駆けにより開始され、二の丸は27日その鍋島手により午後三時頃に焼け落ちた。本丸も細川手が27日午後五時に乗り込み火を付けた。四郎の家が焼けたのは28日の午前六時頃だとされる。28~29日まで城内の残党狩が行われたとされる。

                              

       

       出典:http://hushiginomedai.holy.jp/

 

前の年10月26日、長岡監物宅から西南の方向に大筒の音を聞き、翌日島原で一揆蜂起を確認してから4ヶ月目のことである。
3月1日光利(光尚)は熊本に帰着、同15日に熊本を発して4月9日江戸に着いた。
一方父・忠利は3月3日に島原を発して熊本に帰着した。体調が思わしくない忠利はしばらくの間熊本で休養することになる。
その後江戸に上った忠利は4月19日息・光利と共に登城して戦果を報告し賞された。5月にはいると論功行賞が行われた。

忠利にとってこの戦はその身体に負担の重いものとなった。18年3月17日の午前四時頃に息をひきとった。(56歳) 

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■大榎(大江の木)のその後

2016-02-26 12:08:35 | 熊本

 わが母校・大江小学校の樹齢118年の大榎(大江の木)が、昨年台風の影響で根元から折れて倒れた。
あまり広くもない校庭の中に悠然と立ち続けて、幾多の同窓の心にすみ続けていた。
昨日から地元メディアは、その倒れた木から2,500枚のストラップを作り生徒達に配布した事を伝えている。
いいことをされたな~と思うと共に、私も一枚頂戴したいと思ったことだった。
この大榎の緑陰の下、昭和28年の大水害の犠牲者の慰霊の式典が催されたことを、今でもはっきり思い出す事ができる。
木の存在は大江小学校そのものだった様に思う。

                 http://kumanichi.com/news/local/main/20160226001.xhtml


 

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■松寿庵先生・第180講

2016-02-26 07:24:00 | 史料
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■「時雨かわら版」から「助さん」三題 その2

2016-02-25 09:04:59 | 熊本

                                         日本紀意宴和歌

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■「時雨かわら版」から「助さん」三題 その1

2016-02-24 14:22:18 | 熊本

 かって熊本の寿司屋「時雨」の社長・佐渡資生氏が主宰したミニ新聞「時雨かわら版」があった。1966年1月創刊、144号まで毎月11年間続き、一時休刊後、1985年8月復刊、1990年12月で廃刊した。氏は熊本の歴史に造詣が深く、この「時雨かわら版」は歴史愛好家の賞賛を得たものである。
司馬遼太郎を思わせる白髪の風貌がいまだ目に焼き付いている。

その「時雨かわら版」に、吉原亀久雄氏の「助さん」に関する記事が何度か掲載された。
そのうちの三件について「切り抜き」をして居り、資料をかたずける中から顔を出した。「紹介してくれよ~」と云っているような感じである。
何故切抜きをしていたかというと、助さんと我が家にはいささかの因縁があったからだ。 

水戸藩士・佐々助三郎が「大日本史」編纂の史料収集のため、主君・水戸光圀公の命を受けて熊本に入りいろいろ調査をしている。
貞享二年六月熊本入りしているが、我が家の二代目・太左衛門が案内役を仰せつかっている。
我が家の先祖附には同(貞享)二年丑六月廿八日水戸様御家来佐々助三郎、丸山雲平御国内被罷通候ニ付、御附被成薩摩境上之川迄罷越、七月十日罷帰候処、同十六日右両人日向より帰申候ニ付、又御附被成南郷岩神より筑後之内高瀬迄罷越八月十四日罷帰申候」とある。
このことが私の歴史狂いの一因になった事は間違いない。

三回にわたってご紹介するが、この記事がいつ掲載されたのかは不明である。今後調査をしてみたいと考えている。 


         

             蛇足:裏に透けて見えている女優さんは、多分「水戸黄門」にも出演されたと思われる「鮎川いづみ」さんである。

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■ちょっと気になるオークション

2016-02-24 09:33:01 | オークション

a122★寛永平塞禄 熊本細川藩 原城の乱記録 福田八郎 編 2003     a122★寛永平塞禄 熊本細川藩 原城の乱記録 福田八郎 編 2003

 

肥後細川家侍帳 2-4 3冊/1978-1979 細川氏 熊本藩   肥後細川家侍帳 2-4 3冊/1978-1979 細川氏 熊本藩

 

細川幽斎・忠興のすべて 米原正義編 新人物往来社   細川幽斎・忠興のすべて 米原正義編 新人物往来社 


細川幽斎伝/平湯晃 河出書房新社 1999年 細川藤孝    細川幽斎伝/平湯晃 河出書房新社 1999年 細川藤孝


淡交社 矢部誠一郎著 「細川三斎 茶の湯の世界」   淡交社 矢部誠一郎著 「細川三斎 茶の湯の世界」 

 


利休随一の弟子三斎 細川忠興/矢部誠一郎(著者)   利休随一の弟子三斎 細川忠興/矢部誠一郎(著者)


細川霊感公 著:宇野東風   細川霊感公 著:宇野東風 


怡園随筆 茶・花・史 細川護貞 主婦の友社 古書  怡園随筆 茶・花・史 細川護貞 主婦の友社 古書

 

 

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■只今奮闘中

2016-02-23 16:22:05 | 徒然

 わが「肥後細川藩侍帳」の原稿、1,088ページをなんとか1,000ページくらいに縮小しようと頑張っている。
やはり印刷物でチェックを入れながら修正を加えないと、いきなりワード原稿に手を入れるのは良くないと気づいての事である。
修正を入れた場所をすっかり忘れてしまうと言う、そろそろ後期高齢者に足を踏み入れようとする爺様の、仕方がない現実がある。
1,000ページくらいに成れば、裏表コピーで500枚だから9センチくらいの厚さで収まる。
内容を一々チェックしながら、290ページ分を終了これを269ページ迄縮小した。このままだと2,000ページを割る事はできない。
まだまだ思案が必要である。ここ数日でなんとかこの作業を終わらせ、図書館で「先祖附」とにらめっこをしながら本格的に修正に入ろうと思っている。
これだけの大部になると書籍にする事はとても出来そうにない。USBにでも落として必要な方には差し上げようかと考えたりしている。

    2月25日一応作業を終了1,056頁迄縮小したがこれが限度、これから照合精査の作業を始めるが、さていつ終わる事やら・・・・・

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■妙解寺と泰勝寺資料 中路文書から

2016-02-23 08:07:01 | 史料

 熊本県立図書館に「中路文庫」と称する古文書がある。多くの興味ある史料が残されているが、妙解寺・泰勝寺についても以下の絵図が残されているらしい。
古文書であるからコピーは出来ず、写真撮影が必要である。泰勝寺のかっての姿が知りたくて、近々図書館浴に参りたいと思っている。 

(138) 妙解寺惣御廟之図

(139) 妙解寺御法事之図

(140) 妙解寺之図

(141) 妙解寺之図

(142) 妙解寺御廟之図

(143) 妙解寺惣御廟之図

(144) 妙解寺御廟之図

(145) 泰勝寺御廟之図 安惟新/写

(146) 泰勝寺御廟絵図

(147) 泰勝寺御法事之図

(148) 泰勝寺御法事之節

(149) 泰勝寺御居間之図

(150) 泰勝寺御惣廟之図 安惟新/写 

 

 

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■釘本家・御書出箱

2016-02-22 10:07:09 | オークション

肥後 細川藩 御書出箱 ●熊本 古文書 武具 細川家九曜紋    肥後 細川藩 御書出箱 ●熊本 古文書 武具 細川家九曜紋

 細川藩士・釘本家の御書出箱です。このような品物をヤフオクで見るのは初めてのように思います。
出品者の方はこの箱の用途をご承知ないようですが、御書出(知行宛行状)を入れる箱です。
本来は床柱に折れ釘を打ち、これに掛けるのだそうですが、そのように御書出は大切に扱われ、火事等のいざと言うときは一番にこれを取り出して逃げるのだそうです。
自分の家を守る、身分を証明するある意味命よりも大切なものです。

 

  ■ 釘本藤内  (南東33-3)
     藤兵衛
    1、半左衛門 (1)留守居組 田川郡奉行 薮図書組 二百石 (於豊前小倉御侍帳)・・半右衛門
             (2)御馬廻衆 百五十石 (肥後御入国宿割帳)
             (3)御馬廻衆八番・薮図書組 二百石
            寛永九年十二月 ~    飽田詫摩郡奉行
                 
細川忠利公御書出(元和八年)豊前
                           同上    (寛永十二年)二百石
                      細川光貞(光尚)公御書出(寛永十八年)

    2、源之允   (1)組外衆 二百石 (真源院様御代御侍名附)
             (2)二百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
             (3)御留守居衆・田中左兵衛与 二百石 (寛文四年六月・御侍帳)
                 
細川綱利公御書出(寛文元年)二百石
    3、喜左衛門・勝重(藤内) 
               御詰衆・四番横山藤左衛門組 二百石 (御侍帳・元禄五年比カ)・・藤内こと喜左衛門
                 
喜左衛門宛 細川綱利公御書出(天和三年)
                      藤内宛         同上     ( 同上  )
                      釘本藤内知行目録(天和四年)
                      釘本藤内知行所付目録(天和四年)

    4、源之允       
細川宣紀公御書出(正徳六年)
    5、藤内  (1)二百石 御番方四番組与脇御番方御小姓二番 屋敷・京町
           (2)御次 二百石 宝暦八寅六月廿三日
                 
細川重賢公御書出(寛延元年)
    6、喜平次(藤兵衛)  御昇頭 二百石
                 
細川治年公御書出(天明六年)
                      細川斎茲公御書出(天明八年)

    7、愛太(養子 藤内) 旧知二百石
                 
細川斎樹公御書出(文化九年)
                      細川斎護公御書出(文政九年)
                      釘本愛太知行差紙

    8、源之允
    9、藤兵衛  御小姓組組脇 二百石
                 
細川慶順公御書出(万延二年)
    10、実丞(藤内)   二百石

 

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■熊本県立図書館蔵 「御家譜 続編」写 リスト

2016-02-21 09:08:38 | 史料

 ご存知綿考輯録は藤孝(幽齋)・忠興(三齋)・忠利・光尚の四代の事跡が紹介されているが、それ以後については刊本がなく誠に残念である。
なんとか出版していただけないものかと、ただただ祈るばかりである。
これは早晩希望がかなえられることもなかろうから、ならば原本を拝見するしかない。「写」であればコピーも可能なのだろう。
まずは図書館に出かけて偵察をして見る必要があると思っている。
 

  1   御家譜 続編1 写 〔古〕  細川綱利公 1          
  2   御家譜 続編2 写 〔古〕  細川綱利公 2 自慶安4年至承応3年          
  3   御家譜 続編3 写 〔古〕  細川綱利公 3 自明暦元年至万治3年          
  4   御家譜 続編4 写 〔古〕  細川綱利公 4 寛文元年          
  5   御家譜 続編5 写 〔古〕  細川綱利公 5          
  6   御家譜 続編6 写 〔古〕  細川綱利公 6          
  7   御家譜 続編7 写 〔古〕  細川綱利公 7          
  8   御家譜 続編8  細川綱利公 附録 全  
  9   御家譜 続編9 写 〔古〕  細川宣紀公 乾 自延宝4年至享保4年           
  10   御家譜 続編10 写 〔古〕  細川宣紀公 坤  
  11     御家譜 続編11 写 〔古〕  
   細川宗孝公 全 自享保3年至延享4年
       
  12     御家譜 続編12 写 〔古〕  
   細川重賢公 全
       
  13     御家譜 続編13 写 〔古〕  
   1 宗紀君附録  2 宗孝君附録  3 重賢君附録
       
  14     御家譜 続編14 写 〔古〕  
   細川治年公 全 自宝暦9年至天明7年
       
  15     御家譜 続編15 写 〔古〕  
   雑録
       
     
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■智照院殿 (2)

2016-02-20 17:52:09 | 歴史

 智照院の平面図は昭和52年の日本建築学会九州支部報告、北野隆氏の「近世初期釈家住宅における数奇屋書院について 肥後妙解寺塔頭について」から引用しました。

この建物は寛文四年であり清陰庵と称していた。延宝八年細川光尚の弟・尚房が死去し法名を智照院と称したが、このとき清陰庵を智照院と改名した。

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